12月31日 土曜日 晴れ
大晦日。
つい一週間前まで、世界の命運を賭けて神と戦っていたことが嘘のように、ルブランには穏やかな時間が流れていた。
あの戦いで消えたモルガナも、翌日のクリスマスには猫の姿でひょっこり戻ってきた。どうやら消えたのは異世界での存在だけだったらしく、気づけば渋谷に放り出されていたらしい。
狭い店内にはいつもの怪盗団だけでなく、新島冴まで顔を揃えている。テーブルの上には惣治郎が用意した年越し蕎麦の湯気が立つ。
その横では、どこで買ってきたのか分からない奇妙なスカーフを巻いた祐介が真顔で感想を求め、竜司と杏が好き勝手なことを言っていた。
テレビから流れるニュースも、今日は明るいものだった。
獅童正義について、検察が本格的な立件へ向けて動き出したという。
あの後、新島冴から、蓮自身が出頭して証言してほしいと求めようとしたが、その代わりに現れたのは明智だった。明智は蓮の代わりに出頭し、獅童のやったすべてを証言した。そしてあの春の日、蓮を陥れる事件の発端となった被害者の女性からも証言が得られたことで、彼に残されていた前歴についても取り消される見通しが立ったらしい。
モルガナは、途中からテレビに映った若い俳優をじっと見つめていた。モデル出身らしい整った顔立ちの男を杏が素直に褒めると、モルガナはどこか羨ましそうに画面を見上げる。
──もし自分も、あんな人間の姿だったなら。そんな他愛もない願いを零して。
「あらためて考えると、今年はマジで色々あったな」
「ホント、何年分の人生経験だって感じ」
「当分こんな経験をすることはないだろうな」
「私からすればそうであることを願っているわ」
「へへっ、じゃあまぁ来年からは品行方正な学園生活を送るってことで!」
「それならもう、夏休みの宿題は一人でできるってことよね」
「痛ェとこ突かんでください先輩……」
誰かが茶化し、誰かが笑う。つられるように別の誰かも口を開いて、気づけば話題は次から次へと移り変わっていた。
「そういや、最初は六人だったんだよな。オレら」
竜司が不意に言った。
「六人?」
「オレと、お前と、胡桃、すみれに杏とモナ。鴨志田んとき」
「ああ……」
杏が懐かしむように目を細める。
「そう考えると、ずいぶん増えたよね」
「私なんて、最初はあなたたちを捕まえる側だったもの」
真が苦笑する。
「うわ~ピリピリしてる頃の真は怖かったろうなー」
「双葉?」
「なんでもないであります」
「というか竜司も最初、真のことかなり警戒してたよね」
「そりゃそーだろ! 毎日尾行してくる生徒会長とか普通怖えって!」
竜司の指摘に、真が言葉を詰まらせる。珍しい光景に、春がくすくすと笑った。
「私はみんなに会えてよかったと思ってるよ」
「春……」
「でなければ、今ごろどうなっていたか分からないもの」
柔らかい声音だった。だからこそ、その言葉が指すものを察して、一瞬だけ空気が静かになる。けれど春は困ったように眉を下げた。
「あ、暗くするつもりじゃなかったんだけど……」
「分かってるって」
杏がすぐに笑った。
「私も一緒。一人だったら絶対ここまで来られなかったし」
「うむ。俺もだ」
祐介が深く頷く。
「そもそもお前たちと出会わなければ、俺は今でも斑目のもとで──」
「祐介」
「なんだ?」
「いい話してんのに、そのスカーフがずっと視界に入って集中できない」
「何故だ!?」
台無しになった。
「やはり理解できん。この意匠のどこに問題がある?」
「問題しかねえだろ」
「……ちなみに、おいくらだったんですか?」
すみれの素朴な質問に、祐介は得意げに値段を告げた。
途端。
「たっか!」
「えっ、それ買ったの!?」
「おかげで来月の食費は切り詰めないといけなくなったが、清貧の美は磨かれるというもの。一石二鳥だ」
「バカだ。バカがいる」
「(スカーフであれくらいの値段を出すのは引かれるのね……学びました)」
そんな若者の騒ぎを眺めながら、惣治郎は呆れたように肩を竦める。
「ったく。よくまあこれだけ騒げるもんだ」
「若いってことよ」
カウンター席で冴が蕎麦の器を置く。
「お前まで年寄りみてえなこと言うなよ」
「仕事柄、こういう賑やかな場所とは縁がないの」
冴の言葉に、惣治郎はふっと笑う。
「まあ、悪くない縁だったと思うがな」
「……そうね」
短いやり取りだったが、そこに込められたものの重さを、この場にいる誰もが薄々察していた。
「……『腐れ縁』か」
その二人の様子をみて、胡桃はぽつりと呟いて、テーブル上にあったクロスワードに書き込んでいく。
「先輩、解けました?」
胡桃の隣に座っているすみれが、のぞき込んでくる。
「ん。全部埋まった。答えはき、ん、が……『謹賀新年』か。メタ読みでいけたな。年末号だし」
「まぁ全部埋めないと気が済みませんし」
その様子を横から眺めていた竜司が、ふと気づいたように言う。
「……てか胡桃、あまり会話に参加しないでペンくるくる回してるかと思えば、クロスワードやってたのか」
「目の前にあって、開いたらつい」
「でも『謹賀新年』かぁ。もう今年も終わりなんだね」
「今年はホント色々あったけど、こうしてみんなで年越せるとは思わなかったな」
