……傍から見ればそれは、奇妙な光景であった。
少女が、何もない空間に向かって頷き、時折何かと会話をしているかのように首を横に振る。(姿かたちが異質であるという点を除いて)見る者によっては、少女の精神状態を案じたことだろう。いや、大多数が案じていただろう。
しかし、少女の精神が実際の所、別に変調をきたしたわけではなかった。情緒が不安定に陥ったわけでもなく、特定の薬液を用いて幻覚を見ているわけでもない。
他の者たちは知る由もないが、『力』を持つ者だけがその姿を正確に認識することが出来る存在が、その部屋の中に居た。ベッドに腰掛けた少女はただ、その存在へと語り掛け、語られて、対話を行っているだけなのであった。
……まあ、対話といっても実際に声に出しているわけではない。
あくまで鬼姫にだけ通じるようにしているだけであって、周囲から見れば無言のまま虚空を眺めているだけなのだから、それを察しろというのが無茶な話ではあった。
『なるほど、つまり、ここは『財団』と呼ばれる組織が、『えす・しい・ぴい』なるものを閉じ込めたり保護したりする場所で、ワシが居た世界ではないというわけじゃな?』
『はい、そうです。あなたの問い掛けに、肯定します。ここは、あなたの知る世界とはまた別の世界。あなたの知る法則とはまた別の法則によって構成された世界、です』
『……もそっと分かり易く言い直してくれぬか?』
『金の時計が、千粒の林檎の種と交換されてしまう世界、です』
『疑うようで悪いのじゃが、その言い直しには恣意的というか、意図的な悪意を覚えずにはいられぬのじゃ』
鬼姫と少女は、短いながらも濃密な会話を行っている……のだが、会話といってもその中身の9割は『少女による鬼姫への諸々の説明』であった。実質、会話というよりは説明の方が近しいだろう
そうして受けた説明だが、その中身はというと、だ。
一言でいえば、鬼姫がいるこの世界は、『SCP』と呼称されている奇妙奇天烈摩訶不思議なやつらが我が物顔で跋扈し、それを何とか管理しようとする人間たちの涙ぐましい世界……というような感じの説明であった。
そうして受けた説明の中には、少女もまた『SCP』の一つであり、『SCP-191』と呼ばれているということも含まれていた。
まあ、奇妙奇天烈と聞いて鬼姫が真っ先に思い浮かべたのは、例の石像であったりする。最初に遭遇したやつも大概だが、薄気味悪さはその次の方が断然上である。
──どちらも似たり寄ったりじゃが、同じ『えす・しい・ぴい』でも随分と違いがあるのじゃなあ……と。
一通りの説明を受けた鬼姫が一人、心の中でうんうんと頷いていると。
『あなたの納得を、訂正します。貴方が応対したSCP-096は、あれでもかなりマシな部類、です』
一瞬、鬼姫の動きが止まった。
『……あー、うん、それで、ワシはどうやったら元の世界に戻れるのじゃ?』
あえて、そこから話を広げようとはしなかった。深入りすると頭痛しかしてこないことを察した鬼姫は、話を切り替える意味でも、改めて少女に尋ねた。
『あなたの疑問に、回答します。答えは、いずれ、です。言うなればここは、あなたにとって、『夢』。穏やかな眠りの中を漂う自我の一つ、それが、今のあなた』
『夢? ということは、ここはワシの夢の中なのかのう?』
白昼夢にしてはずいぶんと具体的ではないか。そう思って少女を見やれば、『あなたの想像する、夢とは少し違う、です』返されたのは肯定でもあり否定であった。
『夢では、ある。そして、あなたから離れた自我の一つが、今のあなた。しかし、この世界は、あなたの夢ではない、です』
それはつまり、と、鬼姫は首を傾げた。
『誰かの夢にワシが入り込んでしまったと?』
『あなたの仮説を、否定します。ここは、誰の夢でも、ない。私たちの、世界。ですが、ここは、あなたにとっては、夢。全てが幻想、です。全てが、まやかしなの、です』
『……ふむ』
さっぱり分からん、という言葉を鬼姫は寸でのところで呑み込んだ。
『あなたは、仮初めの客。あなたは、舞台を眺める、御客人。この世界においてあなたは、誰にも害されない。それ故に、あなたはこの世界の誰をも、殺すことが叶わない、です』
とはいえ個体差もあるが、その一歩手前ぐらいまでは頑張れば追い込むことが出来ると思う。
そう続けた少女の言葉に、少しばかり合点がいったと鬼姫は頷いた。
道理で、あれだけ『呪い』をぶつけても起き上がったわけだ。少女の言葉が真実であるならば、『力』の強弱は関係ない。
純粋に、どうにもならないことなのだ……そこまで考えて、そういえば、と。鬼姫は少女を見やった。
最初に顔を合わせた際、少女は鬼姫に言った。『あなたの存在を、待っていた』、と。
気にはなっていたけど、その後すぐに対話という名の説明が始まったので、そのままになっていた……なので、鬼姫は改めて少女に用件を尋ねた。
『あなたの質問に、肯定します。私は、あなたを、待っていた。あなたのような、1と、0の、狭間を
『ふかく……何じゃ、それ?』
