歴史の闇に埋もれた物語   作:書いてみたかった

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張三、張子季、願叶といふ凡夫

 月明かりの下で、一人の男が呟いた。

 

「……生きねばならぬ」

 

 張三は語る。

 

「生きて、正さねばならぬ」

 

 譫言のように紡がれた妄言のような言葉。

 

「正しくない世を、正しき世へと変えるために」

 

 

 賊が蔓延るならば、その賊を打ち滅ぼし。

 不正が罷り通るならば、その不正を断罪し。

 天が民を見捨てるのならば、その天に代わり我らが民を守るべし。

 

 

「……無理だ」

 

 誰かが呻くように呟いた。

 

「できっこない」

「俺らみたいな死にぞこないに何ができるってんだ」

「……所詮、私たちが何をやっても無駄なのよ」

 

 彼らからこぼれ落ちるのは、否定と諦めの言葉の数々。

 

「……何故か」

 

 張三は問う。

 

「儂らのようなただの貧民に、そんな力はありゃせんよ」

 

 老いた男が自嘲するように口を開く。

 

「”力”とは?」

 

 張三は再度問う。

 

「……」

 

 しかし、張三の問いに答えられる者はいない。

 

「賊共を殲滅できる武力か? 役人共に騙されないだけの知力か?」

 

 ゆらゆらと幽鬼のように立ち上がった張三は、くるりと回り、困惑したように見上げる彼らを睥睨する。

 

「確かに我らは力も弱く、学もない」

 

 張三は諭すように告げる。

 

「かつて我が師は言った。『学べ、そして生きよ』と……」

 

 傷だらけの拳を握り締め、絶望に塗れた瞳を暗く澱ませて、張三は怨念のような執念だけで歯を食いしばる。

 

「生きねばならぬのだ! 我らが学んだ”過ち”を繰り返させないために、”絶望”を学んだ弱者である我らこそが生きて生きて生き抜いて、後に続く者たちへと伝え導かねばならぬのだ!」

 

 張三自身、どうしてこんなにも必死になっているのか理解できてはいない。自分が生きたいが為か、それとも死にゆく彼らを見捨てられない為か。あるいは────。

 

「もはや、この国に未来(さき)はない。かつての殷が、周が、秦がそうであったように、いずれ世に名だたる英雄英傑たちがこの漢という国は滅ぼし、新たな世を築くだろう」

「……なら、そいつらに任せとけばいいじゃないか」

「そうして何もかもを”英雄”に押し付けてきた結果が、この大陸の歴史であろう!」

 

 それでは歴史が繰り返すだけだと、張三は訴える。

 腐敗した国を憂い立ち上がった英傑たちが国を滅ぼし、新たに国を興してはやがて機能不全を起こして同じ過ちを繰り返す。その矢面に立っているのはいつだってか弱き無辜の民で、その度に自分たちのような存在が量産されるのだと、彼は遣り切れない想いを言葉に乗せる。

 

「ならどうしろってんだ……」

「所詮、俺たちゃ読み書きすらまともに出来ないんだぞ」

「知らぬのなら、学べばよい。出来ぬのなら、出来ることを探せばよい」

 

 張三の声を伝え届けるように、川辺に風が吹き抜ける。

 それは冷たく厳しい、冬の風であった。

 

「どうして、わたしたちがそんなことを……」

「一騎当千の武将に、無力なる者の嘆きは理解できまい。神算鬼謀の軍師に、無知なる者の惨めさなど納得できまい」

「……だから、儂らがやるというのか」

 

 別に張三は英雄たちの行いを否定したい訳ではない。

 彼らの志は本物で、彼らが成し遂げた結果は尊いもので、それは歴史に語り継がれるに値する偉業だ。

 

 しかし、だからこそズレが生じる。

 どんなに高尚な理想を唱えようと、彼らの目線は常に空高く、その顔は天を仰ぎ見て、そこに弱き者の居場所は存在しない。

 

「我らが成し遂げる必要はない。我らがやり遂げる必要もない」

 

 歴史に名を残すような英雄英傑と呼ばれる者たち。その英知を集めて築かれた城はきっと立派なのだろう。高い理想で構築された城郭は揺るぎ無く、城壁のようにそびえ立つ大望の壁は天高く、そこに無知蒙昧たる民のための門は在ろうはずがない。

