脱出するとは言っても身体は動かず、肝心のニャルラトホテプも働く気はないというように影へ潜り込み、うんともすんとも言わない。どうしたものかと考えていると、カラカラという軽い駆動音と共に、解決策が降ってきた。
文字通り、頭上から。
「うーん。まさかこうなるとは」
「ボクもそう思うよ」
今はジョゼの車の後部。正確には、無理やり荷台として扱われている場所に寝かされていた。
「痛い痛い。もうちょっと丁寧に運転できない?」
「わがままだなぁ」
車は崩れかけた最深部を抜け、上層へ続く傾斜を駆け上がっていく。遠くから響く轟音に合わせて地面が震え、天井から赤黒い破片が雨のように降り注ぐ。そのたびにジョゼは車体を左右へ振り、危なげなく避けていった。
「それにしても意外だ。君が俺を助けてくれること」
ジョゼが僅かに首を傾けた。
「意外なの?」
「そりゃあね。君って、こういう時は少し離れたところから眺めてる側だと思ってた」
ジョゼは普段、メメントスを走り回り、花を集め、人間について尋ねてくる。こちらへ興味を示してはいたが、それはあくまで観察者としてのものだった。怪盗団に力を貸すことはあっても、自ら誰かの危機へ飛び込んでくるような存在には見えなかった。『乙守胡桃』として、何度かメメントスで会っていたことはあるが、長い時間を共に過ごしたわけでもない。放っておかれても文句を言える間柄ではなかった。
「最初はそうするつもりだったよ。上で何が起きるのか、遠くから見ていようと思ってた」
「じゃあ、なぜ?」
「まだ理由はよく分からない」
「まだ、か」
「うん。多分もっと心を知れば分かるとおもう」
「うーん、分からなくてもいいものなんじゃないか。人間誰しも理由があって行動するわけでもないし」
「そうなの?」
「そうなの。まぁ、君みたいな謎の多い子に味方してもらえるなら、光栄だよ。でも悪いけど、あの戦いには参加しないけどね」
「どうして?」
彼はククッ、と悪戯っ子のように笑って言った。
そもそも『乙守胡桃』が彼とニャルラトホテプを最後の戦いに行かせたくなかったのは、彼らを介入させることで生じる不確定要素を、怪盗団の戦いから可能な限り排除するためだった。
とはいえ、彼らの目的はその後にある。むしろ怪盗団には勝ってもらわねば困るのだが。
「俺がいなくても勝てるから」
彼の見解はこれに尽きていた。ジョーカーのペルソナは十分に育ち、仲間や協力者の
「彼らは強い。大人の理不尽にも抗い、悪意に屈せず、己が正義を貫く。あのヤルダバオトに対しても、一歩も引かないで、お前は間違っていると啖呵を切るぐらいに」
「……」
本当は褒めていないんじゃないか、とジョゼは漠然と思った。しかし彼の言葉の裏に隠されている皮肉や嘲笑を、ジョゼは
「……ふふっ、いいね。仲間だからこそ刺さるんだ。……ジョーカーに対するスペードの3か。……あれ、これなんか誰かに言った記憶があるな、誰だっけな」
今度こそ意味不明なことを喋りだした、とジョゼが思った瞬間だった。
『──頑張れ怪盗団……!』
かすかな声が聞こえた。
『頼む……!』
『負けるな!』
『怪盗団なら……!』
一つ、二つ、三つ。
遠く、遥か頭上から降ってくるように、人の声が重なり始める。
「……メメントスの外から聞こえるね」
「ああ。うん、クライマックスだ」
本来なら届くはずのない声だった。だが今は、現実とメメントスの境界そのものが曖昧になっている。人々の認知が、この場所へ直接流れ込んでいるのだ。
『頑張れ!』
『お前らならやれる!』
『お前たちに賭けるぞ!』
声は次第に増えていく。一人が叫べば、また一人。誰かが希望を口にすれば、それに引かれるように別の誰かも口を開く。つい先ほどまで誰もが何も考えず、何も選ばず、ただ巨大な存在へ自分たちの未来を委ねようとしていたはずなのに。
「人間って、本当に勝手だよなぁ。ついさっきまで神様に全部任せようとしてたくせに、今度は怪盗団に勝ってくれってさ」
「それは、悪いこと?」
「まさか。むしろ最高だよ」
考えを変え、間違いを認め、さっきまで信じていたものを疑い、別のものへ手を伸ばす。それは一貫性がないとも言える。身勝手とも、節操がないとも言えるだろう。
けれど、それができるから、人間はやり直せる。
『頑張れ怪盗団──!』
怪盗団が救った人間。
怪盗団によって人生を変えられた人間。
噂を聞いただけの人間。
名前も顔も知らない誰か。
そして、ついさっきまで彼らの存在など忘れていた人間さえ。
──負けるな、と。今は同じものを願っている。
「一度諦めたからって、ずっと諦め続けなきゃいけない理由はない」
声が連なっていく。名も知らない人々の願いが重なって、巨大な熱となり、つい先ほどまで顔を伏せていた者たちが、今は喉を震わせ、怪盗団の勝利を願っている。
その姿は、なるほど美しかった。
