金色の外殻に走った亀裂から、白い光が血液のように噴き出した。衝撃はその巨体を貫き、赤黒い地面を大きく隆起させる。
彼の身体は反動で弾き返された。空中で身を捻る。影から伸びた触手が地面へ突き刺さり、落下の勢いを殺す。一本、二本と千切れながらも、残った触手が彼の身体を受け止めた。
「硬いな」
彼は拳を開閉した。腕へ巻きついていた触手は、先ほどの一撃だけで半ばまで焼け焦げている。炭化した表皮が剥がれ落ち、その下から黒い肉が泡立ちながら再生していた。
「でも、殴れば壊せる」
それだけ分かれば十分だと、彼が一歩踏み出す。
「塵芥が」
声と同時に、聖杯の周囲へ幾つもの光球が浮かび上がった。
先ほどまで彼の命を奪いかけていたものと、同質の光。それぞれが異なる角度から照準を合わせ、逃げ場を塞ぐように一斉に放たれる。
「おっと」
彼が足を止めることはなかった。
足元の影が弾ける。無数の触手が花開くように広がり、四方から迫る光線へそれぞれ一本ずつ差し向けられた。
正面から受け止める必要すらない。触手の先端が光線の側面を叩き、軌道を僅かに逸らす。彼頬を狙っていた一撃が頭上を抜け、背中を穿つはずだった光が地面へ突き刺さり、左右から迫った二本は互いに衝突して白い爆発を巻き起こした。
残る一撃だけが触手を直撃する。黒い肉が焼け落ちるが、彼が次の一歩を踏み出す頃には、炭化した先端は地面へ捨てられ、その断面から新たな触手が伸びていた。
歩みは少しも鈍っていない。
「無駄だ」
聖杯の声が響く。
「我は人の総意。安寧を求める大衆の願いそのもの。個として生じた影が、無数の意思に抗える道理などない」
『――総意』
彼の背後で、輪郭の定まらない貌が身を起こした。
『――実に都合のよい言葉だ。貴様は人の総意などではない』
黒い影の奥から、幾重にも重なった笑い声が漏れた。老人のようにも、幼子のようにも、泣いている女のようにも、嘲る男のようにも聞こえる。
『――選択を恐れた者。責任を厭うた者。傷つくことを拒んだ者。己の生を他者へ委ね、その不自由を安寧と呼び替えた者』
彼の足元を離れた触手が、音もなく地面を這う。聖杯へ向かっているように見えて、その実、正面からは襲いかからない。台座の脇を通り過ぎ、赤黒い地面の亀裂へ潜り込み、その巨体の背後へと回り込んでいく。
『――貴様は、それらの怠惰が寄り集まった澱に過ぎん』
「黙れ」
無数の閃光が降り注ぐ。触手が彼の頭上で交差した。黒い網目へ光が直撃し、白い爆炎が膨れ上がる。
だが、それだけ。炎の中から、彼が何事もなかったように歩み出る。服の裾が風圧に揺れ、頬を熱が撫でた程度。触手の表面には僅かな焦げ跡が残っていたが、それすら泡立つ黒へ呑まれ、瞬く間に消えていく。
「貴様も人の心より生まれた存在であろう!」
聖杯が声を荒らげる。
「ならば理解できるはずだ! 人は自由に耐えられぬ! 選択を与えれば迷い、責任を与えれば怯え、苦痛を与えれば救済を求める! 故に導く者が必要なのだ!」
『――否定はせぬ』
ニャルラトホテプは、あまりにもあっさりと答えた。
『――人は弱い。愚かで、醜く、救い難い。自ら差し出した自由を奪われたと嘆き、自ら選んだ隷属を他者の責任と罵る。貴様の言葉は、何一つ間違ってはいない』
聖杯の光が、わずかに揺らいだ。
『――だからこそ、貴様は矮小なのだ』
「……何だと」
『――人間の醜さを知りながら、それを秩序の中へ閉じ込めることしかできぬ。迷わぬよう道を奪い、傷つかぬよう心を鈍らせ、争わぬようすべてを同じ高さへ切り揃える』
