この2話で「天と地と姫と」の2巻の部分が終了です!
上田原合戦は武田の敗北に終わった。その日の夜。睨み合いとなっていた。互いに甚大な被害は出しており、容易に動ける状況ではなかった。
ただ、村上義清は何を思ったのか、板垣信方と甘利虎泰の首と遺骸を丁重に武田軍へ送り届けた。これ以上、兵達を疲れさせたくないということ、互いに踏みとどまっても益はないということを伝えているようだった。
しかし、晴信は退却する素振りを見せなかった。そのためか、村上軍も撤退する様子は一切見せない。
「無念ですが武田の完敗にござる。このような無謀な突撃を仕掛けてくることも計算外でしたが、あの槍衾は堅い。急いで諏訪へひきかえさねば、諏訪にて反乱が起こりますぞ」
「いや勘助。撤退はしない。われらも大打撃を被ったが、村上軍も多くの重臣と兵を失って四分五裂する寸前だ。板垣たちの無念を置き捨てて、おめおめと帰れるはずがない」
勘助は晴信に撤退することを進言しているが、彼女は撤退する気を見せなかった。横田備中や飯富兵部もそれに賛同し、晴信に逆説得を始めてしまい、勘助の頭を悩ませた。
「御屋形様」
「……真斗か」
「勘助さんの言う通りです。引き上げた方がよろしいかと。兵達も既に疲れが出ています。このまま、戦を続けるのは民を苦しめることになり得策ではないかと」
「あなたは悔しくないの!?板垣と甘利の無念を晴らせずに、おめおめと逃げ帰れと!!」
晴信は立ち上がり、真斗を睨みつける。
「姉上……」
晴信の側にいる信繁が宥めようとする。
「それに、あたしは村上義清の姿を見るなり金縛りにあって動けなくなった。板垣と甘利の仇を目の前にしていながら、恐怖に居すくんでしまった。このまま逃げ帰れば、自分がどうしようもない臆病者だと認めることになる」
勘助は信繁と太郎にも説得してほしかったが、二人もまた、晴信に撤退を承知させる言葉を持たなかった。とりわけ信繁は「あたしは臆病者ではない。しかし今逃げれば臆病者だ」と父親の影と村上義清の姿をだぶらせながら涙目で繰り返す晴信の心情がわかるだけに、強く晴信を説得することができなかった。
「俺だって、悔しいに決まっている……!だけど、だからと言ってこのまま戦を続けていたら、板垣様と甘利様が命を捨ててまで御屋形様を守ったことが無駄になっちまう!!」
真斗は続けて晴信に訴える。
「板垣様と甘利様は次に繋げてくれたんだ。板垣様と甘利様が御屋形様の盾にならなければ、御屋形様のお命が無かったかもしれない!そして、加藤段蔵の奇襲を防いだのは勘助さんや俺の策でもない、板垣様の策だ」
「板垣が……」
板垣は戦が始まる前から戸隠忍群による攻撃を懸念して、それに対抗できる者を晴信の側にいさせることを真斗に相談していた。板垣信方は最後の最後まで晴信を守り抜いた。
「御屋形様。今の状態では村上どころか様子見している小笠原にも勝てない。一度、甲斐に戻り疲れを癒やすことこそが次の戦で勝つために必要だ。勝つ者が強いんじゃない、負けても這い上がってくる者が強いんだ」
「……あたしは」
晴信はまだ心の中の整理がつかなかった。真斗の言う通りこのまま戦を続けても村上義清を倒すことができない。しかし、二人の仇は目の前にいる。
そんな時、両脇に双子の姉妹を引き連れた姫武将が姿を現した。彼女は小銭を数珠のように紐に通して縛り、首や肩にじゃらじゃらと掛けていた。そして、その配下は「六文銭」の旗印を身につけていた。
「あんた、まさか……」
「わたくし、真田幸隆と申します。こちらの姉妹はわが娘、信綱と昌輝。真田一族は上野を去り、この信濃に戻ると決めました。そのほうが銭を稼げそうですので。わたくしどもはこれより武田晴信さまにお仕えいたします」
「今頃来たのか」
「さんざん気を持たせて日和見してきやがったくせに、今更なんだ!」
横田備中と飯富兵部は幸隆を睨みつける。