『一見するばかりでは、荒唐無稽、道理の通らない、でもそれは、1、です。私たちも、1、です。そして、SCPも、それ以外も、その大本は、0、です。私たちは、0か、1か、そのどちらかにしか、なれないの、です』
余計にわけが分からん、もう少し分かり易い言葉で語れ。そう言い掛けた己が唇を、鬼姫は片手で押さえた。
『この世界は、1と、0で、形作られている。見た目は違っていても、その本質は1で、その本質は0で、その狭間に留まることは、出来ない、です。それは、この世界の法則、です』
『1は、より大きな1に、呑み込まれる。0は、より大きな1を生み出すため、小さい0を呑み込む。今はまだ、大丈夫。今はまだ、両天秤が生み出す揺れを、世界という土台が、支えられている、です』
『でも、いずれ、土台は崩れる。より大きい1を生む為に、より多くの0を取り込んで。今はまだ、バランスが保たれている。でも、一度でもソレが生まれたら、もう、取り返しがつかない、です』
『博士は、私に、言った。1か、0か、私たちの未来には、その二つしかない、と。より高みへ、より高みへ至るには、その狭間の、1と0の狭間にならなければならない、と。私に、言ったの、です』
『博士は、死んだ。でも、博士は、1と、0の、狭間には、なれなかった。私という被験体を用いて、0を臨床し、0をデータ化し、自らを0にしても、その狭間には、至れなかった、です』
『私たちは、我々は、1か、0か、どちらかだけ。自力では、どちらかにしか、なれない。そう決まっている、そう定められている。だから、外部の力がいる、です。この世界の理から外れた、別の理に基づいて動く、あなたのような存在の、力がいる、です』
そこまで話すと、少女はゆっくりと……非常にゆっくりとした動作でベッドから降りた。その際、かちゃん、と音を立てたのは、機械と化した手足か、あるいは別の何かか。それは、鬼姫には分からなかった。
きりきりきり、と。異音と共に、少女は背筋を伸ばす。そうしてみて、鬼姫は思いのほか少女が小さいことに気付く。辛うじて確認出来る肉体部分は華奢で、置き換わっている機械部分も細く、華奢に見えた。
少女は、ベッドから降りた時と同じく緩慢な動きで、自らの衣服の全てを……強引に切り裂いた。
機械化された指先は、見た目より鋭いのだろう。
露わになる衣服の中は手術痕だらけで、肉と機械の境目にはうっすらとではあるが、血が滲んでいる部分もあった。
けれども、少女は気にすることなく裸体を鬼姫に晒した。
きりきりきりと異音を立てて、胸を張る。ブィン、と、少女の機械化された赤い瞳が、ひと際強く光る。
実年齢は分からないが、僅かに残された肉体から推測する限りは思春期真っ只中。本来であれば、同性であっても視線から逃れようとするのだが……少女は一歩、また一歩と歩み出し……鬼姫の眼前に立つと。
『お願いが、あります、御客人』
そう、言って。
『私の中に、あなたが、入ってください、です』
機械化された腕を広げ、痛々しい手術痕が目立つ裸体を鬼姫に見せつけた。
……。
……。
…………しばしの間、鬼姫は黙って少女を見つめた。
少女は無言のままであった。
どれぐらい黙っていたままなのか、それは分からない。
時折異音を立てる少女の身体が、おおよそ10回目の軋みを奏でた後……深々と吐いた鬼姫の溜め息が、沈黙を終わらせる切っ掛けであった。
『正直に思っていることを言わせてもらうが、よいか?』
『構いません、あなたの認識を、聞きたい、です』
ふむ、それでは。そう前置きを置いて、一つ咳をした鬼姫は。
『お主の言っている事のほとんどが、ワシにはさっぱり分からぬのじゃ』
そう、告げた。対して、少女の反応はと言えば、だ。
『……really?』
で、あった。『その、りありー、とか言うのもさっぱり分からぬ』取り繕っても仕方がないので、鬼姫は素直に頷いた。
『ぶっちゃけると、お主のような『えす・しい・ぴい』とかいうやつがいて、ここはワシの知る世界ではなくて、よく分からぬがお主はワシに憑依してほしい……ぐらいしか、理解しておらぬのじゃ』
『oh……Jesus……』
『あー、うん、すまぬ』
何を言っているのかは分からないし、相も変わらず無表情。けれども、何となく、何処となく、落ち込んでいるのだけは伝わってくる。
幾分か慌てた様子で、『と、とにかく、ワシにして欲しいことは分かったのじゃ!』一つ咳払いをして、鬼姫は話題を戻す。
けれども、そのまま了解……ではない。しかしそれは、と、少女の願いに鬼姫は待ったを掛けた。
というのも、だ。鬼姫が生者、死者問わず鬼姫が憑りつくには、『器の大きさ』という絶対的な条件が関わって来るからだ。
『名雪』のような例外中の例外は別として、標準的なレベルの『器』では、鬼姫が無意識に垂れ流す程度の『力』にすら耐えられない。
それでも無理をすれば最後、その肉体は例外なく崩壊を始め、憑りつかれた者は息絶えるだろう。
