禰々は頼重の切腹後、食べ物を何ひとつ食べずにいた。母である大井夫人。信繁、太郎、孫六も手を尽くしてきたが、益々ひどくなる一方であった。
そんな中、一人の武田家臣が禰々に面会を頼んだのである。
「禰々さま。白井真斗殿がお目通りを願っております」
「しらい…まさと?」
禰々はその者が誰なのか知らなかった。そんな名前の家臣がいたのだろうか。もし、晴信の使者であれば追い返そうと考えていた。
襖が開けられ、白井真斗の姿が現れる。禰々はその姿を見て思い出した。板垣信方と共に頼重の助命を願い出た家臣だったと。
「白井真斗。禰々さまにお目通り叶い、恐悦至極でございます」
「あなたは板垣と共に頼重様の助命を願い出てくれた方ね」
「はい。頼重さまのお命を救えず、面目次第もございません」
「……面をあげられよ」
「はっ……」
真斗は顔を上げ、禰々を見る。食事を取りつづけていない為か、彼女の顔はやつれ、腕は痩せ細っていた。
「白井。あなたは何をしにここに来たの?」
「恐れながら。聞くところ、禰々さまはお食事をお取りしていないご様子。このままでは、お体に障ります。お食事をお取り下さって欲しいこと。そして、御屋形様にもお会いになってくださらないでしょうか」
「姉上に?何で姉上に会わなければならないの?父上を追い出し、私の愛する夫を奪った姉上に!もうあの優しい姉上はいないのよ……」
痩せ細った身体で禰々は力を振り絞りながら真斗に言い放った。それは幸せを突如奪わった晴信に対する怒りだった。
「御屋形様は!いや、勝千代は最後まで頼重さまの命を守ろうとしていました!禰々さまと共に生きてもらう為に必死に助ける方法を探そうとしてくれたのです。あなたにとっての優しい姉上は今も変わりません!」
「……って」
「?」
「帰って!」
禰々が話を聞こうとしないことは分かりきっていた。しかし、動かなければ状況は変わらない。これはまず、その第一歩だ。
「わかりました。あと、帰る前にこれを……」
真斗は帰る前に花と一つの紙を禰々の前に置いた。
「この紙は頼重さまの御遺言を紙にお書きしたものです。どうかお受け取りください」
禰々に告げた後、真斗はこの場を去った。
そして、その次の日。真斗はまた禰々に面会を申し込んでいた。禰々は昨日のこともあり、会おうとはしなかった。
次の日も。次の日も。真斗は禰々に会おうとした。そして、その度に花を持ってきたのである。そして、持ってきた花は日々違っており、中には頼重と一緒に見て楽しんだものや、嫁ぐ前に姉達と一緒に愛でたものもあった。
「……此度はどんな花が来たの?」
ある日、禰々はふと女中に真斗から送られる花を聞こうとした。なぜかはわからない。不思議と次の花が何なのか、禰々は気になり出したのである。
「今日のお花は桔梗でございます」
「桔梗?」
「何でも花言葉は『変わらぬ愛』と真斗殿は仰っておりました」
「そう……」
頼重に対する愛は変わらない。とでも言っているのだろうか。それとも……。
『御屋形様は!いや、勝千代は最後まで頼重さまの命を守ろうとしていました!禰々さまと共に生きてもらう為に必死に助ける方法を探そうとしてくれたのです。あなたにとっての優しい姉上は今も変わりません!』
禰々は真斗が自分に必死に訴えてきたことか頭の中に過った。「私は家族に大切にされていない」と思っていたが、違った。
自分は気づいてなかったのだ。自分が甲斐に戻った際、母は自分を暖かく迎えてくれたのだ。夫が死んだ後も、信繁も、孫六も、太郎も、そして、晴信も。
『助命する方法はないの?』
『他に方法はないの?』
晴信は頼重の命を助けることを家臣に聞いていたことを思い出す。決して、最初から頼重を殺すつもりなどなかったのだ。
自分を大切に思ってくれる人達はいた。このことに気づいた禰々は家族から受けている愛情を思い出したのである。
「松」
禰々は「松」と言う名の女中を呼ぶ。
「どうされました。禰々さま」
「
「……!はい、すぐにお食事をお持ちいたします!」
◆
「真斗!」
真斗は館で休んでいる中、晴信が走ってきた。飛び込んでくるかのような勢いだった。
「うおっ、びっくりした……。どうした?」
「禰々が食事を取るようになったわ!」
「ほんとか!よかった……」
