彼女が電話で妄言を垂れ散らかしたあの日、僕は無我夢中で走り出した。訳が分からなくて、なんだか気が狂いそうになって吐き気を催したのも覚えている。怒りが先行して脚を動かしていた気がしたけど、そうじゃなかった。普通に気分が悪かったんだ。中途半端で宙ぶらりんな状況に。決断を保留にしていた自分自身に、嫌気が差したんだ。
凍結した歩道に足を取られて、ガードレールにもたれた。白いペンキが剥げた位置を右手でキャッチする。ざらざらと皮膚を煽るのだから、僕はそれを反動に使った。思いっきり押し出して、身体で駆け出したんだ。気色が悪いほど静かな夜で、街灯も疲れを感じさせないほど輝いていた。雪なんて大層なものは降らず、空気は動じず、ただ乾燥していた。ロマンチックなものなんて、何処にもありはしなかったんだ。
「何しに来たんですか」
「腹が立ったから来たんだよ」
彼女はまだ、学校から駅までの通学路にいた。だだっ広い道の真ん中。いつもなら端を歩くはずの彼女が堂々と真ん中を歩いていた。僕は咄嗟に嘘をついて、彼女に答えた。きっと、都合よく部活が遅かったに違いなかった。でなければあんな電話を掛けられるはずがない。
「そんな事なら、また明日にして下さい。私は帰ります」
「待ってってーー」
「あなたは私のことが嫌いなんですよね! だったらそう言ってください!! そういうべきです!! 勘違いしたらどうするんですか!? 責任を負えますか!? 負えないでしょう!? 私を馬鹿にして、楽しんでいたに決まっています! 最初からそうだったんでしょう? 私の事を影で笑っていたんでしょう? 私の事なんて微塵も好きじゃないくせに……」
引き止めようと近づいた時、彼女は急に振り返って、急に叫んだ。その眼は羞恥の欠片もなく物恨みに似た怒気を帯びていた。その鋭さは僕の首を切りつけるほどだった。
「なっ……なんでそうなるんだよ」
僕は気圧された。
「だってそうじゃないですか! 昨日の発言も! 文化祭での行動も! クラスでの立ち振る舞いも……全部、ぜんぶ……」
思い当たる節が僕の口を封じた。半分は当たっていて、半分は間違っている。まるでたちが悪い風刺画だ。彼女はそれに汚染されて盲目になっている。世界の半分以上がそうで違いないと信じているんだ。
「いつか……あなたは言ってくれましたね」
眼鏡の奥でずっと訴えかけていた。レンズがなければ僕はきっと耐えられないだろう。彼女の主張の真っ直ぐさに。その鋭利さに。もう僕自身がバラバラに切り刻まれるような感覚にはなっているけれど。
「……あの日、クラスのみんなに茶化されたあの日……私は嬉しかった。あなたとそういう関係になれて、噂でも……嬉しかったんです……」
手をだらんと垂らしたかと思うと、胸の前に力強い拳を持って来て、制服を握りしめる。彼女は肩を上げ、とても力み、制服のシワをも気にしなかった。
「あなたは黒板のラクガキを……消しませんでしたね。どうしてですか。勘違いだってされてしまうのに……あの偽物を……なぜですか。私は……ぁ……隣のクラスの、かりんさん……あの場にいましたよね。私、知っていたんです。あなたが……かりんさんに告白されていたことを……そういう噂だってちゃんと回っていることを……私だって……」
空気の読めない空き缶が改造されたバイクのように暴走して遠くで鳴く。動物さえ鳴かない静かな夜に、それは一瞥に似た合図のようだった。寝坊に気づいたかのようなタイミングで、トラックやら自家用車のエンジン音が鳴り始める。どこに隠れていたのか、ぽつぽつと人影が現れ始めた。そして、やけに生臭い東京湾の風が、僕らの髪を揺らした。
「私が……浮かれていたんです……私が悪いんです」
彼女は自己嫌悪に陥った。それが決まっていたみたいに、しっかりと自分が悪いのだと主張した。
「……地味で、オタクで、空気の読めない私が、とんだ思い違いをしただけなんです。だから、このお話はおしまい。それでいいですよね……それで良い。うん。それで良いじゃないですか。不満はありません。私たちの結末は、もう決まっているんです……」
ーーあぁ、俺は何を躊躇しているんだ。こいつにばかり話をさせて、うだうだして、自分の立ち位置ばかり気にして、クラスでの振る舞い方ばかり意識して、お前の選択肢なんて限られているじゃないか。ひとつしかないじゃないか。お前はもう走り出したんだろ。電話を聞いて居ても立っても居られなかったんだろ? どうすんだよ。どうしたいんだよ。どうにでもなれって吹っ切れよ。……くそ、くそ。くそったれ。俺だって、こいつに言いたい事は幾つもあるんだよ。
「分かった……」
「……っ。なら……もう話はーー」
「分かったのは悪い気分の方で、意思の方だ」
「意味わかりませんっ! 私はもう帰ーー」
「何から何まで全部聞けよ」
彼女の手を掴んでしまった俺の腕は力がこもっていて、彼女の表情を歪ませてしまった。
「あなたの事なんて……信用出来ません……」
「だったら見てろ」
俺はスマートフォンを取り出してロックを解除した。上段に置かれたコミュニティーアプリを開き、ポチポチと文字を打ち込む。そして完成した文字列を送信した。同時に彼女のスマートフォンも鳴る。
「私に……送ったんですか?」
彼女は怪訝な顔をしてスマートフォンを見た。しばらくして彼女ははっと息を呑んだ。
「っ……こっ、こんな、こんなこと送って……どうなっても、知らないですよっ」
明らかに動揺した様子で、視線を泳がしたりチラチラこちらを見たりした。それは解答を欲しがる子どもに似ていた。
「これが答えだ、中川菜々」
「これが、ですかっ。正気ですか? クラスのグループにこんなことを送って……もう訂正なんて出来ませんよ……いいんですか? 私なんかでーー」
こいつが全てを言い終える前に、どんなに鈍感で阿保な人間でも理解出来る行動を取ろうと思った。突然で醜いくらいで、ロマンチックのかけらもない。冬だっていうのに雪は降らないし、改造暴走車がけたたましく喚いているし、オリンピックで使用するなんていう海からは汚水の匂いが立込めている。どうしてこんな風なんだと、少しでもマシなことを探してみると、酔っ払った若いサラリーマン達が忌々しい事態を発見してしまった目で、こちらを睨んでいるくらいだった。あぁ、やけに月が綺麗な夜だ。それもまた、眩しいくらいの街灯が邪魔をしているけれど。