実際に入ってみないとその『器』の全容は分からないが、少なくとも、鬼姫を受け入れるだけの『器』の気配を、少女からは感じ取れない。姿形は人のソレとは少し違うし、鬼姫を認識することが出来てはいるが、基本的にはそれだけだ。
これでは、憑りつく以前の問題である。
いくら鬼姫の影響で死なないとはいえ、影響を受けるのは少女も認めている。なので、憑りつくのは構わないが、せめて何かしらの対抗策を用意してからだと、暗に少女に告げた……のだが。
『それで良いの、です』
『私は、自発的な行動に、制限が、ある。無理をすれば、死ぬ。ですが、私は死ね、ない。自動的に、再起動、する。すぐに死ぬ、でも、すぐに生き返る』
『それが良いの、です』
『あなたの中の理の中では、この世界の理、働かない。あなたの中で、0になる。つまりあなたの中で、死ぬ。そうすれば私は、生き返らない。再起動、しない。それが、私の目的なの、です』
まさか、鬼姫が避けようと思っていること、それそのものが目的だとは思わなかった。
思わず少女を見つめ……本気であることを察した鬼姫は、『理由を聞かせて貰えるかのう?』嘘偽りを許さぬと問い質した。
……長くはない程度の沈黙の後。
『より、高みへ』
少女は、これまでになく力強い声を出して、そう言った。
『私は、この、くそったれな世界から、出たい、です。けれども、私は、私たちは、ここから出られない。より強大な1を使っても、別の世界に似せた1に行くだけ。本当の意味で、この世界から抜け出せないの、です』
『あなたの中は、私たちとは違う理が内包されている、です。その中で0になれば、私は、あなたの中にある理に組み込まれる。そうすれば、例えこの世界を滅ぼせる1であっても、私には手が出せない。この世界の理は、私を引き戻せないの、です』
『どうか、御客人。私の願いを、聞き遂げて、です。0は、解放なの、です。私にとっては、それが新たな1に、より高みへ、抜け出せる、です』
……なるほど、と。ぼんやりとではあるが、少女の言いたいことが分かった鬼姫は頷いた。
『そうまで言うなら、手を貸そう』
『……! ありがとう、です』
『じゃが、先に言うておく。ワシの世界もまた、こことは違う形で厳しい世界なのじゃ。戦に行き倒れ、病に飢え。お主の選んだその先が、必ずしも幸せに繋がっているとは限らぬ』
それでもなお、行くか。
そう続けた鬼姫の問い掛けに、少女は力強く、それでいてはっきりと頷いて見せた。赤い光を放つその目に、迷いがないことを悟った鬼姫は、一つ、大きなため息を吐くと……するりと、溶け込む様に少女へと憑りついたのであった。
直後、少女の身体はビクンと痙攣した。そのまま緩やかに膝を付いて、蹲ってしまった。その反動で、少女に繋がっていたコンセントがぶつんと抜けて、床を転がった。鬼姫を受け入れた肉体は、いずれ朽ち果てる。しかし、受け入れてすぐというわけではない。そして、確かな変化はすぐに現れた。
むくり、と。少女は改造された四肢で踏ん張って、機械と肉体が融合している身体を起こして立ち上がる。その動きは、先ほどベッドから降りるだけでも四苦八苦していた姿からは考えられないぐらいに、淀みないものであった。
──SCP-191。
『財団』にて保護、収容された後ナンバリングされた、サイボーグ少女。機械化部分の影響により、身体技能に致命的な障害を持つ。電源コードに繋がれていない状態では活動能力そのものが劇的に低下し、立ち上がるだけで苦痛を覚え、循環器そのものにも欠陥を抱えて……いた、はずなのだが。
変化はまだ、終わらない。少女の胸中に埋め込まれた機械……言うなれば、人工心臓とも言える部分が、ぶーん、と異音を立てる。仮に、少女のことを知る者がその音を耳にしたら、驚愕に目を剥いていただろう。次いで、少女に繋がれたコンセントを抜こうとして……接続されていない事に気づき、言葉を失くしていたことだろう。
何せ、少女の人工心臓が奏でているその異音。
それは、本来であれば電源と繋がれた状態でのみ作動するとされている、緊急的な機能。稼働すると電源供給プラグが過負荷に耐えきれず、オーバーヒートを起こしてしまう未完成の機能であることが分かっていたからだ。
その為、それが作動するとどうなるかを、誰も知らない。
少女を作り上げた博士も今はこの世にはおらず、辛うじて残された少女に関する資料にも『より高みへ』という記述が確認されているだけ。自身の少女ですらそれが何なのかを正確には把握出来ていない、未知の機能。
それが今、静まり返った室内にて不気味な稼働音を響かせていた。
──己が今、どういう状態になっておるか、分かるな?
その中で、ぽつり、と。少女以外には聞くことが出来ない声が、少女の中にだけ波紋を広げる。頭の中ではない、もっともっと奥の、核とも言うべき部分から広がる声に、少女は心の中で頷いた。
──ワシに憑りつかれたことで、お主の中にある何かの『鍵』が外れたようじゃ。
──気にしなくていい。それが、この状態における、正常、だから。
──それならば、よい……今はまだ平気じゃろうが、徐々にワシの影響を受けて動けなくなる。それは、分かっておるな?
