ひとつ月が巡り、寒冬だった二月と比べて、幾分過ごしやすくなり始めた三月の上旬。今月に入ってから、年度末の試験に向けた勉強のため、月の頭からバイトを休み、家でも、学校でも、机に貼り付いている時間が長くなった。
「
昼食を売店で調達して、惣菜パンを片手に机に向かっていたところ、隣のクラスの
「時間割り一日ズレてた。あははっ」
「もぅ、ちゃんと確認しないとダメだよ」
「はーい。あっ、ジャージだけいいから。二人とも、頑張ってるね」
「もうすぐ試験だからな。最後の追い込みだ」
「僕達は、文字通り
「そっか、お互い大変だね。どう? 赤点回避できそう?」
「さーな。こればかりは、やってみないことには分からない。お前達は?」
「私達も、同じだよ」
「はい。
「ありがと」
ジャージを受け取った
「試験まで、あと一週間。無事に赤点回避して、みんな笑顔で進級できるといいね」
「うん! って、私が一番危ないんですけどね。あはは~」
自虐的に笑った
「でも、この試験を無事に突破できれば、また楽しい
「三年って、何か特別なイベントあんのー?」
「何って、もちろん、修学旅行だよ?」
「えっ......?」
手を止めた
「この学校の修学旅行って、三年だったの!?」
「えぇ~、知らなかったことに驚きなんだけど」
「いや、前の学校は、二年の三学期だったからさ。てっきり、今度の試験の後なのかなって......」
「そういえば、
「ああ、同じ思い違いしてた。うちは、進学校だったから」
三年へ進級すると同時に、スポーツ推薦枠以外の生徒は即受験モードに切り替わる。だから、修学旅行も二年に予定が組み込まれていた。まぁ、仮に向こうに残っていたところで参加してなかっただろうけど。
「そうそう、授業に出なくても一切お咎めなしの学業免除の特待生が居たくらいだからねぇ」
「マジか。初耳だぞ」
「お前、知らなかったのかよ。かなり有名だったぜ? 全国模試は一年の頃から常に一桁で、頭に超が付くほどの天才ってね。確か、僕達と同学年の女子って話しだったはずだよ」
「全国一桁って......正に雲の上って感じで、ちょっと想像もつかないかな」
「
「あっ、予鈴鳴った。じゃあ行くね。
「家でいいからね」
「りょーかーい」
小さく手を振った
「ところでさ。修学旅行の行き先ってどこなんだろうね」
「例年通りですと、京都だそうですよ」
「京都~? 僕、中学ん時も京都だったよ」
「俺もだ。あと、奈良」
由緒正しい歴史のある寺、巨大な大仏、公園で鹿の群れを見たくらいしか記憶に残ってない。肩を壊して間もなかった時期だったってのもあったんだろうけど、特別想い出に残るような出来事は浮かんでこない。
「僕、ツレと一緒に土産物屋で買った木刀を振り回して、こっぴどく説教された思い出しかないんすけど......」
俺の学校にもいた。どこの学校にも同じような行動をするヤツは一定数いるようだ。
「
「私は、小学生の時の修学旅行が京都でしたので。今でも、忘れられない思い出がいっぱいです......」
いつも笑顔を絶やさない
「もしかして、迷子になってたりしてね」
「な、なぜ、それを!」
「当たってるのかよ。けど、なんとなく想像できるな。気づくと、ひとりはぐれてそうだ」
「うぅっ、当たりです......お恥ずかしい限りで。あはは~」
「アハハ! なんか、
少し恥ずかしそうに笑うと、いつもの表情に戻った。
「でも、とても大切な思い出で、特別な場所です。お二人は、そういった場所や思い出はありますか?」
――思い出深い場所、か。
この時、ふと頭に浮かんだのは、一面黄色に染まった綺麗な花畑。
いつの思い出だっただろうか。
* * *
「まだ続けんの?」
「ああ......」
時計は既に、午前0時を回っていた。
放課後、図書室とファミレスで、
そう本気で思ったのは、あの日、
病院で、姉妹たちの父親から衝撃的な話しを聞いたあと、自分に何か出来ることがないか考えながら家路を歩き、アパートに着くと、寒空の下、階段に座る人影があった。
「
「ん? 帰ってきたか。これを――」
俺を待っていた
「......気持ちだけ受け取って――」
「らいはからだ!」
チョコは、
「今回は、赤点回避できそうなのか?」
「分からん。だが、できる限りのことは全部やる。あいつら全員を笑顔で卒業させる。今は、それだけしか眼中にない」
「そうかよ。もうひとつ聞いていいか?」
「何だ?」
「お前自身は......?」
先日、
「言っただろ。今は、あいつら全員揃って笑顔で卒業させる、それ以外考えてないって。例え――」
――今回の試験で、俺の成績が一時的に落ちようともだ。
迷うことなく言ってのけた、あの言葉を聞いた時、俺の腹は決まった。
「お前は、付き合うことないぞ」
「コタツ使えよ、風邪でも引いたら元も子もないっての」
好意に甘え、隣の部屋に移動してコタツに入る。
天板には、筆記用具と参考書、問題集が雑に広げられていた。
「ほいよ」
「サンキュー......って、水かよ。カフェインじゃないのか?」
「寝ないと記憶は定着しないって、
「だな。やってたんだな、お前も」
「まーね。正直、自分で信じられないっての。僕が、本気で勉強してるなんてさ。たぶん今、人生で一番本気で取り組んでるよ」
「俺もだ」
「ははっ。どんな結果になってもさ。最後は、スカッと気分よく決めたいよね」
「同感だ」
その後、お互い一心不乱に勉強を続け、気がつくとコタツで眠っていた。
そんな日が、年度末試験の前日まで毎日のように続き、迎えた本番当日。自分の中では、今までで一番の手応えだった。
