俺に恋愛なんてあり得ない   作:詩野聡一郎

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休夜

 七瀬の休日は予想外のハードスケジュールだったようで、結局俺は辺りが暗くなるまで七瀬に付き合わされていた。

 七瀬が言っていたストーカーは、出てこない。

 むしろ、やってることで言えば間違いなく俺がストーカーだ。

 ただ、暗くなってしまうとストーカーは闇夜に紛れることができるから、ここからが本格的に危険なのかもしれない。

 とはいえ、さすがに疲れ果てた。

 目も鼻も耳も、街中の洗礼を受けてぐちゃぐちゃだ。

 およそまともな感覚が保てていない。

 

『ちょっと休ませてくれ』

 

 七瀬の返事を待つことなく、俺はベンチに腰掛けた。

 最初に七瀬と待ち合わせた噴水広場にある、円周上に並んだベンチの一つだ。

 ベンチというわりには狭くて不便だが、使うのはカップルか休憩中のビジネスマンが大半なので多くの人は困っていないと思う。

 困っているのは、俺みたいに人混みを嫌う人間だけだ。

 

「あー、空気がおいしー」

 

 ここまで暗くなると、この広場の人口密度は限りなくゼロに近づく。

 あくまでここは待ち合わせの場所であって、過ごす場所ではない。

 夜になれば、もう帰る人とディナーを楽しむ人、成人なら居酒屋に行く人に別れていく。

 必然的にここは街中の孤島になるわけで、俺はようやく落ち着いて深呼吸することができた。

 

「……あれ」

 

 スマホが鳴らない。七瀬からの連絡がない。

 機嫌を損ねてしまったのだろうか。

 でも、ここまで黙って付き合ったんだからさすがにこれぐらいは――

 

「ここ、いいですか?」

「あ、はい」

 

 スマホの画面を見たまま、習慣的な対応で自分の身体をベンチの端の方に寄せる。

 声の主は俺の配慮を無下にして、友達のような距離感で俺の隣に座った。

 存在の物理的圧迫感が半端ない。正直言って、居心地が悪くなった。

 七瀬からの連絡はない。困ったな、これじゃあ身動きが取れない。

 どうするか。とりあえず別の空いたベンチに行くべきか。

 

「――――ちょっと待て」

 

 意識と記憶が数秒巻き戻る。さっき聞こえたのは女性の声だった。

 それも、聞き覚えのある声。あれは――

 

「……おい」

「ん?」

「なんでいるんだよ」

 

 七瀬は、何食わぬ顔で俺の隣に座っていた。

 物理的な圧迫感に、精神的な圧迫感が乗算される。イコール、めんどくさい。

 

「なんでだろうなぁ。当ててみてよ」

「何言ってるんだお前」

「いいのかなー、そんな言葉遣いして」

「は?」

「変な噂立ったら困るでしょ?」

 

 めんどくさいプラス疲労イコール思考力の低下。

 もうこいつと話したくねーわ、という小学生みたいな単純思考しかできない。

 

「どうしてここにいらっしゃるんでしょうか」

 

 まあ、そこはさすがに男子学生。ちょっとぐらいは大人の真似事ができる。

 俺の精一杯の強がりを、七瀬は馬鹿にしてニコニコしているのがちょっと癪だが。

 

「どうしてだろうなぁ。当ててみてくださいますか?」

「……疲れたから」

「ぶっぶー」

 

 七瀬が両手の人差し指を交わらせて、バッテンマークを作る。

 その動きのせいで、七瀬の腕が俺の肩に当たりそうになる。

 

「もうちょっと離れてくれ」

 

 そう言って、つい俺は七瀬の肩を押して遠ざけてしまった。これは、俺のミス。

 肉体と精神の疲労は、一生懸命積み上げてきたものを崩して、底の方に残された原始的な反応を引き出してしまう。

 

「う、うん……」

 

 そして、これは俺のミスに対する採点。もちろんバッテンマーク。

 俺は、百点満点を取らなければいけないテストでまたミスをした。

 追々々々々々々々……何回目の追試だっけ?