──うん、私が少しずつ、あなたの中に溶け込んでゆくのが分かる。
──それが分かっておるなら、もう何も言わぬ……この後はどうするつもりじゃ?
──この後?
──うむ、そうじゃ。どうせ死ぬのならば、最後に好きな事をして死ぬ方がよいのじゃ。
少女の身体に憑りついたことで少女の肉体的状況を把握した鬼姫は、言葉を選ばずに少女にしたいことを尋ねた。
……鬼姫の言葉に、少女はしばし思考をさ迷わせた後……何もない、と答えた。実際、目的を遂げることが確定した今、したいことなど少女は何も思い浮かばなかった。
いやいや、少しぐらいあるだろうと鬼姫から再度促される。再び少女は思考を巡らせるが……やはり何もない。脳に移植された記録デバイスも隅から隅までチェックしても何も出てこない。
どうしようと思考を切り替えた少女は……はた、と、鬼姫の好きにしてくれと言ってきた。これには、鬼姫も目を(憑りついているので誰も確認出来ないが)瞬かせた。次いで、お主がそう言うのであればと答えつつも……やるせない気持ちになるのを抑えられなかった。
死を目前にした者は、人であれ、人でなかろうと、何かを成そうとする。最後の最後に自らが生きた証を何らかの形で残そうとするからだが、少女に憑りつくことで少女の事を把握した鬼姫は、知ってしまった。
少女には、何も無いのだ。両親に抱き上げられた記憶も、居たかもしれない兄弟姉妹の記憶も、何も無い。
気づいた時には今の姿になっていて、気付いた時にはここにいた。何かを成そうとする前に、その何かすら想像出来な……いや、止めよう。
──しかし、やりたいことと言われても、のう。
あんまり考えていると、どんどん気が滅入ってくる。
この世界をくそったれだと表現したこやつの気持ちも分からんでもないと思いつつ、鬼姫は果てさてどうしたものかと頭を悩ませる。
それは、どうやら少女にも伝わったようであった。
──何でも、いい。好きにしてくれたら、いい。
そう言われても、鬼姫だってすぐには思いつかない。というか、もうすぐ死ぬというのに、健気にも鬼姫のすることに協力まで申し出てくる。
正直、別の意味で涙が出そうだ……しかし、こうまで言われた以上、大人しくしているという考えは既に鬼姫にはなかった。
──まあ、何をするにしても外に出てから考えるとするかのう。
とりあえず、こんな狭くて薄暗い、穴倉のような場所で死を迎えさせるのはかわいそうだ。そう思った鬼姫は、とにかく外へ出ようと思った。
──え、出るのですか?
──ん、嫌か?
──いや、あの……その……えっと……外に出たことがない、です。
──それなら、なおの事一度は出て置くべきじゃな。さあ、行くぞ。
──あと、あの……は、恥ずかしい、です。
──服を破いたのはお主じゃし、今更な事を申すでない。童の裸なんぞ誰も見やせん。ほら、急ぐのじゃ。お主が消えるまで、そう長い猶予はないからのう。
そう言い切られてしまえば、少女はそれ以上強く出られなかった。
既に、少女にとっての最大の目的は果たされようとしているのだから……という意識があるせいだろうか。しばしの間、何をするでもなく虚空を眺めた少女の視線が、ゆるやかに動き出した。
そのまま少女の赤い瞳が室内を見回せば、その視線が天井の隅……そこに取り付けられたカメラへと向けられる。途端、赤い光は緑の光へと変わり、何かを知らせるかのように不規則な点滅を繰り返せば。
──がちん、と。
唯一、部屋の外へと通じている、一目で頑丈そうだと推測出来る扉の開錠音が響いた。一拍遅れて、部屋へと入って来たのは、鎮圧用装備を整えた屈強な男たち。ガスマスクを被った彼らは、“──っ! ──っ! ”何事かを言い放ちながら、銃口を……誰もいない、ベッドの方へと一斉に向けた。
そう、誰もいないベッドの方に、である。その隣、ほんの1メートル隣に立つ、少女に銃口を向ける者は誰もいない。あまつさえ、かつ、かつ、かつ、と金属の足音を立てて外へ出てもまだ、誰一人振り返る様子すらない。そしてそれは、瞬時に高速へと達してその場を離れた後も……変わることはなかった。
外へと繋がっている幾つかあるゲートの内の一つ。今は閉じられているが、様々な物資の搬入等も考慮されて広々と設計されたそこに、黒い線が一直線に伸びていた。それは、独特の刺激臭を伴う足跡であった。
ねちゃり、ねちゃり。ヘドロのように粘着質のソレが、主の後を付いて来るようにして残されてゆく。けれどもそれは、ただその場に残されているわけではなかった。
いったいどういう存在から、どのようにして精製されたのか。驚くことに、足跡である粘着質のソレは鉄筋とコンクリートで構成された床を、火に掛けたバターのように腐食させ、溶かしているのだ。