そして後日、緊張感を感じながら結果発表の時を迎えた。
出席番号順に結果が記された紙を受け取り、席に戻る。
今、間違いなく、人生で一番緊張している。
結果を見た次の瞬間、無意識に目を閉じていた。
――これで、もしもの時は大丈夫だ、後は......。
目を開ける。
「どうやら、無駄骨に終わったみたいで良かったね」
「ああ、そうだな。さて、戻るぞ」
踵を返し、教室へ戻る。
「ありがとうございました。私......初めて報われた気がします」
聞こえたのは、涙混じりの感謝の言葉だった。
* * *
「全員、無事に赤点回避したそうですよ」
診察中、姉妹たちの試験結果を、彼女たちの父親に伝える。
「そうかい。それは何よりだよ。どうやら、
相変わらずのポーカーフェイスを変えてやろうと、若干皮肉を込めて、試験結果の紙をデスクに置く。
「おかげさまで、平均を上回りました」
「......さて、なんのことかな」
――全く、白々しいセリフだ。
あの日、目の前に居る姉妹の父親から告げられたこと。
それは、年度末試験で誰かひとりでも赤点になれば、姉妹たちは転校になるという突拍子のない話し。
そして、その転校先は、知人が理事を務める東京の高校――光坂高校。
そう、俺と
なぜ、その話しを部外者の俺に伝えたのか。聞かされた時は、あまりにも唐突過ぎて頭が回らなかったが、今なら分かる。ちょっと考えてみれば誰でも分かる単純な理由だ。
もしもの時のための保険。
リスクを限りなく低くするため、知人のプロ家庭教師を付けると妥協案を提示したが拒まれてしまった、とも話していたから間違いないだろう。
「しかし、この短期間でよくここまで上げたね」
「俺ひとりの力じゃ到底無理でした。付き合ってくれた
「なるほど、感謝の気持ちを忘れないようにしなさい」
言われなくても、忘れることはない。
「あ、そうだ。
「なんだい?」
「伝えたいことがあるそうで、マンションの玄関前で待ってるそうです。ちょうど良いんじゃないですか?」
今日は、三月十四日。ホワイトデー。
デスクの上には、存在感のある紙袋が置かれている。俺も、
「じゃあ、これで――」
「待ちたまえ。まだ、話しは終わっていないよ」
椅子から上げた腰を降ろす。
「なんですか?」
「これを受付に提出するように」
渡されたのは、一枚の用紙。ざっと流し読む。
「整形外科?」
「うちには、腕の良い専門医が居てね。施術を受けてくるように。以降は、意見を仰いだ上で判断させてもらうよ。後ほど、こちらから連絡を入れる」
話しは終わったようだ。席を立ち、診察室を出て、言われたとおり受付へ用紙を提出し、一度外へ出て、
「お待たせしました。こちらへどうぞ――」
「あ、はい」
看護師の案内で、別の病棟へ移動。
向こうでも、リハビリは受けた。でも、肩は上がらないままだった。今さら、受け直して何になるのだろうか。
「い、イテぇです......」
「ふむ、なるほど。これは?」
「もっとイテぇっす......」
専門医による、激しい痛みの伴う施術を受けた後、ようやく帰宅の途につくことができた。
そして、その日の夜、電話が掛かってきた。
俺と
『そちらの校長から連絡を受けた。良くやった。
「ああ、伝えておく。まぁ、大変だったけどな。今日は、もう寝たい......」
向こうから、とても愉快そうな笑い声が聞こえた。
『ふむ、それで今後についてだが』
「そのことだけど――」
返事を言う前に、強引に割り込まれた。
『そう焦らず決めずともよい。ゆっくり時間をかけて考えるといい。では、またの』
「あ、おい、爺さん! 切りやがった......」
これでもかと大きなタメ息をつき、コタツのある部屋へ戻る。
「なんだってー?」
「良くやったってさ。あとは、どうするかゆっくり考えろって」
「返事しなかったの?」
「切られた」
コタツに入ろうとしたところで、また着信が入った。
ディスプレイに映し出されていたのは、
再び隣の部屋へ行き、応対。
「はい、
『夜分遅くにすまないね』
「いえ、それで何か?」
『今後についての話しだよ。詳しい話しは、次回の診察でさせてもらう。都合の良い日を教えてくれたまえ』
明日からバイトのため、直近の休みの日を伝える。
『では、その日にしよう』
「わかりました」
この後、応答はなく、しばらく無言が続いた。
通話が終わる感じがしない。こちらから切ってしまっていいのだろうか。完全にタイミングを失った。まるで地獄のような沈黙が続く。
「あの~......」
『前に進むという抽象的な言葉を、どう解釈するかな?』
「はあ?」
いったい何の話しだろうか、捉えどころがない。
『必ず後悔する日が訪れると忠告を受けてなお、なぜ、誤った道へと足を踏み入れようとするのだろうね』
ああ、分かった。五つ子の話しだ、これは。
何か仲違いが起きたのだろう。
どう思っているかなんてことは、俺には分からない。
ただ、実体験を元に言えることがあるとすれば、何かを変えようと、変わりたいと必死に足掻いている途中だったとしたら――。
「寛容と放任は別だと思いますよ」
『......実に興味深い見解だね。では、失礼するよ』
今度は、返事をする間もなく一方的に切られた。
またひとつタメ息をついて戻る。
「長かったね」
「ああ、ちょっとな。俺さ、カウンセラーにだけはならない」
「いや、僕も、お前に人生相談しようとは思わないけどさ。そう言えばさ。バレンタインのお返し何にしたの?」
三度目のタメ息をつき、用意したお返しを持ち、冷たい北風が吹く夜空の下、