 もう忘れたよ。何もかも。

 

「えっ、と…………」

「…………」

 

 俺は黙って俯いて、視界から七瀬を外す。

 もう、何も喋る気が起きない。

 

「せ、正解はスマホの充電が切れたから、でした~」

 

 七瀬は一生懸命腕を伸ばし、自分のスマホを無理矢理俺の視界に入れてくる。

 それは、スマホの契約内容がよくわからないと言う七瀬の頼みで、一緒にショップに行った時に買った機種と同じに見えた。

 もちろん、そんなのは見間違いに決まっているけれど。

 

「…………そう」

「ははは……」

 

 あまりに俺が無感動すぎるせいで、場を和ませようとする七瀬も虚ろな笑いを返すしかない。

 そもそも、目を合わせようともしない相手との雰囲気を良くしようというのが、無謀でしかないだろう。

 

「……あの、さ」

「何?」

「今日……楽しくなかった?」

「別に」

「そ、か……」

 

 顔を見なくても、その声音だけで七瀬が落ち込んでいるのがわかってしまう。

 付き合いの長さというのは、残酷だ。本人の意図に反して色んなものを伝え……色んなものを、伝えられてしまう。

 

「――まあ、少しは楽しかったよ」

 

 だから、俺はついこんなことを言ってしまう。

 

「え……本当に!?」

 

 こんな七瀬の明るい声が聞きたくて、また自分を追い詰めてしまう。

 

「まさか村上や滝川に会うなんて思わなかった……休日を友達と過ごすのは久しぶりだったよ」

「…………うん」

 

 そして、また七瀬を突き放してしまう。

 

「田中先生の新刊も手に入ったし。読むのが楽しみだ」

「…………」

「参考書は特に買わなかったけど……」

「…………」

「外でコーヒー飲むのも悪くないな。たまたまいた滝川と馬鹿話もできたし」

「…………」

「たまには出かけるのもいいな。気分転換になるし、楽しいし」

「…………」

 

 俺は、一度も七瀬に目を合わせることなく、発言を繰り返す。

 一生懸命やっていた大人の真似事である敬語は、俺に愛想を尽かしたのか、舌の上からみんないなくなってしまった。

 隣にいるはずの七瀬からは、温度を感じない。

 そもそも、まだそこに七瀬が存在しているのかも、もう俺にはわからない。

 だって、俺と七瀬は付き合いが短いから。

 七瀬のことなんて、俺にはよくわからなくて当然なんだ。

 

「でも、やっぱり一番は」

 

 なのに、これから俺は感情に任せて、馬鹿げたことを言おうとしている。

 

「――懐かしかったな。七瀬と出かけるのは」

「えっ!?」

 

 思ったことのある綺麗事が、嫌味なぐらいの存在感を持って俺の口から吐き出される。

 

「どこも懐かしかった」

「うん」

「一緒に良さげなラノベを発掘したし」

「うん」

「七瀬に合う参考書を探したし」

「うん」

「背伸びして苦いコーヒー飲みながら、お互い本を読んだりしたよな」

「うん!」

 

 どんどん弾んでいく七瀬の声に、俺の声まで弾んでしまいそうになる。

 でも、それは一時の舞い上がった感情でしかない。

 感情の時間は終わらせなければいけない。

 

「でも……それだけだ」

「え……」

「懐かしいだけ。今さら楽しめないよ」

「そん、な……」

 

 結局、俺はまた七瀬を傷つける。

 自分の感情に従って七瀬を励まして、自分の理性に従って七瀬を遠ざける。

 こんなにどっちつかずな、欲望まみれの俺が、俺は嫌いだ。

 だから、もういい加減に終わらせたい。何も悩まずに済むように。

 それが、俺の最後の欲望だ。

 

「寒いな……」

「俺も」

 