「……うん」
その言葉に、誰も茶々を入れなかった。窓の外では、静かに年が暮れようとしていた。
「それで根拠はないけど、来年はもっといい一年を過ごせそうな気がする」
「不思議だけど、確かに私も同感」
「これだけ満足のいく年末を過ごしたんだ。そう思うのも無理はない」
胡桃の指先で回っていたペンが、ふと止まる。何かを言いかけるように唇が動いたが、結局、声になることはなかった。やがて何事もなかったように、ペンを再び回しはじめる。
そんな話をしているうちに、テレビの番組もいつの間にか年越し前の特別編成へと切り替わっていた。中継先は都内の広場。厚手のコートに身を包んだ大勢の人々が集まり、頭上には新年までの残り時間を示す大きな時計が映し出されている。まだカウントダウンには早いものの、現地のリポーターはすっかり年越し直前の調子で声を張っていた。
『今年も残すところ、あとわずかとなりました──』
「あ、もうこんな時間なんだ」
十一時もずいぶん回っていた。いつの間に、と誰かが呟く。蕎麦の器もほとんど空になり、さっきまで次々と飛び交っていた話題も、気づけば途切れる時間が長くなっていた。
「そろそろお開きにするか?」
惣治郎がカウンターの向こうから声を掛ける。
「えー、年越す前に?」
「ここで全員年越す気だったのかよ。帰るヤツは電車なくなる前に帰れ」
真が携帯を取り出して時刻表を確認する。その画面を横から覗き込んだ杏が、「あ、ほんとだ」と声を上げた。
「そろそろ出たほうがいいかも」
「マジ? まだ余裕あんじゃね?」
「竜司。大晦日の終電を普段と同じ感覚で考えないほうがいいわよ」
「うげ」
「臨時ダイヤも混むぞ~、座れたらなんて都合よく考えない方がいい」
その一言を皮切りに、それぞれが鞄や上着へ手を伸ばし始めた。誰かが帰る準備を始めれば、不思議とさっきまでの腰の重さも消えていく。春が空になった器を重ね、すみれもそれを手伝おうと立ち上がる。
「座ってろ座ってろ。洗い物まで始められたらいつまで経っても帰らねえだろ。後片付けはこいつにやらせろ」
クイッと親指で指された蓮は、満更でもないように苦笑する。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「おう。また来年な」
来年。ほんの数時間先のことなのに、その言葉だけで少し遠い未来のように聞こえる。テレビでは変わらず、年越しを待つ人々の姿が映っていた。画面の端に表示された時計は、ゆっくりと新しい年へ近づいている。
『各地でも新年を迎える準備が進んでいます──』
「なんか変な感じだな」
竜司が上着に袖を通しながら呟いた。
「何が?」
「いや。明日になったら普通に新しい年なんだなーって」
「毎年そうでしょ」
「そうなんだけどよ。今年はなんつーか……」
そこまで言って、竜司は言葉を探すように頭を掻いた。
「ちゃんと来年が来るんだなって感じするっつーか」
一瞬、誰も何も言わなかった。けれど。
「……そうだね」
杏が静かに笑った。
ほんの少し前まで、自分たちにとって「次の日」は、希望などではなかった。心が押し潰されそうな今日が終われば、また同じような明日が朝日と共にやってくる。自分の力では運命を変えられず、この日常が永遠に続くようにさえ思えた。先に何があるのかも分からず、自分たちの道は暗闇の中にあった。
そんな中、運命とも言える出会いがあって、すべてが好転し、希望のある明日を迎えられるようになった。あの頃、そんな未来を想像できただろうか。ましてや、こんな仲間に囲まれて、楽しい年末を迎えられるという現実なんて、思ってもみなかった。
「……じゃあ、また来年」
「よいお年を」
「冴さん惣治郎さんも」
「ええ。あなたたちも」
「私も年末のスペシャル特番あるから帰るなー!」
一人、また一人と扉をくぐっていく。
外から冷たい空気が入り込み、そのたびに店内へ小さな冬の匂いを残して、扉はまた閉じる。最後まで名残惜しそうにしていた竜司も、杏に急かされて店を出ていった。
「じゃーな!」
「またねー!」
「よいお年を!」
カラン、と。ベルが鳴る。
「ふぁぁ……ワガハイも眠くなってきたな」
モルガナが大きなあくびをしながら、ぐっと前脚を伸ばした。
「もう寝るのか?」
「今日は朝から騒ぎっぱなしだったからな。年越しまで起きてるつもりだったけど、限界だ」
そう言って椅子から飛び降りると、モルガナは階段へ向かう。
「蓮、ワガハイは先に上で寝てるぞ」
「ああ。おやすみ」
ぱたぱたと階段を上っていく足音がして、やがてそれも聞こえなくなった。
さっきまで人でいっぱいだった店内が、一気に広くなったように感じられた。
残っているのは胡桃とすみれ、そして蓮と惣治郎の四人。
「嵐が去ったみてえだ」
惣治郎はそう言いながら、テーブルに残った器を片づけていく。胡桃は手元のクロスワードへ視線を落とした。その文字をしばらく見つめてからペンを置く。
「……」
「先輩?」
すぐ隣から声がした。顔を上げると、すみれがこちらを見ていた。
「……ん?」
「いえ。少しぼーっとしていたので」
そう言いながら、すみれの視線が胡桃の手元へ落ちる。