 だから、どんなに賢明たる君主が民の声を聴こうと城の頂で耳を澄まそうとも、いつの時代も下々の声なき声は決して天へは届かない。当然だ、だってその城に民は居ないのだから。

 

「我らが成すは、ただ声を届けること」

 

 張三といふ凡夫は、己が非力であることを自覚している。だから、自分がどんなに鍛錬しようとも天下無双の豪傑たちと肩を並べて武を競うことができないことを理解している。

 張子季といふ凡夫は、己が非才であることを承知している。だから、自分がどれだけ思索しようとも鬼才天才と呼ばれる軍師たちと知を競うことができないことを納得している。

 では、願加といふ凡夫は──?

 

「天にて鎮座する御方へと、弱き民の声を届けるために。そのために、どうか私に其方らの力を貸してほしい」

 

 そう言って真摯に頭を下げて願い乞う男の姿は、川辺で身を寄せ合い、この世を儚み憎悪の果てに死ぬはずであった彼らの目にはどう映ったのだろう。

 張三のその言葉はきっと唐突で傲慢で、荒唐無稽も甚だしい独り善がりな、それこそ突然訪れた不幸に気が触れてしまった哀れで愚か者の戯言でしかなくて、そのはずなのに、そこに居る誰も彼もが即座に拒絶の言葉を吐くことができずにいた。

 

 広まる静寂を加速させるように、夜空に浮かんでいた月を雲が隠し、唯一の光源であった月明かりを失って暗闇に沈む川辺。

 

「……それなら」

 

 やがて、一人の女がぽつりと呟いた。

 それは、物言わず、身動ぎ一つしない、青白い顔の幼子をひしと抱きしめた女であった。

 

「もし、貴方の言うその務めをわたしたちが果たせれば……」

 

 真っ暗な闇の中で、女が顔を上げる。

 その双眸に、微かな、ほんの僅かな光を灯して。

 

「そうなれば…わたしの息子は、(ほう)の死は……無駄ではなくなりますか?」

 

 せめて理由が欲しかった。

 愛しい息子の短い生が、我が子の望まぬ死が、賊を楽しませるためでも、役人を肥え太らせるためでもなく、そこに確かな意味があったのだという確固たる理由が欲しかった。

 

「わたしは…あんな奴らのために、自分のお腹を痛めてこの子を産んだんじゃない……っ!」

 

 もはや骨と皮しか残っていないような細腕に力を込めて、女は息子の亡骸を強く、強く強く強く抱きしめる。

 

「いや…です。嫌だ。このまま、なんの意味もなく、何もできずに、息子の無念も晴らせぬまま死ぬのは、わたしは嫌です」

 

 その悲痛な声を張三は静かに受け止め、然りと頷いた。

 

「……そうじゃ」

「そう、だ」

 

 年老いた男が、小さく囁いた。

 片目の潰れた男が、それに応えた。

 傷つき、疲れ果て、何もかもを諦めて諦めきれなくて燻っていた者たちが、賛同するようにゆっくりと立ち上がる。

 

「簡単ではない。苦難に満ちて、苦悩に塗れて、苦汁を舐めて、これから我らが辿る道はきっと辛く厳しい道だろう」

 

 最後の一人が立ち上がったことを確認し、張三は語る。

 

「……だが、大事な人を、大切なモノを、全てを失った苦しみに比べればどうということはない」

 

 雲間から、再び月が顔を出した。

 

「我らは生きねばならぬ。どんなに惨めだろうと、蔑まされようと、生き足掻き、生き抜いて、新たな時代に太平の世を築くのだ」

 

 

 月の灯りに照らされた彼らの双眸が、鈍く燃え、光を取り戻した。

 

 

 

  *  *  *

 

 

 

 そして張三たちは、川辺を後に歩き始めた。

 これからどこに向かうのかと問う男に、張三は洛陽を目指すと答える。

 

 庁舎で待ちぼうけを食らっているときに、張三は役人同士のある噂話を耳にしていた。

 

 

 『あの曹孟徳が騎都尉に任じられるにあたり、兵を募っているらしい』

 

