歴史の闇に埋もれた物語 作:書いてみたかった
冀州は鉅鹿郡のとある寒村。
十数年前に師を失った幼い少年は、優しい村人たちに見守られ、健やかに育っていった。既に成人して字も得ており、青年となった張三は村の若者たちの纏め役となって日々を忙しなく生きている。
暮らしは相変わらず貧しい。
いや、年々増えていく税を考えれば幼少期より生活は苦しくなっているだろう。けれど、未だこの村の人々は前を向いて生きていた。それはあの老人の薫陶によるものか、それとも生来のものなのか。いずれにせよ、辛く厳しい世にあって彼らは懸命に生き続けていた。
そして、張三は今日も一日よく働き、学ぶべく、元気に玄関の戸を開けて────
「うむ。今日も良い天気だ──なぶっふぁ!?」
「どうだみたかー! 張子季先生に一撃入れてやったぜー!」
「うわー……。お兄ちゃん本当にやっちゃったー」
「お、オレ知ーらない!」
「わたしもー!」
「うえぇっ!? おまえら裏切るのかよー!?」
出会い頭に近所の悪ガキに草束を投げつけられ、見事顔面に喰らって盛大に咽ていた。どうやら葉っぱに付いていた小さな虫が口に入ったらしい。ご愁傷様である。
「ゴホッげほ、おえっ……! お、おのれ……小童ども覚悟はできているのだろうなっ!」
「やべっ!? みんなにげろー!!」
「わーい! 先生がおこったー!」
「にげろー!」
「にげるのー」
張三が怒鳴ると同時、蜘蛛の子を散らす勢いで逃げていく子供達。そんな彼らの後ろ姿を眺めながら、青年はやれやれといった風に溜息をこぼす。
「あー……、悪いな張三。家の馬鹿息子は後で俺の方から叱っておくから」
「頼みますよー。これじゃ師としての威厳が……」
「なーに言ってるのよ。はじめっから願叶にそんな威厳はないでしょう?」
「は、母上ぇぇぇ」
悪童の父親らしき人物に抗議する張三であったが、即座に実母から容赦のないツッコミを入れられる。
そう、張三の師であった老人が先立ち、今では彼がその後を継いで子ども達に読み書きなどを教えていた。ただ、さすがにまだ若すぎるということもあり、当の子ども等からは盛大に舐められているのだが。
「一応、アイツも家の仕事や下の連中の世話なんかはしっかりやるんだがな。如何せん、あの悪戯好きは誰に似たんだか……」
「いや、どう考えても父親譲りでは?」
「間違いなく李家の血筋ね。父親の小さい頃そっくりよ」
「ははっ! 張三も母君も可笑しなことを言う。……俺ならもっと上手くやれる!」
「そういうところですよ」
「そっくりじゃない」
張三とその母からの呆れたような眼差しに頓着することもなく、ガハハハと盛大に笑ってみせる李某。どうにもこの李家の血筋というのは図太い性格の者が多いらしい。
そうして彼ら三人が賑やかに歓談していると、不機嫌な様を隠すこともせず、杖を突いた老人が憮然とした表情で近づいてきた。
「……まったく、朝っぱらから情けない声やらむさ苦しい笑い声が聞こえてくると思えば、やはり張三たちか!」
「そりゃないよ、爺さん。私だって朝から草塗れになんぞなりたくはなかったさ」
「ふんっ! そんなものお前さんの不徳のせいじゃろて。そうじゃ、そうに違いない」
ふてぶてしい態度でズケズケと物言うこの老人。通称、爺さん。あるいはジジイ。稀にクソ爺なんて呼ばれたりもする。年寄りが長生きできないこの時代では珍しく長寿であり、そのため村の住民たちからは親しみを込めて皆のお爺ちゃんとして扱われているのだ。
一応、この村の長老的なポジションの人物でもあるのだが、ご覧の通りの気難しい気性故に張三は少々苦手だったりする。
「なんだよ、朝からずいぶんとご機嫌斜めだなジジイ。まーたババァと喧嘩しやがったか?」
「かっ! 儂がちょいと酒量を増やしたくらいで喧しく言いよってからに。うるさくて敵わんわい。なーにが年を考えろじゃ。自分の方が儂よりよっぽど年上のクセしてのう」
そう言って妻である婆様を罵りつつ悪態をつく爺さん。いつものことである。
だがしかし、張三をはじめその場いる誰もが賢明にも口を噤み、顔を青褪めさせながら沈黙を守った。なぜか? イキがって好き放題言っている爺さんのすぐ後ろに山姥…いや、違う。夜叉……でもない。噂の主こと婆さんが静かに佇んでいたからである。
