俺に恋愛なんてあり得ない   作:詩野聡一郎

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桜井 / bohemian rhapsody

 

 看守に見張られる囚人のような気分で食事を終えた俺は、七瀬の勧めるまま湯船に浸かった。

 一人だとすぐにシャワーで済ませてしまっていたから、湯船に浸かるのは本当に久しぶりだった。

 おかげさまで、三回ぐらいはウトウトと眠りこけそうになったぐらいだ。

 

「はぁ…………」

 

 そして今は、何故か着替えを用意して来ていた七瀬が風呂からあがってくるのを、自室のベッドに座りながら待っている。

 散々世話になった手前、風呂に入りたいと言う七瀬を拒否しきれずに押し切られてしまったが、これが終わったらすぐに帰って欲しい。

 そろそろ、七瀬家の門限も近かった気がするし。

 

「――あー、気持ち良かった」

 

 風呂を終えた七瀬は、まだ少し濡れたままの髪を揺らしながら、さも当然のように俺の近くに座ってくる。

 同じシャンプーとボディソープを使っているはずなのに、ホルモンバランスが異なるせいなのか、何だか自分とは違った匂いがした。

 ただ、どうしても電車で香水の強い人が隣に座ってきた時のような気分になってきてしまうし、何よりこの距離感で座るのは七瀬と喧嘩した日のことを思い出してしまい、強烈な閉塞感が拭えない。

 

「あのさ」

「んー?」

「もうちょっと離れてくれないか」

 

 前みたいに七瀬を物理的に突き放さないように注意しながら、なるべく穏便に言葉で交渉を仕掛ける。

 さすがに間違いだらけの人生でも、俺だって少しは学習している。

 

「うーん、しょうがないなぁ」

 

 やれやれといった雰囲気を出しながら、半人分だけ離れる七瀬に少しイラっとする。

 鼻が曲がりすぎて頭がおかしくなり、気の迷いが起きそうなので、お願いだから一番遠いところまで離れて欲しかった。

 でも、言わない。変に喧嘩をしたら、さっさと帰ってくれないかもしれないから。

 

「あのさ、そろそろ門限――」

「あ! あれってこの前の?」

 

 家法を根拠に発言しようとした俺の主張は、明後日の方向に向けられた異議で却下されてしまった。

 七瀬の目と鼻の先には、七瀬が忘れていったカーディガンが雪夜に押し返されたまま、未だに吊るされている。

 なんだか、本当に不吉な巡り合わせだ。

 

「そう。ちょうどいいから、今日持って帰ってくれ」

「あはは」

 

 七瀬は、俺が期待したような明確な答えを返してくれなかった。

 でもまあ、その曖昧な笑い声は、了承であってくれたらいいなと思う。

 さすがに、俺の手で処分するのはどうしても抵抗があって、できそうになかったから。

 

「あとさ」

「うん」

「そこの制服だけど」

 

 ふと、昨日あった瀬戸とのやり取りが頭に浮かんできた。

 だから、そのままカーディガンの隣にある中学の制服を指さす。

 

「あー。懐かしいね」

「ボタン、捨てたよな?」

 

 たったそれだけの言葉で、七瀬は言いたいことを汲み取ってくれる。

 

「え、お家にまだあるよ?」

「は…………?」

 

 たったそれだけの言葉で、俺は何もかもがわからなくなってしまう。

 

「いや、普通は捨ててるもんだろ」

「え、なんで?」

「いや……自分勝手に縁切ったり、喧嘩だって二回もしたしさ」

「だから?」

 

 まるで意味がわからないという七瀬の様子に、やっぱり少しイラっとしてしまう。

 

「そんな最低な人間の持ち物なんて、すぐに捨ててしまうもんじゃないのか?」

「…………ふふ」

 

 七瀬の曖昧な微笑みに、これまた少しイラっとしてしまう。

 

「桜井くんはずるいなー」

「はぁ……?」

「だってそれを認めちゃったら、私が勝負に負けたことになっちゃうでしょ?」

 

 その言葉で、自分が意図せず「最低な人間」という表現をしていたことに、ようやく気が付いた。

 どうやら、勝負にこだわっている七瀬はこの表現では回答不可能らしい。

 

「……じゃあ、言葉を変える」

「うん」

「自分勝手に縁を切ってきて、散々喧嘩した相手にまつわる物なんて、持ってるだけで嫌になるから捨てるもんじゃないのか?」

「うーん……」

 

 七瀬は、悩むような唸り声を出す。

 さっきとほとんど内容が変わっていないこの質問のどこに悩む部分があるのかは、少し考えてみてもよくわからなかった。

 

「それだと、そのカーディガンをとっくに捨てちゃってることになるよね」

「……なるほど」

 

 確かに、それは理に適っている。

 七瀬は日曜日に俺と喧嘩してから、再び喧嘩した金曜日までの五日間、カーディガンを捨てていなかった。

 それはその通りなんだけど、でも、やっぱりよくわからない。

 

「だけど、俺に“捨てろ”って突き返したよな?」

「え?」

「……え?」

 

 え? どうしてここで会話が噛み合わないんだ?

