「終わった、のか……?」
誰かが、呆然と呟いた。
怪盗団は渋谷のスクランブル交差点の近くに立っていた。
ほんの少し前まで、空は血を流したような赤色に染まり、街には現実ではあり得ない巨大な構造物が突き刺さっていた。見慣れたはずのビル群も道路も、まるで別世界の景色のように歪み、人々の認識とメメントスが混ざり合った東京は、この世の終わりを思わせる様相を呈していた。
だが今、その異様な光景はどこにもない。ヤルダバオトを倒し、メメントスと現実世界の融合もすでに解け始めていた。空を覆っていた不気味な赤は消え、ビルの看板は本来の色を取り戻し、行き交う車のヘッドライトが冬の夜道を照らしている。
世界は、何事もなかったかのように元の姿へ戻ろうとしていた。
「……モナ」
「もう、いないんだね……」
ただし、それで何もかも元通りというわけではない。メメントスの住人でもあったモルガナは、その消滅に巻き込まれるようにして存在を保てなくなり、怪盗団の目の前で光となって消えていった。
世界は救われた。けれど、その代償に、彼らは仲間を一人失ったばかりだった。
「なに暗くなってんだっての。モナに笑われるっての……」
「そういえば大衆は? 改心できたのか?」
怪盗団は周囲の声に耳をそばたてる。
──デート遅れちゃ~う。
──クリスマス独りか……。
──このままだと総理不在で年明けだろ?
──でも獅童はないかぁ。黒い噂あるし。
さっきの怪盗団の背を押していた声援はどこへやら、行き交う人々はいつも通りの日常を送っていた。誰一人として、自分たちがつい先ほど世界の存亡を左右する選択をしたことなど覚えてはいない。
「どうなるのかな。うまくいくといいけど……」
「信じましょう。お姉ちゃん約束してくれたんだし」
「こっから先は検事さんの仕事か……」
「異世界に入れないのなら怪盗団もお役御免だな……」
「待つしかないってことか……」
やれるだけのことはやった。だから後は託すのみだが、どこか、なるようになれという気持ちが全員の心の中にあり、それが不安でもあった。
「だから暗くなんなって! せっかくあんなデケーのに勝ったんだろ!」
沈みかけた空気を振り払うように、竜司が声を上げる。
「そうだな。今は勝利の美酒に酔うべきか」
「未成年だから酒は飲めないけどね」
「なにかやったった感が欲しいですよね」
「じゃああれやる? こういうとき皆でするやつ」
春の実質ノーヒントの提案に全員が疑問符を浮かべる中、真だけが春のやりたいことを察した。
「もしかして円陣のこと? 輪になっておーってやつ」
「悪くないかもな。渋谷のど真ん中で人いっぱいだが」
「まじかよ! 今ここでやんの?」
「なんだよ竜司ノリ悪いな~」
「今さら何を失うというんだ」
「うっせお前と一緒にすんな。ほらさっさとやるぞ手ぇだせ!」
戦闘でも一番槍の竜司がここでも率先して手を差し出す。それに続いて全員が手を重ね始める。
「……やっぱ目立ってない?」
「は、早めにやろ。ちょっと小さめの声でもいいし」
「締まんねぇな……まぁいいか。じゃあお前号令な」
「任せろ」
「締まる一発、お願いします!」
「よし、じゃあリーダーが声出したら、全員でオーな。いくぞ?」
そして、蓮は全員と目を合わせた。
一人ずつ。
今日まで共に歩いてきた仲間の顔を確かめるように。合図を送る。
「──頂戴した!!」
「「「「「「「オーッ!!」」」」」」」
重なった声が、クリスマスイブの渋谷に響いた。とはいえ、世界を救った英雄たちの勝鬨だと気づく者など当然いない。すぐ横を歩いていたサラリーマンがちらりとこちらを見て、待ち合わせ中らしい女子高生が何事かと振り返る程度だった。
「……やっぱ恥ずかしいじゃねーか!」
「竜司が一番声大きかったけどな」
「こういうのは恥ずかしがるのが一番恥ずかしいんだっての!」
「文化祭……」
「あ!? なんでお前知ってんだ!?」
「大きな声出さないでよ。余計目立つから」
やいのやいの言い合っていると、ふと肌に冷たい感覚がして、空を見上げる。
「……雪?」
杏の呟きに釣られ、全員が顔を上げた。黒い夜空から、小さな白い粒がひとつ、またひとつと落ちてくる。
「おお、ホワイトクリスマスじゃん!」
「クリスマス。すっかり忘れてた」
「……イブよ」
「なんか勝利をお祝いしてくれてるみたいじゃありません?」
「な。タイミングが神がかってる」
蓮は降ってくる雪へ手を伸ばした。掌に落ちた白い粒は、ほんの一瞬だけ形を残して、すぐに水へ変わって消えていく。そして、実感ごと手を握りしめて、雪で冷えた温度を手のひらの熱が取り戻す。