「まったくあの死に損ないめ、さっさと往生すれば良いものを……」
「へぇ……。遺言はそれで構いませんね、お爺さん?」
「……婆さんや。いつからそこに?」
「『やはり張三たちか!』のあたりからでしょうか」
「…………要するに最初からということか」
今日も仲良く痴話喧嘩に勤しむ老夫婦を放置して、張三と母は朝食のために家へと戻った。どうせ犬も食わないから仕方ないね。
「あ、三の叔父上きたー!」
「しゃんのおじーきたー!」
「モルスァ!?」
母の後を追って家に入った張三。
すると、左右から猛烈な勢いで飛び込んできた甥姪コンビのツープラトンロケット頭突きを両脇腹に喰らい撃沈してしまう。南無。
「あらあら、我が孫は今日も朝から元気ねー」
「な、にを…呑気に……孫馬鹿を拗らせているのですか、母上」
床に蹲って悶絶し、ファー…ブルスコ…ファー的な感じで虫の息な張三。そんな息子の姿を尻目に、ニコニコと愛おしそうに孫の頭を撫でている母は強し。
「三の叔父上、ごはんー!」
「しゃんのおじー、あそぶー!」
甥の
姪の
二人とも長兄の子ではあるが、日頃から律儀で純朴、何かと世話焼きな張三にすっかり懐き、今では父親である長兄が嫉妬して拗ねる有様である。張家は今日も平和です。
「二人とも、いつも言っているだろう? 私を慕ってくれるのは嬉しいが、仕留めにくるのは止めなさい」
「?」
「?」
「なぜ二人して首を傾げるんだ。無自覚か。こちらとしては割と死活問題なのだがなぁ」
張三は疲れたように肩を落とすと、やれやれといった様子で二人の甥姪を抱き上げて連れ歩く。
「まぁ良い。次からは気を付けておくれ」
「……? はい!」
「……? あい!」
「いつも返事だけは良いんだよなぁ……」
「何だかんだ言って、結局は願叶も甥姪馬鹿よね」
母親からジト目でツッコミを入れられ、思わずついっと視線を逸らす張三。実に耳が痛い。
そんなどこか賑やかで和やかな家族の会話を交わして食卓へと辿り着いた張三は、義姉に二人の幼子を預けるといつもの定位置に腰を下ろす。既に父と長兄夫婦、次兄は揃っているようだ。
「お待たせしました、父上」
「うむ」
「……やはり納得できん。何故、二人とも父たる俺ではなく願叶に懐く。俺も二人から出迎えられたい」
「まぁまぁ、兄者。ほら、あれですよ。願叶は母上に似て柔らかな顔立ちですからね。兄者は父上と同じで顔が怖いから近寄りがたいのですよ、きっと。なぁ、願叶?」
「そこで私に同意を求めるのは止めていただきたい」
寡黙にして巌、だが実体は単なる口下手なだけである父。
可愛い我が子を末弟に独占され、額に青筋を浮かべている長兄。
そんな長兄を面白そうに茶化し、煽りに煽って弟へと擦り付けようとする次兄。
そして、そんな男衆をクスクスと微笑ましそうにのんびり眺めているのが義姉だ。そこに孫二人を猫かわいがりしている母と、くーぎゅーグルルルと腹を鳴らして食事が始まるのを今か今かと待っている甥姪を加えた七名が、張三の何ものにも代え難い大事な大事な家族である。
暮らしは貧しい。育てた作物を売って得られた僅かな銭は、税として役人に持っていかれてしまう。農家であるのに毎食の食材にも事欠く始末だ。未だ幼い二人の子どもたちにお腹いっぱい飯を食べさせてやることすらできやしない。
しかし、それでも張三は幸せだった。この村での生活に、確かに幸福を見出していたのだ。決して現状に満足している訳ではないけれど、だからと言ってまったく満たされていない訳でもない。
これからだ、そう張三は考える。あの老人がこの村に種を植え、それが芽吹くのは、これからなんだ。そう強く意識する。
長年、この村を支えてくれた長老衆。今この村を導いている父たちの世代。そして、老人の教えを受け、知識を身に付けた自分たち若輩。それらが手を合わせて村を発展させていければ、きっと明るい未来が待っていると、希望はあると、そう信じて張三は前を向いて今日まで生きてきた。
* * *
朝食後、畑仕事から戻った張三を呼び止める声。
「おーい、張三。ちょっといいかー?」
「あ、はい。大丈夫ですよ」
「今度の収穫と、今後の作付けについてなんだが──」