彼の前方で、幾本もの触手が束ねられていく。骨格を作り、筋肉のように絡み合い、先ほど聖杯を揺らしたものよりも巨大な腕を形成する。
聖杯の注意が、正面へ集まった。
その陰で、地面へ潜った触手はすでに背後へ達していた。聖杯から伸び、大衆の牢獄へと繋がる巨大なチューブ。脈打つたびに白い光を送り込み、無数の願いを聖杯へ運び続ける供給路。
その周囲へ細い触手が静かに這い上がり、締めつけるように巻きついていく。
『――貴様の救済とは、獣の手足を切り落とし、牙を抜き、檻の中へ並べることだ』
「それこそが平穏だ」
『――それは剥製の静寂だ』
聖杯の内側で、光が唸りを上げて渦を巻いた。それが一点へ絞られ、彼の眼前に集う。
「その人間に、何を期待している!」
聖杯は正面に立つ彼を見下ろした。白い光が脈動する。
「己が何者であるかさえ定まらず、偽りの名を被り、他者の物語に縋ることでしか生きられぬ! 救いたいと口にしながら、その実、己が救われることを望んでいる!」
彼は巨大な黒い拳を構えたまま、黙って聖杯を見上げている。
「選択を恐れ、責任から逃れ、失う痛みに耐えられぬが故に、すべてを抱え込むことで決断を先延ばしにしているだけだ! 誰かを想う心すら、己の空虚を埋めるための執着に過ぎぬ!」
光はさらに膨れ上がる。
「誰かに讃えられる価値も、救われる資格も、この人間には存在しない!」
『――まったくもってその通りだ』
否定はなく、即座に肯定した。
『――醜く、矛盾に満ち、自らの善意すら信じ切れぬ。救うことで救われたがり、手放す勇気を持てぬが故に、すべてを抱えて溺れようとする』
「ならば――」
『――価値もない』
ニャルラトホテプは、それすらも肯定した。
『――英雄と呼ぶには卑小に過ぎる。救世主と呼ぶには身勝手に過ぎる。高潔でもなければ、清廉でもない。誰かの規範となるような生き方でもなかろう』
聖杯の背後。チューブへ絡みついた触手の表面が裂け、その内側から黒い刃が静かにせり出す。一本だけではない。聖杯から伸びるすべてのチューブに、すでに同じものが巻きついていた。
『――だが、ここまで来たぞ』
「……何?」
『――壊れたまま。醜いまま』
彼が一歩踏み出す。聖杯はそれに合わせ、光の照準を下げた。巨大な黒い拳が持ち上がる。誰の目にも、その狙いは聖杯の外殻に走る亀裂だと見えた。
彼は地面を蹴った。真正面。先ほどの亀裂へ向かって、黒い拳が放たれる。
『――ただ、ここまで来たのだ』
聖杯が光線を撃ち放つ。白い奔流と黒い拳が正面から激突した。
だが、彼の狙いはそこではない。黒い拳が開いた。五指に分かれた触手が光線へ絡みつき、握り潰すように軌道を押し曲げる。白い光は彼の身体を外れ、聖杯の側面を掠めて彼方へ消えた。
「何――」
「遅い」
彼が笑った。聖杯の背後で、無数の黒い刃が一斉に閃く。それまで音もなくチューブへ巻きついていた触手が、互いに反対方向へ身を捻った。黒い刃が食い込み、厚い外皮を裂き、内部を満たしていた白い光を断ち切る。聖杯から伸びていたすべてのチューブが、ほぼ同時に切断された。
張り詰めていた管が大きく跳ね上がる。断面から白い光が噴き出し、血飛沫のように宙へ散った。
「き、貴様……!」
「本体ばっかり見てるから、大事なものを盗まれる。……これで回復はできないな」
彼は開いた手を握り直す。背後へ回り込んでいた触手が、切断されたチューブを放り捨て、獲物を仕留めた蛇のように鎌首をもたげた。
『――故に、いま問われているのは、この人間の価値ではない。無価値な人間に命脈を断たれ、喉元まで踏み込まれた』