真斗と晴信。最初は真斗は二人きりの時でも敬語を使っていたが、今では友人らしく、砕けた関係になっていた。
「ええ。あたしは禰々が何も食べずこのまま……」
晴信は涙声になりながら心中を話した。
よく見ると、体も少しやつれているように見えた。禰々が食事を取らなくなってから、晴信は体調を崩してしまい、信濃侵攻が中断される事態となった。この機を伺い、高遠頼継と小笠原長時が諏訪に侵攻してくる恐れがあったが、諏訪にいる板垣信方がその動きを睨んでいたため、今まで侵攻してくることはなかった。
「それで、どうだった。禰々は会ってくれるって?」
「そうなの!禰々が会いたいって!」
「うん、そっか……」
真斗は「笑ってるのか泣いているのやら」と思いながら、晴信の涙を拭き取り、頭を撫でた。ここにもしも信繁がいたら嫉妬で間違いなく彼女は真斗を切ろうとするだろう。
それほど、真斗と晴信の仲は良好だった。ただ、恋仲に発展することはなかった。なぜならこの二人は恋愛に対してはお互いに鈍感だからである。どちらか一方から告白でもしない限り、気づくことはないだろう。
「では、俺は勘助さんのところへ行くので」
「そういえば、真斗は勘助の弟子になったそうね」
「ええ。それも、その師匠は幼女に侍りながら教えてるのですけどね」
「四郎さまぁぁぁぁぁあ!」と晴信と真斗の頭の中には四郎の笑顔に興奮している勘助の顔が頭に浮かんだ。思わず笑みが溢れる。
「くっくく…」
「ふふふ……」
「俺はこれにて」
「ええ。しっかり学んできてね。それと……」
「?」
「あの子達のこともよろしく」
真斗は晴信の言っていることがよく分からなかった。しかし、その意味は勘助の館に入った後、知ることとなった。
〈勘助の屋敷〉
「ふ、増えてる……」
勘助の館に入ると、4人の女の子達が勘助から教えを受けていた。
「あ、真斗殿!」
一人目は「逃げる」が口癖の春日源五郎。後の高坂弾正が真斗に気づき、声をかける。
「真斗、あなたも来ていたのね」
二人目は飯富源四郎。後の山県昌景。史実通り背が小さい。そして、彼女に背丈のことを言うのはNGである。
「この男が白井真斗……私は馬場信房。……よろしく」
三人目の無口そうで大人しい姫武将が馬場信房。一見、か弱そうな女の子だが、怪力無双を誇っている。一体その体で何でそんな力が……。
「私、工藤祐長といいます。そ、その……山本勘助の屋敷で軍法を学んでいます。あ、あの、こっちを向いてくださーい!」
薄汚れた簑を身体にすっぽり被った、そこはかとなく貧乏くさい地味な少女が工藤祐長。後の内藤昌豊である。
彼女は身を守るために「気配を殺す」技術を身につけたが、その為中々周囲の人に気付いてもらえなくなってしまっただけでなく、名前さえまともに覚えてくれなくなってしまったという。
「うおっ、びっくりした……。えっと、工藤ちゃんか。うん、覚えた!」
「え、本当ですか!?なら、私の名前を呼んでみてください」
「工藤○一でしょ?」
「違います!誰ですかその新○という人は!」
「あ、ごめん。その人は有名な名漫画の探偵の名前だった」と誤魔化して「祐長だよね」と言い直した。間違えたのはわざとだ。
「?おかしいわね。そんな子いたかしら?」
源四郎が工藤祐長の存在を疑っていた。これはふざけているわけではない。真斗とは逆に本当に存在を忘れているのである。
ちなみに、真斗は「工藤祐長。工藤祐長。工藤祐長。」と心の中で連呼して、忘れないようにしようとしているのは内緒である。
「いましたよ!あー、もう何で私はこうも影が薄いのですか?」
「まあ、他のみんながあんたのことをよく知らないからじゃないか?だって、あんた、武田の譜代の工藤家の姫なんだろ?そこから覚えてもらうしかないと思うぞ」
工藤家の姫。そういうところから、段々と覚えてもらうべきという真斗のアドバイスに工藤はキラキラと目を輝かせていた。
「ホントですか!?ホントに周囲に覚えてもらえるようになりますか?」
「あ、ああ。少しは良くなると思う」
ただ、真斗が言った通り、少しは良くなったのだが、「工藤なにがし」とまでしか覚えてもらえないのはまた別の話である。
こうして、勘助の屋敷に四郎、真斗、そして二代目武田四天王が集まることになった。兵法や軍の動かし方は勘助から、源四郎が体格の関係なく戦える方法を知りたいという要望から、体術や槍術は真斗が教えることになった。