「武士も商人も、自分がいちばん高く売れる時に売るもの。それにわが娘たちは戸隠で力を得た異形の者ゆえ、なかなか仕えるべき主を選びますの。ふふ。土産代わりに、晴信さまのご母堂・大井夫人さまから書状をいただいて参りましたわ」
「なんだって?」
晴信は幸隆から手紙を受け取る。
「ええ。ここに。ここで敗戦を認めたくがないあまりに意地を張って武田を滅亡に導いてはならない。潔く敗北を認めて退く時は退き、再び立ち上がる機会を窺うことこそが真の勇気。今は急いで撤退し、甲斐へ戻れとのこと」
晴信達の母である大井夫人は信虎追放後、出家し甲斐の国政に関わることはなかった。しかし、初めての敗北を向き合えきれない晴信に対して手紙を書き、親として諌めた。
信虎とは対照的に子に区別なく愛情を注いでくれた母だからこそ、晴信の心を動かした。
「……わかった。あたしは父親を駿河へ追放した娘だ。それでもなお甲斐に留まってくれた母上に対して親不孝はできない……甲斐に引き返し、温泉で傷を癒やそう」
武田軍は甲斐へ撤退し、その後村上義清も居城である葛尾城へ戻っていった。
◆
晴信は甲斐へ戻った後、温泉で疲れを癒やすことにした。無論、ただ疲れを癒やすわけではない。武田の敗北を聞いた信濃の諸将は忽ち矛先を武田に向けている。そのため、温泉で極秘の軍議を開くことになった。
「だから真斗。あなたもあたしと一緒に入りなさい」
「……は?」
俺は晴信の言っていることを理解できなかった。
「『は?』ではないでしょ。あたし達が村上義清に負けて信濃の諸将が攻め込もうとしてきているわ。そのために軍議を開くの」
「いやいや、それはわかる!だけど、何で俺も一緒に入るの?俺、男だよ」
「わかってるわよ。太郎と兵部を誘ったら一緒に顔真っ赤にして拒否されたのよね……。なぜかしら」
「なぜも何も、それは当然の反応では?」
「?」
晴信はキョトンと首を傾げる。
「そこからか……」
真斗は思わず頭を抱える。
「勘助も誘った途端、鼻血を噴き出して倒れるし、男武将の代表として残っているのはあなたくらいよ。だから」
「お断りします」
「これは命令よ」
「……。」
あ、もうこれ死ぬやん!信繁か源四郎ちゃんに斬られて御陀仏コース間違いなし!これは死んでくれと言ってるようなものじゃん!
「(もうダメだ。おしまいだ……!)」
俺は戦国時代の中で一番変な理由で命の危機に晒されているのではないだろうか。
「というわけで、お願いします。助けてください」
真斗は信繁に詳細を伝え、土下座で頼み込んでいた。このことを聞いた信繁も頭を抱えていた。
「姉上ったら……。兵法書ばかり読んでるから。源氏物語を読みなさいよ」
「マジで俺はどうすりゃいいんだ……」
「……はぁ。仕方ないわ。入りなさいあなたも」
「え、お前もどうしたの?上田原で敵陣に突っ込もうとするし、頭を強く打ってないか。大丈夫か?」
「あ、あの上田原のことは忘れなさい!それと、頭を強く打ってもないわ!」
「まったく……」と信繁は一旦、ため息をつく。
「あなたは小笠原長時に会っているのだし、その後も情報を集めていたのでしょう?」
「知ってたのか」
「あなたの口から出る意見は重要なものになるはず。だからよ」
「まあ、確かにな」
「その代わり!目とその……下は隠すように」
真斗にそう言った信繁は少し顔を赤くなっていた。
「(あ、可愛い……)」
◆
〈晴信の隠し湯〉
「各地で反乱と信濃勢の攻撃が続いている中、よく集まってくれた。勘助にも来てほしかったが、仕方ない。軍議を始めるわ」
「姫様。それは良いのですが……。何で真斗が入っているのですか!?」
飯富源四郎が当然の如くツッコミを入れる。
「小笠原の情勢について詳しいのは彼だもの。一緒に入るのは当然のことよ」
「違います!そうじゃなくて、何で殿方も一緒なのかと聞いているのです!」