彼は聖杯の目前へ降り立つ。
『――見よ。それが貴様の価値だ、偽りの神よ』
彼は切断されたチューブを一瞥し、それから聖杯の外殻に走る亀裂へ目を戻す。
「じゃあ二発目、いこうか」
その瞬間だった。
彼の背後で揺らめいていたニャルラトホテプの貌が、ふいに聖杯から逸れた。視線など存在するのかも定かではない。だが、無数の顔とも穴ともつかない黒い輪郭が、遥か上方へ向けられる。
「……どうした?」
『――戻ったぞ』
「何が?」
『――反逆の意志だ。大衆の中へ埋没し、世界から存在を否定された者ども。その魂が、再び己の形を取り戻した』
それが誰を指しているのか、問い返す必要はなかった。
『――牢獄を破り、絶望を退け、再びこちらへ向かっている』
「そっか」
それだけだった。安堵の息も、歓喜の声もない。ただ予定通りだなという感想だけが彼にはあった。
「あり得ぬ……! あの者どもは大衆に否定され、存在そのものを失ったはずだ!」
『――貴様は人間を理解しているようで、何一つ理解しておらぬ』
ニャルラトホテプが嗤った。
『――一度折れた程度で終われるならば、反逆者などと名乗りはせん』
「ならば、ここで貴様らを消し去り、奴らもまとめて……」
『――ふむ』
ニャルラトホテプの声が途切れた。何かを思いついたような、妙に愉快そうな間だった。
「……何?」
触手がゆっくりと持ち上がる。先ほどまで聖杯へ向けられていた無数の黒が、今度は彼の周囲へ集まり始めた。足首へ。腰へ。背中へ。まるで投擲物を固定するかのように、幾重にも絡みついていく。
その動きを見た瞬間、彼はニャルラトホテプが何を企んでいるのか、おおよそ察した。
「……ああ」
聖杯のさらに上を見る。巨大な杯の縁よりも高く、光すら届かない暗黒の天蓋。そして自分の身体を包み込む触手の配置。
「あーはいはい。案外お茶目ね。あんた」
『――怪盗とは、高所より現れるものなのであろう?』
「偏った知識を急速に吸収するな」
『――それに』
ニャルラトホテプの声が、愉悦を孕む。
『――仲間が戻ったのであれば、それ相応の出迎えが必要だ』
ニャルラトホテプの触手はすでに身体を完全に包み、地面へ深く根を張っている。黒い肉が引き絞られ、巨大な弓の弦のように軋み始めていた。
「……まあ、いいか」
額へ手を当てた。それから、諦めたように笑う。背後の触手へ身を預ける。
「どうせなら、派手にやって」
幾重にも撓んでいた触手が一斉に伸び切り、彼の身体を真上へ弾き飛ばす。
「っ――!」
黒い弾丸となった身体が、凄まじい勢いで上昇した。聖杯の横を駆け抜ける。聖杯が眼下へ沈み、巨大だったはずの杯が瞬く間に小さくなっていく。風圧が服を激しくはためかせ、髪を逆立てる。
やがて上昇の勢いが緩む。視界の端で、聖杯の金色がゆっくりと止まって見えた。すべてが静止したような、束の間の無風状態。
そして彼は瞼を閉じて、完全に意識を手放した。
「──……ッ!!」
そうして、乙守胡桃の意識が完全に覚醒した。
彼が表にいる間も、乙守胡桃の意識が完全に消えていたわけではない。厚い水の底から世界を眺めるように声は遠く、光景は曖昧で、身体を動かすこともできなかったが、何が起きているかはぼんやりと伝わっていた。
だからこそ理解した。もうすでに人格の主導権はあちらに移っているということも。
──『乙守胡桃』の
「(考えろ……っ! 今のやるべき事っ!!)」
直後、死のカウントダウンが始まるように身体が落下へ転じる。重力が一気に胡桃を引き寄せる。