 俺の視界の端から、七瀬の足が斜め上へと消えていく。

 きっと七瀬は膝を折り、身体を丸めて耐えている。

 春先なのに、すっかり冷え込んできた。

 春といっても、太陽が沈めばまだ冬みたいなものだから。

 だけど、今度ばかりはそのおかげで頭が冷えてきた。

 あとは、俺の中の理性が働いてくれる。

 

「じゃあさ」

「――これ、返す」

 

 俺はリュックからカーディガンを取り出して、七瀬に向かって放り投げる。

 目は合わせない。

 いま目を合わせたら、感情が起きてしまいそうだから。

 

「嘘……」

「…………」

「まだ……あったの……」

 

 前に七瀬が家に来た時に、俺のカーディガンを間違えて着て帰ったことがあった。

 母親が買ってきたものだったから、たぶん女性物っぽくて区別がつかなかったんだろう。

 このカーディガンは、その代わりに七瀬が置いていってしまったものだ。

 今日、もし機会があれば返すつもりだった。

 結局のところ、俺もこういう機会が来るのを少しは期待していたというわけだ。

 

「これ……あったかいな……」

 

 あの頃はサイズが七瀬にピッタリ合っていたカーディガンは、今の七瀬には大きいに違いない。

 でも、何もないよりはマシだと思う。リュックの中にずっと入っていたから、そこまで冷たくなっていないだろうし。

 

「桜井くんは……?」

「…………」

「じ、じゃあ…………あ」

 

 何かを言いかけた七瀬の声は止まるに任せて、俺は自分のカーディガンを着込む。

 予想通り、それはまだ冷えていなかった。

 だから、七瀬も困ってはいないだろう。

 

「…………」

「…………」

 

 お互いに無言という、今の俺と七瀬にとっては限りなく無駄な時間。

 こんな時間は、早く終わらせるべきだ。

 

「――ぁ」

「あの、さ」

 

 言おうとした言葉は、七瀬に機先を制されたことで何だったのかわからなくなってしまった。

 だから、俺はノープランで七瀬の言葉の続きを待つことしかできない。

 

「手、繋ご?」

「いやだよ」

 

 七瀬の言葉は予想外だったが、その内容はシンプルでわかりやすく、俺は即座にそれを拒絶することができた。

 ただ、その言葉の意味はわからない。

 そんな恋人みたいなことをする意味がわからない。

 

「なんで? 友達が手を繋ぐのはおかしなことじゃないでしょ?」

「女の子同士なら、な」

 

 本当は男と女の間でもあり得る。ただ、俺と七瀬の間にはあり得ない。

 でも、そんな性別よりも先に、前提が破綻している。

 

「そもそも、友達じゃないからな」

「…………」

 

 七瀬は、もう返事をしない。

 そうしてくれた方がありがたい。

 自分の行動が引き起こした結果を、自分の思い込みに過ぎないと思い込めるから。

 

「でも……」

「…………」

「でも、昔は繋いでくれた。本当は嫌だったかもしれないけど……私がどんくさいからって」

 

 そんなことも、あったな。

 本当は人混みが大嫌いな俺が、人混みに呑まれそうな七瀬のために本心から利他的に行動できたわずかな時間。

 でも、それは昔の話だ。

 

「でも、それは昔の話だ」

 

 口に出したら、より重たい質量を伴って実感せざるを得ない。

 俺と七瀬は何も始まっていないし、最初から終わっていたんだっていうことを。

 全ての感情は過去の思い出の中で、ぐるりぐるりと空転しているだけだ。

 つまりこれはとっくに取り返しのつかなくなってる感情を、無意味に想起して自分を傷つけているだけの自傷行為ということ。

 七瀬はさっさと見切りをつけて先に進むべきで、俺はさっさとこの痛みを感じないようになるべきだということ。

 

「桜井くんは……私に何も言わせてくれないんだね」

「…………」

「いいよ…………もう。全部話すから」

「え……?」

 

 七瀬の言葉が、頭の中をぐるぐる回って、永遠にその意味がしみ込んでいかない。

 本当の本当に、その意味が理解できない。

 

「本当は、本当はね」

「…………」

「ストーカーなんて……嘘。全部、桜井くんと話すための口実だった」

「――――――――――――――――――――――――――――――は?」

 

 嘘? 嘘、嘘、嘘。

 何が? ストーカー? なんで? 俺と話す? 嘘?