老人亡き後も、張三は学び続けた。
ときには老人が残してくれた書を読み耽り、またあるときは彼と同じく老人から学んだ先輩たちを頼って教えを乞うた。また、張三は自分が学んだことを惜しげもなく下の者たちに教え、彼らにも学ぶことを奨励していく。
そんな張三だったからこそ、上の者たちは彼を信用し、また下の者たちは彼を信頼した。
「年々、麦の収穫が減っています。昨年も不作でしたし」
「西の方では飢饉に見舞われたらしいぞ」
「それに、青州ではまた増税らしい」
「やはり今年も厳しくなるか……」
張三が中心となって若者たちはよく言葉を交わした。
田畑のこと、村の運営のこと、賊への備え、賄賂をせびる役人への対策。村で何か問題が起きるたび、彼らは頭を寄せ合って議論を尽くし、知恵を絞り、時には街まで出向いて識者に頭を下げて教えを乞うなんてことすらあった。
それはきっと、かつて老人が夢想した『漢』という国の未来。中身のない論戦ではなく、批判目的の揚げ足取りでもない、相手と手と手を取り合って同じ目的を目指しながらあらゆる可能性を論議する。老人が願い、国中から才ある者たちを集めても終ぞ叶わなかった光景が、そこにはあった。
「雑穀の作付けを増やしてはどうでしょう? あとは……黄豆でしょうか?」
「うーむ……。しかしなぁ、米や麦以外だと買い叩かれるのがオチじゃないか? 税が払えん」
「そうなんだよなー。せめて物納を認めてもらえれば……」
「それだと収穫した食いもん全部持ってかれそうだけどな」
「ですよねー」
世に名だたる俊英たちが聞けば失笑するような内容だろう。こんなものは議論に値しないと、そう言い捨てられるかもしれない。
「やはり灌漑で水を安定させるのが一番ではないか」
「しかし、そこまでするには我らだけでは厳しいであろう? それより耕作の効率を上げるために牛や馬を買えば──」
「だが費用が──」
「──北の方の麦は病気に強いらしい。どうにかして種籾を手に入れられないか?」
「それなら行商に頼めば──」
「そういえば前に行商から聞いたのだが、最近ここいらの街を巡っている旅芸人の姉妹が人気らしくてな──」
「──知っとるか? 以前、頓丘の県令だった曹孟徳様がまた朝廷に出仕するらしい」
「曹孟徳様というと、洛陽北部尉時代に禁令を破った宦官の縁戚を叩き殺したという、あの?」
しかし、彼らはひどく真剣だった。それでいて、笑っていた。誰もが明るい未来を夢見て、笑って暮らせる世を願って、そのために自分たちができることを精一杯やっていた。
「おい、大変だっ! みんなこっちに来てくれー!!」
そう、その日までは──。
* * *
「……難民、ですか」
村の入り口に現れた一〇人前後の集団。
それは薄汚れ、襤褸を纏い、痩せ衰えた男たちであった。
「どうも北の方から流れてきたらしい」
「北と言うと、中山国からでしょうか?」
「さぁ、そこまでは……。おい、どうなんだ?」
「……ああ、そうだよ。それより、頼む。水だけでもいい。恵んでもらえないか?」
どこかぼんやりとした様子で懇願する陰気な男。
張三は訝しげに眉を顰めるものの、お人好しに過ぎる村人たちは彼らを甲斐甲斐しく世話していく。そして、張三自身もこの村特有の人の良さからだろうか、疑いはしたもののやせ細った男たちを一瞥すると、仮に彼らが悪人だったとしても食糧庫から食べ物を幾つかくすねる程度だろうと判断してしまう。
もちろん、村に食料の余裕があるわけではない。役人に収める税のことを考えればギリギリだ。それでも、ここに来るまで彼らが味わったであろう飢えを思えば、少しくらいならば許容しても良いだろうかと考えてしまったのだ。
「……きっと、私は甘いのだろうな」
「何か言ったか、張三?」
「いえ、何でもありません。私は彼らが休める場所を用意してきます」
「おう、よろしく頼む」
一つ補足するならば、彼らだって賊の警戒ぐらいはする。
ただそれは、あくまで村の外から徒党を組んで襲ってくるような賊を想定したものだ。もし今ここに、あの老人が存命であれば、また或いはこの村の人々が悪意というものにもう少し敏感であれば、この先の展開は違うものとなっていたに違いない。
「ありがてぇ……。ありがてぇ……」
「恩に着る。助かった」