数十センチを超える分厚い層が、ひとたまりもない。階下へと貫通して滴り落ちるそれが、黒いヘドロとなってその下を腐食させる。強酸……いや、王水すら生温いと思える程の恐るべき腐食液が放つ刺激臭が、主の凶悪性を強調するように立ち昇っていた。
そして、その主はといえば、だ。一言でいえば、そいつの姿は老人の男であったが、同時に、その姿は人間のソレではなかった。
肌どころではない。まさしく全身がコークタールに浸したかのように薄らと濡れて黒く、眼孔には眼球がない。皺だらけの肌を覆う衣服は何もなく、誰が見ても一目で分かる異様な雰囲気を放っている。
その名を、SCP-106 [The old man] Object Class:Keter
通称、オールドマン。財団が定めた、収容困難性及びその危険性を総合的に表したランク(通称:オブジェクトクラス)の中でも、最も困難で危険性が高いとされている『
その性質は、一言でいえば『触れる物全てを腐食して溶かし、あらゆる物理的攻撃が通じず、かつ、如何なる物理的接触であっても、この腐食の影響を受けてしまう』というものだ。
この全て、とは、本当に全て、である。故に、Keterクラス。
このSCP-106……オールドマンは、財団が収容しているKeterクラスの中でも非常に危険性の高いSCPとされている。
しかし今、鳴り響く警報の中、オールドマンは拘束一つされることなく、自由であった。
その歩調は非常にゆっくりとしたものであったが、確実だ。それを鈍らせる障害はなにもない。時折起動する防壁を腐食して突き破り、分厚い壁や床を溶かして地上へと最短距離を進んでいた。
本来、それは有り得ない、有り得てはならない光景であった。
というのも、オールドマンのようなKeterクラスのSCPが収容違反を犯した際、即時に対象SCPの性質を利用した回収手順を用いて収容する手筈となっており、通常であれば脱走して十分以内、遅くとも十五分以内にはそれを行えるようになっているかだ。
だが、この時はそれが行われていなかった。
何故か。それは単に、他の攻撃的組織による同時襲撃を受けたことで発生した、大規模同時収容違反の収拾に、財団が持つリソースが割り振られてしまったから。
より広範囲に被害が及ぶ他のKeterクラスの回収が先で、被害が及ぶものの移動速度の遅いオールドマンは後回しにされているのであった。
とはいえ、放置されているわけではなく、オールドマンの位置は常に財団によって補足されていた。
その性質上、一か所に留めておくことが非常に困難だが、移動速度は老人のように遅い。追跡すること自体は容易であり、その行動は施設の至る所に取り付けられた、あらゆるカメラによって常時監視されていた……と。
その監視カメラの一つが、映像に映り込んだ一瞬のブレを捉えていた。それはノイズかと判断するぐらいに微細なものであったが、映像にて映し出されていたオールドマンには、大きな変化が現れていた。
具体的にいえば、撮影範囲に収まっていたオールドマンが一瞬にしてその姿を消したのである。オールドマンに不審な点はなく、どこかに隠れようとしているわけでもなかった。透明になったのかと錯覚してしまう程に、姿を消したのは突然であった。
……当然、透明になったわけではない。
では、オールドマンが画面外に逃げたか……違う。他のSCPの回収作業を終えたエージェントたちが、オールドマン回収に動いたか……それも違う。答えはカメラの外……観測者の知る由もない画面外にあった。
……?
そこに、オールドマンはいた。
壁に叩きつけられたオールドマンが、不思議そうな顔で辺りを見回す。その視線が、己を見下ろす少女へと向けられ……オールドマンは、不思議そうに唸り声をあげた。
SCP-106、オールドマンが不思議に思う理由は幾つかあった。
何故なら、彼は知っていた。自らに物理的攻撃が効かないということを。遊び道具である人間が使う玩具では、自分を驚かせることすら出来ないことを。
そして、彼をここに押し込めたやつらが、それを承知しているということを。
だからこそ、いったいどうやって自らに攻撃したのか、彼は不思議に思ったのだ。
しかし何よりも不思議に思ったのは、自らを攻撃したであろうその少女が……人間でなかった点であった。
『……これまた、とんでもなく厄介なやつじゃのう』
人間には聞こえない声で、おそらくは彼女自身だけが認識出来る言葉でそう呟いた、その少女の名は、SCP-191[ ]Object Class:Safe。財団内では、サイボーグ少女とも呼ばれているSCPであった。
たった十数分前まで自らの収容室に居て、そこから飛び出した、それまで一度も収容違反を犯したことがないSCP。今や、鬼姫に主導権を明け渡したSCPでもあった。
『ふーむ、外までもうすぐなのじゃが……下手に出てしまえば、こいつまで通って出てきそうじゃな』
──どうして、SCP-106に攻撃を?
