勇樹の異変に気がついた愛。
見ていられなくなり、その手を伸ばすと勇樹の肩が驚くほど跳ね上がった。
まるで肉食動物に見つかり怯える草食動物のように。
愛は酷く困惑した。彼女の瞳に映るのは、怯えた目を自分に向けて恐怖に体を縛り付けられる男の姿だった。
愛はこれ以上、勇樹に近づくことを良しとは思えなかった。
二人が暗く淀んだ空気を流す中、目の前のそれは能天気に声高く言葉を発する。
「うっわ、クソなついわぁ〜」
相も変わらず、パーマのかかった派手に染められた金髪。長いまつ毛にギラギラとしたマニキュア。少し離れてても嗅覚を刺激するキツめの香水。
そして勇樹を──他人を見下すツリ目。彼の脳裏に貼り付けられたあの時の佐藤と寸分たがわず目の前に現れたのだ。
「……」
「勇樹さん、知り合い……?」
「はいはーい、アタシそいつと中1の時同級生だった佐藤愛でーす」
恐る恐る勇樹に問いかけた愛だったが、それを遮るように佐藤が割って入ってきた。
同級生。その言葉に首を傾げる愛。言葉の意味自体は理解出来るが、その言葉通りなら何故、彼が隣で今にも崩れ落ちそうなほど脆く震えているのかと……。
「勇樹さん……」
「てか、あんた何? 氷川の女?」
佐藤のターゲットが愛に向いた。どこか冷めていて、興味の欠片もない気だるげな声。それが愛の耳に届いた瞬間、彼女は瞬時に"仲良くできない相手"だと察した。
(……学校の友達とか、常連のおじちゃんおばちゃんとは違う。この人、全く他人に興味がない人だ……というか、人と話してるっていう実感を持ってない……?)
『知らない事を知らないままにして、拒絶したくない』愛にとってのモットーだが、今日初めてそれを破りたくなっていた。
「あたしは……勇樹さんの──」
「……いこ」
「──っ! 勇樹さん?」
そこで初めて、隣で縮こまっていた勇樹が愛に口を開いた。傍にいた愛ですらギリギリ聞こえるかどうかの、とても弱々しい声量だった。
戸惑いの中、愛は勇樹の足元にふと視線が行った。小刻みに震え、まるで生まれたての子鹿のようなその足を何とか動かそうとしているのが見えた。
一刻も早く勇樹を楽にしてあげたい。愛はその一心で、勇樹に同意し、自分が手を引いて佐藤から離れようと動く。
しかし、
「は? ちょいちょい待ちなよ。てか、無視すんな」
「……あの! 私たち急いでるんです」
「なぁ、氷川。何逃げようとしてんだよ」
「……」
勇樹の盾になろうと背中に隠す愛だったが、佐藤の言葉の矢は、愛を貫いて勇樹の元に刺さった。
しかし、それでも口を開かない勇樹に佐藤は徐々に怒りを表し始めた。
「まーた黙りかよ。お前いっつもそれだよな。ほんと面白くない男になったわ」
「……るさい」
「やめてよ佐藤さーん。なんて最初はいい反応してたのに、段々反応無くなって終いには無反応だし。だからアタシ以外のやつをけしかければいい反応するかなぁ〜って思ってたのにとんだ期待外れ。そんなんだから中二の後半からはあんたのことイジメる気にもならなかったんだよね。ってあれ、アタシがイジメの主犯だったの知ってたっけ? まぁ、いいわ」
次から次へと口を開いては、嘲笑う佐藤。それに対し、勇樹は意外にも何の感情も沸いてこなかった。ただ、何も感じず考えず、この時間が一秒でも早く終わることをただ待ち続ける。
しかし、願いとは裏腹に終わることはない。
「あっ、そーだ。彼女ちゃんさぁーこいつの中学の時のこと知りたいっしょ?」
黙り込む勇樹に痺れを切らした佐藤は、標的を愛に向け始めた。
それに気づいた勇樹はこの場から逃げ出すために愛の手を引いて、佐藤に背を見せた。
何としてでも愛に関わらせたくはない。勇樹はその一心だった。
だが、それをただ黙って見ている佐藤ではなかった。
「彼女ちゃん、あんたの彼氏、昔アタシにちょっとからかわれただけでガン泣きしちゃってさ! それからビクビク震えながら学校来てたんだーまじウケない? 」
