紗花に連れてこられたのは、前に瀬戸と二人で入ったことのあるイタリアンの店だった。
今日は運よく空いているようで、ゆったりとした四人テーブルに案内される。
紗花と食事を共にするなんていつぶりだろう。あの時はもう一緒に外食をする機会なんてないと思っていたのに、性悪な神様は一度だけチャンスを用意していてくれたらしい。
まあ、そんな神様は信用ならないから、仏様に他力本願しておく。
もう紗花と会わずに済みますよーに。もう紗花と会わずに済みますよーに。もう紗花と会わずに済みますよーに。
せっかく三回唱えたのに、目の奥で流れ星は降ってくれなかった。
どうやらこの世界だけじゃなくて、あの世界にもその世界にも俺は嫌われてしまっているらしい。
「あ……きたよ」
「ああ、そう」
全世界から寵愛を受ける紗花は俺という罪人を逃がさないつもりなのか、先んじて奥の席に座った俺の隣にわざわざ座ってきた。
普通こういう時は隣を荷物置き場にするもんなんだが、恵まれた家庭に生まれたこいつにはそんな一般常識はわからないらしい。
まあ、自分が牢屋の錠になるのが良いとわかっているのかもしれない。俺には触れられないからな。
「はい、桜井くん」
「ああ、うん」
店員に近いのは紗花の方。
だから、当然の帰結として、紗花が店員から料理を受け取って俺に渡してくる羽目になる。
頼んだのは、やっぱりトマトソースのパスタ。さっさと終わって欲しいからメニューもろくに見なかった。
「あ……………」
「…………はぁ」
最悪。指先が触れた。
体温と血流量が上がって病気になるだろ。ああ、俺を病気にして苦しめようって算段か?
まあ、そんなわけないか。お前は俺の気持ちなんて知らないんだから。
何より、お前はそんな奴じゃないもんな。それは俺がよくわかってる。
何もかもに悪意を見出してしまうなんていうのは、ただ俺が自分勝手に考えすぎてるだけだ。
「…………」
紗花は、自分の指先を見つめて止まったままだった。
なんだなんだ。穢らわしいものに触れてしまったなって?
だったらプリント回す時にもうちょっと指ズラしてくれないか? 触れなくてもいつも近くに温度を感じて嫌なんだけど。
「なんだよ」
「あっ、いや……なんでもない」
「これ、使うか?」
「いや、いい……」
差し出したのはアルコールを入れた持ち運び用スプレーだったけど、紗花には上手く伝わらなかったらしい。
あーまあ、俺の施しなんて受けたくないってことかも。穢らわしいもんな、俺なんてさ。
いい加減にいつまでも女々しくしてないで、男々しくあのカーディガンも捨てないとなぁ。
はっはっは、女々しいとか男々しいとか、よく考えたらこの現代社会でわけわかんねー表現だな。笑える。
まあいいや。思考ゲームなんてしていないで、さっさと食おう。
早く帰りたい。
「……桜井、くん」
「へ? はに?」
「思い出さない?」
「はにを?」
紗花が指さしているのは、トマトソースのパスタ。
俺のじゃなく、紗花が注文したやつだ。メニューを眺めながら五分間ぐらいは唸っていたのに、結局「同じので」になるんだからあんなのは時間の無駄だったと思う。
しかし、思い出すってなんだ? 何かあったっけ?
お揃いだね、ならまだわかるけどな。揃えたところで何の意味もねーけど。
二つのトマトソースパスタで挟んだところでオセロみたいに俺たちの関係がひっくり返るわけじゃないし。
「いや、いい……」
「はっそ」
ていうか人が食ってる時に話しかけるとかマナーがなってないだろ。
なんだこいつ。あの家庭に生まれてこの不良少女はヤバすぎるな。
食事中は喋んねーんだよ。そんなこともわかんないのか?
