レーセル帝国物語 皇女リディアはタメグチ近衛兵に恋しています。 作:日暮ミミ
――この日の視察は、やっぱりいつもと違っていた。
まず、サルディーノという異国の要人が同行していることからして異様である。こういう機会はめったにない。
そして、その要人が帝国の実権を
一行の中でも一番ピリピリしていたのは、デニスを始めとする近衛軍団である。サルディーノが直接手を下す可能性は低いため、必ず町のどこかに刺客を紛れ込ませているはずだ。――そう思い、彼らは行く
そろそろ夕暮れが近い。けれど、ここにきてまだ、サルディーノ側に動きはない。
(彼が何か企んでいると思ったのは、ただの思い過ごしだったのかしら……?)
リディアの頭を、そんな考えがよぎったその時――。
何か、キラリと光るものが彼女の視界に入った。その次の瞬間。
「リディア、危ない!」
(え……!?)
リディアを抱きかかえるようにして庇ったデニスが、右腕を押さえてうずくまる。その腕からは流血しており、彼女の後ろにある木には、小ぶりの短剣が刺さっている。
そこでリディアは初めて、自分の嫌な予感が現実になったのだと察した。
デニスが庇ってくれなければ、自分は危うく殺されるところだったのだ、と。
「デニス! ……大丈夫!?」
「大丈夫だ、リディア。こんなの、ただのかすり傷だって……
泣き出しそうな顔で心配するリディアに、デニスは強がって見せる。けれど、彼女が受けた精神的ダメージは、デニスの予想を
大切な人を傷付けられた。彼の出血した右腕を凝視していたリディアの中で、何かがプツンと切れる。
「貸して」
感情を押し殺した、
その
「……あなたが命じたのでしょう? 『皇女を亡きものにしろ』と」
リディアは穏やかに問う。けれど、静かな怒りほど恐ろしいものはない。
「いや、わ……私は知らん! 私は、何も」
「嘘よ! わたしは、カルロス王子から聞いたもの! あなたが、この帝国の実権まで奪おうとしているって。そのために、わたしが邪魔になったのでしょう!? わたしがカルロス王子との縁談を断ったから、急きょ計画を変更したのでしょう!?」
言い
彼女はもはや、冷静さを失っていた。
「サルディーノ・アドレ! わたしはあなたを決して
「ダメだ、リディア!」
「リディア、やめぬか!」
怒りで我を忘れているリディアの耳には、愛する男の声も、父の制止する声も届かなかった。剣の腕が
――と、その時。
「もういいですよ、姫様。さ、剣を置いて下さい」
穏やかに、リディアを
「ジョン! 無事だったのね! よかった……」
馬に跨った、傷一つ負っていないジョンの姿がそこにあった。馬車からカルロスも降りてきて、リディア達に会釈する。
そして、ジョンの後ろには
その刺客が
「ご安心下さい、姫様。カルロス様もご無事ですよ。任務は無事遂行致しました」
「リディア様、申し訳ありません! 伯父のせいで、デニスどのがケガを」
「カルロス様……。ご無事でよかった……」
安心して力の抜けたリディアの手から、カランと音を立てて剣が滑り落ちた。
――そして……。
「陛下、姫様! 不審な男を発見し、捕えました!」
一人の兵士が、町外れの
だが、そこでリディアの記憶は途切れた。
――ドサッ!