 お前が言ってた「回収しろ」って、俺に回収業者になれって意味じゃなかったのか?

 あのカーディガンは穢らわしいから俺の手で捨てろって、そういうことじゃないのか?

 

「うーむ、そう捉えられましたか……」

 

 やけに仰々しい表現を使われるが、そんな表現を使いたいのは俺の方だ。

 うーむ、こう捉えられませんか……。

 

「捨てろって意味じゃなかったのか?」

「……そうだね、うん。違う」

「それじゃあ、あれは何だったんだ?」

「ふふ。内緒」

「はぁ……?」

 

 ここまで話してどうして内緒にされるのかがわからないが、最近の七瀬はとにかくいじわるといじめを繰り返すので、これもその一環なんだろうと無理矢理納得する。

 そもそもボタンの話から逸れまくっていて、肝心要の話は全く不協和なままだけど、いじめっ子モードに入った七瀬には何を言っても無駄な気がしてきてしまう。

 まあ、こんな話はどうでもいい。発展させる必要も、こだわる必要もない。

 さっさと帰って欲しいし。

 

「そろそろ門限だよな?」

「……うん、そうだね」

 

 まだ冬にはなっていないから日が落ちるのは遅いけれど、さすがに窓から見える空には暗闇色が垂れてきている。

 スマホで念のため時間を確認するけど、やっぱり七瀬家の門限はもうすぐで間違いなかった。

 まあ、まだ走らなくても間に合うぐらいだけど、暗くなってきてるから早めに出ておいた方がいい。

 

「帰ろう。せめて送るよ」

 

 散々世話になったんだからこのぐらいは返さないと、貸し借りが釣り合う釣り合わない以前の問題だ。

 俺はベッドから立ち上がり、せめてもと七瀬のバッグを代わりに持って、部屋から出ようとする。

 なのに、後ろからは音も、温度も感じない。なんにも気配がない。

 振り返ると、七瀬はまだベッドの上に座ったままだった。

 

「どうした?」

 

 問いかけても、七瀬は立ち上がらない。

 立ち上がる気配もない。

 

「体調でも悪いのか?」

 

 気づかっても、七瀬は立ち上がらない。

 立ち上がる気配もない。

 

「なにか――」

「今日、ここに泊まらせて」

「――は?」

 

 わけがわからない。わけが、わからない。わからない。わけが。

 なんで? どうして? なんのために?

 

「いや…………なん、で…………?」

「お布団は、よければお母さんのを使わせてもらえると……」

 

 いや、そうじゃなくてさ。別にいいけど、そういうことじゃないだろ。

 

「いやいや、何でそうなるんだよ」

「だって、私は桜井くんの彼女さんでしょ?」

「…………何言ってるんだ……?」

 

 だからそれはただの噂で、実態も本質も何もない、懐疑の論理で簡単に消えてしまうような幻だろ。

 そんなの、理由になってないんだよ。

 

「桜井くんには一週間、毎日放課後に慰めてもらった恩があるしなー」

「は……? そんなのないだろって……!」

 

 それこそ根も葉もない勝手な噂で、むしろ俺は喧嘩で心無い言葉を言ったことでお前を一週間苦しめ続けたんじゃないのか?

 もしかして、俺に非を認めて譲歩しろって言うのか?

 だからといって、この家に泊まることに何の意味があるのか、さっぱりわからない。

 

「いや、急にそんなこと言ってもさ。お前の両親が」

「お父さんとお母さんにはもう言ってあるんだ」

「は……?」

「桜井くんの家に泊まるかもって、言ってある」

「いや、でも」

「いいよって言われたよ? だから大丈夫だよ」

 

 本当にわけがわからない。どういう倫理観なんだ。

 門限を設定してまで大事にしている娘を、男の家に泊まらせるだって?

