歴史の闇に埋もれた物語 作:書いてみたかった
後漢の時代。
既に人物批評家として大陸に名を馳せていた許子将をして『子は治世の能臣、乱世の奸雄』と評された曹孟徳が治める陳留の城にて、一人の男が忙しなく指示を出していた。
「──以上です」
「ご苦労。引き続き、冀州に潜み袁家の情報を集めてください」
「御意」
男の名は、姓は
「張隊長。荊州方面からの報告ですが──」
「夏候元譲様より、賊討伐のため急ぎ小隊を派遣するようにとの下知が──」
「浚儀にて内偵していた者から、汚職の裏が取れたとの──」
「本郷警備隊長より、ご自身の風評について極秘裏に依頼が──」
「……待て。待ってくれ。後生だから、一人ずつ頼む」
絶え間なくやってくる報告。どんどんと積み上がる竹簡の山。それらを前に、疲れたように項垂れる張三。
自ら望んで今の地位に就いたとはいえ、あまりの多忙さに若干遠い目をしてしまう。何ならちょっぴり後悔もしている。けれど、生来の生真面目さ故か、律儀に一人ずつ丁寧に話を聞き、新たな仕事を抱え込み、溜息を堪えて指示を出す。
そうして一通りの厄介事を片付け、ようやく一息つけた彼はゆっくりと瞳を閉じて、まるで自分に言い聞かせるようにぽつりと呟いた。
「……すべては太平の世を築く礎となるため。これしきの事なにするものぞ」
静かに開かれた漆黒の双眸に、鈍く輝く熾火の色がちろりと蠢いた。
* * *
そも張三という男は、冀州は鉅鹿郡のとある寒村。そこに住む貧しい農家の倅でしかなかった。
朝起きれば親兄弟と共に畑を耕し、村の力仕事を手伝い、質素──といえば聞こえはいいが、ろくに具も味も無いような粗末な雑炊を食べて寝る。そんな毎日。けれどそれは、この時代の人々からすれば別に珍しくもなんともない、ごくありふれた日常であり、だからこそ張三もそれが当たり前の事として日々を慎ましく生きていた。
唯一、彼が他の同時代の貧民たちと違ったことと言えば、それは読み書きができたことだろう。
村に住んでいた変わり者の老人。かつては洛陽で役人をやっていたとも、有名な名士の出であるとも噂されるが真偽のほどは定かではない。
荒んだこの時代の人間としては珍しく、貧しいながらに助け合い、仁を忘れていなかった村人たち。彼らはある日ふらりと村に流れてきたこの老人を温かく迎え入れ、よく世話をしてやった。そして、そんな村人たちに感銘を受けた老人はせめてもの感謝のしるしとして、村の子どもたちに簡単な読み書きや算術などを教えることを提案する。
当初は固辞した村人たちであったが、知っておいて損をするものでもなし、学の有る者が増えれば後々不正を働く官吏への備えにもなると諭され、野良仕事の合間に未だ幼い子どもたちを老人の下へ学びに行かせるようになった。
そして張三もまた、他の子どもたちと同様に老人の下を訪れて学ぶようになる。遊びたい盛りのやんちゃ盛りな子ども達がワイワイと騒ぐ中で、この頃から実直であった張三は黙々と勉学に励み、そんな彼の姿を老人はどこか偲ぶような眼差しで見守っていた。
張三は勤勉ではあったが、特別才能があるというわけではなかった。良くて秀才止まり。これまで老人が出会ってきた一を聞いて十を知るような数多の俊英たちには遠く及ばない。けれど、幼いながらに大人たちの仕事を必死で手伝いながら、赤切れた手で筆を持ち、寒さに震えながらそれでも何度も何度も繰り返し書を捲る。そんな健気で直向きな少年の在り方が、老人にはひどく眩しく映り、とても輝かしいものに思えて仕方がなかった。
そうして数年の時が過ぎ、ある日、張三は老人に尋ねた。
「……どうして先生は、この村にやってきたのですか?」
別に何か意図があったわけでも、訝しんだわけでもない。それは、子ども特有の純然たる疑問。ふと気になったから、聞いてみただけ。どうして空は青いのか、どうして鳥は空を飛べるのか、どうしてどうしてと幼子が親にその気持ちをぶつけるように、幼い彼もまた幼いながらに感じた疑問を老人へとぶつけたのである。
「ふむ…。そうじゃなぁ……」
暫し黙した老人はしかし、やがてぽつりぽつりと語りだす。
かつて太学という場所で教鞭を執っていたということ。
腐敗が蔓延り、崩壊へと向かう漢帝国。そんな国を憂い、立て直すべく、志を同じくする者たちと共に国を支え得る人材を育てることに心血を注いだこと。
