「そろそろ落ち着いて貰えましたかね?」
「まだ……」
あれから既に30分。同じ体制で勇樹は愛の頭を撫で続けるという、羞恥を味わっていた。時折、撫でる手を止めようものならば愛の方から擦り付けては催促し、「やめてもいいか?」と勇樹が言葉で訴えようものなら、泣かれて見事に勇樹はへし折られていた。
「……それにあたし今、酷い顔してるから」
愛の目元は泣き続けたことで紅く腫れていた。しかし、それだけが理由ではなく、単純に勇樹に頭を撫でられているという実感に頬が緩み、だらしない顔をしているから……というのも見せたくない理由の一つだった。
「気にしねぇよ」
「気にして⋯⋯」
「えぇ⋯⋯」
このままでは聞きたいことも聞けず、ただ怠惰な時間を過ごしてしまう。勇樹は手を止めることも、やめようと問うこともせずに本題に入ろうと決める。
「……なぁ」
「だめ……」
「いや、やめないし離れないから聞いてくれ」
「……ぅん」
「(ここまで弱られると普段の調子が出なくて辛いな……)」
いつも見ていた宮下愛という人物像が、足元から崩れていく感覚に頭を抱える勇樹。天真爛漫な彼女の別の側面を見れたことに高揚する反面、見れたきっかけがストーカー事件で弱っていたからという事にイラつきが収まらなかった。
「まず、宮下が明確に被害を受けた最初の話と証拠になる物があればそれを見せてくれ」
「てがみが届いたの……」
「手紙? それが一番最初にそいつから受けた被害か?」
小さく頷いた事が勇樹の手を通して伝わった。
「それは今も持ってるのか?」
「……でも」
「あるなら見せて欲しい」
「──見たいの?」
「? ああ、犯人特定に繋がるかもしれないからな……」
「……わかった」
──なんであいつ今、顔が赤かったんだ?
あれだけ離れなかった愛が勇樹の手を離れその場に立つと歩き出し、自分の勉強机の棚から二枚の手紙を取り出した。
無言で差し出されたその手紙を勇樹は受け取り、中に入っていた写真に目がいった。
「──まじかよ」
「⋯⋯」
「すまん。これは見せたくはないよな」
勇樹はそっと元あった場所にそれをしまう。
「こっちの紙は大丈夫か?」
「⋯⋯う、うん」
頬の熱さが取れずにいる愛。一方で今度はきちんと確認を取り、安全を確保する勇樹は二つ折りにされた紙を開く。
「⋯⋯こっちもかぁ⋯⋯」
「⋯⋯うぅ」
思わず天を仰ぐ勇樹。ピンク⋯⋯オレンジ⋯⋯と呪詛のようにボソボソと口にしていた。そして例に習うかのように、もう一つの手紙も同じような内容だった。
「(……それにしても、画質やけに綺麗だな。最新の携帯でもここまで綺麗に取れないぞ……プロが撮ったらまた別だろうけどさ。念の為に紙に書かれた字から相手を想像してみようと思ったけど、それで分かるほど専門じゃないしな……。まぁ、写真に関してはありえないだろうけど、一応頭の隅に考えは保管しておこう)」
勇樹は写真と紙をしまい、愛に返した。
「宮下、学校には連絡したのか?」
「したよ⋯⋯先生たちは調べるからしばらくは様子見で⋯⋯って」
「警察沙汰にはしたくないってか⋯⋯」
自分たち可愛さに上手いこと言ってるように見せてるだけだ、そう勇樹には伝わっていた。第一、様子見なんて言っている間にもこうして愛は傷ついている。中学生という複雑な時期のましてや女の子にこの仕打ちを耐えてくれなどと言ってられる大人たち。勇樹は心底嫌気がさしていた。
「まだ直接追いかけまわされたり、家に押しかけて来た⋯⋯なんてことは無かったか?」
「う、うん⋯⋯どんな人なのかも⋯⋯」
「(あくまでまだ接近はされてないか⋯⋯いや、もしかしたら客に紛れてきてる可能性もある。そうなると宮下が籠ったのも適切ではあったってことか⋯⋯)」
しかし、逆に考えるとお店にはいつも愛を可愛がってやまない常連のお年寄りたちがいる。いくら犯人でもその中で犯行は行えるわけが無かった。だからといって常に安全とは言い切れないのも事実だ。
「(⋯⋯相手は明らかに宮下にイかれた感情を抱いているのは間違いない⋯⋯だったら一つしかない)」
「宮下。今からお前には酷なことを強いる。それを受け入れてくれ」
勇樹がそう言うと、愛の顔はこわばった。それでも勇樹から目を逸らすことは無く、真っ直ぐに目と目を合わせる。
