晩秋
まだ雪は降っていないが、すっかり寒くなってきた。
世間では晩秋と言うらしいけれど、雪が降る土地ではそんな言葉は全然実感がない。これはもう冬だ。
何より、いつまでも暑いかと思えば急に寒くなったりと、ジェットコースターみたいな最近の気候では「秋」なんていうものが存在するのかすら怪しい。
古き良き日本の四季なんていうものは、俺にはさっぱり実感が湧かない。
俳句や短歌なんて見てもよくわからなくなるだろうし、あと百年もすれば季語もただの綺語になってしまいそうだな。
「おはよ」
朝の寒さに耐えながら歩いていると、声をかけられた。
厚着をした、少し伸びた茶髪の女子生徒が立っている。クラスメイトで隣の席の瀬戸愛美だ。
「おはよう」
とりあえず、朝の挨拶を返しておく。
でも、お互いに挨拶で相手の名前を言うことはなくなった。
別に示し合わせるわけでも待ち合わせるわけでもなく、たまたま時間が合えば、一緒に学園に向かうだけの関係。
何か用があれば話すこともあるけれど、何か用があることなんてそもそもほとんどない。
だから、ほとんどの場合はお互いに足音を鳴らして会話している。
まあ、その足音に意味なんてものは生まれないんだけど。
「桜井さ」
「え……」
今日は、珍しく言葉をかけられてしまった。
友達ですらない俺に、一体何の用だろうか。
「進路、どうすんの?」
「……ああ」
そういえば、先月あたりに進路希望調査があったな。
三年生になるのも目前のこの時期だから、誰もが嫌でも進路を意識させられる。
おかげさまで、最近はどこの教室でも進路進路とうるさいぐらいで、退路がまるでない。
みんな、これからの自分の人生に思いを馳せている。
みんな、これからの他人の人生に興味を持っている。
きっと瀬戸もそんなところなんだろう。
「さあ」
「さあ、って……なに?」
「わからないってこと」
「……どういう意味?」
「そのままだけど」
俺の進路希望調査は未だに終わっていない。
まあ、正確には適当に埋めた調査票を出したんだけど、それに伴う三者面談が終わっていない。
去年からズルズルと「家庭の事情」というカードで逃げ回ってこられたけど、さすがにこの時期ともなると学園側もそれだと困るらしい。
俺は三年生になる前に、必ず一回は三者面談をこなさなければいけないという状況に陥っていた。
去年からの担任である吉田は事情を知っているから、俺の家庭環境に理解があるのは救いだが、さすがに吉田が母さんの代わりに書類にサインしてくれるわけではない。
そのうち、吉田が母さんに連絡を取ってみてくれることになっている。
これに関しては、本当にありがたい限りだ。俺は母さんに連絡を取れる自信がない。
「桜井、大学行かないの?」
「なんで?」
「いや、いけるだけの学力あるでしょ?」
「さあ。勉強はしてるけど」
「じゃあ行きなよ」
「なんでだよ」
「南西なんてどう?」
南西、というのは地元にある国立南西大学のことだ。
昨今の市場原理に飲み込まれた大学事情により、ご多分に漏れず、南西大学も苦労しているらしい。
偏差値も悪くないし、それでは測れない実質的な教育も悪くないらしいけれど、経歴としてはそこまで強い力を持っていない。
地元にいる未来の学生はどんどん首都圏の有名大学に行ってしまうし、競争力を高めようとしても、資金繰りが上手くできずに結局はほどほどの現状維持に留まらざるを得ない。
本当に、全てにおいて世知辛い学歴社会だと思う。
「南西は、まずないかな」
「なんで? 国立じゃ嫌?」
「ははは、なんでだよ」
むしろ国立の方が学費は安いし、良いことしかないと思う。瀬戸は違うのかもしれないが。
まあ、俺みたいな家庭事情の奴は、金銭的な面でそもそも国公立しか選択肢がないので、その辺りはよくわからない。
「桜井、理系でしょ?」
「まあ、広義ではそうなるな」
「なにそれ」
