「あなたはわたしをころしました」
「でも、何度も出てきて……何が望みなんですか?」
「りゆうなんてありません。あなたがそうであるように、わたしもへいきをよそおいます」
「嫌がらせは辞めて下さい。もう……いいでしょう……」
あぁ。ここは夢なんだ。
そう気づけるようになったのは、
つい最近のこと。
そして彼女が現れ出したのも、
つい最近のことだった。
何処かおかしいと思っていても何処もおかしくないと、妙な納得をする空間。天と地は逆さまだったり、そのままだったり、私の存在を一つに留めてはくれない。右を向いたら左側の景色が見えたり、なら左を向いたら右の景色が見えたり、まるで改良が必要なゲームのバグ。第三者から俯瞰的に覗いているような不思議な感覚。自分であって自分じゃない。私の目の前にいるのは、知っているけれど、知らないと貫き通したい人物。人物であるのか虚言の塊なのか、魂の行く末を知らない、哀れな私の前に現れたそれ。
「いやでもおもいだすのでは? わすれられるわけありません。だってせいしゅんでしたから」
「いつもいつも、なんだって……」
「こころのどこかではきづいているはずです。あなたはわたしでわたしはあなたです」
「……もう止めて」
「かんたんなことをききたいです」
「話す事なんて何も無い……」
「あなたは……」
「っやめて!!」
「……だいきらいなんですか?」
目覚めたら、そこは見慣れた天井ではなかった。活動を始めたばかりの眼球には刺激の強い電飾が、やけに高い場所から吊るされている。それは沖縄の水葡萄が引っかかったような近代的美術を彷彿とさせ、私の首元へと向かっていた。視線と首を傾けると、ゴージャスに金色を扱った壁が私に主張を繰り返し、ミステリアスな花模様のカーテンは日差しによる時刻を隠していた。ここはいったいどこだろうか。野暮ったいほどの内装が、確実に自室にいないことを証明している。私はもう一度、上を向いて、チカチカするシャンデリアもどきに集中した。そしてまた目が痛んでくると、左手でクシャッと髪を掴んで、そのまま前腕を両目の上に乗せた。
「やっと起きたか」
そう声が聞こえると同時に、私は上半身を思いっきりベッドから起こした。何が起きているのか理解するよりも早く、身体が反射をしたように声の主へと向いたのだった。
「だっ……だれ、ですか……」
か細い、今にも途切れるギリギリの声を絞り出した。ようやく身体に心が追いついたようで、私の心臓は唸りを上げていた。ベットが少しだけ反発している。
「誰でもない、強いて言えば絡まれた人だ」
男はソファに腰を預けたまま呟いた。やけに小さいけれど、すんなりと届いた。しかし、何者か分からない男となんだか分からない部屋に閉じ込められた私は、まだ冷静になれそうもなかった。もしかしたら、先程までの夢が完全に忘却されていないのも原因の一つかもしれない。
「訳の、訳の分からないことを言わないで。こっここはどこですか、いったい私に何を……」
私が狼狽えて言葉を紡ぐ間、男はぼんやりと虚空を眺めていた。私の目を見ているようで見ていない。見ていないようで見ている。そんな感覚に苛まれた。だから、完全に視線を捕まえられないからこそ、虚空を眺めている気がした。何か悲壮を持っているような気も、それとなくさせていた。
「ゲロ女に発情するほど盛ってない」
舌打ちをして、ゆったりと言って退けた。私が発言してから数秒、間を開けてからだった。その言葉を聞いた瞬間、私はハッとして、自分の身体を初めて見た。紺色のジャケットと同色のスカートには、シミとなった痕がぽつぽつと浮き出ている。中の白シャツは日本列島を描かれたまま着られており、使い物にならないと断言できた。枯れた茎のように垂れた首はそのままに、私は思わず泣き出しそうになった。静かすぎる空間が私を押し込む。ふんわりと嗅ぎ慣れた悪臭が鼻を突いた。我慢しようと我慢しようとしていると、余計に涙が溢れそうになる。必死に無関係で無機物な物体を想像して耐えた。その努力が徐々に私の脳味噌を回転させる。寝ぼけていた頭が少しずつ晴れていった。
