夕日が沈みかけた午後。鈴虫がやけに騒がしい事も、前日の台風によって作られた泥濘が自転車のタイヤで舞い上がる事も、耳に入らず目にも入らない脱力した時間だった。不覚にも疲労が目の前に迫っており、辺りの何もかもが流れるだけ流れて、自分自身には干渉してこない。すぐ側まで夜も迫る中、僕は自転車を押して、土手を歩いていた。
足先が重たいのは恐らく気のせいだろう。
ぼんやりと左側に目をやると川が見えた。多少濁っているのは台風の影響だろうか。小枝やペットボトルもうっすらと確認できる。その手前の河川敷では母親と遊ぶ子どもがはしゃいでいた。季節前の凧を全力疾走で持ち上げようと、母親に何やら頼んでいるように見える。そして、なだらかな斜面にはススキが広がっており、カサカサと音を立てていた。鈴虫と比べれば小さな音だったが、僕の耳にしっかりと届いたらしかった。それは、道にはみ出したススキの一部が制服のズボンを擦っていた感触と同化し、共感覚のような深い味わいが確かにあったのだった。
土手の道が高速道路で分断されると、道は河川敷へと降りて行くため坂に差し掛かった。一歩一歩進むと、脚から全身へ振動が送られた。波のように、硬直した身体を踵から頭の天辺まで駆け上がっていく。その振動はマッサージに似ても似つかず、ただ己を突き抜ける感覚があるだけだった。
「先輩!」
彼女の姿を見つけるよりも先に、彼女が僕の姿を見つけたらしかった。その伸びのある声は、舞台上から客席まで届かせるための練習の成果に違いない。高架下もあって反響を考慮したとしても、気が付いてから振り向いた時、距離は目視でも25メートルほど離れていた。彼女の声はよく耳に馴染んでいた。
「ここ、帰り道なんですか?」
タッタッタと駆け寄った彼女は、純粋な眼差しで質問した。砂利の音が微かに残った。
「うん。もうちょっと明るい時間に帰宅してるんだけどね」
僕は指で空を指差し、それを左へと払った。彼女は薄花色の瞳でその指先を追いかけた。
「そうだったんですね。よかった……初めは見間違いかと思いました。お話しして人違いだったらどうしようって、不安になっていたんです」
そう言いながら、首を少しだけ傾けて苦い微笑みを表した。生卵を潰さないように手を握って、顎の下に添えながら。
「にしても、随分ハッキリと呼ばれた気がする」
「そっそれは……その、つい発声練習の名残りが……」
完全に日は落ち、あたりは暗くなり始めていた。夕日の赤やオレンジやピンクなどの暖色が、彼女の頬を染める言い訳として存在せず、彼女もそれを知ってか知らずか、顔を背けながら呟いた。
「……そうです! 先輩にお聞きしたいことがありました」
ごまかすように、何かを思いだした口ぶりで話題を変えた。恐らくさっきまでの話題は居心地の悪いものだったのだろう。話し出す前に、こほんと一つ咳をしていた。そして上機嫌を作り出して、いとも簡単にペースを乗せた。
「まずは、ご卒業おめでとうございます」
姿勢を整え彼女は改まり言った。そっと弾んで姿勢を整えたため、ジャージ素材のパーカーのチャックが、カシャと音を出した。
「それで"卒業生を送る会"についてのお話をと思いまして」
ほんの少し回りくどい雰囲気が漂っていた。口籠る事はないが、妙に滑らかだった。まるで一から十まで用意された言葉を喋るみたいに。
「毎年、下級生が上級生に色々な贈り物をしますよね。演奏だったり、映像だったり、歌だったり……」
ひとつひとつ過去を思い出させる朗読者のような、緩やかな口調で伝えていた。
「先輩方からも贈り物がご用意されて、一年生の頃、可笑しくて楽しくて、そして悲しくて……とっても印象に残っています」
遠くから焼いた芋の匂いが漂い、僕の鼻腔を刺激する。高速道路をビュンと通り過ぎたのだろうか。焼き芋屋さんの独特なフレーズは聞こえてこない。
「去年は、そうです。先生方のビデオレターが感動しました。異動された先生方……ですよね。卒業生と関わりの持つ……」
「劇をやるから練習相手にって話?」
終には僕が、それを発してしまった。明らかに、彼女がたらした釣り針は丸見えだった。きっと、気づいてくれたら噛む程度の心境で待っていたのだろうが、待とうとすれば夜になっても、何年経っても、いつまでも待ち続けられる忍耐が、彼女には備わっている。生憎、疲労困憊の肉体を持ったまま、それに付き合っている余裕はなかった。
「……はい。半分は、です」
「お聞きしたいこと、じゃないね」
「ごっ、ごめんなさい」
鈴虫の音色が鼓膜をガンガンと叩いていた。頭上の高速道路からは、車両が通るたびに軋む音とエンジンの音が不協和音として、ここまで届く。それは振動となって皮膚に触れ、呼応し、暗い風を浴びていた皮膚の感覚を刺激した。もう制服の上に羽織るコートかダウンが必要な季節になったのだろう。表に出しっぱなしの顔が熱を帯び始めた気がした。
「そこでですね。その……劇ではなく、映像作品にしようと考えていて……でも、その」
彼女は僕が話の腰を折ったあたりから、この話題に関して、歯切れが悪くなった。もしかしたら大まかな台本を用意していて、それを土台に会話を進行していたのだとしたら、申し訳ないことをしたはずだった。
「……練習相手、ではなく……先輩に、出演して欲しくて。送られる側が何でというお話も分かりますが……シーンも少ないですし、台詞も多くはありません、ですので……」
多くを語っている彼女の瞳に、戸惑いの色が見え隠れしている気がした。普段の単刀直入、結論を頭に置く彼女の言論には、常に分かりやすさが居座っていたが、今はその痕跡すらも確認できない。
「わかった。大変じゃなければ手伝うよ」
「本当ですか?」
「うん」
彼女は安心したという様子で、肺の息を抜き、強ばった肩を緩めた。
「先輩。約束ですよ?」
少ししたり顔を含ませ、口元に指で一を置いた。もうそこに居たのはいつもの彼女だった。安心すると同時に、自身の疲労が思い出されたようにのしかかり始めた。肉体が睡眠を欲している。僕の耳に北風が語りかけている気がした。都会の片隅は回っていると。そこへ遅れをとった夜風が彼女の髪を舞い上げ、包むように動き出した。顔までそれが侵入しないように、こめかみに手を当てていた。独創的なオブジェのような、はっきりとした存在を主張し続けていた。すでに真っ暗になった空間に、僅かな街頭の光を従えてキラキラ輝く、プリマドンナを彷彿とさせる姿で。