四郎は勘助から学ぶ真斗達の様子を見てそれを楽しみ、その笑顔が勘助の心を癒やしていった。
しかし、そこから事態は急変する。
◆
「おい、今なんて言った……」
「禰々が亡くなったわ」
真斗は信繁から聞いたことを信じられなかった。禰々は要害山へ一人で行ったところ、足を滑らせて崖から落ちてしまったらしい。
「見張りはどうしていたんだ?」
「『私は大丈夫です。少し外の空気を吸いに行くだけよ』って言われて、見張りも油断したみたい」
「不慮の事故ってわけか」
真斗の問いに信繁は静かに頷いた。
「よりにもよって、何でこんな時に……」
「くそ……」と真斗は拳を館の柱にぶつけ呟いた。
「それで、勝千代は……御屋形様はどうしている?」
「今は大祝を狙っている高遠をどうするか、勘助と話しているわ」
禰々の死因は武田の謀殺と主張する高遠頼継は諏訪を狙い、侵攻を始めた。
「そ…うか……」
晴信は武田家の当主。妹の死に嘆く暇も心を休める暇も戦乱の世は与えなかった。
しかし、当主とて人間だ。その当主を支えるのが家臣だ。暇がなければ作れるようにすれば良い。
それが真斗の考え方だった。
「高遠との戦。速攻で勝つ」
「ええ。そうね」
信繁も真斗の考えを察し、頷いた。
「(高遠頼継は諏訪の大祝を務めた家柄だ。この戦に勝ったとしても、頼継を小笠原へ逃してしまえば「高遠が立ち上がった」というだけで諏訪衆は高遠側へ傾いていく。これから諏訪を安泰にするために高遠頼継を捕縛するか討ち取るしかない)」
◆
高遠頼継が挙兵したことによって、高遠側に与する諏訪衆は多かった。それもそのはず、諏訪頼重と禰々を謀殺したという噂が流れているからだ。もちろんその噂を流したのは高遠頼継だ。
それを鎮めるためにも、諏訪衆を武田側につくために勘助は一つの策を打ち出した。それは四郎を晴信の義妹にすることだった。義妹にすることで、諏訪と武田が一つになったという証になり、四郎が立ち上がることで武田が諏訪の後見役となるということを正当化される。
そして、もう一つ。四郎が自ら出陣するということだ。これは勘助の策ではなく、四郎自らの意思であった。勘助は反対していたが、四郎の決意は固かった。それが功を奏し、武田を疑っていた諏訪衆達も武田方に着くようになったのだ。
「御屋形様」
「何、真斗」
「この戦、俺にとって武器を取った初めての戦、本当の初陣です。ですが、この戦の先陣、俺に務めさせてくれませんか?」
初陣で先陣。あまり聞いたことがなかった。白井真斗の目つきはいつものとガラリと変わっていた。穏やかそうな目をしていたのとは真逆にギラリとした鋭い目つきとなっていた。
「おい、待て待て。それはあたしがやる!」
武田の随一の猛将である飯富兵部も願い出た。
「……わかったわ。真斗に任せる。だけど、深追いはしないで。決して死なないで」
「御屋形様!」
「兵部さん、安心してください。あなたが鍛えてくれたんで、ちょっとやそっとで死にやしませんし、負けません。兵部さんから教わったことを今こそ発揮する時だと思っています」
飯富兵部はそれを聞き、「そ、そうか……」と少し上機嫌となる。自分が鍛えた武将が先陣を切って勝鬨を上げる。師匠として誇らしいことこの上なかった。
「ったく、仕方ねえな!真斗、負けんじゃねえぞ!」
「ああ。任せてくれ」
そう言った後、真斗は兜を被り、戦場へ向かった。
真斗は馬に乗り、槍を持った。これで戦の準備は整った。
「皆の者。我らは先陣を切るが、途中で迂回し、高遠城へ続く道を塞ぎ、高遠頼継を討つ!この戦はすでに勝ち戦だ。俺たちにこそ諏訪大明神の加護ぞある!」
「「「おぉぉっ!!」」」
「行くぞ、者ども。首は打ち捨てよ!投降するものは丁重に扱え。狙うは高遠頼継、ただ一人だ!続けぇ!!!」
「「「「おぉぉぉぉっ!!」」」」
真斗の号令と共に法螺が鳴らされ、戦の火蓋は切って落とされた。
「武田が来たぞ!武田を討ち取れ!」
高遠の騎馬隊が迎え撃つ。しかし、諏訪衆の大多数が武田方についたことから、兵の士気は低かった。武田軍は次々と高遠軍を蹴散らしていく。
一騎が真斗に目掛けて槍を振るってきた。それを真斗は弾き返し、兵に隙が生まれた。
(俺は戦う。勝千代のために……!)