「……本当に、終わったのかもな」
その声は、先ほどよりもずっと穏やかだった。
すると。
「──なにか、忘れている気がする」
ふと、誰かが呟いた。
「言われると確かに……?」
「うーん? なんかあったっけ?」
「思い出せないってことは大したことないんじゃねぇの?」
その疑問が伝播するように全員が考え込みだすと、すぐさまその答えがやってくる。
「いや俺だよ俺! 乙守胡桃だよ!」
声のした方へ、全員の顔が一斉に向いた。
「あ」
「『あ』って、うそでしょ。円陣やるまで忘れてたってこと……?」
「い、色々あったからそりゃもう色々あったから気が回らなかったというか」
「よよよ……。悲しいよ……頑張ってみんなでやってきたのに、俺は円陣に入れてもらえない仲間未満ってこと……?」
胡桃がわざとらしく顔を覆う。
「そんなことは……」
「よよよ……ここまでこれたのは全部俺のおかげだっていうのに……?」
「一気に厚かましくなったな」
「慰める気が失せた」
「じゃ、じゃあ円陣もう一回やります?」
「いやそれはいい。恥ずかしいし」
「なんだこいつ」
さっきまで泣き真似をしていた胡桃が、けろりと顔を上げる。
「ていうか、お前どうやってここまで来たんだよ?」
「ああ。突然、空が赤くなってな。異常だと思ったから助けに行こうとルブランを飛び出した。メメントスの入り口に行こうとしたら空が晴れてなんだと思ったら、お前らが渋谷ど真ん中で円陣してるのが見えて今ここ」
「そういうこと。それはともかく今は様子見ね。今日はこのぐらいで解散しましょう。明日ルブランに集まって報告も兼ねた最後の作戦会議ってことで」
「そうするか」
「……クリスマスだし。最後の打ち上げしない?」
「いいなそれ! 予定のあるやついないよな!?」
全員が同意といったように頷く。
「じゃ決定!」
「店を貸し切りにできるようにマスターを説得しといてくれ」
「わかった」
そこで双葉が、ふと落ち着かない様子でルブランの方角を見る。
「……わたし、惣治郎が心配だから、先帰るぞ」
双葉は小さく手を振って、返事を待つより早く、人混みの中へ小走りに消えていった。
「私たちも、帰ろうか」
「また明日だな」
「ああ」
それを合図にしたように、自然と輪がほどけていった。駅へ向かう者。家へ帰る者。それぞれが軽く手を振り、一人ずつ人混みの中へ消えていく。残された蓮は、その姿が見えなくなるまで見送る。
蓮はポケットからスマートフォンを取り出した。画面を開いても、そこにあの赤いアイコンはなかった。何度消しても戻ってきたイセカイナビ。怪盗団の始まりと共に現れ、彼らを異世界へ導き続けた扉は、今度こそ完全に消えていた。
「……終わったんだな」
誰に聞かせるでもなく再び呟く。いつもなら横から、何かしら偉そうな声が返ってきたはずなのに。蓮は少しだけ目を伏せ、それからスマートフォンをしまった。
立ち止まっていても仕方がない。そう思って歩き出そうとした、そのときだった。
「少しいいかしら」
聞き覚えのある声に足が止まる。降りしきる雪の向こうに、一人の女性が立っていた。
新島冴。彼女はいつもの張り詰めた表情で蓮を見ている。
「話があるの」
その顔を見ただけで分かった。世界を救ったからといって、何もかも終わったわけではないらしい。
蓮は短く息を吐いて、冴のほうへ向き直った。
「──ちょっと待ってください」
二人の間に割り込む声があった。雪の降る雑踏の中でも、不思議とはっきり耳に届く声。
蓮は、その声を知っていた。
***
すみれは一人、駅へ向かって歩いていた。
解散しようと決まってからは早かった。双葉が真っ先にルブランへ戻り、そのあとも帰る方向に合わせて一人、また一人と抜けていった。誰かが改まって別れを告げるわけでもなく、「じゃあまた明日」と手を振って、そのまま人の流れに混ざっていく。
すみれも同じだった。明日の打ち上げを楽しみにしています、と挨拶してごく自然に輪を離れた。数分も歩けば、後ろを振り返っても見知った顔はない。クリスマスイブの渋谷を埋め尽くしているのは、買い物袋を提げた人や、肩を寄せ合って歩く恋人たちばかりだった。
「……寒い」
吐いた息が白く曇った。戦っていたときには感じる余裕もなかった寒さが、今になって急に身へ染みてくる。ようやく身体が、今が十二月なのだということを思い出したようだった。
それでも、足取りはどこか軽かった。すべてが終わった。明日は皆で集まる。
そのあとは──。
「…………」
「──すみれ」
「……はい?」