「本当にすまない。できる限り見苦しいようなことはしないよう尽力するから」
「真斗もよ。何で目なんか隠す必要があるのかしら?」
「自分の裸を見られたくない人がいるからだよ!」
「そうなの?あたしは一向に構わないけど」
「「「「「私達は構います!!」」」」」
信繁と二代目四天王達が口を揃える。
「……とりあえず、源五郎ちゃん。手引っ張ってくれてありがとう。助かった」
「いえ、真斗さんにはお世話になっているので……」
温泉は滑ることがあるため、目隠しをしている真斗には自分の手を引っ張ってくれる人が必要だった。その時に手を挙げてくれたのが春日源五郎だった。
「さて、話を戻させてもらう。真田幸隆さん、上田原での日和見のせいで、勘助さんは兎も角、他の家臣達はまだあなたに全幅の信頼は置くことができていない。それが現状だ」
今回の軍議には幸隆とその子供である双子の姉妹がいた。武田の家臣達は上田原の戦いで幸隆の日和見しなければ板垣信方と甘利虎泰は死ぬことがなかった、と思っている家臣が多く、飯富兵部と横田備中がその代表格だ。
「そもそも六文銭の旗印ってなに? 真田家は商人なのかしら?」
六文銭のことを知らない晴信が尋ねる。
「わたくし、居城を失って以来一族を抱えて上野に逼塞していましたから、ずいぶんと貧乏しましたの。それですっかり小銭稼ぎが趣味に。むろん真田は一応は武家ですわ。一応は。三途の川の渡り賃が六文銭なのだそうで。意外とお安いこと」
「……その双子は?」
次は馬場信房が幸隆が連れてきた双子について尋ねた。
「この『双子』はご存じですわね。わが娘。真田信綱と、真田昌輝ですわ」
「「……(ぺこり)」」
普通、歴史を知っている人なら信綱と昌輝は双子だったの!?となるが、真斗が知っていることと大分違っていると割り切っているため、もう驚くことはなかった。
「無口で感情をあまり見せない二人ですけれど、武人としてはなかなかの器量の持ち主」
「身体が細いし、ずいぶんと肌が白いけれど、ご病気なの?」
「いや、勘助さんが言ってたあの戸隠の御神体の力を浴びたんだろう。佐助や段蔵を見ていたら大方予想はつく」
晴信の疑問に対して、真斗が先に答える。
「その通りですわ」
「しかし、佐助に聞いたところでは、そんなことをしたら十中八九死ぬのでは」
佐助とは、諏訪頼重が晴信暗殺のために雇った猿飛佐助のことだ。そして、戸隠山の御神体の「石」の力を浴びた者は力を得るか、それとも死ぬのかどちらかとなる。確率として死ぬことが多いというのが佐助の言っていたことだ。
この双子の姉妹は一か八かの賭けに勝ち、能力を手に入れたということ、力を使う代償としてと鼻血が出てしまうことを幸隆は説明する
「佐助と協力して加藤を止めた活躍は見ましたけれど、結局どういう力なんですか?」
「……どうやって鳶加藤の鳶ノ術を見切ったのか、知りたい……」
馬場の疑問に双子は「コクリ」と頷き、口を開いた。
「姉者の発した言葉が、離れた場所にいても聞こえるようになった」
「妹が口にした声が、遠くから聞こえるようになった」
「鳶ノ術の仕組みは、実は、宙を舞う猿飛の術と同じ」
「加藤段蔵は、瞬間的にある地点から別の地点へ移動しているように見せているが」
「実は、人の目の死角へ入っているだけ」
「加藤は己の身体が大地に引かれる力を一時的に無効にして、鳶のように軽々と宙を舞う」
「空を飛ぶ人間などいないと誰もが思い込んでいるので、上空が死角になる」
「なるほど。二人は言わば、以心伝心の術?みたいなもので連携して佐助を上空に放ったと」
真斗の要約に双子は頷いた。
「段蔵は鳶ノ術を隠形に用い、暗殺のための術に特化させていますからな。拙者は派手に宙を舞って長距離を素早く疾走したり人をおちょくるために力を用いている分、隠形に力を用いるあの者とは相性が悪いでござる」
