大きな杉の木の下で熱いキスをすると、その先に待ち構えるどんな困難も乗り越えられるという、にわかには信じがたい迷信が、田女野高校に通う女子生徒の夢の一つでもあった。古くから言い伝えられたこの迷信は、たびたび女子生徒を興奮させ、高揚させ、時には勉強さえも手につかないほどに刺激した。いったい何が女子生徒をそうまでさせるのか、男子生徒には難しい事柄であったが、お付き合いをしている場合、彼女があの木の下でと言うと、男子生徒もまんざらではなく熱い抱擁とキスをした。信じていないにしても彼女の喜ぶ顔や、その先、そして願掛け程度にはしがみつきたい希望であった。
誰が発端であるかは分からない。分かっていることと言えば、自分が入学した頃にはすでに新入生の間に芽吹いていることだった。つまり、中学時代から何らかの手段で、この迷信を言伝に聞いた生徒が多くいる事実がそこにあり、そして、入学式や部活動紹介での先輩との交流、始まりのソワソワした気持ちでの共有を経て、女子生徒たちはこの学校の迷信を胸に秘めていく。どんな風な印象を持ち、ときめき、心を預けるのか。男子であると同時にこの手の話には疎い僕には難しい事柄だった。
「あの、聞いていますか。二度説明させないでくださいね」
八重歯が姿を現して、その口調から、僕を威嚇していることが見て取れた。ムスッと睨む目から視線を逸らし下へずらす。三船さんは胸の前にしっかりと台本を抱いていた。
「ごめん。あんまり聞いてなかった」
そこまで浸透した迷信は、当然教師たちの耳にも入っていた。頭のお堅い教頭は、噂と決めつけ、それを吹き飛ばそうともがいていたが、校長は意に介さず、むしろ楽しんでいるように見えた。その為、教師たちもあまり気にすることもなく、授業中に世間話として使用する者もいた。
「……はぁ。桜坂さんがどうしてもと言うから、付き合っていますが、私も時間が限られているので」
誰かが、例えば友人や知り合いや先輩、全く知らない人であろうとも、二人きりでその木の下にいるということは、恋人である証明を果たしている。時には嫉妬の対象になるが、喜ばしいことに変わりはなかった。
「でも、大丈夫だよ。あの噂を信じた先輩と後輩の話だよね。それでラストが杉の木の下でキスのふり」
「まぁ、大方が分かっていれば問題はありません。細かい話はシーン事に説明いたしますので」
大きな杉の木は恐らく校門の横に聳える樹齢百年を超える大木のことだろう。僕もこの卒業を控えた時期に、何度か抱き合う生徒たちを目撃したことがある。恐らくは予行練習ではないだろうか。それは去年の卒業式当日。大きな杉の木の下に列をなしていたのだから、きっと今年もそうに違いない。
「先輩。この度はありがとうございます。私のわがままに付き合っていただき……」
水色のジャージ素材だと思われるズボンに、紺のティシャツ。黄色のリボンで髪を結い、ズボンよりも濃い水色の羽織り用のジャージを手に持ち、僕と三船さんにお辞儀をした。どうやらストレッチは終えたようだった。
「どうでしょうか」
「……まぁ、大丈夫かと。シーン事にダメ出しは入れていきますし、台詞もありません」
「うん。たまに動くシーンがあるだけで、殆ど立っているだけだから、多分まかせて」
演劇部の部室には、僕と三船さんと彼女とカメラマン、そして小道具担当や衣装を合わせる人など、計七人が集まっていた。
「撮影が可能なシーンから始めていきましょう。まずは校門へ」
三船さんの掛け声で、各々が自身の担当する道具を背負い、部屋を後にしていく。僕は勝手が分からず、いまいち乗り気になれない身体を動かすのに数秒のロスが生じたため、列の一番後ろに流れた。彼らのやる気に満ちた背中を眺めながら、僕はゆっくりとももをあげ歩を進めた。
「みんなの熱意に負けそうだよ」
入り口付近に立つ彼女にそう呟いた。
「毎年のことですよ」
彼女は口元にほのかな三日月を浮かべ微笑した。最後に部屋を出る僕を待った後、辺りをキョロキョロ点検し、電気のスイッチをパチパチと押した。部屋は窓から差し込む日差しだけとなった。彼女は扉を閉めると鍵を閉め、僕に向き直った。
「……こんな場所で、タイミングもおかしいと思います。先輩。最後の演技をさせてください」
真剣な表情が僕を突き刺した。以前とは違う、意思がそこにある気がした。何かを決断したような瞳は、背筋を伸ばすように仕向ける。怯えにも似て、ドアの前で僕は固まってしまった。彼女は、まだ口を開かない。最後の演技とは、つまり、彼女は役者としての、僕はカカシとしての、最後のお願いであった。