名前を呼ばれ、すみれは足を止めた。振り返ると、胡桃がこちらへ歩いてきている。
「先輩?」
「よかった。追いついた」
少し急いでいたのか、白い息を普段より短い間隔で吐いている。
「どうしたんですか?」
「んー……」
問いかけると、胡桃はすぐには答えなかった。代わりに一度だけ、すみれの背後を見る。続いて、自分たちが歩いてきた方向へも。
「……?」
何を確認しているのだろう。すみれが首を傾げたところで、胡桃がようやく口を開いた。
「今から帰る?」
「はい。そのつもりです」
「一人で?」
「はい」
「そっか」
また短い間。今度は、少しだけ言いにくそうだった。
「じゃあ……一緒に帰、りますか?」
「…………」
すみれは一度、瞬きをした。
「もちろん、構いませんけど……」
なんとなく彼らしくない口調もそうだが、予想していなかった誘いに、返事が少し遅れる。
嫌なわけではない。むしろ嬉しい。けれど、ついさっきまで同じ場所にいたのだ。一緒に帰るつもりなら、そのとき声をかければよかったはずなのに。
「それならどうして、さっき言わなかったんですか?」
「…………」
胡桃の目が、ほんの少しだけ泳いだ。やがて観念したように息を吐く。
「みんないただろ」
「皆さん?」
「うん」
それだけ答えて、歩き出す。すみれも慌ててその隣へ並んだ。二人分の足音が、人波の中へ混ざっていく。
「別に、一緒に帰るくらいなら皆さんがいても……」
「そうじゃなくて」
胡桃が遮った。
「ちょっと、話したいことがあったから」
「話したいこと……?」
「……二人で」
その一言で、すみれの足がわずかに鈍った。
「…………」
思い当たることがあった。というより一つしかなかった。ずっと忘れていたわけではない。忘れられるはずがない。以前、自分が胡桃へ伝えた気持ち。胡桃は、その場ですぐには答えず、すみれも、それでいいと答えた。
「もしかして……」
口に出そうとすると、急に喉が乾いた。さっきまで寒かったはずなのに、今度は妙に身体が熱く感じられる。
「前の……話ですか?」
胡桃は前を向いたまま、少し黙った。やがて。「うん」と、短く答えた。
「……そう、ですか」
それしか言えなかった。
急に自分の歩き方まで分からなくなったような気がする。手はどこへ置けばいいのか。どんな顔をしていればいいのか。隣を見てもいいのか。
「…………」
「…………」
周囲はあれほど騒がしいのに、二人の間だけ妙に静かだった。店先から流れてくるクリスマスソングも。すれ違う人々の笑い声も。車のエンジン音も、どれも遠くに聞こえる。聞こえているのは、自分の足音と隣を歩く胡桃の足音。
そして、少しだけ速くなった自分の心臓の音。
「……あの時に言ったこと、嘘じゃないんだ」
胡桃は前を向いたまま続ける。
好きな人がいたこと。今もまだ、その気持ちを綺麗に過去へ置いてくることができていないこと。だから誰かと付き合うことも、新しく誰かを好きになることも、自分には無理だと思っていたこと。
「だから、待っても何も変わらないって言ったのも、本心ではあったんだ」
「……はい」
「でも」
そこで言葉が途切れた。胡桃は白い息を吐き、ほんの少しだけ歩調を緩める。
「……好きって言われてから、すみれのことを前より考えるようになった」
それまでも、気にかけていなかったわけではない。危なっかしければ心配したし、無茶をすれば止めようと思った。頼られれば嬉しかったし、自分を「右腕」と呼んでついてくることも、実は満更でもなかった。
けれど、一度意味を与えられてしまうと、今までと同じようには見られなくなった。それでもしばらくは、告白されたから意識しているだけだと思っていた。
時間が経てば元に戻るとすら考えていた。
「今日さ、全部終わっただろ」
胡桃が呟いた。
「……はい」
「メメントスもなくなって、怪盗団も、もう終わる」
その言葉に、すみれは少しだけ目を伏せた。
明日、怪盗団の最後の作戦会議、もとい打ち上げをする。それが終われば、これまでのように集まる理由はなくなる。同じ目的のために、当然のように顔を合わせる日々も終わる。
「そしたら、すみれが怪盗団にいる理由もなくなるんだなって思った」
「…………」
「学年も違うし。用事がなかったら、会わなくなるかもしれない」
胡桃はそこで、自嘲するように少しだけ笑った。
「それ考えたら、嫌だった」
すみれが顔を上げる。
「すみれがそこからいなくなるのが、嫌だった」
今度は迷わなかった。その言葉だけが、騒がしい街の中で妙にはっきりと聞こえた。