テーブルの上に置かれた胡桃の手。その小指へ、すみれの指先がほんの少しだけ触れた。確かめるような、ごく軽い接触だった。胡桃は何も言わない。ただ、その指を避けることもせず、逆に少しだけ手の向きを変える。触れていた指先が、自然に重なった。
カウンターを見れば惣治郎が食器を片づけていて、蓮もその奥で洗い物を手伝っている。わざわざ見せつけるようなことでもないし、隠すほどのことでもないけれど二人とも、声に出して何かを言うことはしなかった。
すみれが小さく笑う。胡桃もつられるように口元を緩めた。
「帰りましょうか」
「……そうだな」
すみれが立ち上がり、その拍子に離れた手を、胡桃は一瞬だけ目で追った。自分でも気づかないほど短い間だった。上着へ腕を通しながら、すみれが振り返る。
「先輩。マフラー、忘れてます」
「あ」
椅子の背に掛けたままになっていたそれを、すみれが取る。そのまま渡されるものと思って手を伸ばしたが、すみれはなぜか一歩近づいてきた。
「じっとしててください」
柔らかな布が首元へ回される。慣れた手つきで形を整えられ、最後に胸元を軽く押さえられた。
「はい」
「……どうも」
「どういたしまして」
この間よりもほんの少しだけ近い距離。けれどどちらも、もうそれを意識して離れることはなかった。
「お前ら、帰るならさっさと帰れよ」
カウンターの向こうから惣治郎の声が飛んでくる。
「今帰ります」
「ごちそうさまでした。使わせてもらったペンここに置いときますね」
「おう。気をつけてな」
胡桃は使っていたペンをカウンターへ戻すついでに、電話脇のメモ帳へ一度だけペン先を走らせた。胡桃が先に扉へ向かい、すみれがその隣へ並ぶ。どちらからともなく歩幅が揃った。
カラン、と。扉のベルが鳴る。途端に、冷え切った夜気が二人を包んだ。
「寒っ……」
「やっぱり中と全然違いますね」
すみれが肩をすくめる。
胡桃もマフラーへ少し顎を埋めた。さっき巻いてもらったばかりのそれには、まだ微かにすみれの手の感触が残っているような気がした。
背後で扉が閉まり、ルブランの明かりがガラス越しになる。ついさっきまで聞こえていた仲間たちの声も、今はもうない。代わりにあるのは、遠くを走る車の音と、時折すれ違う人の足音だけだった。
「行きましょうか」
「うん」
二人並んで歩き出す。大晦日の夜だからか、いつもの通りもどこか静かだった。すでにシャッターを下ろしている店も多く、残っている明かりだけがぽつぽつと道を照らしている。
すみれが胡桃の半歩ほど隣を歩く。近すぎず、遠すぎず。けれど何歩か進んだところで、すみれの手の甲が胡桃の手に触れた。
一度。それから、もう一度。偶然にしては少しだけ多い。胡桃は横を見る。
「……何」
「何がですか?」
すみれは知らないふりをして前を向いたままだった。
「いや」
胡桃もそれ以上は言わない。代わりに、次に手が触れたとき、そのまま小指を引っかけた。
すみれの歩幅がほんの少しだけ乱れる。けれどすぐに、その指が絡み返してくる。やがて小指だけだったものが、いつの間にか手のひら同士へ変わっていた。どちらが先だったのかは分からない。
「……あったかいですね」
「手袋してないから、普通に冷たいけど」
「そういう意味じゃないです」
「分かってる」
胡桃が小さく笑う。すみれもつられるように笑った。
「先輩」
「ん?」
「今年、終わっちゃいますね」
胡桃は少しだけ空を見上げた。
「なんだか寂しいです」
「色々ありすぎたから?」
「それもありますけど」
すみれは少し考えるように黙る。
「今年が終わるってことは、今年あったことが全部、思い出になっちゃう気がして」
「センチメンタルだな……」
「だから、せめて忘れないようにっ……」
ググッ……! と、繋いだ手に力を込める。とはいえ、ここは認知世界ではない。現実のすみれの握力などたかが知れていて、胡桃は痛がる様子はなく、甘噛みしてくる小動物を見るような顔で笑った。
「……来年もよろしく」
不意に口から出た。すみれが一度目を丸くして、それから柔らかく笑う。
「はい」
そして少しだけ身体を寄せた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
二人は手を繋いだまま、年末の夜を歩いていく。新しい年まで、あとわずか。
***
「なぁ、あの二人ってできてんの?」
「おそらく、最近そうなった」
ルブランに残った惣治郎と蓮は、洗い物を片付けながら雑談に花を咲かせる。
「おそらくって、お前知らなかったのか?」
「本人たちから聞いたわけじゃない。でも見てれば何となく最近かな、と」
「……確かにな」
あれで隠しているつもりなら、少々無理がある。もっとも、本人たちも特別隠しているわけではないのだろう。人前で必要以上にべたべたするでもなく、だからといってわざわざ距離を取るでもない。
そこで惣治郎が、ふと思い出したように眉を上げた。
「つーか、お前はどうなんだ?」
「何が?」
「何がじゃねえよ。高校生がこれだけ集まってんだ。もうひと組くらいそういうのがいても不思議じゃねえだろ。で、お前は?」
「洗い物終わった」
「露骨に逃げんな」