真斗は相手の首を目掛けて突く。彼の八極拳で鍛えた突きは槍術にも反映される。正確かつ鋭い、それが真斗の強みだ。槍は敵将の首を正確に捉えていた。
「(俺はあんたの顔を忘れない!討ち取った者たち全て、俺は胸に刻む。それが俺の償いだ)」
兵の首は胴から離れ、吹き飛んでいった。この時、白井真斗は
「はあっ!」
真斗の軍はこのまま馬を駆け、高遠頼継の撤退ルートを先回りしていった。
一方、高遠頼継は諏訪衆が次々と武田方についたことに形勢が逆転し、焦りを感じていた。
「くそっ、武田めぇ!幼い女子を利用するとは小癪なぁ!」
高遠頼継はこの戦で弟の高遠頼宗、その他重臣を多く失う結果となり、高遠の敗北は決定的となっていた。
「殿、このままでは殿が危のうございます!撤退の下知を」
「くっ、くうぅぅっ!」
高遠頼継は持っていた鞭を折る。そして、本陣を置いていた安国寺より兵を引き、高遠城へ撤退することを決めた。しかし、それは真斗の読み通りだった。高遠軍が撤退する寸前に、軍を迂回させ、先回りし、高遠城へ続く道を阻んでいたのだ。
「殿、あれは……!」
「高遠頼継殿とお見受けする。俺は武田家臣白井真斗!この戦はお前の負けぞ。降伏するなら、命は助けるが如何に?」
「ほざけ!武田に何かに降るなぞ……!」
「死んでもごめんってか。……ならば、俺と一騎討ちをしようか。貴様が勝てば、我らの軍を撤退させてこの道を開けさせるとする。さあ、どうする?」
「青二才が……。死んで後悔しても知らんぞ」
「殿、誘いに乗るのは危険でございます!」
「黙れ!あのような奴に負けるわしではないわ!」
高遠頼継は家臣から槍を受け取る。負け戦によるイライラと真斗の挑発によって高遠頼継は正確な判断が出来なかった。
「来な」
「なめるなぁ!」
両者は馬を走らせ、互いの距離を縮めていった。頼継は真斗の首を狙った。一方、真斗は頼継の首もましてや心臓を狙うことはなかった。
「取ったぁ!」
そのことを察した頼継は高らかに勝利を確信し、吠えた。
「何言ってんだ?」
そう言った時、頼継の槍は真斗の首を捉えることはなかった。頼継の槍の穂先が無くなっていたのだ。真斗が最初から狙っていたのは槍の穂先、つまり相手の武器を無力化することが目的だった。
「なっ……」
槍の穂先がなくなっていたことに気づいた頼継は驚きを隠せなかった。そして、その驚きが隙を生んだ。
生まれた隙を真斗は逃さなかった。
「ふんっ!」
「ぐっ……」
真斗は頼継の首元を叩き、気絶させた。
「敵の大将、高遠頼継は武田に降った!双方、これ以上の戦闘は無用!高遠軍は速やかに降伏せよ!」
「「「「おぉぉぉぉぉぉっ!!!」」」」
この瞬間、戦場に味方の軍勢の勝利の声が響いていった。
◆
真斗は戦の結果を報告するため、本陣に戻った。
「真斗……」
晴信は本陣に戻ってきた真斗を見る。目立った外傷はなかった。晴信はその事にホッと一安心していた。
「白井真斗。ただいま戻ってきました」
「ご苦労。大義だった」
「はい」
「真斗。ようした!これで諏訪は安泰となる」
「初陣で先陣を切り、敵の大将を生捕にし、無傷で戻ってきた。武将としてこれまでにない戦果だ。お前の武名は信濃に届いたぞ」
「板垣様、横田様……。ありがとうございます!」
武田四天王達は帰ってきた真斗を暖かく迎えた。
「良くやったな真斗!これで伊那は平定されたのも同然だ!」