 嘘が、嘘で。俺が。何を。

 

「…………あぁぁ」

「桜井くんと話せるなら、何でも良かった」

 

 この身体に溜まった意味不明のフラストレーションを叫び声に変換しようとしても、七瀬は再び同じ意味を明瞭に俺の脳に刻み付けてくる。

 だから、嫌でも意味を消化させられる。

 七瀬の欲望が俺の感情を歪めているという、その言葉の意味を。

 こんなことはあり得ないはずだ。

 だから、俺は想定外の問題に対するものとしては、およそ最悪の対応しかとることができない。

 

「………………なん、で……」

「桜井くんともう一度友達になりたかったから」

 

 かろうじて振り絞った俺の言葉を、七瀬はすぐに握りつぶしてしまう。

 俺は、続く言葉を、思い浮かべることが、できない、わずかも、思い、つかない。俺は。

 

「ふふっ、ちょっと楽しいかも」

「…………は?」

「桜井くんに、今日はじめて私の言葉が届いたから」

 

 届いてる、どころではない。突き刺さってるよ。滅多刺しだ。

 でも、むしろその上機嫌な様子に怒りが湧いてきた。

 

「…………ふざけるなよ」

「…………」

「約束しただろ。守れよ、約束」

 

 結局のところ、俺を突き動かしてくれるのは邪悪な感情だ。

 嫌われたって良い。憎まれたって良い。

 だから、この感情でねじ伏せる。

 

「うん、したね。でも、なかったことにする。約束なんて最初からなかった」

「――――は?」

 

 七瀬は、最悪のことを言った。

 全ての前提を覆す、俺にとって最悪の手を使ってきた。

 怒りの矛先が、七瀬の言葉から逸れて、七瀬自身に向かう。

 俺は、ついに隣にいる七瀬を見る。睨みつけてしまう。

 

「あはは、やっとこっち見た~」

「は?」

「やっぱり目と目を合わせて話すのが一番気持ちが通じるよね」

「は?」

 

 俺の目に映るのは、この期に及んで暢気に笑う七瀬の姿。

 許せない。七瀬を殴り飛ばしたくさえなってくる。

 あれだけ仲良かった七瀬に対する、暴力性が止まらない。

 でも、まだ、かろうじて、理性が手綱を握ってくれている。

 だから、まだ大丈夫だ。

 

「お前の頼みを聞いてやっただろ」

「そうだね」

「お前のダイエットに付き合って、髪型やメイクの研究を手伝ってやって、勉強だって教えてやった」

「感謝してる」

「なら、約束を守れよ。俺からの頼みぐらい、聞くのが筋ってもんだろ」

 

 こんな恩着せがましい暴論なんて、本当は迷惑でしかない。そんなことはわかってる。

 わかっていても、言葉が口を衝いて止まらないだけの自分勝手な自己満足だ。

 言いたいだけ。言ってやりたいだけ。

 それで脅迫紛いの言動に至るのだから、手がつけられない。

 

「守らない。私が嫌だから」

「…………じゃあ、返せよ」

「なにを?」

「そのカーディガン、返せ」

 

 脅迫が通じなければ、報酬の剥奪をチラつかせるなんて、小学生のする行為だ。

 そう、俺は所詮その程度の人間。

 自己嫌悪のループで何もかも吐きそうになる。

 

「嫌だ。これは返さない。桜井くんから渡された、私のものだから」

 

 でも、七瀬には通じない。

 さっきから七瀬も小学生みたいなことを言っているのに、圧倒的に敵わない。

 俺の言葉は七瀬に届かない。

 

「……最低だぞ」

「なにが?」

「何もかも受け取るだけ受け取って、自分だけ利益を享受して……それで何も返さないなんて、最低の人間のすることだ」

「――――そう、最低の人間なんだよ。私」

 

