さて、これで越後潜入編は終了となります。
景虎との邂逅から3日が経ち、春日山城に大勢の武将達が集まっていた。皆、越後の国人衆で長尾家及び越後守護の上杉家に従っているが、実際は独立意識が強く、現時点では主従関係とは程遠いものとなっている。
その代表格が上田長尾家の長尾政景だった。景虎と政景は従兄弟同士の関係であり、血筋も近いことから景虎相手にかなり強気で振舞っている。
しかし、国人衆は政景を支持せず、景虎を支持している方が多い。理由として、この3つが挙げられる。
・景虎が戦に強いこと
・為景や政景と異なり、敵であっても許していること
・武田の北上作戦により、情勢は刻一刻と変わっていること
「景虎、準備は良いか?」
「ええ。私の意志を皆に示す。それで良いのね?」
行人包を被った景虎は真斗に問いかける。
「ああ、それで良い。あとは、宇佐美さん達が何とかしてくれるはずさ」
真斗が答えると景虎は頷き、国人衆の前に現れる。そして、自らの行人包を外し、素顔を見せた。その姿を見た国人衆の若い男達は「おおっ……」と言いながら、景虎の神秘的な姿に見惚れていた。
重ねて言うが、この越後では守護代であっても、自分と対等だと考えている武将が殆どだ。そのため、景虎さえ嫁として迎え入れれば越後の支配者になれるという考えだった。
「婿を取られるのでありましょうか」
「許嫁はおらぬと伺うかがっております」
「他国では、姫大名はその家臣とは祝言を挙げてはならぬという風習があります。親族かあるいは同格の大名が相手でなければ祝言を挙げられぬそうです」
「ですがこれまで姫武将すら存在しなかったこの越後には、そのような風習はありませぬ」
国人衆は次々と求婚を景虎に迫ってくる。真斗はこの光景を見て呆れていた。
(あーあ。皆さん、元気のよろしいことで)
景虎は思わず懐に入れている青竹を出してたくなったのを近くにいる宇佐美と直江大和が視線で景虎を制止させた。景虎は息を整え、口を開く。
「諸将よ。わたしは毘沙門天から武の力を授って、その力を借りることで戦に勝ち続ける。これからもこれまでも、わたしは合戦に負けないだろう。だが、夫を迎えれば毘沙門天の力は失われる。わたしは生涯、誰にも嫁がぬ。武士ではあるが、出家の身に等しいと考えてもらいたい」
景虎の宣言に求婚していた国人達が顔を蒼白させる。しかし、そこで間髪入れず、宇佐美が根回しした諸将が動く。
「景虎様が決断されたそのお覚悟を決して無駄にはしませぬ。この柿崎景家、身命を賭して景虎様と越後のために尽くす所存!」
柿崎景家は一枚の書状を景虎に提出する。それは真斗が言っていた景虎に対して求婚をしないことを誓い、また景虎の家臣として従うことを誓う起請文だった。
起請文に書いたことを背く行為をすれば神仏による天罰が降りるまたは死後に地獄へ落ちると信じられている。この時代の神仏への信仰はとても強いため、相当の覚悟を持って書く必要がある。
「無論、私だけではない。景虎様に従うことを誓った諸将もおりますぞ!」
景家に続き他の諸将が景虎に起請文を提出する。しかし、景家のような豪胆な武将は少なく、年老いかけている武将が目立っていた。そのため、反発する国人衆は少なくなかった。
その代表格と言える北条高広は口を開く。
「柿崎殿。それがしたちは坊主でもなければ、解脱しかけた年寄りでもない。目の前にいきなりこれほどの美しい女性が現れていながら、いきなり夫は生涯取りませんと言いだすとは、どういうことだ。これではわれらは生殺しではないか」
(やはりそうきたか……)
真斗は苦虫を噛み潰したように顔を顰める。真斗の懸念点として考えられたのは柿崎に賛同する武将達が年老いた者ばかりということだ。これでは若い国人衆からは反発されるのは目に見える。
「ならば、この場にいる者達に問おう。我らと同じ誓いを立てようとする者はいないのか?」
柿崎の呼びかけに対する国人達の反応は薄い。話し合いをするのも少数派であった。
沈黙が続く中、一人の男が立ち上がった。
「それがしも誓いを立てましょう」