胡桃は、そこでようやく足を止めた。数歩先へ進んだすみれも立ち止まり、振り返る。雪の向こうで目が合った。
前の気持ちを忘れなければ、次へ進んではいけない。誰かを新しく好きになるなら、過去の気持ちは終わらせなければならない。
そう決めていたのは、自分だった。けれど実際には、何一つ綺麗に整理できていないまま、別の感情は生まれてしまった。忘れられない気持ちは、今もまだある。それと同時に。
今、目の前にいる少女を大切に思う気持ちもある。
どちらかが嘘だからではない。
人の心は、そんなふうに綺麗に区切れるものではなかった。それをなかったことにする方が、今は不誠実な気がした。
「だから」
胡桃は一度だけ目を伏せた。
「あの時に言ったこと、訂正する」
「……何を、ですか」
「何も変わらないってやつ」
少しだけ間が空く。
「変わった」
すみれは何も言わなかった。ただ、逃げることなく胡桃を見ている。その目を見返して、胡桃は続けた。
「──俺も、好きだ。すみれのこと」
すみれの目が、わずかに見開かれた。待っていたはずの言葉なのに、すぐには何も返ってこない。
頬だけが少しずつ赤くなっていく。
「……本当に?」
「うん」
「待ってたから、とかじゃなくて?」
「違う」
「……同情でも?」
「だったら言わない。……俺も、少しずつだけど前に進むよ。過去は過去だと見られるように。そのとき、隣にすみれがいてほしいと思ったんだ」
すみれはそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。安心したような。泣きそうなのを堪えるような。
「……じゃあ」
小さく息を吸う。
「もう一度、聞いてもいいですか」
「なに?」
「私のこと、好きですか?」
胡桃は少しだけ困った顔をした。もう一度言わせるのか、とでも言いたげだったが、誤魔化しはしなかった。
「好きだよ。──こちらこそ、お願いします」
今度は、すみれが目を逸らした。
「……よかった」
その一言は、降る雪よりもずっと小さかった。けれど、胡桃には十分聞こえた。
本当は、心のどこかでずっと不安だった。このまま気持ちが届かないまま、時間だけが過ぎていくのではないかと。告白したことを、後悔する日が来るのではないかと。
その不安が、たった今、跡形もなく溶けていく。温かい。じんわりと胸の奥から広がっていくこの感覚を、すみれは何と呼べばいいのか分からなかった。ただ、泣きたいくらいに嬉しいということだけは、はっきりと分かった。
零れそうになる涙を堪えるように、すみれはもう一度だけ小さく笑う。
「えっと……」
すみれが顔を上げる。少し照れくさそうに、けれどまっすぐに胡桃を見た。
「今日から、その……えっと」
「彼氏彼女、ってことでいいんだよな」
言葉に詰まったすみれの代わりに、胡桃が続きを引き取る。すみれは小さく頷いた。
「……はい」
頷いた拍子に、また頬が赤くなる。寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか、自分でもよく分からなかった。
「なら」
胡桃はそう言うと、すみれの手のほうへ視線を落とした。手袋もしていない、雪で冷えた手。
「手、繋いで帰らないか」
「え」
「……いや……彼氏彼女なんだし。クリスマスだし。おかしくは……ないだろ」
言ってから、自分の言葉の直接さに気づいたのか、少しだけ視線を逸らすも、そのまま右手を差し出した。
「お、おかしくは、ないです……けど」
すみれは俯きがちに頷きながら、差し出された右手へ視線を落とす。
──けれど、なかなか手が動かない。
「あれ……?」
「……? どうした?」
「い、いえ、その……」
もじもじと指先を彷徨わせながら、すみれは小さく息を吸う。緊張しているだけだ、と自分に言い聞かせるように。
そんな様子を見てか、返事を待たずに、胡桃のほうから先にその手を取った。
「ひゃっ……」
冷えた指先が、不意に包み込まれる。ためらう間も、考える暇もなかった。
「今更、緊張とかしてんなよ。俺だって恥ずかしいんだし」
「……あったかい」
「……そりゃ、まぁ、さっきまでルブランいたからな」
そう言いながらも、胡桃はすみれの手を握り直す。強すぎず、けれど離す気もないというように。
「行くか。……あいつらに見られたら恥ずいな」
「ふふっ、そうですね」
二人分の足音が、また歩き出す。今度は先ほどよりも、少しだけ間隔が近かった。
降り続く雪と、行き交う人々の賑わいの中、誰にも気づかれることなく、二つの影は駅へと向かって歩いていった。