 理性は手綱を離した。

 挑発するような物言いに俺の手は素早く反応して、七瀬の胸倉を掴み上げていた。

 高そうなリブニットの形が歪む。

 その延長線上にブラジャーに触れた気もしたが、欠片も興奮できなかった。

 本当は、初動で七瀬の顔を殴ろうとしていた。

 でも、怒りとは別の感情が俺の手元を狂わせた。

 俺の中に欠片ほどしか残っていないはずの、七瀬への情が、理性よりも強い力で俺の腕を縛りつけていた。

 

「ふざけるなよ、お前!」

「……」

「何もかも叶っただろ! たくさんの友達がいるだろ! 人生で一番今が幸せなんじゃないのかよ!」

「……」

「ここがお前の人生の最高点だ! これ以上を望むなよ! 俺を……お前の強欲に付き合わせないでくれ!!」

 

 どうせこんなものは相手の良心に依存したお願いでしかない。

 七瀬が聞く耳を持たなければ、全く意味のない言葉なんだ。

 

「――――じゃあさ」

 

 七瀬の手が、今まで見たことのないような速度で俺の胸元に差し込まれ、俺の胸倉を掴み上げた。

 生まれてはじめての出来事に、ただただ全身の力が抜けてしまい、俺の指先は七瀬の胸倉から離れた。

 立場が完全に入れ替わってしまった。

 その気になれば拒絶できるはずなのに、俺の感情は俺の身体を動かしてはくれない。

 

「じゃあ…………どうしてその中に桜井くんはいないの?」

「……」

「どうして桜井くんは私の友達じゃないのかって聞いてるの!!」

 

 七瀬の顔が泣きそうに歪んでから、それをかき消すように怒りの表情に変わった。

 胸倉から突き飛ばされるような力を受けるが、直後に引き寄せる強い力が働いて、体勢を崩して逃げるということができない。

 

「別に…………どっちでもよかった」

「……え」

「桜井くんが真面目な顔で言うから……いつもみたいに、ああそれが一番良い正しいことなのかなと思っただけで……私は、どっちでもよかったの」

「何が……?」

「桜井くんのために約束しただけ。あの頃の私はもう、桜井くん以外に友達ができなくたって良いやって思ってた」

「は、え……お前……え?」

 

 もう、何が本当なのかわからない。

 あれは、俺の一方的な約束だったのか?

 なら俺は、何のために頑張ってたんだ?

 俺はこれから……何を頼りに考えていけばいいんだ?

 

「なんで……そんな、話が違う」

「違うよ。だって、たくさん友達が欲しいって話してから一年経ったんだもん。願いだって変わるよ」

 

 この一年は、俺と七瀬が離れていた一年を意味しない。

 俺と、七瀬が共に過ごした一年だ。

 北雪学園に入学してから、一年かけて俺と七瀬は変わったんだと思っていた。

 それも、はじめから違っていたんだ。

 俺が中学で停滞している間も、七瀬は変わっていた。

 それが真実。でも、ここで退くわけにはいかない。

 

「いや……でも……」

「なに?」

「でも、もう今の七瀬にはたくさんの友達がいる。七瀬にとっても大切な友達が、一人じゃなくてたくさん」

「うん」

「だったら……だったらさぁ。もう答えは決まってるだろ」

「そう、だね」

 

 よかった。やっとわかって――

 

「桜井くんのために、全部諦めるよ」

「――――は?」

「だって、一番の友達の桜井くんともう話せないなら、どれだけ友達がいたって意味ないもん」

「――――え?」

 

 七瀬の顔が歪んで……その瞳から、涙が流れ落ちる。

 それはすごく悲しそうで、すごく辛そうで、言葉にしても足りないぐらいの表情で――あれだけ怒りをぶつけた俺ですら、慰めてあげたいと思ってしまう。

 

「それはだめだ、それはだめだろ」

「…………どうして?」

「だって、それはくだらないことで……俺一人を助けるために、百人の命を犠牲にするようなものだ」

「もう、いいの」

 