瀬戸が笑う。そんなにおかしかったかな。
まあでも、勉強すればするほど理系文系という括りがよくわからなくなってくるんだからしょうがない。
数学の証明や確率とかはなんだか国語の問題みたいに感じるし、歴史や経済を紐解けば理科系技術の発展経緯は避けて通れない。
理系にも文系的な要素があって、文系にも理系的な要素がある。だから、自然科学と人文科学やら社会科学といった風に、観察対象を基準に分けた方が、個人的にはしっくりくる。
まあ、こんな言葉を知ってるのは、一応は俺も大学進学を意識して色々と調べてみたからだけど。
でも、調べただけで、未だに進路は決まってない。どうにも決め手がない。
「理系だったら、南西はいいんじゃないの?」
「なんで?」
「文系より偏差値高いって聞いたけど」
「ああ、そう」
偏差値で言われてもなぁ。
理系を選んだのは「文系を選ぶとあとで理転するときに苦労する」と散々脅されたからであって、別に理系をなんとしても選びたかったわけじゃない。
ただ、とりあえず人生の選択肢を広げておきたかっただけだ。北雪学園に入学したのもそう。
私立だと後で金が足りなくなるかもしれないから、公立で学費が安いから選んだだけだ。
まあ、あの後に母さんが家を出て行って金銭面は不安定になったから、結果的には正解だったかもしれない。
「瀬戸は?」
「え、私は――」
返答が面倒な時は、とりあえず相手に質問して逃げる、というのが俺の経験則。
「じゃあな」
「――あ、ちょっと!」
瀬戸が考え込んだ隙を見逃さず北雪学園に入り、さっさと階段を駆け上がってしまう。
とはいえ、さすがに寒いなか血管が縮こまった状態で、いきなり三階分を駆け上がるのは厳しい。
身体への負担が半端ない。どうしても、ぜぇはぁと、息が切れてしまう。
「桜井」
「え……ああ、滝川か」
「大丈夫か?」
息を切らしているせいで、滝川に心配されてしまったようだ。
滝川はオフシーズン間近で少し暇なのか、こうして俺をやたらと気にかけてくる。
三年生の夏大会が控えているだろうから、できれば放っておいて欲しいぐらいなんだけど。
優しくされると、自分が惨めな存在であると知覚してしまいそうだ。
「大丈夫、大丈夫」
「いや、でもさ」
「いいからいいから」
俺の肩を掴もうとでもしているのか、虚空を彷徨う滝川の手を無視して、A組に向かう。
すっかり一人で教室に向かうのが板についてきた。でもまあ、これが俺に相応しい末路かも。
「――――」
A組に向かう廊下、その突き当りで制服を着た男女が話しているのが見えた。
楽しそうに、はにかんで、いつまでも話題が尽きないといった風に話している。おそらくカップルなのだろう。
最近は毎朝この光景を見させられてるから、俺も慣れたもんだ。
早歩きで、さっさとA組に入ってしまう。
「あっ――――」
一瞬、息が漏れたかのような声とともに、女子生徒の方と目が合いそうになった気がした。
でもまあ、そんなのは何もかも気のせいだろうし、実際そうであったとしても何もかも気の迷いだろうから、目を逸らしてそのまま席に座ってしまう。
廊下側の列の、後ろから二番目。
結局、二年生の最後の最後までこの席は変わってくれなかった。
これはもはや呪いだな。
「ちょっと、桜井」
自分の席で、気分転換にゲームをして時間を潰そうとスマホを取り出したところで、思ったより足の速かったらしい瀬戸が追いついて話しかけてきた。
別に机を叩かなくても聞こえるよ。まだそんなに難聴じゃない。
「なに?」
「南西が嫌なのって、紗花の志望校だから?」
久しぶりに瀬戸の口から出たその名前に、少しだけ、動揺した。
でもまあ、だからといって別にそんなに困ることもない。
もう困るような間柄でもないし。
「違うよ」
「嘘でしょ」
「嘘じゃないって」
別にその人に限った話じゃなくて、もう知り合いのいる大学に行きたくないだけだ。
