……。
……。
…………ちん、ちん、と。雀だろうか、あるいは名も知らぬ鳥だろうか。聞こえて来るさえずりに、鬼姫は唸り声と共にゆっくりと目を開ける。
途端、視界を覆い尽くす眩しさにビクリと肩を震わせた鬼姫は、『──ふぎゃ!』勢い余って階段を転げ落ちた。まあ、階段と言っても境内から社へと続く数段程度のモノだ。落ちたところで怪我などするわけではないけれど、それでも突然のことに驚いた鬼姫は、寝ぼけ眼を擦りながら身体を起こした。
……ここは、何処じゃ……ああ、ワシの神社か。
欠伸を一つ零しながら、鬼姫は辺りを見回す。最初、そこが境内で、自らを祭った(と、されている)神社だとは思わなかった。同時に、今が何時であることを思い出し、自分が今の今まで何をしていたのかを思い出すのに、しばしの時間を要した。
『……まる一日眠っておったのか』
寝棒にも程があるのう、と、鬼姫は頭を掻く。顔をあげれば、薄らと夜空が白み始めているのが見える。先ほどよりも大きな欠伸を零しながら、鬼姫は立ち上がって大きく伸びをする。次いで、賽銭箱に腰を下ろすと……はて、と首を傾げた。
(……思い出せぬ)
夢を、見ていた気がする。瞬きすれば見落としてしまいそうなぐらいに短い夢だったか、あるいは何日にも感じられた夢だったか。いまいち、思い出すことが出来ない。
夢を見ていたのは、確かだ。だが、どんな夢だったのかを思い出せない。
怖い夢だったか、楽しい夢だったか、悲しい夢だったか、怒りに打ち震える夢だったか。その、欠片すら思い浮かべることが出来ない。何一つ、思い出すことが出来ないことに鬼姫は首を傾げた。
そのうち、思い出せるだろうか。気になった鬼姫は夢の中身に意識を向けた。
特に、何か用事があるわけでもない。眠気が覚めるまで、夢の内容を思い出すまで、鬼姫はぼんやりと境内を見下ろす。何をするでもなく目に留まった蟻の行列を見つめ、笑みを零す。
生者、死者、問わず恐れられる鬼姫だが、さすがに蟻のような微細な生き物にはあまり関係ないのかもしれない。そういえば、お由宇の神社に行くまでは、よくこうして蟻の行列を眺めていたなあ……と、懐かしく思っていると。
『……ん?』
不意に、鬼姫は顔をあげた。
理由は、至極単純。定期的に供え物を持ってくる神官を除けば滅多に人が来なくなったこの神社へと、その滅多に来ないはずの人が近づいてくる気配を感じ取ったからであった。
参拝客か……珍しいのう。
いちおう、感じ取れる気配から『力』の有無を探る。特に不穏な感じはしないが、油断はしない。ソフィアの件もあるし、何の見所もない神社だ。もしかしたら、また変なやつが来たのかもしれないと鬼姫は気配に意識を集中した。
(……変じゃな。『力』はほとんど感じぬが、気配が弱い……というか、薄い?)
そうしてふと、鬼姫は気配の違和感に気付く。理由が鬼姫には分からないが、感じ取れる気配が妙に薄い。こうして一度でも捕捉すればその位置を確認出来るが、そこらの悪霊ではよほど不用意なことをされない限り発見出来ないというレベルである。
術等を用いて意図的に隠しているという感じではないし、死にかけているという感じでもない。それならそれで不自然な境目というか、生と死の揺らぎが分かるからだ。
だが、それが気配からは全く感じ取れない。まるで、性質そのものが透明であるかのような異様な薄さだ。いったい、どういう
少々、その面を拝んでやろう。そんな興味の下、鬼姫は静観することにした。
相手が何であれ、万が一の不覚すら取るつもりはないが、まあその時はその時だ。そんな軽い気持ちで、普通の人間と同じぐらいの速度で昇ってくる気配が残り100……50……20と近づいて来たのを感じ取った鬼姫は、さて、と鳥居の方へと目をやり……ほう、と目を瞬かせた。
鳥居をくぐって境内に入って来たのは、艶やかな黒髪が目立つ長身の女性であった。と、同時に、恰好はセーターとジーンズにスニーカーという地味なモノだが、神社には些か似つかわしくない風貌でもあった。
まず、美人であった。それも、近所では評判というレベルではない。
一目で抜群だと分かるプロポーションに加え、歩くというただそれだけの所作に、何とも言えないスポーティな色気が伴っていた。仮にこの場に誰かが居たなら、どこぞのモデルが来たのかとしばし考え込んだだろう。
まあ、風貌こそ別嬪の一言だが、所持している物に不自然なところはない。小さなハンドバックと、一升瓶。それを持った女は鬼姫の前に立つと、無言のままに酒瓶を賽銭箱の前に置き、小銭を幾らか放って手を合わせた。
これ幸いにと、鬼姫は目と鼻の先まで顔を近づける。
一瞬ばかり目が合った……ような気がしたが、すぐに逸らされた。
わざと逸らしたのかと思ったが、どれだけ深く探っても『力』を感じ取れない辺り、偶然だろう。そう判断した辺りで、女は顔をあげると神社に背を向けた。
……本当に、お参りが目的のようだ。
にわかには信じがたい話であったが、まあ、御供えしてくれるなら死者だろうが生者だろうがどっちでもいい。
神社の主としては罰当たりを通り越して地獄に叩き落されるレベルの俗物っぷりだが、『御供え、感謝するのじゃ』鬼姫は神様ではないので全く気にしない。
久方ぶりに訪れた、何時もとは違う銘柄の酒との出会い。それに頬を緩めると、鳥居を出て山を(階段を)下りてゆく女の背中に手を振った。何とも、現金な怨霊であった。
……だから、鬼姫は気付かなかった。
階段を下りた後。鬼姫の視界から消えた女が、密かに神社へと振り返った女が。
──私の方こそ感謝なの、です。
ぽつり、ぽつりと。
──より高みへ……至りました、です。
そう呟いていたことに、鬼姫は最後まで気づくことはなかった。
次でおしまいだけど、おまけみたいな感じなので、続きというわけではない