「⋯⋯勇樹さんのこと⋯⋯信じる」
先程までよりも強く、はっきりと愛は言葉にした。その覚悟の表れに勇樹は答えるため、唾を飲み喉を鳴らす。
「──外に出かけよう」
◇
外は嫌に曇っていた。夏間近にやってきた雨雲は、さわやかな空気をジメジメとしたものに変換させ、外を歩く人々の気持ちもどんよりとしていた。
もうすぐやってくるかもしれない雨に喜んでいるなんてのは、新品の長靴と傘を買ってもらえた子どもくらいのものだろう。
そんな散歩気分にもならない外を並んで歩く二つの影があった。
「どうだ?一日ぶりの外は」
「⋯⋯あんまり、かな」
「だよな。俺もそう思う」
ここまで天気が崩れるとは予想していなかった勇樹。失敗したと内心は頭を抱えていた。しかし、自分から誘った手前、やっぱり止めようなどと提案することはできなかった。
勇樹の隣を歩く愛。ぼさぼさとしていた髪をしっかり梳かして、いつものポニーテールではなく下ろしていて、オレンジ色のオフショルダーとショートパンツとラフな格好だった。
口では、不満を垂らした愛だったが、この状況自体に喜びを感じていた。
「(こ、これ⋯⋯でーとってやつだよね⋯⋯勇樹さんわかってるのかなぁ⋯⋯えへへ)」
「(なんかやけに宮下との距離が近いんだが?まぁ、いつ鉢合わせるかわかったもんじゃないからな⋯⋯ん、逆にもっと密着しておくべきか⋯⋯)」
「宮下」
「えっ、うん──きゃっ」
有言実行、とばかりに勇樹はすぐさま愛の右手を取ると、お互いに体が当たるほどの距離まで寄り添う体勢になった。
「へっ⋯⋯えええ!?ど、どうしたのっ!?急に⋯⋯こんな⋯⋯っ」
「もう少し寄らないと危ないだろ?」
先程から向かいからやってくる人にぶつかりそうになるくらいには、今二人が歩く場所は道が狭くなっていた。愛からみればそれはその為に自分にもっとくっつけ、と言われていると思っていた。
逆に勇樹からすれば、それよりも愛がいつ危険に晒されるか分かったものではないという事でくっついていないと、という使命感を忘れないようにくっついたに過ぎなかった。
ぴたりと密着する二人。その間には一切の声が交わされること無く、地面を蹴る音だけが耳に響いた。そこにもう一つ音がするのだとしたら──
「(心臓の音がうるさいなー⋯⋯)」
「(心臓の音がうるさい⋯⋯)」
どちらからともなくお互いの歩幅に合わせる。決してどちらかが早くなることもなく、遅くなることもない。無意識に互いを思いやるその姿はまるでワルツを踊っているかのようだった。
「⋯⋯」
「⋯⋯」
この時間がもっと続けば⋯⋯そう願うが、音楽はいつか止まるものだ。
静寂にそぐわない音が、勇樹のポケットから鳴った。勇樹の携帯に通知が届いた証拠だ。
「ごめん⋯⋯」
勇樹は携帯の入れてある左ポケットに手を使うために、愛と握りあっていたその手を解く。
「あっ⋯⋯う、うん」
温かいそのぬくもりが離れていく感覚に気持ちを落とす愛。宙に取り残された愛の右手が再び握られることは無く、愛の手元に戻ってくることも無くその場に佇んだ。そっとその手を胸元に添えて、愛は慰めるように左手で包んだ。少しでも温かさを残そうと必死に⋯⋯。
「(ったく誰だ⋯⋯景虎?掃除終わって用務員にゴミを渡そうとしたのにいなくて帰れない⋯⋯だ?そんなの替わりの人に渡して帰っちまえ⋯⋯と)」
勇樹の学校では、週一で教室に設置されたペットボトル類のゴミを用務員に直接出しに行くルールがあった。近年、ペットボトル本体、キャップを綺麗に分別するという文化が薄れつつあった。その対策にと勇樹達の学校ではそれらの分別を徹底していた。用務員に渡すのはその最終チェックのようなものだ。
これは地域での取り組みで、勇樹の学校だけではなく、その近辺である愛の学校もそれに該当していた。
そして用務員がいないという事で、帰れないと景虎から連絡があったのだった。
当番を景虎に免除してもらった恩が勇樹にはあったため、無視することは無くアドバイスを送ることにした。
「ところで勇樹さん。どこか行く当てあるの?」
「ん?ああ⋯⋯一応な」
調子を取り戻した愛が勇樹に問うと、勇樹ははっきりとしない物言いで返した。それもそのはずで、勇樹は一切考えていなかったのだ。
「⋯⋯どうすっかな」
勇樹は携帯の時計を確認しながら呟いた。