「おおっ!」
「色部殿、誠か!?」
柿崎景家が喜び、北条高広が困惑の声を出す。
色部勝長。為景と晴景、そして景虎に仕えている武将であり、為景の代から揚北衆の国人達をまとめあげている。以前には為景に敵対して隠退まで追い込んだという実力者だ。
つまり、揚北衆の代表が誓いを立てるとなれば、他の揚北衆の国人達も勝長の意思に従うことになる。つまり、越後の国人衆の中で実力を持った武将が景虎の家臣となり、景虎を守ると誓ったことになる。
また、その揚北衆の中には本庄繁長という武将もいる。彼は若き武将ではあるが、景虎の神秘的な姿に見惚れて求婚を通り越して崇拝対象としてしまっている。
「この色部勝長、揚北衆の代表として貴様ら忠告しよう。もし、景虎様を狙うような真似をする者がいれば、我ら揚北衆が忽ちその者を滅ぼしてくれよう」
勝長の宣言に求婚を求めていた国人衆は一気に静まり返る。景虎を狙えば命はないことを嫌でも分かるからだ。北条高広もこれ以上景虎に求婚を迫ることができないと感じたのか、沈黙している。
(ここは時を待つしかあるまい。時さえ経てば、今の揚北衆も年老えていき、賛同している年老いた国人たちもいなくなっているだろう)
他の国人衆も高広と同じ考えに至っている。さて、問題を一時的に解決したと言える。あとは、長尾景虎がこの間に自分の発言力を高めていくかによるだろう。
「宇佐美どの、直江どの。貸ひとつだぞ」
勝長は景虎に侍っている宇佐美と直江に囁いた。勝長も何も見返りなしで宣言したわけではなく、後々は長尾家の中でそれ相応の地位に着くことが目的でもあった。
(色部勝長。中々に侮れないな……。だが、助かった。このまま、あいつらは引き下がろうとはしなかったからな)
宇佐美は勝長を警戒しつつも、越後を纏められることができたことに感謝していた。
こうして長尾景虎の越後守護代に就いたことによる所信表明は終わった。
その後、景虎と国人衆との間には直江大和が入り、対応にあたった。主に色部勝長がこのまま景虎様を狙っているのではないか等についてだった。
「お嬢様はまだ大人になりきれていないので、そのような年頃でもあるのです。今は不犯の誓いを立てていますが、そのうち気が変わることもありましょう。また、揚北衆でなくとも戦果をあげていけば、もしかすればということもあるかも知れませぬ。今は忠勤に励んでいただければ」
それに対して直江大和がのらりくらりとした返答で返していった。可能性さえあればそれに賭けようとする者が多いからだ。
しかし、一人の男は違った。長尾政景である。
「フン。直江大和。俺は貴様を信用できんなあ。一度騙だまされているからな。貴様は景虎を俺に嫁とつがせると謀たばかって、綾を俺に娶らせた」
「その綾さまがご懐妊だそうで、おめでとうございます。政景さま。仲むつまじいご夫婦のようで、微笑えましい限り」
「……なにを企んでいるかは知らんが、景虎のくだらん不犯の誓いなど撤回させてやる。揚北衆やてめえを蹴落として景虎を手に入れてやる」
長尾政景だけは、直江大和に向けて不敵にも笑っていた。
「あなたは一度叛いた。お嬢さまに討たれ、命を許された。次に謀反すれば、お嬢さまがどう言おうとも処断いたします。あなたが黒田秀忠を誅したように、です。長尾政景さま」
「もう俺の負けはないぞ、直江大和。あんな下手な戦は二度とやらん。次は、黒田秀忠など担がん。俺のやりたいように戦い、俺が勝つ」
その会話を聞いていた景虎は誰にも悟られぬように密かに毘沙門堂に入っていった。
◆
「……わたしは、なぜ姫に生まれたのだろうか。わたしが男であれば、誰を惑わすこともなかったはずなのに。わたしはほんとうに越後に義をもたらすことができるのだろうか」
景虎以外の姫武将はいなく、気軽に相談できる相手もいないため孤独を感じていた。今までは姉の綾がいたが、政景に嫁いだ後、母親として生きることを選んだ。
宇佐美や直江も景虎のために尽くしているが、それでも景虎の悩みを打ち消せるものではなかった。
(寂しい……)