「アタシが話しかける度に泣きそうになりながら「な、なんですか……」って! チョーびびちゃってさ、あの顔見る度に笑いこらえるの大変だったわ。はぁーあんときは毎日毎日飽きなかったなぁ〜」
「ちなみにセンコーに怒鳴られてた時がいっちばん面白かったんだけどさ……」
誰が頼んだ訳でもない昔話を淡々と喋り出す佐藤に対して、勇樹はただ見ていることしか出来なかった。
「てゆか、彼女ちゃんギャルじゃん。あーそっかそっか、もしかして、あんたアタシのこと好きだったわけ? だからアタシに似たこの子を彼女にしてるんだぁーきっも。アタシにイジメられてたのが忘れられなくて、この子に夜はイジメてもらってたりして? あははははーマジだったらやば、腹痛すぎるわぁ」
自分はいくら嘲笑ってもらっても構わない。それが勇樹の思いだった。しかし、止まることを知らない佐藤は遂に直接的ではないが愛までも馬鹿にし始めた。それが勇樹の逆鱗に触れたのだった。
「彼女ちゃんも可哀想にねぇ〜、こんな男を彼氏にしちゃってさ。彼女ちゃんなかなか可愛いしアタシがもっと良い男紹介するよー? 夜のテクだって上手い奴いっぱい知ってるからさぁ」
「───お前いいかげんにっ!」
勇樹がみ掛ろうと動こうとしたその時、繋がれていた勇樹と愛の手が離れたのがトリガーとなったのか、勇樹の横を駆けていく影が見えた。その背中は見間違えるわけもなく───
「宮下──!?」
愛は一直線で佐藤に向かっていきその胸ぐらを掴み睨みつける。
勇樹の逆鱗に触れる前から既に、愛の逆鱗は刺激され続けていた 。
佐藤に向けるそれは、これまで誰もが見たことの無い愛の表情。大切な人を剥き出しの悪意で傷つける敵への怒り、普段の彼女からは想像も出来ないその声色が佐藤に降り注ぐ。
「──これ以上、勇樹さんを侮辱しないでよ。あたしは大切な人が傷つけられて平気でいられるほど心が広くないから」
「……な、何よ急に!」
「知ってる?勇樹さん凄い優しい人なんだよ。いつもは無愛想でたまに何考えてるのか分かんない時あるけど、いざとなったら必死になって他人のために頑張れる優しくてカッコイイ人なんだ」
「だ、だからな──」
「そんな人が!! 震えた手であたしの手を握ってきたんだ。あんなに優しい人がどうして怯えなきゃいけないのさ! あたしは部外者だからよく分からないけど……あなたがしてきた事がどれほど勇樹さんを傷つけて、追い込んだか分かる……?」
「……んなこと知るわけ──」
その時だった。パンッ、と乾いた音が辺りに広がった。
「……な、な」
「──いい?今後一度でも、あたしの大好きな人を少しでも傷つけてみろ……あたしはあんたを絶対に許さない!どこまでも追いかけて勇樹さんが味わった消えない痛み以上のものを植え付けてやる……絶対だッ!」
佐藤にとって愛に頬をはたかれる事は予想出来るものではなかった。結果、目を白黒させて思考が追いついていない様子だ。その上に渾身の激昂を浴びせられ、声も出せず。さらには立つことすらままならないのか、その場に座り込みだした。
「……っ」
愛の気迫に押されていたのは、佐藤だけではなく勇樹も同じだった。しかし、驚きよりも強く、より強く"嬉しい"という感情が込み上げていた。
愛は座り込んだ佐藤を見下ろすと、すぐさま足先を変えて勇樹の元に駆けた。
「……いこ」
「……」
勇樹は何も言葉を返すことが出来なかった。それでも腕にしがみつく愛が早くここから離れたい、そう言わんばかりに腕に入る力を強めているのを感じ、勇樹は少し早足でその場を急いだ。
◇
二人が辿り着いた先は、神社だった。雲行きが怪しく、お参りする人も少ないため、不気味な雰囲気を醸し出しているが、二人には不思議とその不気味さが心地よかった。