「空を飛ぶだなんて……そのような無茶をして人の身体が保つのかしら?だいじょうぶなの、佐助?」
「ウキ。たしかに大きな負担がかかるので、あまり長くは用いられぬでござるな。戸隠で生き延びて運良く猿飛の術、もしくは鳶ノ術を手に入れても、力を制御できずに死ぬ者が多いでござる。力を長く使いすぎて限界が来ると身体が膨張して爆発するでござるよ」
「ば、爆発?」
つまり、きたねぇ花火になるのか、と真斗は何処ぞの野菜王子の台詞を思い出す。
「ですから、忍びの体術や己の精神力と組み合わせて、力を自在に操れるよう修行せねばならぬのでござる。双子にしても同じことで、戸隠で特別な力を得てから、その力を術として完成させるために行う忍術修行のほうが実はたいへんなのでござる」
「そんなことを幼い子供にやらせるなんてな……」
真斗は思わず思っていたことを口に出してしまう。
「その通り。この双子の姉妹はご母堂と似て変人でごさる」
「この工藤祐長も挑戦してみたいです! どこにいても人に見つかってしまう力が欲しいです! 誰にも気づいてもらえない存在なんて、生きながらに死んでるのも同然ですよ?」
「やめとけよ、工藤ちゃん。それにお前、上田原で段蔵吹っ飛ばした時に『少し自分のことが好きになりました!』って言ってただろ」
「確かにそう言いましたが、気づかれないのは寂しいんです!」
工藤はぷくーっと頬を膨らませるが、目隠ししている真斗には知る由もない。
「あ、そういえば、えっと……小幡?に教えたことをまだ私にも教えてもらっていません!後であのやり方聞きますからね!」
「わかってるよ。源四郎ちゃん達にも教える」
「だから、工藤です!いい加減、覚えてくださいよぉ……」
「真斗さ〜ん」と言って詰め寄る工藤に真斗は「はいはい」と頭を撫でて慰めた。工藤のことを忘れることがないためか、真斗に懐いている。
「それで、四郎と遊んでいるもう一人の童女は誰?」
四郎とキャッキャと戯れている子供がいた。
「次郎さま。この子は源五郎と申しまして、やはりわたくしの娘。『双子』の姉たちとは少し年が離れております。まだ元服していませんの」
「はは。源五郎です! どうしても晴信さまにお仕えしたくて押しかけて参った!」
「(源五郎ってことは昌幸か!徳川家康を二度も撃退し、表裏比興の者とまで言われた……)」
「御屋形さまに憧れているらしくて。上野から武田家へ移れとうるさかったのですわ」
「この源五郎、必ずや晴信さまのお役に立ちまする! 小姓にしてください! 毎晩、床をともにいたしますぞ!」
「きゃあああ、かわいい! でも、あたしと同じ名前です! ややこしいですね、どうしましょう!」
「そうね。この際だからあなたは春日弾正、とでも名乗りなさい。あなたももう立派な武田の侍だもの」
「姫様!? 弾正だなんて、そんな立派な名前を? あああ、ありがとうございます! でも姫さまの添い寝役はこの春日が続けますからねっ! 新参者には渡しませんっ! っていうか姫様は浮気者すぎます! 昨夜だって寝室に女の子を三人も侍らせて。馬場と三郎兵衛まで連れ込んで」
「……げ、源五郎ちゃん。じゃなかった、春日弾正。妙な言い方はやめて。あたしはただ、独り寝は危険だから必ず誰かに添い寝してもらっているだけで」
「いいえ、許しません!」
この時、真斗はふとある逸話を思い出す。それは春日源五郎改め、弾正が浮気について問い詰める内容の手紙を晴信に送り、晴信が焦ってお前が一番だと手紙を書いたといったものだ。今もその手紙のやり取りは残されており、事実だということがわかっている。
「今は小笠原長時についてどうするか。話し合うべきじゃないか?」
真斗は仕方なく晴信に助け舟を出す。
「そ、その通りよ。これから小笠原について話し合うべきだわ」
弾正はむぅ……と不機嫌そうな顔になりながらも渋々頷いた。
「じゃあ、これから小笠原長時について話すよ」
後編に続きます!