蓮は聞こえなかったふりをして布巾を手に取った。
「ったく……アイツが片付け忘れていったクロスワードも、あとで棚に戻しとけよ」
惣治郎は呆れながらも、それ以上は追及しなかった。蓮も何事もなかったように布巾を手に取り、テーブルを拭いていく。
「……こんなもんか」
惣治郎が洗い終えた器を棚へ戻す。
「こっちも終わった」
「おう。ご苦労さん。一年の最後まで働かせちまったな」
「いつものことだ」
「言うようになったじゃねえの」
惣治郎が鼻で笑う。蓮もつられて口元を緩めた。思えば、この店に来たばかりの頃なら、こんなやり取りすら考えられなかった。
「……なんだよ」
視線に気づいた惣治郎が怪訝そうに眉を寄せる。
「いや。最初にここに来たときと比べると、ずいぶん変わったなって」
「お前な……」
「最初は、かなり怖かったから」
「知らねえガキをいきなり一年預かれって言われたんだぞ。愛想振りまく余裕なんざあるか」
「今は?」
「もっと面倒くせえガキになったよ」
言葉とは裏腹に、声は穏やかだった。惣治郎はカウンターへ手をつき、少しだけ店内を眺める。
「……でもまあ。お前が来てから、ここもだいぶ賑やかになった。最初は適当に一年面倒見て、春になりゃそれで終わりだと思ってたんだけどな」
惣治郎はそこで一度言葉を切った。
「……今じゃ、静かなほうが妙な感じだ」
先ほどまで仲間たちが座っていた席を見る。
「お前が連れてきた連中だ」
「俺だけじゃない」
「細けえことはいいんだよ」
惣治郎が苦笑する。
「……悪くなかった。この一年」
小さな声だった。蓮は少しだけ目を丸くする。それから、静かに笑った。
「俺も」
「……そうかよ」
惣治郎はそれ以上何も言わなかった。照れ隠しなのか、カウンターの中を意味もなく確認し始める。
「それじゃ、俺は帰るぞ」
「もう?」
「もうって、お前。日付変わるまでここにいろってのか」
「年越しくらい一緒でもいいかと思って」
「気色悪いこと言うな。俺は家でゆっくり年を越す。お前は好きにしろ」
そう言いながら、惣治郎は上着を羽織る。
「戸締まり忘れんなよ。あと火の元」
「分かってる」
「店の鍵は?」
「持ってる」
「二階の暖房つけっぱなしにすんなよ」
「……ふふ」
「なんだよ」
「親みたいだ」
「……バカ言ってねえで、ちゃんと戸締まりしろ」
それだけ言うと、さっさと扉へ向かっていく。けれどドアノブへ手を掛けたところで、ふと足を止めた。
「来年も、まあ……短い間になるかもしれんがよろしくな」
蓮は少しだけ笑う。
「ああ。よろしく」
「おう」
カラン、とベルが鳴る。
「よいお年を」
冷たい夜気が一瞬だけ店へ入り込み、扉が閉じる。蓮はしばらく、その扉を眺めていた。
蓮はモルガナのいる二階へ戻ろうとして、ふと足を止める。テーブルの上に、胡桃がやっていたクロスワードが置いてあった。
「……」
蓮は棚に戻そうとそれを手に取って、何気なく胡桃が書き込んでいたページを開いた。すべてのマスがきっちり埋められている。そのまま閉じようとして、蓮の指が止まった。
「……?」
いくつかのマスだけ、文字の横に小さな点が打たれている。印刷ではなく、明らかにボールペンで後から付けられたものだった。
一つ。二つ。三つ。
適当に付けたにしては、妙に規則的だ。蓮は椅子へ座り直した。試しに、点の付いたマスだけを順番に拾っていく。
最初の一文字。次、その次。声には出さず、頭の中で繋げる。
デ。
ん。
ワ。
さらに拾う。
の、メ、も、を、見、ロ。
最後まで繋げて、蓮は眉を寄せた。
『電話のメモを見ろ』
冗談にしては妙だった。胡桃ならこういう悪戯くらいやりかねないが、わざわざクロスワードに仕込んでまで伝える内容が『電話のメモを見ろ』なのか。
カウンターの端に置かれた固定電話へ目を向ける。そのそばには、連絡を書き留めるための小さなメモ帳がある。
「……」
蓮はそれを手に取り、ページを捲った。細く、少し右上がりの文字。胡桃の字だった。
『違和感 思い出せ お前は誰だ』
区切られた三つの言葉。
違和感とはなんだ。思い出すとはなんのことだ。お前とは誰のことを言っている。
スマートフォンを取り出す。胡桃にこのメッセージの意図を聞こうとして──指が止まった。
「……?」
イセカイナビがスマホから消えている。それ自体は何ら問題ない。あれはヤルダバオトを倒した日に消えたものだ、違和感はない。
──ただ、それに伴う記憶が薄れている気がする。具体的に言えば、昔の怪盗団としての活動の記憶はあるのに、ついこの間の……ヤルダバオトとの戦いの記憶がぼやけている。
「……なんだ?」
眉を寄せる。『ヤルダバオトを倒した』──そこに至るまでを順番に思い返そうとすると、妙に記憶が引っかからない。
誰がどこにいて。何を言って──。
「……っ」
鋭い頭痛が走った。それは、零れ落ちた記憶を手繰り寄せる一本の手綱だった。
『──トリックスター、そしてその仲間の皆様に話しておかなければならないことがあります』
それは、ベルベットルームでの記憶。大衆から怪盗団の認知が消え、ベルベットルームへ避難させられた時の出来事。元の姿に戻ったラヴェンツァと、本物のイゴールが戻ってきて、怪盗団へ話していた内容。