 そう言って、七瀬は諦めたように笑う。

 はじめて見たけど、想像通りだった。

 こんな顔を見たくはないと思ったから、俺は七瀬の夢を応援し続けていたんだ。

 

「だって、みんな私のこと見てくれなかった。私を見つけてくれたのは、桜井くんだけだった。だから」

「――――――――」

「だから、全部なかったことにする」

 

 でも、今は違うだろ。

 

「でも、今は違うだろ」

「…………何が?」

「七瀬が言ってるみんなは、昔のみんなだ。今のみんなは――お前の友達は、お前を見つけてるよ」

「でも……でも、桜井くんが見つけてくれたのには変わりないじゃん!」

 

 昔はな。

 

「昔はな。今は、見落としてる」

「…………なんで」

「お前のことなんて、見えないよ。俺は」

「なんで、そんなこと言うの……?」

 

 俺も変わってしまったからな。

 

「さあな。最初から見えてなかったんじゃないのか」

「え……」

「七瀬の変化にも気づけてなかったし、ただ自分のやってることに酔ってたんだろ……いじめられてる奴に優しくしてやってるな、俺って」

「そんな……の……うそ、やだ…………いやああああああ!!」

 

 七瀬の叫び声に、母さんの叫び声がダブって聞こえた。

 そうか――俺は、また一つ呪いを抱えることになったんだな。

 

「――信じない! 私は信じないから!」

 

 怒り任せに地面に叩きつけられている靴が可哀想だ。

 勝手にしろよ。どうせすぐにこんな醜い奴のことは信じられなくなる。

 

「桜井くんが私のことを見落とすなら、大食いして! 太って! 髪の毛の手入れもやめてブサイクになってやる!」

 

 暖簾に腕押しって知ってるか? いや、糠に釘の方が身近でわかってくれるかな。

 俺が糠で、お前が釘だ。

 

「みっともなくなって、いじめられて、また……また桜井くんが面倒を見なきゃいけなくなるまでダメになってやる!」

 

 そんなの、損得を計算できない馬鹿のすることだろ。

 お前は昔から数学苦手だったよな。

 

「そんなことしたって、何も変わらないよ。今の俺と七瀬は、昔と違うんだから」

「なん、で…………」

 

 だから、そんなに悲しそうな顔をしないで欲しい。

 それが全部演技だったら、もっといいな。

 俺一人が苦しむだけで済むんだから。

 

「なんで? 全部なかったことにすればさぁ……最初の最初まで巻き戻してしまえば、私と桜井くんはまた楽しく遊べるんじゃないの?」

 

 映画みたいなことを言うなよ。これは現実だ。

 巻き戻しも早送りもないんだよ。

 この先に待ち構えてるものを、一倍速で受け止めていくしかないんだ。

 

「全部が全部、なかったことにはならない。だって今まさに、俺たちは喧嘩してる」

「――」

「この喧嘩は、なかったことにできないだろ。俺も、七瀬も、絶対に忘れることなんてできやしない」

 

 だから絶対に忘れるなよ。俺が最低な人間であることを。

 もうお前の人生に関わる資格がない人間だってことを。

 

「桜井くんの言ってること…………私には難しすぎて、よくわからないよ……」

 

 俺の言ってることなんて理解してくれなくていい。

 俺の言ってることなんて理解できないって、理解してくれ。

 

「でも……桜井くんが私の手の届かないところに行っちゃったっていうことだけは、よくわかった」

 

 違う。お前が俺の手の届かないところに行ったんだ。

 でも、言わない。

 彼女がベンチから立ち上がるのを、俺は止めない。

 

「今まで迷惑をかけてきて、ごめんなさい。そして――――さようなら」

 

 冷たい風が吹く。彼女の声も、足音も、もう聞こえない。

 俺はたった一人残されて、こんなところまで落ちぶれてしまった。

 

「さようなら――永遠に、な」

 

 彼女が去ってしばらくしてから、俺もベンチから立ち上がる。

 もう、カーディガンは必要なかった。

 身も心も、冷え切ってしまったから。

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