彼女は
****
――あれからどれだけの時間、意識を失っていたのだろう? リディアは、額に何か冷たいものが触れる感覚で意識を取り戻した。
「リディア! よかった、気がついたか」
「……デニス?」
まだボーッとする意識のまま、彼女の目に映ったのは愛しい人の顔だった。
そして、もう少し意識がはっきりしてくると、自分の周りに視線を巡らす。
見慣れた部屋の
どうやらここは寝室のベッドの上で、自分はいつの間にやら外からここへ運ばれてきて寝かされていたらしい、とリディアには分かった。そして、意識が戻る前に感じた冷たい感触は、デニスが濡らしたタオルを自分の額に当ててくれていた感触だということも。
窓の外はもう真っ暗で、
「……デニス、お水ちょうだい」
ベッドサイドに置かれた水差しを見て、リディアは喉の
「ああ、水な。――起きられるか?」
「ええ、大丈夫」
一人で起きようとする彼女の背中を支えてから、デニスは水を
リディアは小さなグラスの水を、一気に飲み干した。それだけで、血の気を失っていた彼女の頬に、みるみる赤みが戻っていくのがデニスにも分かった。
「もう一杯飲むか?」
「ううん、もういいわ。ありがとう」
彼女は空になったグラスをデニスに手渡しながら、微笑む。そして、気を失う前の最後の記憶がふと
「――ねえ、デニス。あの後、サルディーノはどうなったの?」
リディアは刺客が捕えられた直後に気を失って倒れたため、その後の記憶が全くないのだ。
「あのオッサンは、あの後すぐに強制
「カルロス様、『国王だ』って仰ったの?」
「ああ。あの
それを聞いて、リディアは安心した。これでもう、スラバット王国は大丈夫だ。
「その後、大変だったんだぞ! 気を失ったお前を、ジョンと二人がかりでここまで運んできてベッドに寝かせたんだからな。――着替えは……、エマに任せたけど」
「そ、そう……」
デニスが頬を
そこで、デニスが腕に傷を負ったことを思い出したリディアは、包帯が巻かれた彼の右の二の腕に目を遣った。
「デニス、傷の具合はどう? まだ痛む?」
「大丈夫。こんな傷、大したことねえって。
「よかった……」
安堵の呟きを漏らした途端、リディアの両目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……リディア? おい?」
そのまま
いつもは強く、
幼い頃には、彼女もよく泣いていた。けれど、成長するにつれ、次期皇帝としての自覚が強くなった彼女は幼なじみのデニスやジョンにさえ、涙を見せなくなったのだ。
「デニスがケガをした時……、わたし……、デニスがいなくなったら、って考えて……。あなたが死んでしまったら……、わたしはもう、立ち直れないから……。だから、あなたが無事で、本当によかった……」
しゃくり上げながら、自分の心の中を
彼女がサルディーノを殺そうとしたのも、父や自分の制止を聞き入れなかったのも、頭に血が
「――でもわたし、これで確信したわ。デニスへの想いは単なる幼なじみへの情愛なんかじゃなくて、本物の愛情なんだ、ってこと」
「え……?」
「お父さまやジョンや、他の親しい人が死んでしまっても、わたしはきっと泣くと思う。でも、もしもあなたが死んでしまったら、わたしはもう二度と立ち直れない。傷を負っただけでこんなに気を失うほどのショックを受けたのは、あなたを心から愛しているから」
リディアは今朝まで悩んでいたことを、初めてデニスに打ち明けた。自分の想いが、本当に恋心なのかどうか自信が持てなかったのだ、と。
そして、サルディーノには図星をつかれたから余計に悔しかったのだ、ということも。
「デニス、わたしはじきにお父さまから皇位を継いで、皇帝として即位することになると思う。その時には必ず、あなたに側にいてほしいの」
他の人ではダメだ。近衛兵としても、夫としても、一緒にいてほしいのはデニスだけ。
「もう敬語なんていらない。生きて、ずっと側にいて。わたしを支えていて。お願い」
それは事実上、リディアからの求婚の言葉だった。デニスは彼女をしっかり抱き締め、それに答える。
「約束するよ、リディア。オレはずっと、お前の側にいる。ずっと支えていくよ。絶対にいなくなったりしねえから、安心しろよ」
「はい……!」
愛しい人の胸に顔を
――と、そこへドアを叩く音がして……。
「や、邪魔してすまない。――リディア、もう起き上がって大丈夫なのか?」
「お父さま」
「イヴァン陛下」
入室してきた父に、目を瞠ったリディアは慌てて
「ええ、もう大丈夫でございます。ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
「いやいや、楽にしていてよい。そなたが元気になってくれて安心した」
そう言って胸を撫で下ろすイヴァンの表情は、一国の主ではなく一人の父親のものだった。
「――ところで、だな。カルロスどのが、急きょ帰国の予定を早めると言ってな。明日、スラバットへ向けて発つそうだ」
「明日、ですか。本来は、一週間ご滞在の予定でしたのに」
それだけの長い滞在であれば、この国内で彼を案内したい町や場所がまだたくさんあったのに……。
「うむ。サルディーノの件があったからな、一刻も早く帰国して、国王として即位する必要があるのだろう」
「そうですわね」
父イヴァンの言葉に、リディアは頷いた。現在の国家
「わたし、明日はぜひ、カルロス様のお見送りをしますわ。デニスと二人で。――ね、デニス?」
「ああ。よろしいですよね? 陛下」
「もちろんいいとも。――それでな、その後に、二人の婚約を国民に公表しようと思っているのだ。よいか?」
いよいよ、二人の仲を公にする時がきた。
「ええ! もちろんです!」
喜んで頷くリディアとデニスだったが、続くイヴァンの言葉に二人は凍りつく。
「実はその時に、私はそなたに皇位を譲ろうと思っているのだ」
「え……?」