『──あなた方のもう一人の仲間、乙守胡桃について。彼は今、メメントスの最奥で聖杯と戦っています』
それに対して、各々が驚きの声を上げたり、疑問を口にしたりしていた気がする。
『──なぜ彼がメメントスの最奥にいるのか、なぜ彼が一人で聖杯と戦えているのか、それには理由があります』
記憶の中のラヴェンツァが続ける。
『──それは彼が』
──カラン、と。記憶を手繰り寄せる手綱を断ち切るように、入口のベルが鳴った。
店先の札はとっくに『CLOSED』へ返してある。こんな時間に客が入ってくるはずはない。そう思いながら入口へ目を向けて、蓮の表情が止まった。扉の向こうから入ってきたのは。
「お邪魔します、かな」
当の乙守胡桃本人だった。
「……どうした、忘れ物か?」
蓮は冷静を装う。だがこのメモのことは聞かなかった。
「そうそう忘れ物」
「すみれは?」
「ん? あー……駅までは送った」
妙に歯切れの悪い返事だった。胡桃は後ろ手に扉を閉めると、店内を見回す。
「何を忘れたんだ?」
蓮が訊く間にも、胡桃は店内をゆっくりと歩いていく。椅子の下やテーブルの上へ何気なく視線を送りながら、いかにも「忘れ物を探しています」とでも言いたげな素振りだった。むしろ、そう見せるためのアピールにすら思える。
「んー、それは今探してる」
「何を忘れたのかを、忘れたのか」
「そういう日もある」
適当な返事をしながら、胡桃の足が一つのテーブルの前で止まった。
そこには、開いたままのクロスワードが残されている。胡桃は何とはなしにそれを手に取り、ぱらぱらとページをめくった。
「そこにはないだろ」
「まぁ、念のため?」
蓮は呆れたように返しながら、ちらりと胡桃の様子を窺う。こちらを見ていない。その隙に、電話脇のメモ帳へ手を伸ばした。
『違和感 思い出せ お前は誰だ』
その一枚だけを音を立てないように破り取る。小さく折り畳み、そのまま上着の内側へ滑り込ませた。なぜそうしたのか、自分でもよく分からない。ただ今は、手元に置いておいたほうがいい気がした。
「……まぁ、いっか」
何が、とは言わない。そのままぱたんと閉じて、元あった場所へ戻す。それ以上興味を示すこともなく、胡桃はカウンターのほうへ歩いていった。空いている席を引き、腰を下ろす。
「忘れ物ついでに、話がしたくってさ」
「……長くなるか?」
「年は越すかも」
「帰ってくれ」
「冷たいなぁ。せめてコーヒーを入れてくれないか。お金は出すから」
そう言って、コーヒー代をレジのトレーに置いた。蓮はそこに転がった硬貨を見下ろす。追い返すつもりなら、そのまま返せばいい。
けれど胡桃がわざわざ戻ってきた理由も気になる。何より、つい先ほど見つけたメモが上着の内側に収まっている今、何も聞かずに帰す気にはなれなかった。
「……一杯だけだぞ」
「サンキュー」
蓮はカウンターの奥へ回る。いつもの場所から豆を取り出してミルへ入れ、ハンドルを回す。
ごり、ごり、と。
静まり返った店内に、豆を挽く乾いた音だけが規則正しく響いた。
胡桃はその間、手持ち無沙汰そうにカウンターへ視線を巡らせていたが、やがて固定電話の横に置かれたメモ帳へ手を伸ばした。親指で端を弾くように、ぱらぱらとページを捲っていく。どれも目に留めるほどではないらしく、胡桃は途中で手を止めることもなかった。
「……ふぅん」
最後まで確かめると、どこか物足りなさそうな息を吐いてメモ帳を元へ戻す。そして何事もなかったように、カウンターへ肘をついた。
「話って」
「別に大した話じゃない。聞きたいことがあるだけ。ちょっとした質問」
胡桃は頬杖をついたまま、何でもないことのように言った。蓮は挽き終えた豆をドリッパーへ移す。
「質問?」
「うん。仮の話ね」
湯を注ぐ。膨らんだ粉から立ち上る香りを眺めながら、胡桃は少し考えてから口を開いた。
「もし明日から、自分にとってつらかったことが全部なくなるとしたら、蓮はどうする?」
「……なくなる?」
「そ。失った人は戻ってくる。叶わなかった夢は叶う。失敗したことは、最初から失敗しなかったことになる」
蓮は黙って湯を注ぎ続ける間も、言葉をさらさらと並べる。
「病気も、事故も、どうにもならなかった過去も。全部、自分にとって一番幸せな形に変わる」
「ずいぶん都合のいい話だな」
「仮の話だから。しかも、それが夢とか幻ってわけじゃない。本当にそういう現実になる。戻ってきた人にもちゃんと触れられるし、その先の人生だって続いていく」
「……それなら、悪くないんじゃないか?」
「じゃあその代わり、自分にとって何が幸せなのかを決めるのが、自分じゃなかったら?」
蓮の手が僅かに止まる。
「こっちの道を選ぶより、こっちのほうが幸せ。あの夢を追うより、別の夢を持ったほうが傷つかない。そう判断したら、本人の考え方も変える」
「勝手に?」
「まぁね。でも本人は不幸にならないよ。変えられたことにも気づかない。むしろ心から『これが自分の望んでいた人生だ』って思ってる」
コーヒーが、ぽたり、ぽたりとサーバーへ落ちる。
「周りも幸せ。本人も幸せ。誰も苦しまない。それでも、その世界は間違ってると思う?」