 そんなのまるで一貫してない。何もかもが破綻してるだろ。

 

「桜井くん体調悪いみたいだから、しばらく私がお世話してあげないとね」

「……は? それってまるで」

「そう、これから一週間泊まらせてね」

「…………」

 

 さすがにとっくに気づいているが、七瀬はゴリ推せば何でも通せると思っている。

 前に喧嘩した時は何とか拒否できたのに、ここまで外堀を埋めてゴリゴリこられると、どうすればいいのかがわからない。

 

「でも、毎日同じ家から学園に行って、同じ家に帰るっていうのはマズくないか?」

「どうして?」

「いや……さすがに噂が冗談じゃなくなってくるだろ……」

「あー、そういうの気にするんだ?」

 

 そりゃあ、気にするに決まってる。

 むしろ、お前が気にしてなさすぎる。

 

「じゃあ、桜井くんが休めばいいんじゃない?」

「…………え?」

「前に言ってたでしょ。遅刻も欠席もしてないから少し休んでも大丈夫、みたいなこと」

 

 いや、そりゃ言ってたけどさ。

 それとこれとは話が違うだろ。

 

「さすがに一週間も休んだら、単位を落として進級できないかもしれないだろ」

「え、大丈夫だよ?」

「は……?」

「吉田先生が何とかしてくれるよ。愛美ちゃんと二人でボランティア、してくれてるでしょ?」

 

 くっそ、こんな時に限って善意が悪意に切り替わりやがる。

 学園の都合で七瀬に付き合ってたことで得られる恩恵によって、かえってこういう場面で逃げ道が塞がれるなんて、想像もしなかった。

 七瀬を力づくで追い出したいところだが、俺は七瀬に直接触れたくはない。

 だから、どうにか七瀬に出て行って欲しい。なのに、どうにもならない。

 どうすればいいんだ。

 

「これで、私の勝ちだね」

 

 七瀬が勝ち誇った表情をするので、俺の感情回路は勝手に怒りを生み出す。

 本当にこいつはめんどくさい奴だ。本当にしつこくて、本当に意地が悪い。

 本当に、俺の思い通りになってくれない。

 

 

 

 とはいえ、実際のところ、対抗する言葉が思いつかないわけではなかった。

 ただ、その言葉は俺には絶対に縁のないもので、永遠に使わないだろうなと思っていた。

 だけど、今回ばかりは使うしかない。

 もう、それしか可能性がない。

 

「紗花」

「…………え、うそ」

 

 二年ぶりに口をついた親愛の呼び名に、紗花はすぐに気づいてくれる。

 そして俺はその表情が望んだ形に変わる前に、その表情を望まぬ形に壊す。

 

「別れよう」

「…………え?」

「いや、そもそも付き合ってないんだけどさ」

 

 自分で言っていて、その意味不明さに、少し笑えてきてしまう。

 だけど、今の曖昧な俺たちを表すのにこれ以上の表現が、どうにも思い浮かばなかった。

 

 本当は、わかっていた。

 あれこれと言い訳をして、紗花に振り回されて困っているんだと思い込んでも、実際は紗花と関われることに自分が喜びを感じていたのは、なんとなくわかっていた。

 あの日、母さんから怨嗟の言葉をぶつけられていなければ、俺と紗花はこうなっていられたのかなと一度感じてしまうと、それを手放すのが怖くなってしまっていた。

 両天秤だなんて笑える。最初から、釣り合ってなんかいない。

 最初から傾き切っていて、それでも釣り合ってると一生懸命に思い込んでいただけだった。

 そんなだから、離れよう離れようとしても、ほんのわずかな刺激を受けただけで、紗花から離れられなくなってしまっていた。

 そして今の今まで、ずるずると流され続けていた。

 流され続けてしまっていた。

 

「だから、今すぐ帰ってくれ」

 

 今日、このまま紗花を家に泊めれば、きっと紗花はその言葉の通りに、一週間は俺の面倒を見てくれるんだと思う。

 だけど、そのたった一週間で、俺は確実にダメになる。

 一度ダメになってしまったら、きっと俺は何も決められず、本当に流されるままになってしまう。

 そして、いつかは利己性に染まり切ってしまって、この身体に流れる遺伝子と、悪い方向に発達済みの脳みそが俺を犯罪に走らせてしまうと思う。

 

 俺は、怖いんだ。幸福になることが、怖い。

 幸せを求めることが、幸せを味わってしまうことが、幸せに流されてしまうことが、怖くて怖くて怖くて……本当に怖くて仕方ない。

 幸せを求めて間違ってしまいそうで、幸せの味に酔って間違ってしまいそうで、幸せに流されて間違ってしまいそうで、何もかも誤ってしまいそうで、取り返しのつかないほどに謝ることになってしまいそうで、怖い。