眼下には、金色の聖杯。供給路を断たれ、外殻はひび割れ、後一撃でもあれば倒せるものの、それでもなお滅びてはいない。
杯の内側に残された白い光が蠢き、こちらを見上げるように渦巻いていた。
狙いは明白。空中にいる胡桃には、踏み込む地面も、横へ飛ぶ足場もない。落下の軌道は決まっている。聖杯からすれば、撃ち落とすにはこれ以上ない標的だった。
「──ッ」
走馬灯のように、胡桃の頭の中を思考が巡る。
――なぜ彼らは、そのまま戦っていれば勝てる戦闘で、わざわざ自分と入れ替わったのか。
奴らならば、聖杯の攻撃など問題にならない。供給路をすべて断った時点で勝敗は決していた。あとはあのまま、再生できなくなったヤツを打ち砕けばいい。
なのに、彼らはそれをしなかった。
自ら身体を上空へ投げ、足場も逃げ場もない場所で、消えかけている乙守胡桃の意識を表へ戻した。戦術上の意味などない。これは聖杯を倒すための策ではない。
(……俺を、消すためか)
乙守胡桃は蓋と言っていた。その蓋が残っている限り、折本みくるは自分自身として表へ出られず、ニャルラトホテプの力を完全に振るうこともできなかったが、主導権が逆転した今、もう二度と乙守胡桃の人格を表に出ないよう、ここで終わらせる。乙守胡桃という人格そのものを、この場で消滅させる。
眼下の聖杯へ、残された光が集まっていく。白い輝きが外殻の亀裂を走り、杯の中心へ収束する。
残りあと数秒。それだけあれば、乙守胡桃には二つの選択ができる。
一つ。怪盗の力を解いて、死を受け入れる。何もせずに落下すれば聖杯の光は防げない。身体は焼かれ、折本みくるの人格、ニャルラトホテプもろとも死ぬ。けれど、その瞬間まで自分は乙守胡桃でいられる。意識を折本みくるへ明け渡すこともなく、一人の人格として死ねる。
乙守胡桃という存在を守るだけなら、それが最適解。最後まで自分の名を持ち、自分の意思で、自分として終われる。
そして、もう一つ。怪盗の力を使い、最後まで抵抗する。
ペルソナの力を使って聖杯の攻撃を防ぎさえすれば肉体は助かる。聖杯を倒すこともできる。ただし、そのために力を振るえば、風前の灯火だった乙守胡桃の意識は、最後の油を使い果たすように燃え尽きる。肉体が生き延びる代わりに、自分は消える。
怪盗の力を解いて、乙守胡桃として死ぬか。最後まで抗い、折本みくるを生かして消えるか。
――どちらを選んでも、乙守胡桃に明日はない。
……もっとも、前者の選択肢が乙守胡桃の頭に浮かぶことはなかった。自ら死を選ぶという道は、とうの昔に捨てた。二度と選ばないと決めた道を、今さらなぞるつもりはない。
ならば残った一択。聖杯からの攻撃を受けきり、反撃で聖杯を壊す。……だが、その代償として自分の意識は消える。折本みくるとして目覚める前に、乙守胡桃という存在は跡形もなく塗り潰される。
「……」
――なら、何か残さなければ。
方法は思い浮かばない。作戦を考えるには時間が足りない。現実的に考えてここから何かをするというのは不可能だ。ただ、漠然とそういう使命感だけがあっただけ。
何を、どうやって、いつ、どこで、すべて曖昧で後回しに考えて。
……誰に? という問いを考えた瞬間、視界が、白に染まった。
聖杯から放たれた光が、落下する胡桃の身体へ真正面から直撃する。白く灼けた蒸気と黒煙が幾重にも重なり、空中で彼の姿を覆い隠している。跡形もなく消し飛んだのか、煙の外から確かめる術はなかった。
沈黙の中、その奥で何かが一つ、確かに動く。
――轟、と炎が咲いた。