蓮はすぐには答えなかった。テレビから聞こえる年末特番の賑やかな声と、コーヒーの落ちる音だけが間を埋めた。
「もう一つ。その人の幸せを守るためなら、嫌な記憶を消してもいいと思う?」
「……」
「立ち直れないほど苦しいことなら、最初からなかったことにしてやったほうがいい?」
問い方は淡々としていた。正解を求めているようには聞こえない。
「それとも、どれだけ苦しくても、忘れるか、抱えて生きていくか。それを決める権利だけは本人に残すべきだと思う?」
蓮はようやく胡桃を見る。胡桃は少しだけ笑って、すぐにその笑みを消す。
「じゃあ、最後」
蓮を見る。
「もしその世界を拒んだら死んだ人は、もう一度死ぬ。叶っていた夢も消える。救われていた人は、また元の苦しい現実に戻る」
「……」
「それを分かった上で」
一拍。
「蓮なら、それでも元の世界に戻す?」
すぐには答えが返ってこなかった。蓮はコーヒーを落とし終え、サーバーを置く。
「……戻す」
やがて、蓮が言った。
「即答じゃないんだ」
「迷うくらいはする。死んだ人が戻ってくる。夢が叶う。誰も苦しまない。それを全部なかったことにするんだから、それが幸せだっていうのも分かる」
蓮は出来上がったコーヒーをカップへ注ぐ。
「苦しいことなんて、ないほうがいい。死んだ人が戻ってきたら、喜ぶと思う。でも」
カップを胡桃の前へ置く。取っ手は右手側を向いていた。
「それを誰かに決められるのは違う」
「本人がどれだけ幸せでも? 変えられたことにも気づかなくても?」
「それでも」
「……なぜ?」
「選んだことまでなくなるから。……失敗したのも、諦めなかったのも、誰かを好きになったのも、嫌いになったのも。全部、自分で選んだ結果だろ」
「……」
「つらいからって、その結果ごと他人に書き換えられたら。それはもう、俺の人生じゃない」
蓮が言い切る。胡桃は何も返さなかった。カウンターに置かれたカップから、白い湯気だけがゆっくりと昇っていく。
「……そっか」
やがて、それだけが返ってきた。驚いた様子はない。反論するでもなく、考え込むでもなく。まるで最初から、その答えを知っていたような声だった。
胡桃は包帯の巻かれた右手を一度浮かせ、すぐに引っ込める。代わりに左手でカップを回して取っ手の向きを変えると、そのまま持ち上げた。
蓮は、その一連の動きを何とはなしに目で追っていた。そして。遅れて、小さな違和感が引っかかった。
──怪我。
胡桃の右手は、怪我をしていた。見れば分かる。包帯は手のひらから指の付け根まで覆うように巻かれていて、今しがた右手を使うことを避けたのもそのせいなのだろう。
──だが、さっきまでいた胡桃も、あんな包帯をしていただろうか。
年越し蕎麦を食べていた姿。クロスワードにペンを走らせていた姿。すみれと並んで店を出ていった姿。思い返そうとするも、そこだけが、妙に曖昧だった。していなかった、と断言できるほどの確信はない。ただ、もしあれだけ目立つ包帯をしていたのなら、一度くらい気に留めていてもよさそうなものだった。
「苦いな」
胡桃の声で意識が戻る。
「コーヒーだからな」
「もう少し愛想のある返しはないの?」
「砂糖ならある」
「そういうことじゃないんだよなぁ」
カップを置いたときの表情は、どこか冴えなかった。
「……想定していた答えじゃなくて不満だったか?」
「不満ではない。納得してる。蓮ならそう言うと思ってたし。むしろ、違うこと言われたほうが困ったかもしれない」
「ならいいだろ」
「まぁいいんだけど……ちょっとだけ期待してた。幸せなら、それでいいって言うかもしれないって」
胡桃は人差し指と親指で、わずかな隙間を作ってみせる。
「これくらい」
「ほとんど期待してないな」
胡桃は笑った。その笑い方はいつもと変わらない。なのに、蓮には、それが妙に寂しそうに見えた。
「それにちょっとだけ失望した。もしかしたら、って思ってた自分に。でも……それでも、違う答えだったら楽だったなって思った」
「楽?」
「こっちの話」
またそれだ。蓮は眉を寄せる。胡桃はようやく少しだけ普段通りに笑った。そして、カップを持ち上げる。
「でもまあ」
さっき苦いと言ったはずのコーヒーを、今度は顔色一つ変えずに飲み込む。
「確認したかったことは確認できた。──ここで道は分かたれた」
「……道?」
聞き返す。胡桃は答えなかった。左手に持ったカップを傾け、残っていたコーヒーをゆっくり飲み干す。
「今のはどういう意味だ」
「そのまんまだよ」
「分からないから聞いてる」
「分からなくていい」
即答だった。胡桃は空になったカップをソーサーへ戻す。かちゃり、と。静かな店内に、小さな音が響いた。
「ごちそうさま」
「待て」
立ち上がろうとした胡桃を、蓮の声が止めた。蓮は黙って胡桃を見つめ、受け止めるようにそれを見つめ返す。
「お前はさっきの質問、どう答えるんだ?」
「俺は……全部なかったことにできるなら、それでもいいと思う。それで幸せなら」
「……本気か?」
「本気」
「自分の人生じゃなくなっても?」
胡桃はその言葉を聞いて、少しだけ視線を落とした。
「自分の人生、ね。……だからだよ」
ぽつりと呟いた。