 安寧が怖い。安心が怖い。快楽が怖い。享楽が怖い。

 だから、一生懸命抗っている。一生懸命、自分の欲望を抑え込んでいる。

 だから、プラスもマイナスもない、静謐が一番落ち着く。

 

 これ以上、紗花と近づきすぎると、たぶん俺は壊れてしまう。

 紗花の与えてくれる幸せに飲み込まれてしまって、何も抑えられなくなってしまって、壊れて壊れて壊れて壊れて、絶対に七瀬を不幸にしてしまう。

 そんなの、ダメだろ。紗花には、笑顔でいて欲しいんだ。

 紗花には、絶対に幸せになって欲しい。

 そこに、俺はいない。俺なんかがいるはずない。

 

「…………勝負は?」

「え?」

「勝負。勝負、まだついてない……でしょ?」

「……ああ」

 

 そんなものも、あったな。

 

「俺の負けだよ。はじめから」

「…………」

 

 心の中で、紗花に「最低な奴」だと何度毒づいたかわからない。

 そもそも、勝負を始めた時から「最低な奴」だと思っていた。

 だから、そんな勝負は最初から俺の負けに決まってる。

 やっぱり俺たちは、何もかも始まっちゃいない。

 

「これで……もうこれで終わりだ」

「…………でも、送り迎え……しなきゃ……」

「ああ、そのぐらいはするから安心してくれ」

 

 遠くから、だけどな。

 まあ、そんな細かいことをわざわざ言う必要もない。

 どうせ明日になればわかることだ。

 

「そ、か…………」

「…………」

「私……負けちゃったんだな……」

「……は?」

 

 結局のところ、俺と紗花の行き着く先は言語不共有からくる相互不理解のようだ。

 紗花はついさっき「勝ち」と言ったのに、次は「勝負がついてない」となり、俺が「負けた」と認めれば、今度は紗花が「負けた」と言い出す。

 言葉も気持ちも何もかもが地滑りしていて、一緒に共通認識の御山を作り上げるという共同作業が全くできない。

 こんな俺たちに恋愛なんて、到底あり得そうにない。

 

「私、これでも頑張ってみたんだよ? 色んな本を真似してみて」

「…………」

「お弁当だって、毎日作って…………」

「…………ごめん」

 

 紗花が泣きそうな目をするので、思わず目を伏せてしまう。

 母さんがいなくなって思い知ったことで一番大きかったのは、食事だった。

 部屋はちょっとぐらい埃っぽかったり散らかっていてもいいし、洗濯物はちょっと溜まっていようが乾き切ってなかろうが案外なんとかなる。

 でも、食事だけはどうにもならない。これだけは、生存活動に直結している。

 俺も自炊をしてみようと散々足掻いてはみたが、どうにもこうにも続かなかった。

 本当は、紗花にもらった弁当を食べるたびに、少しだけ涙腺が緩んでしまっていた。

 ずっとずっと続いて欲しいと思っていたわかりやすい幸せの形が、そこにあったから。

 だから……紗花が毎日どんな想いで、どれだけの手間をかけてあれを用意してくれたのかと考えると、心臓が震えて膝から崩れ落ちそうになる。

 結局、俺はその幸せを受け取り続けるだけの、無遠慮な勇気を持てなかったみたいだ。

 これが、俺の幸せの最高到達点ってこと。

 

「今までありがとう、紗花」

「…………なん、で……」

「紗花と一緒にいられて、少し、幸せだった」

「酷いよ……こんな時になってさぁ…………」

「もう、俺なんかに紗花の時間を使わないでくれ」

「……ずるいよ…………」

「俺に構わず、紗花は紗花の人生を生きて欲しい」

「そうやって名前で呼んだら私が言うこと聞くと思ってるんでしょ……?」

 

 別にそんなこと思ってない。これは、ただの俺の自分勝手な自己満足だ。

 思ってないけど、それで俺のことを見損なってもらえるなら、否定する気もない。

 

「…………」

「…………なんで否定してくれないの……?」

「…………」

「何か、言ってよ……」

「…………」

「桜井くんは……そんな人じゃないよね……?」

「…………」

「ねぇ……」

「…………」

「お願いだから…………」

「…………」

「……お願い…………」

「…………」

「お願い……します…………」

「…………」

「ダメ…………?」

「…………」

「これまで、わがまま言い過ぎちゃった……?」

「…………」

「お願い……これっきりにするから……」

「…………」

「もう、わがまま言わないから……お願い……」

「…………」

「ねぇ……」

「…………」

「…………」

「…………」

「……ねぇ」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………何も、言ってくれないんだね……」

「…………」

「…………」

 