煙の塊が内側から吹き飛ばされ、灼熱の炎が花開くように広がる。赤黒い火柱が天蓋へ立ち昇り、その中心から巨大な影が姿を現した。
雄牛の頭部。筋骨隆々とした巨躯。全身を覆う重厚な装甲と、肉体へ食い込むように巻きついた鎖。
乙守胡桃のペルソナ、アステリオス――、しかし色が違う。
石造りのような無骨な白い頭蓋は、鮮烈な赤紫に染まった異形の貌。額からは鋭い棘が突き出し、眼窩と大きく開いた口を結ぶように、太い黒の文様が顔面を這っている。その奥で灯る眼光と牙列は、冷たい青に輝いていた。黒い巨躯へ絡みついていた鎖が、焼けた鉄よりなお深い暗赤色へ染まる。
それは迷宮に幽閉され、鎖に繋がれていた怪物が、トリックスターの魂をその身に帯びた姿。
「アステリオス――」
胡桃はその名を叫ぶ。
「――賊神ッ!!」
『■■■■■■■■■■■■――ッ!!』
咆哮とともに、蒼い爆炎が空中で花開く。二つの影が一つの流星となり、金色の聖杯へ真っ直ぐ降り注ぐ。
「ははっ……!」
乙守胡桃は笑っていた。誰かに残す、もしくはこの先を託すと考えた際に、頭に思い浮かんだのは協力者である丸喜の顔ではなく、怪盗団の顔が浮かんだからだ。
きっとそれが『乙守胡桃』の答えだった。丸喜が作り出す都合のよい痛みのない世界より、たとえ痛みを伴っても、自分で選択して前へと進む方が良いと。最期は、アイツらの側に立っていたいと思ってしまった。
――別れの言葉くらい言いたかったな、と思ってしまった。
「――手向けの一撃だ。受け取れ、神サマ」
ならばこれは存在の証明。全身全霊をもって命を燃やし、この世に刻む一撃を放つ。
「いいか。俺のコードネームは『ブル』で――」
確かに俺はここに居たのだと。
お前らと居たときの気持ちは嘘ではなかったのだと。
俺の名は折本みくるではなく。
「――怪盗団の『乙守胡桃』だ!!」
アステリオス・賊神が吼えた。
蒼い炎を纏った巨腕が振り抜かれる。それは、自分を消し去るための一撃ではない。己の名を、己の意志を、己がここにいたという事実を――誰にも盗ませないための、最期の反逆。
その一撃が、聖杯の中心を撃ち抜いた。
外殻の亀裂が、内側から放射状に広がる。
金色だった表面が大きく砕け、内部で渦巻いていた白い光が、堰を切ったように噴き出した。
「――ぐっ、おおおおおッ……!」
聖杯の絶叫が、メメントスの奥深くまで響き渡った。
しかし致命的な一撃を受けながらも、消えることを拒むように、聖杯はその輪郭を辛うじて保っていた。完全には崩壊せずとも、噴き出していた光の奔流が徐々に弱まり、周囲を包んでいた圧迫感が緩やかに薄れていった。
勝敗は決していない。だが、確かに一つの区切りだった。
***
彼の体は横たわっていた。着地をした覚えはない。察するに、地面にぶつかる間際に、ペルソナが安全にキャッチしてくれたらしい。
周囲を見渡せば、聖杯はやや頭上にいた。どうやら先ほどの一撃でできた地面の亀裂から落ちて、メメントスのさらに地下に落ちたらしい。見上げた先、崩れた足場の隙間から、聖杯の残光がぼんやりと滲んでいる。ここまで届く光量ではない。距離があるおかげか、あの威圧感も、今はどこか遠い雷鳴のように感じられた。
『余生だな』
そしてその傍で黒い影が喋る。今までよりもハッキリと聞こえた。
『見応えがあったよ素晴らしい。ヒトとはここまで眩いものに向かって飛び続けられるのかと感嘆した。まるで街灯に向かって飛ぶ蛾のようだった』
乙守胡桃は薄れつつある意識の中、それでもその黒い影を睨む。
『だがここまでだ』
黒い影が静かに告げる。
