誰かが笑っている。聞いているだけで不快になる汚い笑い声だと勇樹は評した。それはいつも勇樹を見て、同じ顔をしていた。
──おーい、氷川ぁ~優しい優しい愛さんがぁ~あんたの給食盛り付けしてやったぞ~?
あの日もそれは、ニヤニヤと底の見えない笑みを浮かべて勇樹の元に近づいてきた。周りから見れば、親切なおせっかい焼き程度に見られているんだろう。勇樹はその空気が嫌いだった。勇樹にとってそれは親切でもおせっかいでもなく、そんな綺麗なものじゃない汚くおぞましいものだった。
その日の給食はカレーライスだった。確かにカレーライス。しかし、勇樹の元にあれが持ってきたのは──
──ね、ねぇ⋯⋯これ。
──うっわ、佐藤あんたやったんこれ?
──いい感じっしょ?牛乳ぶっかけカレー。
──きったねぇ⋯⋯小学生でもしねえだろ。
──あはは、あはは、あはは!
決して誰も咎めない。誰もが皆、それを当たり前な事だと気にする素振りもなく、勇樹を置いて時間は流れていく。勇樹の耳に聞こえるのはいつものあの高笑いと、周囲の勇樹を嘲笑う声だけだった。
◇
勇樹が愛の通う中学校前で倒れてから数十分。
「ごめんね!アッキーまで付き合わせちゃって」
「いいって、いいって!」
救急車を呼ぼうとしたところで勇樹に止められ、どこかで休憩すれば大丈夫と言われた二人は、部活を少しの間抜け出し学校近くの公園までやってきていた。
「ところで愛一人に任せちゃって大丈夫?」
「うん!大丈夫だよ。お兄さんはあたしが見ておくから。アッキーはすぐ部活に戻ってよ」
「ありがと! みんなには愛は今日はもう抜けるって言っておくから」
「さんきゅー!」
アッキーこと、中野アキは女子テニス部の部長であるため、すぐに戻らなければ行けなかった。一方、愛は部活に参加はしているが正式な部員ではなくその日限りの助っ人として参加していたため、融通は効くほうなのだ。
「あ、私がいなくなるからって意識ない人にヘンなことしないでよ〜?」
「なっ! なにさー!ヘンなことって……そんな」
ニヤニヤ、と宮下愛からかいモードへと移行するアキ。アキの一言でどっと勇樹を意識する力が強くなっていき、顔もほんのり赤くなっていた。
「まー私は応援してるから! 頑張ってねぇ〜」
「──だ、だからそんなんじゃないんだってばぁー! もー!」
最後までからかわれ続ける愛だった。
「……」
アキの姿が見えなくなると、途端に視線の矛先に迷う愛。ベンチに腰掛けている愛の横には、勇樹が規則正しい吐息を漏らしながら意識を深く沈めていた。
「(……ど、どうしよう。何してたらいいか分かんないよ!)」
じっとしているよりも体を動かしたい。そんな性格の愛にとって今の状況は耐え難いもので、ため息をそっと零す。
そんな愛の心情を知ってか知らずか、勇樹の頭がグラグラと揺れる。
「──ひゃっ!?」
状態を保っていられなくなった勇樹の頭は、ゆっくりと愛の肩へと乗せられた。突然のことに思わず声を上げる愛。その頭の中はいっぱいいっぱいになっていた。
「(え……えぇ!? な、なにこの状況! ちちち近いよ! ど、どうしよどうしよ……)」
生まれてこの方、愛はこれほどの距離感を男に許したことは無かった。そのため、動揺し正常な思考も奪われる一方だ。
さらにはアキの別れ際の一言が相乗することで、ただでさえ意識していた勇樹の存在がより鮮明に、そしてくっきりと愛の心に刻み込まれる。
「(……このままじゃ、首痛めちゃうよね? ……よ、よし……)」
少しばかり辛い体勢でいる勇樹を案じ、覚悟を決める愛。自分の肩に乗る勇樹の頭をゆっくりと下ろし、自身の膝元へと移動させた。
俗に言う膝枕だ。
「……ん、」
「(あ、起こしちゃったかな?)」
「……すぅ」
「(ふぅ……よかった)」
愛にとって初めての膝枕。ずっと昔、まだ愛が小さい頃の事だ。姉代わりになってよく遊んでくれていた人が、遊び疲れ眠くなっていた愛のためにと膝枕をしてくれたことがあった。その時に気持ちよかったことを思い出した愛は、今が好機とばかりに自分がされていた事をする気でいた。
「(……ちょ、"ちょっと"だけ。ほんの"ちょっこん"と触るだけだから……なんつって)」