 ギシリ、とベッドの音が響いた。

 それは、普段聞き慣れているはずなのに、今日ばかりは知らない異国の楽器のように、なんだか遠くて奇妙な響きに感じられた。

 床のフローリングと、人の足が擦れる音が、近づいてくる。

 

「ねえ、友一」

「――――え」

 

 名前を呼ばれたかと思うと、視界は見慣れない布で覆われていた。

 それが、さっきまで見ていた紗花の着替えなのだと理解するのには、三十秒はかかった気がする。

 俺の顔はどうやら紗花のうなじから背中側に向けられているようで、そこからは酩酊しそうなぐらいに女の子の香りがして、眩暈がしそうになる。

 でも、しそうになるだけで、してくれない。だから、嫌でも現状を認識してしまう。

 俺は、紗花に抱き着かれていた。

 

「これでも、ダメかな?」

 

 手を触れたりとか、そういったことはあったけれど、こんなにきちんと紗花の身体に触れることは初めてだった。

 その身体はびっくりするぐらいに柔らかくて、触れているところが何だかやけに熱く敏感になって、心地よさすら感じてしまって、このまま離したくない、もっと触れていたいとすら、思ってしまう。

 でも、そんなことをしてはいけないから、俺は意識と身体を硬直させることで何とかその場を切り抜けようとする。

 

「…………………………だめかぁ」

 

 諦めたような言葉と共に、紗花の力が抜ける。

 ようやく終わるのかと、少しだけ気が抜けた。

 

「――ねぇ、友一」

 

 気を抜いてるところに、紗花がもう一度力を入れてくる。

 さっきよりも強く。そのせいで、心臓の音がバクバクとうるさくなって、呼吸も満足にできない。

 

「私、本当にすごく頑張った」

 

 そうだろうな。

 

「友一と仲直りしたくて、すごく頑張った」

 

 ごめん。

 

「でも……すごく頑張ったけど、ダメだった」

 

 ごめん。

 

「時間切れ、だね」

 

 時間切れ……?

 

「私……友一の呪いを解けなかった」

「え――――――――――――――」

 

 俺は、紗花がずっと小学生みたいな勝負にこだわってるんだと思ってた。

 それすらも……違っていたのか……「ストーカーになる」って……「負け」って……そういうことだったのか…………。

 

 紗花は、ずっと俺の呪いを解こうと、優しくしてくれてたんだな。

 俺が幸せを感じられるように。俺が愛情を信じられるように。

 俺が、もう一度立ち上がって胸を張れるように。

 

 そっか。紗花は、何もかもわかってたんだ。

 俺が女性の後に階段を上りたくないのも。

 俺がちゃんとしたご飯を食べたいのも。

 俺が本当は誰かに構って欲しいのも。

 俺が本当は優しくされたいのも。

 俺が、幸せじゃないのを。

 

 今さら、気づいたよ。

 何もかも俺のためにしてくれていたことに。

 俺なんかのためにさ。

 ずっとずっと、信じられなくて、想像できなくて、突っ張ってばかりだった。

 あんなに手を差し伸べてくれていたのに、何度も手を差し出してくれていたのに、掴めなかった。

 何もかもを、掴み損ねた。何もかもが、零れ落ちた。

 一度でも自惚れることができていたら、こうならなかったのかな。

 

 でも、そうならなかった。

 ならなかったんだ。

 

「今までありがとう、桜井くん」

 

 紗花の温もりが、俺の腕の中から抜けていった。

 それは、とん、とんと音を立てて遠ざかり、バタンという音と共に、ゼロになった。

 もう、この家には、俺一人しかいなかった。

 

「…………はは……」

 

 自然と、涙が流れていた。

 それを手で拭いながら、自分の服の胸の辺りが濡れていることに、気づいた。

 どうして濡れているのかは、考えるまでもなかった。

 そこには、さっきまで別の温もりがあったから。

 

「…………なんだよ……」

 

 意識を逸らそうにも、壁際で吊るされたままのカーディガンが、どうしても目に入ってしまう。

 それは、無様な俺のことを眺めて、嘲笑っているように見えた。

 やっと離れられたなってか? うるせーよ。偉そうにしやがってさ。

 

「…………紗花……」

 

 ずっと呼ばないようにしていたのに、呼んだ途端、何もかもが動き出してしまった。

 今になって少し実感が湧くなんて、もう何もかも手遅れなのに。

 わかっていたことだけど、少し、いやだいぶ、かなり、辛いな。

 どうして、気づいてしまったんだろう。

 こんなの、気づきたくはなかったのに。

 

「俺…………お前のこと、好きなのかもしれない…………」

 

 

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