東京に着いた日の夜中。
今日厄介になることになった、
東京の中でも、自然が多く残るこの街は、一晩中光が消えることのない都心部と比べると静かで、月も、星もいくぶん綺麗に瞬いて見える。
「何を黄昏れておる?」
「人生を悟るには、まだ早いぞ」
「そんなんじゃねーよ」
「冗談だ」
相変わらず、惚けた爺さんだ。
「三日会わずば刮目せよ、とは言うが。見違えたの」
「また、軽口か?」
泊めてくれた爺さんには悪いけど、戯言に付き合ってやれる余裕は、今の俺にはない。
当初の目的だった、悩み事なんて忘れるくらいの壮大な旅は、忘れないほどの迷いを生む壮大な旅になった。
大地の果てで訪れた思わぬ出会い、明かされた事実。
そのことで、頭の中がいっぱいで。せっかく用意してくれた食事も、殆ど喉を通らなかった。体も、心も疲れているはずなのに眠気の欠片すら襲ってこないほど、現状を冷静に受け止められていないでいる。
「そう、卑屈に捉えるな。本心だ。半年前、旭高校へ送り出した頃とは、まるで別人だ。あの頃のお前は、世話の焼ける子どもだったからの」
「......今は、違うのか?」
「己に問いかけてみるとよい」
自分じゃよく分からない。俺は、変わったのだろうか。
もし、ただ、惰性のように生きていたあの頃と本当の意味で変わったのなら。それは、向こうでの新しい生活、新しい出会いが変えてくれたのだろう。
それでも、今も迷ってばかりだ。
「少なくとも、目を背けてはおらぬだろう。わしにも、お前のように思い悩み、迷い、苦しみ、葛藤する時期はあった」
「爺さんにも?」
「当然だ、人間だからの。時代の移り変わりと共に、学校の役割、教師の在り方も変わり。結局のところ、自分勝手な信念を押し付けていただけではないのか、とな」
爺さんの、教師としての信念。
教え子は全員、卒業させる。
爺さんを慕っている教師は多い、と初日に案内してくれた日本史の教師から話しを聞いた。
何より、退学処分寸前間際だった俺たちに、新しい学校生活を送るきっかけを作ってくれた人だ。感謝はあれど、その志が間違っているとは思えない。
「正しさとは、所詮は主観的なものだ。立場や状況によって大きく変わる曖昧なもの。時には、大切なものを守るために、守りたいものを傷つけてしまうことさえもある」
守るために傷つける。言葉が矛盾している。
だけど、なんとなく分かる気がする。
「わしが思い悩んだのは、教師としての経験と年を重ねてからだ。今のお前は、同じ年の頃のわしよりも遥かに成熟しておる。既に答えを持ち合わせておるのではないかの」
俺は、その問いかけに肯定も否定も出来なかった。
「さて、冷えてきたの。明日は、早いそうだな。寝ておかねば、身体に障るぞ」
手つかずのまま湯飲みが乗ったおぼんを持ち、灯りの消えた居間へと戻って行く背中を見送り、再び夜空を見上げて、改めて考える。
爺さんの背中からは、迷いは一切感じなかった。
「既に答えを持ち合わせている、か......」
見透かされていた、自分でも気づかなかった心の内を。
今、持ち合わせている答えが、正解か不正解かなんてことは分からない。
ただ、今日までの日々を振り返り、様々なカタチを知り、在り方を知り。ひとつだけ確信して言えることがあるとすれば、それは――。
* * *
「あんがとな、爺さん!」
「お世話になりました。
「またいつでも遊びに来るといい。向こうの校長によろしく伝えてくれ」
「はい。承りました」
挨拶をした二人が先に、玄関を出て行く。
靴紐を結び直し、荷物を担ぎ、俺も立ち上がる。
「答えは、出たようだな」
「ああ。正解なのかは分からないけど」
「今は分からずとも、いずれ分かる。わしもそうだった」
「そっか。任せていいか?」
「うむ、任せておけ。では、またの」
