願わくば、ずっと蓋をしておきたかった忌まわしい過去。
最初はとても軽い。今にして思えばなんてことない、からかいから始まった。
それでも中学一年という期待と不安を抱えながら最初の一歩を踏み出していく時期だった男にとって、それはあまりにも怖くて恐ろしいものでしか無かった。
いつからか、からかいは毎日のように続いていた。
けれど男は懸命に耐えて、耐えて、耐えて……頑張った。
次第に男は何も反応を示さなくなった。それはからかう側にとってはあまりにも面白くないことだ。男が慣れてきたことに苛立ちを感じ初めて行く。
しかし、男にとっては慣れた……などというそんな感情は持ち合わせていなかった。男は懸命に耐えていただけなのだから。
悪意、恐怖というものに蓋をして、見ないふりを続けて、そうやって耐えていただけなのだ。
それを感じ取ってくれることなど万に一つもなく、男をからかい続けた女の"からかい"は"いじめ"へと変化していった。
上靴の紛失、教科書への落書き、授業中には後ろから紙くずを投げつけられ、陰口は絶えず、席を離れようとすれば足を掛けられて転ばされ、体育の授業では陰湿な攻撃を受け、掃除の時間には綺麗にしてやると雑巾の水を男の席の上で絞られ、最後には全てを押し付けられる。
その場にはいつも、男を見て悦に浸る女の姿があった。
男はいつも学校が終わるとすぐさま家に帰っていた。
そんな生活が半年続いた。
その時はまだ、男の中では女にやられているという実感は感じていなかった。それもそのはず、女は
主犯が女だという事実に男が気づいたのは、トイレで上から水をぶっかけられた日の事だった。
洋室の便器に腰を下ろしたタイミングで、上からバケツに入った大量の水をぶっかけられた。もうすぐ冬服に衣替えするというこの時期に冷水を浴び、男の体は酷く冷えていた。震える両肩を抱きながら、バケツが勢いよく床に落ちる音を耳にする。
男は表情一つ変えることなく、備え付けのトイレットペーパーでかけられた水滴を少しでも吸い取ろうと手を伸ばした。
──あんたら、ちゃんとやってきたの?
その声は、男の耳に酷く響いた。
──なぁ、もうそろやめようや。いい加減、先生にバレるぞ。
──は? なに、ビビってんの?
──隠そうにもさすがに規模がデカすぎだって。
──あぁ、その辺はラクショーだから。クラスのオタクとかに擦りつければ丸く収まるっしょ。第一、ここの教師バカばっかだからアタシがやらせてるなんて想像も出来ないんだわ。……てゆうか、あいつそろそろ遊びがい無くなってきて飽きてきた。次の探すっかなー。
廊下から響いてくる女の声に、男は伸ばした手をだらんと下ろすと強く拳を握ったが、それはすぐさま力なく解かれてしまった。
男はあまりにも弱かった。やり返そうなどと考える力もない程に衰弱していたのだ。
自分がいったい何をした。あの日、女とほんの少しでも接点を持ってしまった。それが自分の罪とでもいうのか。
運命というものを神様が作っているのだとしたら、男は酷くその神を呪うだろう。
もう嫌だ、疲れた……と、全てを投げ出したくなった──その時だった。
そんな男の頭に、ヒラリとハンカチが落ちてきた……否、投げられたというのが正解だろう。
冷えた個室に灯されたひとつの光。男は震える両手でそれを手に取ると大事に手のひらへ乗せ、見つめていた。
──お前、凄いな。俺には……耐えられないよ。ごめん。何も出来なくって。今はただ逃げ続けてもいいと思う……そしていつか必ず幸せになれる……はずだからさ。
独り言のようにボソボソとそう呟き、その誰かはゆっくりと足音を立てて去っていった。
まるで無責任、いじめられっ子を助けた自分に酔っているだけの偽善者。そう思わざるおえない……しかし──
男は涙した。それは打ちのめされていた自分に初めて差し伸ばされた救いの手だったから。