「喋りすぎたかも、忘れて」
「忘れられるか」
「じゃあ、そのうち忘れるよ」
「……何を言ってる?」
「どうした? そんなに必死な顔をして。蓮は、苦しくても自分で選んだ現実がいい。俺はそうじゃなかった。ただそれだけ」
テレビの向こうで歓声が上がった。それまで年末特番の賑やかな音を垂れ流しているだけだった画面が、いつの間にか大きな数字に切り替わっている。
新年までの残り時間。
画面の向こうでは、寒さも忘れたように大勢の人々が肩を寄せ合い、頭上に掲げられた時計を見上げていた。知らない者同士まで同じ瞬間を待っている。その熱気が、静まり返ったルブランとはひどく対照的だった。
『まもなく新しい年を迎えます! ──10!』
中継先の人々が声を揃える。
『9!』。
胡桃も何となくテレビへ目を向けた。さっきまでの話など、もう終わったことだと言わんばかりに。
「もう年が越すな」
「話は終わってないぞ」
「俺は終わった」
『8!』
胡桃はテレビを見たまま答えた。横顔からは、何を考えているのか読み取れない。
『7!』
蓮は何か言おうとして口を開く。このまま終わらせるつもりはなかった。あのメモの意味も。さっきから胡桃が口にしている妙な言葉も。包帯のことも。聞かなければならないことは、まだいくつも残っている。
「……?」
だが言葉が出ない。
『6!』
視界が揺れる。口にしようとしていた言葉が、頭の中から抜け落ちた。何を聞こうとしていた。何に引っかかっていた。ほんの数秒前までそこにあったはずなのに。
『5!』
「……何だ、これ」
無意識にカウンターへ手をつく。
指先に硬い木の感触が返ってくる。力が抜けたわけではない。立っていられないほど苦しいわけでもない。意識だって、まだはっきりしている。それなのに身体だけが自分より一歩遅れているような、奇妙な感覚があった。
『4!』。
テレビの声。時計の秒針。店内に残るコーヒーの香り。カウンターの向こうにいる胡桃の気配。そのすべてが、薄い膜を一枚ずつ重ねられていくようにぼやけていく。
『3!』
「おやすみ」
胡桃がこちらを見ていた。まるでこうなることを最初から知っていたように。
『2!』
声が喉の奥で形になる前に消えていく。視界の端から、ゆっくりと色が落ち始める。どれもそこにあるはずなのに、現実感だけが薄れていった。
『1!』
「良いお年を」
『──ゼロ! あけましておめでとうございます!』
画面の向こうで、爆発するような歓声が上がる。人々が笑い、抱き合い、誰かが飛び跳ねる。新しい一年の始まりを祝う声が、テレビのスピーカーから店内いっぱいに響いた。
1月1日 日曜日 晴れ
その瞬間。蓮の意識は途切れた。
最後に見えたのは、新年を祝う眩しいテレビの光を背に、カウンターの向こうから静かにこちらを見つめる胡桃の姿だった。
***
次に意識が浮かび上がったとき、蓮は自分が眠っていたという感覚すら持っていなかった。
ほんの一瞬前までルブランにいて、テレビから響く新年の歓声を聞きながら胡桃と向かい合っていたはずなのに、その記憶と現在との間には眠りへ落ちていく過程も、夢へ移り変わっていく曖昧な時間も存在せず、気がつけばまるで映像だけを突然差し替えられたかのように、見覚えのある白い天井が視界いっぱいに広がっていた。
「……?」
ゆっくりと身体を起こす。
最初に目に入ったのは、白を基調とした壁と整然と並べられた椅子、それから部屋の隅に置かれた観葉植物だった。
見覚えがある。何度かここへ来たことがあった。
「……保健室?」
口に出してみれば、それ以外には考えられないほど内装は記憶にある部屋と一致していた。そこでようやく、蓮は自分の格好に気づいた。
「……これ」
白と黒の縞模様。怪盗服でもなければ、先ほどまで着ていた私服でもない。それはベルベットルームへ囚われていた頃、何度となく身につけていた囚人服だった。ヤルダバオトを倒し、本物のイゴールとラヴェンツァを取り戻したことで、あの牢獄としてのベルベットルームも役目を終えたはずだった。それなのに、よりにもよって今、自分は再び囚人の姿をしている。
「ベルベットルーム……じゃないよな」
小さく呟きながら立ち上がる。足元に鉄格子はなく、イゴールの机も、処刑器具も、ラヴェンツァの姿もない。見える限りでは、やはりここはただの保険室だった。
そうなると次に浮かぶ疑問は当然、どうして自分がここにいるのか、だった。
昨夜のことを思い出そうとする。
大晦日。ルブランでみんなで年越し蕎麦を食べて、くだらない話をして、今年一年を振り返った。
それから時間が遅くなって、終電を気にし始めた仲間たちが帰り支度を始めて。
『じゃあ、また来年』
『よいお年を』
一人。また一人。仲間たちが帰っていく。そこまでは覚えている。
「……?」
けれどその先が思い出せない。誰が最後に帰った。自分はそのあと何をした。惣治郎と何か話しただろうか。二階へ上がったのは何時だった。そもそも、年が変わる瞬間まで起きていたのか。
思い出そうとすると、そこだけが不自然なくらい綺麗に抜け落ちている。
「……寝落ちした?」
そう考えれば説明はつく。一年間の疲れもあったし、仲間が帰ったあと、そのまま眠ってしまった可能性もなくはない。