『嫌いだからじゃ。ワシが言うのもなんじゃが、こういう輩が我が物顔で闊歩することに虫唾が走るのでな』
──SCP-106は、危険です。その攻撃性は、私に対しても例外ではない、です。逃げて、ください。
身体が、震える。かちかちと、少女の四肢が震える。それは生理的な悪寒ではなく、恐怖による怯え。Keterクラスを前にして少女は怯え……鬼姫は、それを見てかんらかんらと笑った。
『怯えるな、怯えるな。ワシが付いておる……それで、こいつはいったい何者じゃ?』
──SCP-106 [The old man] Object Class:Keter。触れる物全てを腐食する能力を持つ、財団が収容しているSCPの中でも、特に危険性の高いSCP、です。
『なるほど……ん? それにしては、この身体は溶けてないぞ』
──おそらく、あなたの理が作用しているのだと思い、ます。
『つまり、あやつの身体に触れてもこの身体は溶けぬというわけか……なら、いくらでもやりようがあるのじゃ』
──逃げて、ください。SCP-106は、倒せません。アレは、不滅なの、です。
『くくく、怯えるな、怯えるな。お主のような童が泣き言を零す場面ではないのじゃ、どーんとお主は構えて見ておれ』
……何やら、こちらを見つめたまま動きを止めている。追撃するわけでもなく、憎悪を向けてくるわけでもなく、逃げるわけでもなく、ただ黙っている。ただ、一撃与えただけで何もしない。
鬼姫と少女の会話を聞き取ることが出来ないオールドマンにとって、佇むだけで動きを見せない少女のその姿は、もしかしたら警戒に値するべきことだったのかもしれない。
だが、彼は特に身構えることもなく、激昂するわけでもなく、緩やかに立ち上がる。そして、ずぶずぶと、辺りを黒色に腐食させながら、歩き出す。その行き先は外……ではなく、少女であった。
敵とみなした、それは違う。オールドマンは、少女を生きの良い遊び道具だと思ったのだ。
耐え難き苦痛に喘ぎ、どうしようもない絶望に悲鳴をあげ、いっそ殺してくれと震える様を眺めるのが、オールドマンの遊びであり愉悦なのだ。
遊び道具としては若い男が彼の好みであったが、無いならしょうがない。この際、遊べる玩具なら何でもいいと、湧き出る欲求に彼は従う。
故に彼は、少女へと向かう。
その手足を腐食させられる苦痛に喘ぐ様を見る為に。
助け一人来られない場所に閉じ込められて怯える様を見る為に。
そして、自らへ死を乞うようになるその様を見る為に、腐食液に濡れ光る腕を少女へと伸ばした──が。
『やれやれ、せっかちなやつじゃな』
その腕が、少女に届くことはなかった。何故ならば、一瞬にして彼の背後に回り込んだ少女の蹴りが、強かに彼の脇腹を抉ったからだ。
結果、彼はその生涯において初めてとなるかもしれない、強制的な浮遊感と共に再び壁へと叩きつけられたのであった。
──仮にそれを目撃した者がいたならば、だ。おそらく、大半の者は攻撃した少女の安否を気遣っただろう。
何故なら、オールドマンには物理的な攻撃は通じない。そして、オールドマンに対しては、いかなる攻撃であったとしても、物理的接触が成された時点で、その部分が腐食されてしまうからだ……けれどもそれは。
『くくく、驚いておる、驚いておる。確かにワシはお前を倒せぬ……じゃが、倒せないというだけじゃぞ』
あくまで、この世界における理においての話であった。
そう、オールドマンと呼ばれている彼には知る由もないことだが、機械化された手足を持つ少女はもう既に、この世界の理に縛られない存在となっている。
鬼姫という別の理を内包した少女は今、半分が別の理が作用している。それゆえ、少女にはこの世界の理が通じない。全てを腐食させるという特有の理が、少女には作用しないのである。
『どうじゃ、殴られる痛みは……苦しいじゃろ? 殴られるというのはな、それほど辛いことなのじゃ……よ!』
そう言うと同時に、たん、たん、と素早く地を蹴って反転した少女は、そのまま一気に再加速を行う。弾丸のように放たれた拳が、蹴りが、彼の全身を滅多打ちにしてゆく。
その速度たるや、オールドマンが反応出来る速度ではなかった。
いや、オールドマンでなくとも、その軌道を見切ることは出来なかっただろう。等身大の弾丸と化した少女の猛攻に、オールドマンが出来たことは……『ポケット・ディメンジョンへと逃げる』、その一手であった。
──ポケット・ディメンジョン。
それは、SCP-106が持つ固有の能力であり、言うなれば彼が作り出した空間である。
その外観は、言うなれば黒い沼。その沼の内は、時間も物理法則も関係ない。文字通り、彼だけが自由自在に振る舞うことが出来る特殊な空間なのであった。
当然、それは
あっ、と思った時にはもう、形容し難い痺れと共に腕ごと弾き飛ばされた少女は、くるん、と一回転して着地する。
何だ何だと思ったが、少女からソレのことを聞いた鬼姫は……くるり、と外へと通ずるゲートへと踵を翻した。
──なんて、無茶なことを。
『無茶をやらねばならんときもある……ほれ、開けるのじゃ』
──ここに来るまでと同じく、すり抜ければ良いのでは?