「お世話になりました」と、丁寧に頭を下げた俺に、爺さんは愉快そうに笑っていた。
背に受けた笑い声に押されるように出た外は、まだ薄暗く、若干の肌寒さを感じる。
「本当にいいのかい? ここから歩いて行ける距離だよね」
「バイトあるからな。始発に乗り過ごしたら間に合わない」
「そのことなら、僕が代わりに――」
「まぁ、本人がいいって言ってんだからさ。無理強いするのもあれっしょ」
「そう言うことだ。
「......そうか。じゃあ帰ろう」
行きと同じように高速バスに乗って、東京を離れた。
そして、多少の渋滞に捕まりながらも定刻通り、無事にターミナルに到着。
バス停で、
「おつかれ~」
「マジで疲れた......」
コンビニで調達した晩飯を置いて、テーブルに突っ伏す。
「さっき、五つ子ちゃんたちが来たよ」
「ああ......そうか、そういえば電気ついてたな」
疲労困憊で、それどころじゃなかった。
「ってことで、さっそく挨拶に行くぞ」
「はぁ?」
「だから、土産を渡しにだよ。さっき来たって言っただろ。お前が帰ってきたら渡しに行くって言っておいたんだよ」
「ズボラなクセして、変なところで気を回すなよ」
「きっちりしておかないとね。ほら、行くぞー」
晩飯はお預け、土産を渡すために隣の部屋の呼び鈴を鳴らす。
「いらっしゃいませ。そして、お久しぶりですっ」
「三日ぶりだな。旅行、どうだった?」
「いろいろあったけど楽しかった。それより上がって、もう出来てるから」
「何が?」
「晩ご飯ですよー。
アホ面の肩をガッチリ掴み、ドスを利かせて問い詰める。
「い、イタイっす......!」
「どういうことだ?」
「い、いや、それがさ。冗談交じり言ったら、この運びに。アハハ」
まったく、人をだしに使いやがって、コイツは。
「何してんの。早く上がりなさいよ」
奥から、エプロン姿の
「言われなくても分かってるわよ」
ひとつタメ息をつき、
「悪いな、材料費――」
「それは、僕が出しといたよ。臨時収入があったからね。おじゃしゃーすっ」
「ハァ、お邪魔します」
通された部屋のコタツの上には、まるで店で出てくるような色とりどりの料理が並んでいた。その料理に目を輝かして凝視している
「いらっしゃい。久しぶりだね」
「邪魔する。これ、土産。飯の後にでも食べてくれ」
「ありがとう。あっ、すごーい。まるごとの丸いアップルパイだ。こんなのあるんだね」
「映えるわね」
「僕からは、これ!」
存在感のあるビニール袋に入っていた物は、
「お二人とも、遠慮せず座ってくださいっ」
そして、気がつくと、暗闇の中に居た。
「ん? ここは......」
身体を起こす。ブランケットらしきものが肩から落ちた。どうやら、土産話の最中に眠ってしまったらしい。ポケットをまさぐり、スマホで時間を時刻を確認する。午前五時過ぎを表示していた。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
後ろから、
コタツを出て、答える。
「悪い、すぐ帰るから」
「気にしないで。騒がしかったから起こしちゃわないか心配だったけど、疲れてたみたいだね。ぐっすりだったよ」
「昨日、夜更かししたから」
「休んでてくれていいよ」
「いや、今からバイトなんだ」
「そうなんだね。じゃあ途中まで一緒に行こ」
一緒に姉妹の部屋を出て、スミレ色の朝焼けが照らす歩道を並んで歩く。
「もう春なのに、朝は寒いね」
「桜も咲き始めたのにな」
まだ五分咲きくらいだけど、ちらほらと薄紅色の小さな花びらを咲かせている。あと一週間も経てば、見頃になるだろう。
「撮影?」
「ううん。実は今日、映画の完成試写会の打ち合わせがあって。眠気覚ましの散歩」