飯富兵部の言う通りだった。伊那郡は高遠頼継が支配していたが、頼継が生捕りにしたことにより、高遠家臣達は次々と武田に降ることなり、伊那郡は平定された。もしも、討ち取っていれば忠節を誓った家臣達が反武田の勢力として居座っていたかもしれない。
「いやぁ、お主の姿を見ると、わしの初陣を思い出すわ。あの時のわしは……」
「甘利殿、昔話は陣を引いた後に聞かせましょうぞ」
甘利虎泰の昔話が始まろうとしているところを板垣信方が止めた。
「む、そうか。では、真斗。甲斐に戻った後はわしの初陣の話を聞かせてやろう」
「あ、はい……」
と真斗は返事をした後、飯富兵部は真斗に近寄り、「甘利の昔話は長くなるぞ。酒を飲ませ続けて寝かせた方が良い」と真斗にアドバイスをした。
「わ、わかりました……」
こうして、高遠との戦は終わり、武田軍は甲斐へ戻った。その後、高遠頼継は領地を没収され、伊那から追放された。残りの高遠家臣達の領地は安堵され、伊那衆は武田に忠節を誓った。
◆
戦が終わり、宴が催された。甘利虎泰は最初から酒を飲み続け、寝てしまったため、長い昔話を聞くことはなかった。そこから真斗は密かに部屋を出て夜風に当たりながらチビチビと酒を飲んでいた。
「真斗」
「これは板垣様。甘利様を運ぶのを手伝ってくださりありがとうございます」
「なに、いつものことだ。気にする必要はない」
板垣信方は真斗の横に座り、酒を一杯飲んだ。
「禰々様の部屋に度々行っていたらしいな」
「……知っていたんですね」
「うむ。そちが禰々様のお心を開かせたことで御屋形様と禰々様は最後の最後で仲直りすることができたのだ。幼い御屋形様と禰々様が仲睦まじくしていることを思い出すほど。御屋形様の守役として礼を言いたくてな」
「いえ、それには及びませんよ。結局、俺は何もできなかった……」
杯を震わせながら真斗は答えた。もっと何かできることはなかったのか。そのことが真斗の頭の中でいっぱいだったのだ。
「それは違う」
「えっ」
「お主が動かなければ、御屋形様と禰々様の仲は暫く拗れていただろう。もしかすれば、御屋形様と禰々様は仲直りができないままになったかもしれん。同じ終わり方でも過程が違うだけで、人の心は救われもするし、救われないこともある。お主のやってきたことは決して無駄ではないのだ」
「……。」
板垣は真斗に語り続ける。
「わしは老いた。若ければ今の御屋形様の斬新な考えも理解できたかもしれぬがな。だが、それは無いものにねだっているのと同じ。今の御屋形様には次郎様や勘助、そして、白井真斗お主達がおる。わしや甘利殿のような老将もお主達を見れば、安心して冥府へ旅立てるといものだ」
飽かなくも、なほ木のもとの夕映えに、月影宿せ花も色そふ
そう呟いた詩こそ、現代まで伝わっている板垣信方の辞世の句だった。真斗は気づいたのだ。板垣信方は死期を悟っているのだと。
「板垣様。弱気になってはなりません!御屋形様は板垣様のお力を頼りになさっているのですから」
「……確かに弱気であったな。だが、人はいつか死ぬ。それは誰にも訪れるもの。その前に意志を残し、誰かが意志を継ぐ。真斗よ。その時はわしの意志を継げ。そちが月影となって、御屋形様の行く道を照らすのじゃ」
「……わかりました。しかし、なぜそのことを俺に?」
その質問に板垣は少し笑い「わからぬ」と答えた。
「わからぬが、お主が御屋形様の運命を変えてくれるかもしれんと感じたのじゃ。父を追い出し、妹を失った御屋形様は領地を拡大する度に何かを失うかもしれんと思い込み、それが呪いとなっているかもしれぬ。それをお主が断ち切ってくれるかもしれん。そう感じたのじゃ。いつかはわしにはわからぬがな」