愛は自身の右腕を上げると、そっと勇樹の頭の上に落とした。
「(──あ、すごい。サラサラしてる……触り心地いいなぁ〜)」
髪の付け根から先に向かってゆっくりと撫でるのは愛の手のひら。テニスウェアのままだったこともあり、スカートが少しばかり短く、毛先が太ももを撫でる度にくすぐったさを感じていた。
「(えっへへ〜あたし好きだなぁ……これ)」
愛の頬が緩む。人が通る度に暖かい眼差しを愛は向けられていたが、それに気が付かないほど夢中になっていた。
「──んっ、」
「(あ、起きちゃった……)」
「……あれ、ここは」
「おはよ、お兄さん」
寝起きで視界が合わず目をぱちぱちとさせる勇樹に、上から声をかける。ほんの少しの間が空き、勇樹は自分が置かれた状況を少しずつ理解し始める。
「……この、肌触りのいい感触は……」
「んっ……お、お兄さん。あんまり動かれると、愛さんくすぐったいですよ?」
「……」
女子中学生の太ももだ。勇樹がそう理解するのは早かった。そして次第に鮮明になっていく視界。その視線の先には、ニヤニヤと勇樹と愛を見ているカップルの姿があった。
「……あの、これは今どういう状況で?」
「えっと……膝枕?」
「うん、それはすごーく理解してる。どうして俺は膝枕されてるの?」
「最初は真っ直ぐだったんだけど、少ししたらお兄さんの頭がグラグラしてきて……」
「それでお膝元に直行か」
「ううん。その前にあたしの肩に……」
──肩で途中下車したの!?
ギョッと目を見開く勇樹。意識がなかったとはいえど、相手はまだ二回しか会ったことのない中学生。そんな彼女の目の前で倒れるどころか、肩やら膝に頭を乗せてしまったことに失望する勇樹。
「……なんか、ほんとにごめんなさい」
「謝らないでください! これはあたしが好きでやったことだから……あ、好きでって言うのは……そういう意味じゃなくて……えっと、うーんと……」
「(この子、相当な初心だよな)」
出会ってから何度も愛の慌てた声を聞いていた勇樹。それらの様子を思い出してみると、そのほとんどが"好意"という気持ちの一種から来ていることにどれだけ鈍感でも気がつくだろう。
並の男子高校生ならば「あれ、もしかしなくても自分に気があるんじゃね!」と浮かれるところだが、勇樹にはそう思えない要素があった。言わずもがなだ。
「あの……そろそろ起きてもいいか?」
「え、うん。いいですよ?」
「……いや、そのな? 手を避けてもらえると助かるんだが」
「手?」
先程まで勇樹の頭を撫でていた愛の手は今も尚、乗せられていて勇樹が目覚めてからは行かせまいと、愛の手には無意識に力が入っていた。
それ故に勇樹の頭は愛の太ももに押し付けられている状態になっていたため、勇樹は避けてもらえるようにと訴えたのだ。
「あー!ご、ごめんなさい!」
「いや、いいんだ。こちらこそごめ──ごちそうさまでした」
「ご、ごごごごちそうさまでしたっ!? お粗末さまでしたっ!?」
「何故にそこまでテンション高いんだ……」
「だっ、だってお兄さんが変な事言うからじゃんかぁー!」
勇樹なりのジョークだったのだが、本気で受け入れ本気で答えてくる愛だった。その様子がやはりおかしく、勇樹はまた笑った。
「ま、また笑われた……でも嫌な気はしない……」
「ごめんごめん。あ、てか部活中だったのに抜けさせちゃったよな?」
「それは大丈夫! あたし正式なテニス部じゃないんだ」
「助っ人……ってこと?」
愛は勇樹の目を真っ直ぐ見て、そして頷く。それがくすぐったいと感じた勇樹は、目をさり気なく逸らす。
「でもラケット振ってるの見てたけど、だいぶ上手かったぞ?」
「愛さんこれでも結構スポーツ得意なんですっ」
えっへんと腰に両手を当てドヤ顔の愛。勇樹は少しばかり羨ましい……と思っていた。
「それじゃ、部活は何に入ってるの?」
「どこにも入ってないです」
「ってことは、万能な助っ人として数の合わない部活に足を運んでは手伝っていると……? さすがにそんなアニメのキャラじゃあるま……」
「……? 合ってますよ」
「ほんとにいるんだ……」
規格外なギャルに出会ってしまったのかもしれない……そう思わざるおえない勇樹だった。