「──素晴らしいよな、人間って」
ただそれすらも彼は他人事のように感じていた。
怪盗団を呼ぶ声も、彼らへ託された願いも、彼の胸を熱くはしない。ただ完成された物語を遠くから眺めるように、その光景を美しいと評価しているように見えた。
「君も人間だよ?」
「関係ないね」
冷めたように笑う彼に、ジョゼはもう何も言わなかった。
車はそのまま崩れかけた線路を駆け上がる。遠くから届く声は次第に大きくなり、やがて地鳴りすら覆い隠していった。
***
「着いたよ」
ジョゼが車を停めたため、みくるは後部座席から降りて、辺りを見渡す。『乙守胡桃』がいつも潜っていたメメントスの入り口にいた。
「体は大丈夫?」
「ん。アイテムちょっと拝借して回復した。ごめん勝手に」
「ちょっとぐらいならいいよ」
荷台に置いてあった袋から『宝玉』を拝借し、少なくとも体力だけは取り戻している。傷や疲労そのものが消えたわけではないが、歩き回る程度なら問題ない。
「みんなに会いに行くの?」
「まぁ。戦いも終わりそうだし、“仲間”に会いに行こうかな。これまでのねぎらいと一緒に」
「そっか。じゃあ僕からも。終わったら『おめでとう。それと、お疲れさま』と伝えておいて」
「わかった。ありがとうここまで送ってくれて」
「どうも~。今後ともご贔屓に~」
と言って、ジョゼは車を反転させ、再びメメントスの奥へと戻っていく。軽く手を振って、それが見えなくなるまで見送ると、振っていた手をだらんと下げ、生気のない表情へとなった。
そしてそれと同時に影が揺らいで、立体的に立ち上がった。
『仕留めないのか。ヤツも怪盗団の協力者だが』
「馬鹿言え。やったところでメリットもない。むしろアイツのバックが怒りそうだ」
『その正体も、背後にいる何者かも分かると?』
「……いや、わかんないことにしておこう。考察は考察。明言されてないことには、触れない。……なんか口に出すと本当にそうなっちゃいそうだし、そうなると勝ち筋消えそうだし」
『賢明なことだ』
笑うように影が唸る。つられるように、みくるも苦笑する。
『――統制を謳う悪神は斃され、その空いた玉座には、救済を願う傲慢な患者が収まる。ここからだ』
「ああ。そうだな。じゃあ俺たちの
そう言って彼らはメメントスに背を向けて出て行った。
***
そこは、研究者の部屋という言葉から想像するほど大仰な場所ではなかった。壁際には背の低い木製の書棚が並び、ガラス戸の向こうには専門書や論文を綴じたファイルが、几帳面とも雑然ともつかない密度で押し込まれている。
華美なものは何ひとつない。人ひとりの人生を費やした研究が、机の上の紙束ひとつで評価され、切り捨てられる。そんな場所だった。
──窓の外が赤く染まるまでは。
『──時は満ちた』
丸喜拓人は、その声に呼ばれるまで、教授の机を挟んだ向こう側に立っていた。
手元には、一冊の論文。かつてこの部屋で価値を否定され、研究そのものを打ち切る理由にされたものを、あれからさらに積み重ね、形にしたものだった。足りないと言われた実証性も補った。人の認知へ働きかけることが、単なる机上の空論ではないことも知った。自分自身が、誰よりもその結果を目の当たりにしてきた。
だから今日ここへ来たのは、研究を再開させてもらうためでも、教授に謝罪させるためでもなかった。
言ってしまえば、ただの意地。かつて捨てられた研究が間違っていなかったことを、この男の前へ突きつけるために。
そして、もうひとつ。
獅童正義の改心によって明るみに出た精神暴走事件。その裏に、自分がかつて研究していた認知訶学がある。獅童は丸喜の研究に目をつけ、それを奪い、自らの手の届く場所で研究を続けさせた。そして得られた成果を、政敵を排除するための道具として使った。
目の前の教授もまた、その流れと無関係ではない。丸喜がそこまで話したとき、老人の顔から余裕が消えた。
それだけで充分だった。
復讐するつもりはない。告発するために来たわけでもない。丸喜が欲しかったのは、ただ証明することだけだった。自分の研究は終わっていない。人ひとりの心を変えるだけではない。いつか、人々が共有する認知そのものへ働きかけることができれば。
理不尽によって傷つくしかない人間を、傷つく前の世界へ連れていくことができれば。何年かかろうとも、それを実証してみせる。
そう言い切った丸喜を、教授は鼻で笑った。金もない。権力もない。後ろ盾もない。研究者に、世界など変えられるものかと。最後には論文ごと追い払うように手を振り、二度と顔を見せるなと吐き捨てた。
──その直後だった。
窓から差し込んでいた光の色が変わった。夕焼けなどではない、空そのものが、血を溶かしたような赤へと染まっている。
だというのに。
「……?」