「板垣様……。そのお言葉しかとこの胸に刻みました」
「そうか。頼むぞ」
真斗は頷き、館を後にした。
◆
晴信は家臣達が宴で盛り上がっている中、要害山に向かっていた。要害山には禰々と頼重の墓があった。公式の墓ではなく、晴信が密かに別の墓標を立てていたのだ。
山に登り、禰々の墓の近くまで行くと、一人誰かが墓の前に手を合わせていた。最初は暗くて誰なのかはわからなかったが、月の光が山を照らしたことでその姿が見えてきた。
「真斗?」
「勝千代……」
手を合わせていた人の正体は真斗だった。真斗は桔梗の花を墓前に置いた後、晴信に一礼しその場を後にしようとした。
「待って!」
しかし、晴信が真斗を呼び止める。
「少しで良い。少しでいいから、あたしのそばにいて」
と言われた真斗は頷き、留まった。その後、晴信は墓に手を合わせた後、真斗の隣に座った。
「どうして、ここに禰々の墓があるってわかったの?」
「偶然だよ。お墓はあっても、魂はまだ要害山にあるんじゃないかって。そしたら、見たことがないお墓があったからさ。そこに花を備えようって」
「そう…なのね。真斗。あたし達は父上に続いて禰々まで失ったわ。家臣達の前で、死者を二度と振り返らない、涙を流さないと決めたけれど……もうこんな過ちは犯したくない。だけど、冷酷な判断をしてしまうことが怖いの」
国盗りの野望が晴信の家族達を犠牲にする。それに晴信が気づいてしまったのだ。
「領地を拡大する度に次郎ちゃんや孫六、真斗あなたも失いそうで……」
晴信の痩せ細った手を真斗は優しく握った。
「安心しろ。俺は死なない。今回の戦で傷一つ負わなかった。これからの戦も傷一つ負わないからな。あと、生き残ることには自信がある。それに、信繁。あんたもそうだろ?」
木の幹の裏でビクッとなにかが動いた。
「えっ……」
信繁が木の幹からゆっくりと出てきた。宴を抜け出したことに気づいて晴信を追ってきていたのだ。
「気づいていたの?」
「気づかない方が可笑しいって。そんな殺気丸出しの視線を感じない奴がいるのかよ」
「……確かにそうね」
「本当に悪いと思ってる。こういう時は家族だけがいるべきなのによ」
「別に今回は特別よ。あんたが禰々の心を開かせてくれたから、姉上もわたしも一緒に笑うことができた。寧ろ、感謝してるのよ……って、何よそんな驚いた顔をして」
「いや、まさか感謝されるなんてな……。もしかして、明日は槍でも降るのか」
「はぁ!?わたしだって感謝する時はするわよ!あなたのことなんかだいっっっきらいだけど!!」
「まあ、俺が嫌いかどうかは兎も角。返答は?死ぬつもりはないんだろ?」
「当たり前よ。姉上と共にいるわ。やっと、姉妹仲睦まじくいれるもの」
「ほんとに?二人とも死なないって約束してくれる?」
「俺たちがそう言っているんだ。約束するに決まってる」
「真斗と同じ意見なのは癪だけど、わたしもそうよ」
そう言って真斗と信繁は晴信に微笑んだ。
夜が明け、日が昇りはじめる。朝日の優しい光が晴信達を照らしていった。
禰々の享年は僅か16歳。原作でも史実と変わりなく、不遇な人生でしたが、あまりにも可哀想だった為、少しでも救いのあるような終わり方にしました。
ここからは信濃攻略において信濃最強の敵と刃を交えることになります。武田家に襲いかかる苦難にどう立ち向かうのか、どうかお楽しみにしてください。