「タマコちゃんのやつか?」
「違うから! 言わないでって言ったよねっ?」
「有名になる前に返しとかねーとな。つーか、あれ以外にも出演してたんだな。どんな内容なんだ?」
「青春学園モノだよ。私は、生徒役で――」
近日公開予定の初主演映画の話しをする
バイト先のパン屋の前で少し待ってもらって、焼きたてのパンを入れた袋を、
「迷惑かけた詫びと、餞別。朝飯にでも食べてくれ」
「いいの? ありがとっ。がんばってね、
「
「うん、がんばるよっ」
またね、と笑顔を見せた
バイト上がりの午後一時過ぎ、病院へ向かい歩いていると、買い物中の
「晩ご飯の買い物の帰りよ。それから」
「CD探してたんだ。
「レンタルショップ何軒か回って見たんだけど、ぜんぜん見つかんないわ」
「配信止まってるからな。動画サイトは?」
「カバーはあったんだけど、本人の音源はなかったんだ」
「やっぱり、全然違うのよねー」
姉妹の持つスマホと、俺のスマホはタイプが違う。パソコンがあれば、データを共有してやれるんだけど。残念ながら持ち合わせていない。何か協力してやれるとすれば。
「手伝うよ。荷物持ちくらいだけどな」
「いいの?」
「ありがと」
ひとつずつ持っていた買い物袋を預かり、近くの中古ショップを回る。何店舗か探してみたものの、結局、目当てのDCは見つからなかった。休憩がてら、ショッピングセンターに立ち寄り、席を立った
「手伝ってくれて、ありがとう。また今度、探してみるよ」
「そんなに気に入ったのか?」
「あんなに真っ直ぐ心に響く詩、初めて聴いたから。私も、あの詩みたいに素直な気持ちを言葉に出来たらなって」
誰かひとりを特別贔屓して応援はしてやれない。
けど、平等に応援してやることくらいは出来る。
「ちゃんと伝えられるといいな。がんばれ、
「うん、がんばってみる」
「お待たせ」
「いや。じゃあ帰るか」
「いいの? 用事あったんじゃないの?」
二人と会ったのは、普段の通り道じゃなかった。正直に話すと、気を遣わせてしまう。周囲を見て、目に止まった場所を指差す。
「じゃあ、寄ってもいいか?」
そこは、ショッピングセンター内に店舗を構える家電量販店。
「何を見るの?」
「イヤフォン」
「そう。あっ」
電子レンジ、オーブンレンジ、トースター、電気ポット、様々な調理器具が陳列され、中でもひときわ目を引いた家電は――。
「これって、炊飯器だよな? パンとか、ケーキも作れるのか」
「もっと多機能なのもあるわよ。カレー、スープ、煮込み料理もスイッチひとつで出来るわ」
「便利な世の中になったもんだな」
それ相応の対価がかかるらしいけど。一般的な炊飯器と比べると、値札の数字がおかしなことになっている。
「私は、性に合わないわ」
「そうなのか?」
「料理は、作ってる時が一番楽しいのよ。食べてくれる人の顔を思い浮かべながら作るの」
「
「それ、子どもの頃の話しって言ったでしょ」
「ふーん。いいと思うけどな、
「そこは、ちゃんと払いなさいよ」
冗談交じりに軽く笑う。でも、いいと思ったのは本心だった。
調理器具コーナーを離れ、オーディオ機器コーナーへ。イヤフォンを見る前に、
「スロットが付いてる。これなら聴けるんじゃないか?」
「いいかも。だけど」
「ラジカセって結構するのね。やっぱり、アルバイト探そうかしら。無事に進級できたことだし」
「
真剣な表情で話し合う、二人。
スマホを操作して、データを一時的に本体へコピーして、メモリーカードを取り出す。
「やるよ」
「えっ? でも――」
「データは本体にコピーしたから」
「じゃあ、ありがとう」
「今じゃなくてもよかったのに」
「今が、ちょうどいいんだ。ここで買えるからな」