景虎は毘沙門堂の中で蹲った。
「あ、やっぱりここにいた。まったく、宇佐美さん達探していたぞ」
毘沙門堂の扉を誰かが開ける。その人を月の光が照らしているが、逆に光によってできた影が顔を隠していた。
しかし、景虎はその人の声で誰なのかは分かっていた。
「真斗?」
「そうだけど……。どうしたの?蹲って」
景虎は一度真斗の顔を見るが、また顔を俯かせた。景虎の今の悩みも真斗が解決できるものではないと思っているからだ。
「……まあ、確かにあんなに婚姻を求められちゃ、嫌になるよな。ましてや、同じ『姫武将』というのはこの越後には誰もいない」
真斗はゆっくりと景虎の隣座った。
「……これは俺の予想なんだが」
「……?」
「かつち…じゃなかった武田晴信と長尾景虎は考えは違うけど、境遇が似ている。父に疎まれたところなんざ、特にな。もし、二人が家柄とか大名とかそんなこと抜きで出会ったのだとしたら」
「出会ったのだとしたら?」
「多分、友達になれる」
「!?」
景虎自ら敵と定めていた武田晴信と友達になれる。それは冗談であってもすかさず青竹を取り出して叩くところだったが、そんな気になることができなかった。それどころか、真斗の言葉をどこか信じている自分がいることに気づいていた。
「ほ、ほんとうに?」
「まあ、俺の勝手な予想だ。どうなるかはわからないけど……」
景虎はギュッと裾を握りしめて真っ直ぐに真斗を見た。
「何故だかわからないけど、私もそんな気がするの。だから、真斗の言ってること信じられるわ」
景虎は真斗に微笑みかける。その顔は毘沙門堂に戻った時と違い、嬉しそうな表情を浮かべていた。そのギャップに真斗は見惚れてしまい思わず、顔を背ける。
「どうしたの真斗?どうして顔を背けるの?」
景虎は真斗の顔を覗こうとするが、その度に真斗は顔を背ける。
「い、今はあまり顔を見せたくない。結構、変な顔になってる」
「変な顔?それはどうして?」
「それは……まあ、景虎の今の表情がさ」
「?」
「とても、可愛かったから……」
照れ臭そうな顔をしている真斗の表情を見る。真斗の顔は表情を抑えるためにピクピクッと動いており、本人の言う通り可笑しな表情をしていた。それを見た景虎は思わず笑いそうになる。
「ああ!やっぱ、笑われた……」
「ふふっ。真斗ってそんな顔をするのね」
「人である以上、そんな顔をすることもある。もちろん、邪な気持ちはないからな」
「わかっているわ」
(願わくばそんな顔でいてほしい。多分、その気持ちは長尾景虎という『人』としての証なのだから)
「さて、俺はここまでかな」
真斗は立ち上がり、毘沙門堂から出ようとする。
「ここまで?帰るの?」
景虎の問いに真斗は静かに頷く。
「そもそもの目的は景虎がどんな姫武将なのかを知ることだった。どんな目的で信念で戦うのか知ることができた。目的は達成できた。あとは帰ることのみだ」
景虎は思わず帰ろうとする真斗の手を掴む。せっかくできた心の内を話せる大切な友達を失いたくない。それが景虎が白井真斗に対する望みだった。
「ごめん、俺は帰らないと」
真斗は景虎にそう言って掴まれた手を振り切って、出口へ向かう。
「真斗!」
「何?」
「いつか…またゆっくり話してくれる?」
「また…いつかな」
真斗は景虎に笑いかけた。その表情は明るくかったが、どこか寂しそうだったと景虎は感じた。
次話から信濃統一編(後)が始まります。こちらももそこまで話数多くはないのかな……と。
原作では第3巻のところに入り、強敵、村上義清との戦いがまた始まります。
合戦の布陣図について
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上田原の戦いの方が見やすい
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塩尻峠の方が見やすい
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どちらも見えにくい