しかし、そんな老人の想いとは裏腹に、彼らの教え子たちは暴走し、自ら破滅への道を歩み始めてしまったこと。
「……結局、儂は何もできんかった」
老人が手塩にかけて育てた教え子たちは自らを”清流派”と称し、利権に溺れる宦官らを”濁流派”と呼び公然と批判した。この時代、皇帝の外戚勢力を抑え、中常侍を中心とした宦官たちが大勢を占めていたとはいえ、宮中での権力闘争は未だ続いており、それが”清流派”の乱入でさらに激化。より混沌とした状況に陥ったのである。
もはや老人の制止する声も届かず、やがて”清流派”の運動は宦官たちの重い腰を上げさせ、彼らを本気にさせてしまう。
──党錮の禁。
後にそう呼ばれ、二度にわたって行われた宦官たちによる弾圧で、老人の教え子たちはそのほとんどが政の中心たる洛陽から駆逐されてしまった。
国のためにと寝食も忘れて彼らを育て上げ、さぁこれからだと思った矢先に一掃されて……。どうしてこうなってしまったのか。どこで間違ってしまったのだろう。自分はただ滅びゆく『漢』という国を救いたかっただけなのに、いつの間にか大事に育てた可愛い教え子たちは士大夫どもに利用され、権力争いの道具に成り果て潰されてしまった。
「何もかもが虚しくなり、まるで心にぽっかりと穴が空いたようじゃった」
そうして虚無に覆われた老人は失意のままに洛陽を後にした。
あてどなく大陸を彷徨い、やがて路銀も底尽き、生きる気力もなく、自分はこのまま何処ぞとも知れぬ地で野垂れ死ぬのだろうと悟る。それでいい。多くの才ある若人の将来を潰してしまった自分の末路なぞ、それこそが相応しいのだと、そうして朦朧とした意識のまま立ち寄った村で行き倒れ、介抱され、その村こそが張三が住まう村だった。
「もう二度と人に何かを教えることなぞあるまいと思うておったのじゃがなぁ……」
貧しいながらに日々を力強く生きる村人たち。
荒んだ世の中にありながら笑みを絶やさず生きる老若男女。
天に見捨てられ、帝という存在すら形骸化し、もはや絶望しかないこの世界。
それでも尚、ここに生きる彼ら彼女らは五常の教えを忘れず、こんな無能で役立たずな老いぼれに少ない食料を分け与えてくれる。それは、この『漢』という国の全てを見限り、失望し、悲観し、自棄になっていた老人にとってはまさに驚天動地な出来事であった。
「じゃからこそ、儂は少しでもこの村で授かった恩に報いるため、再び教鞭を執ることにしたんじゃよ」
この厳しい世の中で、この理想郷のような場所が、この村の心優しい人々が、一日でも長く幸福のまま生きていけるように、と。そう願いを込めて……。
「……張三、いや願叶よ」
「はい」
自分を見上げる少年の頭を優しく撫でながら、老人はそっと地面に片膝を突き、彼の目線に合わせて語りかける。
「学べ、そして生きよ」
「……はい」
師である老人の真剣な眼差しに、弟子である少年もまた真剣な表情で応える。
「この先、辛く苦しい時代がやって来る。ときには絶望し、死を選びそうになる事もあるかもしれん」
「……」
「じゃが忘れるな。どんな未来にも必ず希望はある。天は決して我らを見捨てぬ。儂がこの村に辿り着けたようにな……」
正直なところ、未だ幼い張三にとって老人が語ってくれた昔話は難しい部分が多すぎて、そのほとんどを理解できていない。
しかし、それでも幼いながらに感じ入るものがあったのだろう。この老いさらばえた老人の回想は少年の記憶に深く刻み込まれた。
「……天よ。見ておるか? 見ておるのだろう?」
老い衰えて尚、眼光鋭い老人の視線が虚空に向いた。
「この子が、この願叶こそが、我が生涯最後の弟子じゃ」
嗄れて震える声に想いを込めて、老人は天へと言葉を投げかける。
「どうか、どうかこの子を……導きたまえ」
願わくば、この子の未来に幸多からんことを──。
「……願叶」
「はい」
「願叶、我が最後の弟子よ」
「はいっ」
老人は切に祈り、願い、優しげに少年を抱きしめる。
幼い張三の肩に、溢れた想いが滴となって零れ落ちた。
「何があっても、お主は────」
この数日後、老人は静かに息を引き取った。
苦悩に満ち、苦難に喘ぎ、何もかも諦めかけて、最後の最後で希望を見出した老人の死に顔は、とても穏やかなものだったという。