すれ違う人々の視線に晒されながら、人の群れをかき分けてきた二人。愛に手を引かれ走り抜けてきた勇樹。普段それほど走る事の無い勇樹には愛の走りはとても早く、両膝に手を付いて中腰の姿勢になりながら息を吸っては吐いてを繰り返していた。
「はぁ……は……はぁ」
「ふぅ……」
そんな勇樹とは正反対に息切れすることなく、一息つくだけの愛。声をかけようと勇樹に目線を向けた時ようやく、自分のペースで走らせてしまっていたことに気づいた。
「ゆ、勇樹さん……大丈夫?」
「ぜぇ……っ……はっ」
「大丈夫じゃ、なさそうだね」
「はや……すぎっ……だ」
「……ぷっ」
髪をボサボサにしながら眉間にしわを寄せ、一生懸命に言葉を紡ぐその様が愛には妙におかしかった。
自分とは正反対に、余裕な愛を勇樹は恨めしそうに見るしかできなかった。
「……はぁ、ふぅ」
「落ち着いた?」
「久しぶりにあんな走ったわ」
「運動不足だぞー」
「やかましい」
「──いてっ」
ペシっ、と愛の額にデコピンをかました勇樹。精一杯の抵抗は、しっかりと愛に当たっていた。
「うぅ。暴力はんたーい!」
「そこまで力入れてないだろが」
「……うん」
「どうした?」
突然、愛の言葉に勢いが無くなり、ボーッと自身の右手を見つめていた。急な変わりように勇樹は困惑する。
「痛かったかな……」
その一言で、勇樹は先程の佐藤の頬をぶった時のことだと察した。
「……どうかな」
「あたし、初めて人に手を出した」
「今までが良い人過ぎるんだよ」
「でももう、良い人じゃ無いね」
乾いた笑い声と共に、愛はそう呟いた。
「無意識だったけど、ここに辿り着いたのは多分、神様に許して欲しかったからかも」
「……宮下も神様とか信じるんだな」
「愛さんだって信じるよ」
そこで会話はピタリと止まった。
神社に植えられた木々がやけに騒がしく揺れている。空模様は、大半が雲に覆われて、光の一粒すら届かず、地上はより一層どんよりとしていた。
そんな空をただ眺め無言であった二人だったが、先に口を開いたのは意外にも勇樹だった。
「宮下はまだ良い人だろ」
「どうして?だって……」
「宮下は、俺の為に怒ってくれただろ」
ここまで走ってくる中で、余裕が無いながらも勇樹の視線には、何度も右手を握っては、震えさせる様子が見えていた。
これまで一度として人の悪意に触れてこなかった愛にとって、人を手で傷つけるという行為はとても恐ろしく、後悔する行いだった。
どんな理由であれ、手を出してしまった自分を自分では許せないのだ。それが"良い人じゃない"と自分を揶揄する原因なのだろう。
しかし"良い人だ"と勇樹はそれを否定する。
「あの時、宮下があいつに向かっていった時、俺は救われたんだ。中学生の俺には、ああやって我先にと飛び出していってくれる奴はいなかったから」
「その行動だけで、中学生の俺は確かに救われた。なのにそれだけじゃなく、あいつに立ち向かってくれた、俺を守ってくれた。度胸の無い俺に変わって、あいつに啖呵を切ってくれた」
「昔どころか、今の俺も救ってくれたんだ。他の誰がなんと言おうと、宮下愛は、"今の俺"にとって良い人で、"昔の俺"にとっての
ヒーローが拳を振るうのは何故か、ヒーローはいつだって、悪の力を正義に変えて戦うものだ。人を助けるために振るう拳は暴力か?否、救いだ。
拳を握らず、言葉だけを並べるものはいつだってどっちつかずな中間でいたいだけ。本物というのはいざと言う時に、誰かの為に拳を振るえるものの事だ。
「宮下の行動を"間違いだ"と言う奴がいても気にするな、俺がその何十倍も大きな声で"他人のために戦った勇気ある行動だ"と言い放ってやる」
「……うんっ」
「そうだ……すまん、大事な事を一つ言い忘れてた」
愛が確かに、正しい行いをしたのだと決定づける感謝の言葉があった。
「助けてくれて、ありがとう。愛」
神社の敷地内のとある一角に、一筋の光が差し込んでいた。