男はスっと立ち上がり、個室のドアを開けて最初の一歩を踏み出した。
愛くるしい虎のマスコットが刺繍されたそのハンカチを握りしめて──。
それから来る日も来る日も、女からの攻撃は続いた。けれど、男は動じることなく堂々としていた。男のポケットにはいつもあの時落とされた虎のハンカチがしまい込まれていた。
どんなに挫けようとも、それを見る度に男は『いつか必ず幸せになれるはずだから』という言葉を思い出し、顔も知らない人に支えられながら歩き続けていた。
そんな日々から解放されたのは、男が一つ学年が上がった時だった。クラス替えが行われ、同じクラスだった女と離れることができたのだ。
これがきっかけとなり、女は男をいじめることに飽きたのかそれ以上関わることは無くなった。
しかし、それでこれまでの出来事を忘れることができるわけもなく、男には女への恐怖が植え付けられた。
◇
「頼まれてたのは……っと」
美里の提案で買い出しに出ていた愛と勇樹。やってきたのは宮下家の行きつけだというスーパーだった。
「スーパーとかにも買い物来るんだな」
「えー、普通じゃない?」
「いや、何となく商店街の八百屋とか肉屋とか並んでるからてっきりそっちで買ったりしてるもんだと思ってた」
『みやした』は商店街の一角に位置するお店だ。そうなれば必然と買い物の中心は商店街になる。そう思っていた勇樹だった。
「確かに、よくお世話になるけど……今日は、これっ」
胡椒を片手に決めポーズの愛。変に決まってる所、流石は花の女子高生と言ったところだろうか。勇樹の持つ買い物カゴに胡椒が入れられると、次の目的地へと愛は歩き出す。
「……」
──やっぱり好きじゃん。あいちーのこと。
勇樹は、不意に景虎に言われたことを思い出す。
「……分かってるよ」
考えていないわけがなかった。付き合いに関してはほぼ二年。その間で朝起こしてもらい、手作りご飯を振る舞われ、何度も一緒に出かけていた。
それで全く意識しない……そんなことが出来るほど、宮下愛という女の子が持つ魅力は甘くないのだ。
しかし、勇樹の中でそれを認めようとすればするほど、それを邪魔する要因があった。
それは単なる過去のトラウマからではなく、勇樹の気持ちの問題。
「勇樹さん、どしたの?」
少しばかり重さが増したカゴをぶら下げ、勇樹の顔を覗く愛。
突然の距離の近さに勇樹は、思わず一歩後退る。
「むぅ」
「わ、悪い。なんでもない」
「どーだか」
勇樹の態度に不満を持った愛。愛からすれば、ただ"心配をした"というだけなのだ。しかし、勇樹にしてみれば直近まで当の本人に関係する事を考えていたのだ。反射的に体動いてしまったのは仕方ないだろう。
明らかなまでに頬を膨らませて"機嫌が悪いですよ"オーラを纏う愛に、どうしたものかと頭を抱える勇樹。
「……あ、おい」
「──へっ」
通路を遮ってしまっていることに気付いていない愛。そこにやってきたおばあさんを通してあげるために、勇樹は愛の肩を抱くと自分の元に引き寄せた。
「ごめんなさいねぇ〜」
「こちらこそ」
「ご、ごめんなさいっ!」
おばあさんの声でようやく気がついたのか、勇樹の声に続いて愛は頭を下げた。
「いいのよぉ〜ふふっ、仲良しでいいわね」
勇樹は未だに愛の肩を抱いたままで、愛は勇樹の胸元にくっつく形のままだった。そこをおばあさんに指摘されて、ようやく気がついた二人。
離れるのは一瞬で、二人ともほんのり赤くなっていた。
「……っ」
「あはは……」
おばあさんが去った後。お互いにお互いを意識してしまってか、どう声をかけるべきかと戸惑う二人。愛のぎこちない笑いだけが虚しく響いていた。
「あ、あい──」
「……ちょっとびっくりしちゃったけど、うん、勇樹さん気づいてくれてありがと!」