広告の品と書かれたセール品の、新しいメモリーカードを買って、ショッピングセンターを後にする。話しながら帰り道を歩いていたところ、
「そういえば、イヤフォンは?」
「忘れてた」
「もう、何してるのよ。戻りましょ」
「いいって。いつでも買えるから」
そんなものは、いつでもどこでだって買える。元々目的ってわけでもなかったし。もう半分近くまで来ている。今さら戻っても、二度手間になるだけだ。
渋々ながらも納得してもらって、玄関の前で買い物袋を渡す。
「ありがと。助かったわ」
「これも大事にしまっておくから」
「ああ。手に入れたら、思う存分聴いてくれ。じゃあな」
「またね」
「ばいばい」
二人と別れて、一度部屋に戻る。
するとそこには、にわかには信じがたい光景が広がっていた。
なんと、あの
「病院行くか? 手遅れだろうけど」
「あなた失礼ですねぇ。僕だって、たまには掃除くらいするさ。つーか、羨まし過ぎだっての。五つ子ちゃんの部屋に泊まったあげく、朝帰りなんてさ。次は、僕の番だからな」
「寝てなかったんだ。仕方ないだろ」
厳密にいえば、コタツで突っ伏してただけだから一緒に寝ていたわけでもない。
「つーことで、旅の洗濯物ヨロシク! 端数は、お前持ちね」
「はぁ?」
「そんくらいしたって罰は当たらないだろ」
「わかったよ。ついでに病院寄ってくるから遅くなる」
「あいよ~」
休む間もなく、近所のコインランドリーへ行き、洗濯物を放り込む。仕上がりを待つ間に病院へ行こうと店を出た矢先、またしても姉妹のひとりと遭遇した。
「今、とても失礼なことを思いませんでしたか?」
「気のせいだ。昨日は、悪かったな。迷惑かけちまって」
「お疲れだったのでしょう。
気を回してくれたのか。確かに、これで済むなら安いな。
「
花を供え、線香を立て、姉妹の母親が眠る墓石の前で目を閉じ、手を合わせる。
「何をお話していたのですか?」
「学業成就」
「神様ではないのですが?」
「冗談だ。娘さんたちのお世話になってますって話しただけだ」
「それです。突然、挨拶をしたいだなんて、いったいどういう」
「まぁ、出来る時にしておこうと思っただけだよ。教師だったって言ってたけど。
「そうですね。最初はただ、お母さんのようになりたかっただけでした。でも、今は――」
手を前で組んだ
「私自身、先生を目指したい理由を見つけましたから」
「そっか」
「
「ん? そうだな。直近の目的は見つけたってところだな」
「目的ですか? 希望ではなく?」
「どっちも似たようなもんだろ。さて、行かないと。ありがとな」
「あ、いえ、こちらこそ。お母さんへのお花、ありがとうございました」
墓地の入り口で
受付を済ませ、診察室に入る。
デスクのパソコンから俺に視線を移した、主治医である姉妹の父親は、黙ったまま凝視してきた。居心地が大変悪い。息が詰まりそうだ。
「あの、何ですか?」
「今、一瞬、別人かのような錯覚を覚えたよ。どうやら、決めたようだね」
問いかけに頷く。
「正直、正しいかどうかは分かりません。だけど、だから――今を、後悔しない道を選ぼうと想います」
「そうかい。キミは、強いね。では、例の話しを進めさせてもらうよ」
病院からの帰り道。
商店街を歩いていると、目立つ緑色のリボンを風になびかせた女子が、前方から歩いてきた。そいつは、ウインドウショッピングをしているのか、ちゃんと前を見て歩いていない。
「ぶつかるぞ。
「わお、
「まったくだな。けど、今回は話しを聞いてやれる」
「えっと、何のことでしょうか?」
「今のお前、あの時と同じ顔してるからな」
「あ、あはは~......」
少し困ったような顔で、
そう、それは――あの時。
この町へ来た日。ここで、初めて出会った時と同じ笑顔。
まだ、後ろ髪が長かった頃と同じ、無理矢理作った笑顔だった。