二度と話しかけないでくれ。
「桜井くん?」
「…………」
「こ、こうして一緒に食事するの久しぶりだね……」
「…………」
「あはは……」
「…………」
「…………はぁ」
ありきたりな世間話の後に失礼なため息をついて、紗花は食べ始める。
俺はというと、もうほとんど食べ終わってしまった。
帰りたいところだけど、一般常識というのは厄介なことで、食べ終わった人間だけがさっさと帰ることは許されていない。
何より、紗花を押しのけて席を立つということができそうにない。
最悪だ。本当に最悪。手前の席に座っていればよかった。
こんな時に限って自分の頭が悪くて本当の本当に嫌になる。
「……さて、と」
特にすることもないので、スマホを取り出してゲームに興じる。
その合間合間の目持ちぶさたなタイミングで、なんとはなしに紗花を眺めてみるけど、相変わらず小動物みたいに小さな口でパスタを食べるという遅延行為をしていた。
ああ、思い出すってそういうことか? お前が小動物なのを思い出して何の意味があるんだか。
自分はか弱いから気を遣えとでも言いたいのかよ。来世になっても御免だね。
「……どうしたの?」
「いや、別に……」
さっさと食べ終わって欲しいから、わざわざ中断して反応しないで欲しいんだけど。
でもまあ、一般常識とマナーに基づいて、一つだけ言っておかないといけないかな。
「まあ、しいて言うなら、ついてる」
「……え?」
「ほら」
テーブル脇に置かれたペーパーナプキンを二枚取って差し出すだけで、紗花は俺の意図を理解してくれた。
ただ、渡すときにまた指先が触れてしまったので、やっぱり俺の気持ちを理解してくれてはいないようだ。
紗花はそのままナプキンを一枚使って、ゆっくりと口元を拭いている。
冷静に考えると効率悪いなこれ。食べ終わってからにすればいいだろ。
ああ、そういえば瀬戸が言ってたっけ。トマトソースが口の周りについてると恥ずかしいだとかなんとか。
「……ありがとう。気づいてくれて」
「ついてると、恥ずかしいか?」
「え……うん、まあ……」
「悪い。あっち向いておくから」
「え!? いや……その……」
間接的に催促をしてしまって気を遣っているのか、否定の言葉を言おうとしていそうな紗花を無視して、逆側を向いてしまう。
でも、結局そこにはその役目を終えたメニュー表やよくわからない宣伝、アンケート用紙ぐらいしかないのだから、スマホでゲームをするぐらいしかやることはない。
最近はわりとどのゲームも良い感じに強くなってきた。この家庭状況で課金をする気になれないのが、製作会社には申し訳ないけれど。
「あの…………」
「…………」
「まだお腹、空いてない?」
「え、空いてないけど」
「ぴ、ピザとか……どう?」
「え? なんで?」
「……シェアしようよ。ね?」
「はぁ?」
なんで瀬戸みたいなこと言ってるんだ? お前って瀬戸より小食じゃなかったっけ?
彼氏ができてからというもの、輪をかけてわけわかんねーな、お前。男心がちょっとはわかったんじゃないのかよ。
あー、浜田ってあれでわりと大食漢なのかな。女性みたいに細かったんだけど。
それで、俺も食べ足りてないだろうってことか? 生憎と足りてるんだよなぁ。
「ね、奢るから」
「いらねーよ」
こんなところで奢られたら変に負い目を感じてしまって、また誘われた時に拒否できなくなりそうだ。
何より、奢られた分を返したりするために、最低一回はいつか会うことが確定してしまう。御免だね。
「注文するね」
「は? いや――」
「もう、呼んじゃったよ」
そう言う紗花の指は、俺とは反対側のテーブル端にある呼び出しボタンを押していた。
俺にとっては最悪なことに、このイタリア料理店はファミリーレストランを気取った気の利かせ方をしていたらしい。
黙って手をあげて店員を呼ぶ文化が日本人に馴染みないからって、客にそんな気遣いする必要ないだろ。
俺に対する嫌がらせの塊みたいな店だな。
「マルゲリータでいいよね?」
「え…………」
「前に言ってたでしょ」
そう曖昧に微笑んで、紗花はやってきた店員と話すけど、俺にはそんなことを言った記憶はさっぱりなかった。
目の前で店員に注文をする紗花の柔らかな横顔が懐かしいせいで、仲良く一緒にレストランで食事をしていた頃のことがどうしても思い起こされてしまう。
なんでこんなことになっちゃったんだろうなぁ。
まあ、嘆いても、仕方ないんだけどさ。
案の定、紗花はピザを一枚も食べてくれなかったので、俺が全部食べることになった。
しつこく奢ろうとする紗花の申し出をしつこく拒否するのは、結構骨が折れた。