先に空気を破ってくれたのは愛だった。普段とは少しばかり違うが、概ねいつも通りの笑みを浮かべお礼を述べる。
「どういたしまして?」
「えぇ、なんで疑問形?それより早く済ませないと日が暮れちゃう!」
「あ、ああ……」
「ささっ!気を取り直して次は──」
再び歩き出す愛に着いていく形で後ろを歩く勇樹。変わらぬその後ろ姿だが、時々見える横顔が少し赤みがかっている事に気がつく度に照れくささが増す勇樹だった。
◇
「⋯⋯い。⋯⋯おーいってば」
「──。なんだ?」
買い物を済ませ、帰路につく二人。
既に辺りは暗くなっていた。それは日が落ちたからではなく、雨雲がさらに大きくなり空を包み込んだからだった。今にも降り出しそうな雰囲気を醸し出しながら流れる雲は、まるで外を歩く人々を嘲笑っているかのようだ。
街灯もその灯りをともし、元気に走り回る子ども達の声が消えていく様子は寂しさを実感させる。
「"なんだ?"じゃないよ。ほんとに大丈夫?なんか難しい顔してたけど⋯⋯」
二人歩く中、勇樹は心ここにあらずといった様子で、愛が何を聞いても上の空だった。
「ほんと大したことじゃない。ごめん」
「なら良いんだけど……いや、やっぱり良くない」
二人並んで歩いていたが、愛が足を止めた。突然止まった愛を不思議に思い、勇樹が後ろを振り返ると愛の真剣な表情に刺された。
「どうしたんだよ?」
「勇樹さん、買い物してる時もそうだったけど、なんかずっと無理してる」
「なんだよいきなり。それより、早く帰らないと……」
「じゃあ早く聞かせてよ」
「……何をだよ」
皆目見当もつかないといった様子の勇樹に業を煮やしたのか、愛は勇樹の目と鼻の先まで接近するとその胸ぐらを掴んだ。
予想だにしない愛の行動に勇樹の演算処理は追いついていなかった。
「理由もなくそんな辛そうな顔しないよっ!」
どこまでも真っ直ぐな愛の視線。目と目が合う中、先に逸らしたのは勇樹だった。心の中ではハッキリと自覚していたが、それを隠すかのように体が反射的に動いていた。
それはあからさまな勇樹の
「逃げないで」
「……逃げてなんか」
「嘘だ」
「嘘じゃない……」
「なら目を見て。愛さんの目を見て」
それを見たら戻れなくなる。どこまでも真っ直ぐで、そしてとても暖かいその眼差しを見てしまえば、きっと自分の消したい気持ちや、汚い感情を全て吐き出してしまう。
そう本能的に察知した勇樹は頑なに、愛の方に顔を向けようとはしない。
「……分かった。今は我慢する」
"ごめん"と小さく謝ってから、愛は勇樹から少し離れる。
「……」
「でも約束してほしい、絶対にいつか話すって」
──そうだ。この目だ。
勇樹を真っ直ぐに見つめる愛。どんなに勇樹が逃げようとしてもそれを咎める訳でも蔑む訳でもない、優しくそれでいて厳しい目。
どれだけ自分を──友達を大切にしているのか、それを嫌というほど感じさせるからこそ、それに甘えたくなる。
勇樹は認めたくなかった。だからこそ勇樹は口を開くことも、頷く事もしたくなかった。
「俺は──」
いっそ全て吐き出してしまえばスッキリするのだろうか。その果てにどんな目で見られるのか、どんな想いを抱かれるのか、この関係は変化してしまうのか、氷川勇樹という男は自分のことに関してはどこまでも臆病だ。
逃げ続けてきた人生。こうしてまた自分は逃げ続けるのか……誰も答えはくれない。
「──あっれぇー? あんた……氷川じゃん」
それは忘れもしない声。耳にこびりついて離れない声高い女の声。
「勇樹……さん?」
「あ……あ……」
開いた口が塞がらず、乾いた声が漏れる。冷や汗が溢れんばかりに飛び出し、体の温度が急激に冷えていく。体の震えが止まらず、今すぐにでも地に膝をつきカッコ悪く蹲りたい。
「さ……さとう」
佐藤愛。
勇樹の人生において、二度と会いたくない人物との再会だった。