「オラぁ、このご恩は一生忘れねえよぉ」
「……」
村人から施された薄い麦粥を貪りながら、男たちは涙を流して村人たちへ感謝の言葉を繰り返す。
そんな彼らを尻目に、張三は空き家となっていたあばら家に藁を敷き、彼らが泊まれるように準備するのであった。
* * *
丑三つ時。
「──!」
「──!? ────ッ!!」
「────!」
張三は、外の喧騒で目を覚ます。
「……なんだ?」
寝ぼけ眼を擦りながら、のそのそと寝床を這い出ると、張三は闇に包まれた室内をキョロキョロと見渡す。
どうやら家族はまだ誰も目覚めてないらしく、起きているのは彼だけだった。
「一応、村の蔵には見張りを立てたはずだが……」
大方、予想通り難民の誰かが食料を求めて忍び込もうとしたんだろう。そんな風に考えて、着の身着のまま無防備にも家の戸を開けて、彼は一歩外へと踏み出した。
「殺せ殺せェー!」
「ひぃっ!? た、助げでぇぁーぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛」
「い、いや! イヤァァァァ」
「ふはははは! ほら逃げろ逃げろ! 斬り殺されてーのかっ!?」
「ヤメロ! やめてくれ! 金も食べ物を全部あげ──ぐげぎゃ」
「おい、テメェら奪うもん奪ったら全て燃やせぇーっ!」
「死ねやジジィ!」
「お爺さんっ」
「逃げろ、婆さん! さっさと逃げんかぁっ! 頼む、逃げとくれぇ……ッ!」
「うわぁぁぁああああん」
「父ちゃん! とーちゃん!!」
「がはっ……! クソ……ば、カ息子、泣イ…てる暇が、あっタらとっとと逃げヤが…レ。おマ、えが妹ヲ…守らねぇで……どうすんだっ!!」
「お願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますこの子だけはこの子だけはこの子だけはこの子だけはこの子だけはこの子だけはこの子だけは」
「やめろ! 殺すなら俺が殺される。だから、だからこの子だけは殺さないでくれ!!」
「……そうか。死ね」
それは、有り体に言えば地獄であった。
村中を見たこともない男たちが暴れ回り、建物を壊し、家人を引き摺り出しては数人で嬲り殺し、僅かな蓄えであった食糧を貪り、銭を奪い、女を犯し、生きた子どもごと家を燃やす。
村を襲っている連中は、難民の男たちなどではなかった。武装し、生き生きと駆け回っては村の住人たちを虐殺し、中には馬に乗って火をつけて回っている者さえいる。
「なん…で……? どう、して…なんだこれは……?」
仲が良かった同朋が苦悶の顔で死んでいる。あれこれと世話を焼いてくれた兄貴分の首が路傍のゴミのように打ち捨てられている。昨日まで読み書きを教えて面倒を見ていた童が
「ゃ……やめっ! やめてくれ! ヤメロオォォォーーーッ!!!」
彼は狂ったように咆哮しながら走り出そうとして、唐突に後ろからガツンと頭を殴られて膝から頽れる。
「あ゛……あぁ? なに…がッ」
俯せで地面に倒れ伏したところに、追撃の一撃が襲い来る。
散々に頭を殴打され、手足を踏みつけられ、トドメとばかりに腹を蹴りあげられた。
「へへ……。こんだけやりゃ、さすがに死ぬだろ」
頭を殴られたからか、意識がハッキリしない。体がうまく動かせない。
ただ、蹴り上げられて仰向けになったことで、視界だけは開けた。額から伝ってきた血で視界が赤く滲む。
「おい、悪く思うなよ。兄ちゃん」
頭上から嘲笑うように投げかけられた言葉。
それは、聞いたことのある声音だった。見たことのある顔だった。知っている難民の男だった。
なんの事は無い。要は難民の男たちは賊とグルだったのだ。
村の様子を確認し、賊を撃退するだけの力は無いと判断したら、夜に村を抜け出して賊の本隊を呼び寄せる。ただそれだけ。子どもでも考えつくような策とも言えない手口。そんな罠に、青年の村はまんまと引っかかったのだ。
「これも天のお導き。黄天が世のためってな」
薄れゆく意識の中で、最後に青年が見たもの。
下卑た顔つきで嗤い、こちらに棍棒のようなもの振り下ろす陰気な男の顔。
そして、その頭に巻かれた
後世、『黄巾の乱』として語り継がれ、大陸全土を揺るがす動乱の始まりだった。