 

 噂話がどこまで当てになるかなんて分からない。

 噂では高潔な人物だと言う。公明正大で民を想い、文武を重んじ才に富んだ傑物であると言う。

 

「そんな人間が本当に実在するのか?」

「誇張されてるだけでは?」

「どうせ嘘っぱちだ」

 

 そんな風に不安をこぼす難民たちに、張三も確かにと首肯する。

 

「だがしかし、他と言っても北は幽州。白馬義従と誉高い公孫伯圭殿は異民族の討伐で朝廷になんぞ構ってはいられまい」

「では南の兗州は?」

「劉公山様は漢の皇族。我らの真意を見抜かれれば即座に首を撥ね飛ばされるだろう。そうすると、残りはここより東になるのだが……冀州を治めるは袁家だぞ?」

 

「「「 …… 」」」

 

「ないな」

「だろう?」

 

 何でだか高笑いをする豪奢な金髪ドリルヘアが脳裏を過り、疲れたように首を左右に振る張三たち。そもそも、袁家がもっとまともに治めていれば自分たちはこんな目に合っていないのだ。

 

「幸い、鉅鹿郡から司隸までなら比較的距離も近い」

「……言うほど近いか?」

「まぁ、涼州や益州よりはマシじゃろ」

 

 未だ見ぬ曹操に不信感を募らせながらも、渋々といった体で張三の後に続く難民たち。

 ただ、そんな彼らの余裕も数刻のうちに消え失せることとなる。洛陽までの道程は過酷を極めた。もとより金もなく、糧もなく、気力だけで歩み出した旅路なのだ。そうそうに限界は訪れた。

 

 比較的まだ動ける者たちが率先して道中で獣を捕らえ、川で水を汲み、年老いた者達から聞き出した食せる草木をかき集めて飢えを耐え忍ぶ。道中の村や街では門前払いされることも珍しくなく、どうにか中へと入れても僅かな路銀や食料と引き換えに奴隷のように扱き使われたりもした。

 荒れ果てた荒野を、険しい山河を、ふらふらと、ゆらゆらと、死霊の群れのようになりながらも張三達は幾月も歩き続ける。

 

「……儂は、もう……無理じゃ。こ…こ……置い…て……け。代わ…りに、どう…か仇を…っ……孫の、仇を……」

 

 老いた男は、死の間際とは思えない力で張三の手を固く握りしめ、全てを託して逝った。

 

「あれは……」

 

 見るからにひ弱そうな難民の群れである。奪えるものはないだろうが憂さ晴らしにはなるだろうと判断されたのかもしれない。下卑た笑みを浮かべた賊共に狙わたことも一度や二度ではない。

 

「俺たちが足止めする」

「お前さんらは、先に行きな」

 

 片目が潰れた男が、片手を失った男が、他にも四肢に問題を抱えている者らが、賊に狙われる度に捨石となって群れを離れていった。

 杖代わりにしていた木の枝で殴りかかり、それが折れれば素手で、腕を斬られれば足で踏みつけ、それすら叶わなくなれば賊の身体に突っ込んで行って肉を噛み千切る。その命尽きるまで、彼らはあらゆる手段で賊を殺しまわった。狂ったように笑い、恨みを晴らすように憎悪の涙を流しながら、悪鬼のように賊を縊り殺し、最後にはやり切ったような顔で絶命していった。

 

「あと、少しだ……」

 

 鉅鹿郡を発ったときには十数人いた群れも、一人減り二人減り、司隸との州境に辿り着く頃には半数近くにまでその数を減らしていた。

 飢えに力尽き倒れた者。賊と相打ちになり散っていった者。その全員の願いを、想いを、命を、張三は背負って前へと突き進む。彼らの人生を無駄にしないために、彼らが語り継ぎたかった誰かの生涯を忘れぬために、生き残った者達は足を止めることなく歩き続ける。

 

「……着い、た?」

 

 魑魅魍魎がひしめき合い、あらゆる富が、権力が、欲望が集まる場所────洛陽。

 

 

 

 繰り返される政争によって荒れ果てた魔境に、張三は初めて足を踏み入れた。

 

 

 

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