だから、俺の言ってることは嘘じゃない。
できれば進学するなら遠くの大学に行きたいけど、でもまあ、金銭的に無理かもしれないな。
だったら、就職するしかないかもしれない。
全ては母さん次第だ。望む望まないと関わらず、これが被扶養家族の辛いところだな。
「……ねぇ」
「なに?」
俺はゲームで忙しいんだけど、少しは気を使ってくれないんだろうか。
今はちょっと、ゲームをしていないと気分が悪くなりそうなんだけど。
「スマホ、変えたよね?」
「え…………まあ」
色もカバーも一緒なのに、よく気づいたな。
本当に気が付く奴だ。気は利かないけども。
「なんで?」
「……まあ、大学進学には金が必要だから、いい加減に安いのにしようかなと」
「さっき進路決まってないって言ってたじゃん」
「決まってないけど、大学にするかもしれないだろ?」
めんどくさいなぁ。別に嘘は言ってないんだから、放っておいてくれよ。
「前の機種」
「――――」
「紗花とお揃いだったよね?」
さあ。そんなことあったかな。
何にも覚えてない。何もかも忘れた。
「気のせいじゃないか?」
「いや、絶対そうだって」
「じゃあ、そうなんじゃないか」
「桜井!」
そんな風に語気を強められてもなぁ。
俺になにを忖度しろっていうんだよ。
「別にいいだろ、そんな話は」
「どうりで連絡つかないと思った」
「それは悪かったな」
「アプリ、消したでしょ」
「何のアプリ?」
「わかるでしょ? そのぐらい」
そんなこと言われてもなぁ。
主語を省かれたら何もわからないっての。
「まさかメールと電話番号も変えてないよね?」
「さあ。どうだろう」
「……うっわ、最悪」
「随分と口厳しいな」
「なんでそういうことするの?」
「いや、別に学園で話せるだろ」
電話もメールもメッセージアプリもなくたって、別に会って話せばいいだけの話。
スマホも携帯電話も公衆電話もない時代だって、人と人は連絡できていたんだから、できなくないだろう。
別に困らない。プライベートで連絡を取る必要も感じられないし。
「学園で話せない子だっているでしょ?」
「え、別にいないだろ。同じ学園生なんだし」
「……本気で言ってるの?」
「本気で言ってるよ」
なんだ? 何か間違ったこと言ったか?
何も間違ってないと思うんだけどな。
「あーっ、もう」
「…………」
「あんた、ほんとにめんどくさくなったよね」
「ははは。じゃあ、そうなんじゃないか」
まあ、元々こういう存在だったんだよ。俺は。
人間のフリをしている前までがおかしかっただけなんだ。
「もう知らないから」
「そうか」
瀬戸は俺に愛想が尽きてしまったようで、そのまま席に座る。
そして、少し経ってから、俺の後ろの席にも人の気配が生まれた。
後ろの席の人が、座ったようだ。
「はぁ…………」
ため息が一つ、こぼれる。
こんなところにいたら、一日中圧迫感に襲われて、溺れて息が詰まってしまう。
プリントが前から回ってくる時も、なるべく後ろを見ないようにしてるけど、時々わずかに指が触れてしまって、そのたびに最悪の気分になる。
厄介なのは、その最悪な気分とは逆に、触れた指先はやけに熱くなって気持ち良さすら感じてしまうことだ。
こんな自分が、本当に気持ち悪い。
やっぱり俺は、父親みたいになってしまうようだ。
「…………」
後ろの席の人は、半年ぐらい前からずっと同じ女子だった。
名前は七瀬紗花。学園のアイドルと言われていて、俺や瀬戸とは同じ中学だった。
髪の色は栗色で、今の髪型は嫌がらせみたいにストレートロング。そんなわけで、一度も目に入れたくない。
前はたくさん告白を受けていたらしいけど、今ではすっかりそんな話も聞かなくなった。
理由は明白で、きっとこの学園なら誰もが知っている。
さっきまで教室の前で楽しそうに談笑していたんだから、一目瞭然だ。
そう。
今の七瀬紗花には、交際相手――彼氏ができていた。