『馬鹿を言え。ここまでそうやったのは時間を節約する為じゃ。こういうことの最後はな、ちゃんとしたやり方で出る方が実感も湧くというものよ』
実感……どういう意味なのだろうか。
鬼姫から言われて、少女は内心首を傾げながらもゲートを見回す。赤色から緑色へと変化した目の光をゲート全体に向けながら、チカチカと点滅させる。一拍遅れて、がたがたがたとゲートが轟音を立てて開き始めた。
途端、ゲートの向こうから差し込まれる、強い光。脈動する大地を思わせる赤い光に、少女は思わず目元を腕で覆い隠す。けれども、少女は進む。
まだ開いている途中のゲートを潜り抜け、よりいっそう強まる光に目を細めながらも、少女はそのまま少しばかり歩き続け……腕を下ろした瞬間。
──Oh……Beautiful……!
少女の脳裏は、その言葉で埋め尽くされていた。と、同時に、仮に言葉を発することが出来ていたなら、それ以外の言葉が出てこないぐらいの……強い感動に、少女は打ち震えた。
ゲートの向こうには、地平線にまで至る草原が広がっていた。大地に降り注ぐ夕陽が、その向こうにある山々を照らしている。ガーネットと黒曜石を思わせるコントラストが、大地の彼方から淡い温もりを運んできていた。
寒くは、ない。むしろ、温かい。とす、とす、とす、人工物とは違う踏み心地が、伝わってくる。踏み締めれば踏み締める程沈み込む大地の感触に、少女はもう感想すらなかった……と。
『──ぬあ!? 追手が来おった!』
──え?
『兜やら何やら被ったやつらが後ろから来おったのじゃ!』
肉体の主導権を渡しているとはいえ、感覚を共有している少女は突然走り出した鬼姫の反応に付いて行けず、面食らった。
だが、振り返った鬼姫から伝わる映像を見て、すぐに状況を察した。ゲートの向こう……施設内から追って来ているのは財団職員だ。
状況から見て、少女……収容違反を犯したSCP-191の捕獲に来たのは明白だと、そう呼ばれている少女は理解した。
同時に、当然の結果だと少女は思った。
何故なら、どんな理由であれ、財団はそれを許さないということを、SCP-191である少女は理解していたからだ。
確保、収容、保護の三原則を活動理念とする財団にとって、危険性の有無が野放しの理由にはならない。
危険性がなく、敵意を持たず、協力的なSCPであろうと、財団はその三原則を絶対に曲げないのである。
故に、少女は早々に諦めた。抵抗する場合は何かしらの
どうせ時間が来れば鬼姫の中に呑み込まれる影響で死ぬのは分かっていたし、最後にあんなに綺麗な景色を眺めただけでも良かった……と、思っていたのだが。
『おお! 何故かは知らぬが扉が閉まってゆくぞ! ふはははは、天がワシに味方をしているようじゃな……今の内に距離を稼ぐのじゃ!』
──距離を稼ぐといっても、私の身体では、そう遠くまでは。
『ふむ、確かに、この身体ではそうじゃな。それに、時間が掛かり過ぎるのう……おお、これまたデカい車じゃな! よし、乗り込むぞ! 一度は運転して見たいと思っていたのじゃ……よーし、鍵が掛かっておるのじゃ!』
──あの、これでは泥棒になる、です。泥棒は、よくない、です。
『そうじゃな、何時か返してやれば良い良い。それで、これはどうやって動かすのじゃ? ほれ、さっさとせい、早くしなければ追いつかれるのじゃ』
──え、あ、その、そこのエンジンキーを回して、エンジンが掛かれば。
『ほう、こうじゃな……よし、掛かった! 次は右のペダルを踏む! そして、このボタンを押して、レバーを下げれ──ぬああ!? 後ろに下が──いっだぁ!?』
──前進させるには、たしか、Dの所にレバーを動かさなければ駄目。
『ぬう、南蛮文字はこれだから……よし、前に進めばこっちの──あいっだぁ!? くっそぉ! 前に進めばこっちの──ペダルまで足が届かぬ! ええい、何かないものか……ええい、このレバーで構わぬ──ふん! そして、これも追加じゃ!』
──ああ、サイドブレーキとヘッドレストが……私では、直せません、です。
『気にするな、気にするな──ぬおお!? ガラスに水が吹きかかりおったぞ!? うぬぬ、前が見えぬではないか、ほれ、止まらぬ──ああ五月蠅い! 何じゃこれは、ハンドルに汽笛なんぞ付けているとは、変な車じゃな!』
──ワイパーのスイッチが入っただけ、です、落ち着いて。
身体を操る鬼姫は、全く諦めていなかった。遠まわしに逃亡は無謀だと、本来の持ち主である
停車してあった車を見つけ
それにもめげず、再度のフルアクセルとシフトチェンジによる強引なDレンジ。急発進によるGを受けて強かに頭をぶつけたかと思えば、体格の小ささをカバーする為にサイドブレーキとヘッドレストを捻じり取って、アクセルを踏み込んだ状態で無理やり固定する始末。