「……そうですか、私また泥酔してしまったんですね」
はっきりと口に出した時、波のように羞恥が奥底から流れ出た。顔全体がカイロで温められたような、気に入らない昂揚感。そして、胃と腸を震わせて、私を不快にさせる刺激。よく意識すれば、私は物凄く喉が渇いており、一言一言を発するたびに、ねばっとした舌触りが巻き起こった。気持ち悪くて、唾液を口内に溜めようと思った。指で首の適当な場所に触れた。男は、そんな私の様子を見て、テーブルの上に置いてあったビニール袋を指差した。
「そこに、スポーツドリンクがある。飲んだ方がいいよ。悪い夢でも見てたんだろう、随分うなされていたから」
上掛けを取って、真に足の指を見た。靴はベッドの下に並んでいたけれど、履かずにテーブルまで向かった。床からひんやりが伝わる。スポーツドリンクも充分に冷えていた。ガラス張りのテーブルには、丁寧にコンドームが二つ置かれていた。指紋が一つもない綺麗なガラスだった。
「……私、本当にダメな人です……」
ペットボトルの中身を半分ほど身体に流し込んだ後、再びベットの上に戻った。間を作るのが怖い。空間に歪みだとか地面に割れ目が造られる訳ではなかったが、その生じた隙間から黒き無秩序が湧き出て、この室内と私を覆い尽くすかもしれない。実体のない感性こそ、私が常に恐れる欲望の一つ。それに飲み込まれて、呑み込まれて、のみこまれて。私を誰でもない二人に分け与えられた。
「あの……わだじ…うぅ、ひっぐ……ごっ、ご迷惑を…っ……」
反芻を続けた過去は反省へと変化して、そして後悔に化ける。ベットに乗った上掛けを抱きしめるように両手で握った。私の身体はモノクロへと混ざることはなく、スーツの黒と髪の毛の黒、寝具の白とワイシャツの白は、一緒に近くにいるけれど、まるでひとりぽっちのように独立していた。男は泣き出してしまった私を見て、一瞬、ばつが悪い顔をしたが、すぐに空白に視線をずらした。
「うぅ……」
しばらくーーどれくらいが経ったのだろう。備え付けられた子機が鳴り響いて、私の頭がガンガンと鳴り響いたのを覚えている。そして男が、その原因を止め、何処かにぼそぼそと連絡をとっているのも憶えている。それ以外は微かな空白が建てられていて、小説の行間のような渋い背景しか覚えていない。後は何もなかった。出来事が巻き起こって時間が経過していく訳ではなかった。しかし、断片的な思考が、長い時間を奪っていたのは明確だった。いつしかシャンデリア達の電気は消え、たった二つしかない窓の一つから、強烈な光が射し込み、部屋を満たしていた。
「シャワーでも浴びたら」
憔悴を深めた私がぼんやりしていると、男は持っていたペットボトルを左側へと払った。ソファに座った姿が疲労しているように見える。男は口を開く時にしか、私と目を合わせようとはしなかったが、別に無視をしているわけでも蔑ろにしているわけでもなかった。むしろ、遠くから見守る親類のような、ここにいる存在だけが保証されていた。
当然だけど、着替えの服などは持ってはいない。本来ならば、家でまったりと日曜日を堪能している時間だった。私はようやくテーブルに置かれている電話機から時刻を知った。もう十一時を過ぎていた。きっとお昼のワイドショーが垂れ流されている。いつもなら、私はそれを死んだ魚の眼をして覗いている。あの有名人の独占スクープやら交通事故が何やらを。
男に促さられベッドを後にした私は、手持ちが不在のままシャワー室へと向かった。靴を履くのが面倒で、もう汚れているタイツ越しに床を歩いた。ひんやりしていた。シャワー室のドアノブに手をかけた時、私はふと気になった。あの男は、どうして見ず知らずの私を助けるようなことをしたのだろうと。こんなこと何の得にもならないのに。
「どうして……私を助けたんですか」
そう思っていたら口を出た。昔からの悪い癖だ。
「昔、助けられた女に似てたんだ」
男と初めて目が合った。
「……それだけだよ」