教授は何も気づいていない。丸喜が窓を見つめている理由すら分からないという顔で、怪訝そうに眉を寄せている。この異常が自分にしか見えていない。そう理解した瞬間。
──その声がした。
耳から聞こえたのではない。もっと深く。ずっと以前からそこにありながら、触れることのできなかった自分自身の奥底から、何かが語りかけてくる。
「……この、声……」
丸喜はゆっくりと振り返る。そこに、人ではないものがいた。
『ようやくこの日が来たか。我は人の心の世界に住まう、もう一人の汝』
「……そうか。君が、僕のペルソナ……」
『我の存在する人の心の海と、お前の現実は今、融合を迎えた。さぁ、理不尽に虐げられし汝の理想、今こそ叶えよう』
そうして、丸喜のペルソナであるアザトースが姿を消し、丸喜の中に入っていく。丸喜は手にした力を実感するかのように、手を握る。
「おい。さっきから何をぶつぶつ言っている! さっさと帰ってくれ!」
「ええ。帰りますよ」
丸喜は論文を手に取り、教授へ軽く会釈した。
「失礼します」
返事を待たず、部屋を出る。廊下は静かだった。窓の外は依然として赤く染まっているが、すれ違う人々は誰一人として気に留める様子がない。
「……本当に、見えていないんだ」
胸の内には、先ほどまでなかった確かな感覚がある。建物の一階まで降り、自動扉を抜けたところで、冷たい冬の空気が頬を撫で、丸喜は足を止めた。目の前に広がる街も、空も、赤く染まっていた。
「これなら……」
もう一度、手を開き、ゆっくりと握る。噛み締めるように。もはや不完全ではない曲解の力。より深く、より遠くへ干渉できるようになる、と乙守胡桃から伝えられていたことを思い出す。
それに連なり、彼のことを思い出す。獄中で亡くなったと報道され、未だ連絡がつかない彼のことを。生存を信じてはいるが、絶望的なことには変わりない。ならば、彼の願いを叶えなくてはならない。命を賭して託してくれたものを置いていくわけにはいかない。
今一度、丸喜は決意を胸に前を見る。
「これで君の無念を晴らせるよ──!」
「……なんか死んだことにされてそう」
「え!?」
背後からぬっと現れた“彼”に勢いよく振り返る。包帯や傷はあるが、姿形は間違いなく乙守胡桃ではあった。
「嘘、本当に……」
「ええ、もちろん」
ただ、以前はしなかったであろう、暗い瞳と冷えた笑いを浮かべる彼はその口で言う。
「メリークリスマス。先生。奇跡は起きた?」
「ああ。……ああ……!」
目の前の現実を処理できなかった丸喜が我に返り、返答しながら、彼に近寄って抱き着いた。
「ちょ、おお……?」
「よかった……生きててよかった……!」
「えぇ……そんなに……?」
予想外の勢いに、彼は両手を宙へ浮かせたまま固まった。丸喜は答えない。肩を掴む腕に、さらに力が籠もる。
「ニュースを見たんだ。拘置所で亡くなったって……連絡もつかないし、僕はてっきり……」
「あー……まぁ、死んではいたかも。一回」
「え?」
「いや、こっちの話です」
余計なことを言った、と視線を逸らした。丸喜はしばらくその顔を見つめ、それからようやく身体を離す。
「でも、どうしてここに?」
「ふふ。その答えはもう先生の中にあると思いますよ」
試すように微笑み、考えるように促すと、丸喜は口元を覆い思考する。
「……僕が会いたいと願ったから。そして君も僕に会いたいと願ったから、曲解の力で会えた……?」
「おお凄い、正解です。と言っても、こんなに早く会えたのは、今の状況が特殊だからかもしれません。この状況を生み出した元凶は倒されましたが、認知世界と現実世界の融合がまだ解かれていない今、先生の力はブーストを受けてます」
「なるほど……?」
「ううん……インターバルというかアディショナルタイムが長く続いているからというか……、ちょっと待ってください良い例えを思いつきたい……!」
と言ったのも束の間、何かがひび割れる音がして、赤い空が一瞬にして消えた。
「……ああ。解決しましたね。良い例えがここまで出かかっていたのに残念です」
「融合が解かれたのかい? でも僕はまだ何か……説明しようのない手ごたえを感じているんだけど……」
「それもそのはずです。……問題が解決されて、認知世界と現実世界の融合はゆっくりと解かれ始めています。ですが今は先生に認知世界の主導権があります」
「そこで僕が曲解の力を行使して、もっと干渉を強めれば、認知世界と現実世界は再融合する……?」
「理解が早い。その通りです」
丸喜は深く息を吸って、空を仰ぎながら息を吐く。これまでの苦労や味わった屈辱、無念や後悔の熱を持った白い息が、風に攫われていく。
──準備は整った。後は成すだけだ。
「すみません先生。本当なら身体を休めたり、パレスへ行ってご自身の状況を確認したりしたいところでしょうけど……その前に、一仕事お願いしてもよろしいですか?」
「なんだい?」
「俺の──」