「……」
考えていても答えは出そうにない。
蓮は部屋の出口へ向かい、ドアノブへ手を掛けた。鍵は掛かっておらず、扉は音もなく開いていく。
その先には、見慣れた秀尽学園の廊下が続いていた。
ただ、普段の校舎と同じだと言い切るには、あまりにも静かすぎた。靴底が床を叩いた音が、思った以上に長く響いた。ポケットへ手を入れてスマートフォンを探すが、何も入っていない。
どう考えても現実ではない。夢。そう考えるのが一番自然だった。けれど、そう断定しようとしたところで、廊下のどこかから微かな声が聞こえた。
『……もう一度……』
「?」
蓮が足を止める。声がした方向へ顔を向けても誰もいない。壁には校内放送用のスピーカーが取り付けられているが、そこから聞こえてきたのかさえ分からなかった。
しばらく耳を澄ませていると、今度はまた別の声が響く。
『もし……また』
「……杏?」
ひどく遠く、何枚もの壁を隔てた向こうから届いているように不鮮明だったが、それでも聞き覚えがある。
それが途切れると、次は祐介。
真。
双葉。
春。
すみれ。
次々と聞き覚えのある声が、誰もいないはずの校舎を漂っていく。何を言っているのか、すべてを聞き取ることはできない。ただ、その断片を繋げていくうちに、何について話しているのかだけは何となく分かってきた。
失ったもの。叶わなかった願い。あのとき違う結果になっていたなら、と心のどこかで一度くらいは考えてしまった過去。仲間たちが普段は口にしない想いが、ところどころ欠けた言葉となって、この妙な校舎の中へ染み出している。
「何なんだ……」
蓮は廊下を歩き始めた。とりあえず学校から出る。それ以外にできることも思いつかなかった。
しかし歩き始めてすぐ、この校舎の構造がおかしいことに気づく。一つ下の階へ降りたつもりが見覚えのない廊下へ出たり、角を曲がっただけなのに別の階へ移動していたりと、距離も位置関係も滅茶苦茶だった。
立ち止まる。どちらへ進むべきか分からない。そのとき。視界の端を、小さな青い光が横切った。
「……!」
青い蝶。薄暗い校内の中で、その羽だけが周囲から切り離されたように淡く輝いている。
「ラヴェンツァ……?」
返事はない。ただ、かつてラヴェンツァが蝶の姿で自分の前へ現れたことを思えば、無関係とも考えにくい。青い蝶は蓮の周囲を一度だけ緩やかに回ると、そのまま廊下の奥へ向かって飛び始めた。
「待ってくれ」
蓮もすぐにその後を追う。蝶は決して速く飛ばなかった。こちらが離れれば少し先で速度を落とし、蓮が近づけば再び進み始める。偶然そうなっているというより、明らかにこちらをどこかへ連れていこうとしている動きだった。
しばらく進んだところで、蝶が廊下の角へ差しかかる。青い蝶は何の警戒もなく、淡い光の尾を引きながら角を曲がろうとした。蓮も数歩遅れて、その後を追う。
蝶がちょうど壁の向こうへ消えかけた、その瞬間だった。
横から、腕だけが伸びてきた。
「──」
何の前触れもなかった。白い壁の死角から滑り込むように伸びた手が、青い蝶を真横から掴み取る。
青い羽が掌の中へ消え、握られた拳の隙間から淡い光だけが細く漏れ出した。閉じ込められた蝶が逃れようとしたのか、一度だけ光が強く脈打つ。ぎゅ、と。指に力が込められる。拳の隙間から漏れていた青い光が一瞬だけ強く瞬き、その直後、糸を切られたように消えた。
握っていた拳が開かれたが、掌には何もない。それまで確かに廊下を照らしていた青い蝶だけが、最初から存在していなかったかのように消えていた。
「……本物が来てたわけじゃないのか」
角の向こうから、そんな独り言が聞こえる。そこで初めて腕の主が、壁の陰から姿を現した。そして、その人物は何事もなかったように蓮へ顔を向ける。
「こっちじゃない」
聞き慣れた声だった。蓮はその顔を見る。
「胡桃」
なぜここにいるのか。どうして自分と同じ、この奇妙な校舎にいるのか。今、何を握り潰したのか。普通ならいくつもの疑問が浮かんでもおかしくなかった。けれど蓮は、それらを一つとして口にしなかった。
疑問が浮かばなかったからだ。
「出口ならこっちだ」
先ほどまで先導していた青い光はもうどこにもない。それでも蓮は進む方向を失ったとは思わなかった。
今は胡桃が前を歩いている。それならこのままついていけばいい。
そう思うことに何の違和感もなかった。胡桃は振り返らず、迷いのない足取りで校舎を進んでいく。この場所の構造を知っているのか、分かれ道へ差しかかっても足を止めることはない。右へ曲がり、階段を下り、また長い廊下を進む。
しばらく歩いたところで、胡桃がふと足を止めた。
「蓮」
左側へ続く廊下を指す。その先は薄暗く、何があるのかまでは見えない。
「ああ、わかった」
胡桃が先に進み、蓮もその後を追って暗がりへ足を踏み入れる。
その背後。二人が通り過ぎた廊下の片隅で、消えたはずの青い光が、ほんの一瞬だけ灯った。助けを求めるように。あるいは、もう一度蓮の注意を引こうとするように。
けれど蓮が振り返ることはなかった。
青い光は二度、三度と弱々しく瞬いたあと、今度こそ完全に闇の中へ消えていった。