『死ではない。ゆえに、墓も残らぬ。魂が彼方へ旅立つこともない。貴様は折本みくるという人間の一部へ戻り、個としては消滅する』
黒い影が、静かに、しかし容赦なく続けた。
『嘆くな、と言っても無駄であろうな。貴様はずっと、そうやって生きてきたのだから。折本みくるという本体を守るため、丸喜という男に利用され、偽りの名を被り、他者の物語の中でしか己を確かめられなかった。哀れなものよ』
「……」
『思えば、貴様の生とは常にそうであった。誰かの都合のために存在し、誰かの代わりに苦しみ、誰かの盾となって傷を負う。それが貴様の役目であり、貴様自身が選び取った檻でもあった』
視界が、白くぼやけていく。手足の感覚は、もうほとんど遠のいていた。それでも、黒い影の声だけは、やけにはっきりと胡桃の中へ響いていた。
『そして今、その檻の役目すら終える。貴様が守ってきた本体が、ようやく己自身として立つために、貴様という蓋は消える。実に皮肉な結末ではないか。誰かのために生き、誰かのために消える。貴様の一生は、初めから終わりまで、他者のためだけにあったわけだ』
嘲笑うでもなく、ただ淡々と事実を並べるだけの声。
『何を残せる。何を成せた。誰の記憶にも刻まれず、墓標一つ持たぬまま溶けていく貴様に、いったい何の意味があったというのだ』
言葉が途切れることなく続く。反論の隙すら与えない、一方的な断罪だった。視界がほとんど白に呑まれる中、胡桃はそれでも、微かに口の端を持ち上げた。
「……お前は……負ける」
『ククッ……ハハハ……そうか。そうだな』
最後の最後まで、意地を見せた乙守胡桃を皮肉ったらしく笑い、そして。
『後は任せろ』
ニャルラトホテプは、聞き覚えのある誰かの声色を真似て、嘲るようにそう返した。
それが誰の声だったのか、胡桃にはもう判別できなかった。だが、その温もりを装った響きの奥に、確かな嘲笑が滲んでいるのを、胡桃は最後の意識で感じ取った。
――ふざけるな。と思う力すら、もう残っていなかった。視界が、完全に白へ沈んでいく。
ただ、消える間際――悔しさだけが、最後まで胡桃の中に残っていた。
「………………ん、あぁ~~~痛ぁ……」
閉じた瞼が再び開けられると、呑気な声と共に身をよじる。折本みくるはため息を吐く。
「最後の最後にHPSP全消費した一撃を放っちゃって」
指一本動かすことさえ億劫なほどの脱力感があった。
『この場から動けなくするための、最後の抵抗であろう』
傍らに立つ黒い影が答えた。先ほどまで胡桃を嘲笑っていたときとは違い、その声に愉悦はない。
「なるほどね」
みくるは天井を見上げたまま、片手を持ち上げる。しかし肘が地面から数センチ離れたところで力尽き、ぺたりと落ちた。
「徹底してるなぁ……」
自分が消えたあと、折本みくるが再び聖杯との戦いへ加わらないように。
ニャルラトホテプの力を使って戦況を覆さないように。
乙守胡桃は残された力のすべてを、あの一撃へ注ぎ込んだのだろう。
「最後まで嫌がらせだけは忘れないんだから」
『負け惜しみであろう』
「そういうことにしておくか」
みくるは小さく笑った。それから、傍らの影へ視線を向ける。
「ああ、ニャルラトホテプ。ヤルダバオトの様子は?」
『真の姿を曝け出し、聖杯という仮初めの器を捨て、統制神ヤルダバオトとして、反逆者どもと相対している』
「そっか」
遠くから、地鳴りが響いた。遥か頭上で繰り広げられている戦いの余波が、メメントスのさらに地下まで伝わっているらしい。
「最終決戦は怪盗団に任せて……とりあえず脱出するか」