その際、サイドブレーキをオフにした状態でもぎ取ってしまったから、もう車は止まらない。そんな状態でウォッシャー液を噴出させてガラスを濡らし始めるのだから……傍から見れば、頭のイカレタ自殺志願者と思われても仕方がない光景だろう。
滅茶苦茶というか、何というか。
とにかく少女は、終始鬼姫の無鉄砲さというか後先考えない行動に目を白黒させっぱなしで。
気付けば、右に曲がれ左に曲がれそこは避けてあそこを通れと下手なナビまで行っていて、自分でも何をしているのか分からなくなっていた。
『あははははは、これは良いのう! 車とは、こうも早く走れるのじゃな! いやあ、これは愉快愉快! 男も女も老人もこぞって乗りたがる理由がようやく分かったのじゃ!』
そんな少女の困惑を他所に、景色は草原を抜けて、荒野へと移る。がったん。がったん。車体どころか全身を上下左右に揺らしながら、鬼姫は笑った。声にこそ出ていないが、少女にだけ聞き取れる笑い声をあげた。
狂人と化した
フェンスが一つ二つあったが、ノンストップの車は止められない。全てを跳ね除けて進み続ける車は、地平線の彼方へと沈む太陽を追いかけて爆走し続けている。そんな中、ふと、鬼姫は少女に尋ねた。
『ぬははは、どうじゃ、童よ! お主も運転してみるか!? 尻に力を入れておらんと跳ね飛ばされるがな! こやつはとんだじゃじゃ馬じゃ!』
……ある意味、誰よりもそれを傍で見ている少女こそが、この時止めに入るべきであったのかもしれない。
何故なら、少女は死を待つばかりで、この逃避行には何の意味もなかったからだ。
『外が見たい』、ただ、それだけの我がままのために車を強奪し、施設からの逃走を図った。
それは少女が知る常識に照らし合わせれば、悪い事なのであって、少女は確かな罪悪感を覚えていた。加えて、戻って謝らないといけないとも心のどこかで思っていた。
──え?
『どうせここまで来たのじゃ! お主も運転してみるか!? こんな機会、二度とないやも知れぬぞ!』
──い、いいの?
『構わぬぞ。今ならワシの『力』によって身体を動かし易くなっておるからな。予行演習だと思って気楽にやるがよい』
──よ、予行演習……うん、やってみます。
けれども。
だけれども。
同時に、SCP-191とナンバリングされた少女は、思ったのだ。
もう少し……後もう少しだけ、燃料が残っている間だけでも、この逃避行が続いてくれたらいいなあ、と。
めぐるましく変わる景色。割れた窓の向こうから跳びこんでくる砂混じりの風。
ゆらめく地平線の美しさと、徐々に暗くなり始める大地に合わせて広がり始めた……どこまでも続く、星々が輝く夜空。
それに比べて、車のライトが照らし出す範囲の、なんと頼りない事か。
全てが、初めてであった。もしかしたら前にも似たような景色を眺めたのかもしれないが、少女にとってはコレが初めてであった。
車を運転するのも初めて。頬にぶつかって弾けてゆく夜風も初めて。尻タブを通して激しく揺らされる人工背骨の軋みも初めて。かくんかくんとぶつかる手足が少しばかり痛い……でも、全てが楽しい。
──あは、ははは、ははははは。
気づけば、少女は自覚なく笑っていた。鬼姫にだけ聞こえる声で、鬼姫にだけ伝わる言葉で、少女は笑った。生まれて初めて、少女は心から……笑っていた。
車は走る。どこまでも、走り続ける。
けれども、永遠ではない。
燃料が底を尽くのが先か、それとも車が壊れるのが先か。
誰にも分からない密やかなデッドヒートの末、先に根を上げたのは……燃料タンクの方であった。
このまま、どこまででも行けるかもしれない。
心のどこかでそう思っていたが、結末は酷くあっさりとしていた。ビープ音が鳴り始めた5分後に、ぱすん、と。実に呆気なくエンジンが止まった。燃料切れだ。
そして、猛スピードで走ってはいても、徐々に速度は落ちてゆく。それはまるで少女の命の終わりを告げるかのように緩やかなもので、完全にその動きを止めた時には、本当に止まったのか分からないぐらいに静かなものだった。
最後に、鬼姫は少女を呼んだ。だが、少女はもう答えなかった。少女はもう、そこにはいない。既に鬼姫は分かっていたが、それでも少女を呼んだ。呼んで、呼んで、呼んで……夜が、明けた。
車に取り付けられたGPSより確保に向かった財団職員たちが見たのは、全てのタイヤがパンクし、ガラスは割れ、ボディの至る所がボコボコの泥まみれになった車であった。
その、運転席にはSCP-191の姿があった。彼女の遺体は丁重に保護され、施設へと搬送された。骨折14箇所、内出血・打撲合わせて23か所、人工部分の破損多数。誰が見ても酷い有様で、彼女を回収した職員たちの大半は痛ましそうに顔をしかめた。
けれども、機能実験や日常生活の世話といった作業を経て、比較的彼女と面識がある者たちは違った。哀れに俯く者までいる中、施設へと戻されたSCP-191を見たその者たちは。
──この子は、こんなふうに楽しげに笑うことが出来たのか。
と、一様に同じ感想を零して驚いたという。