幻想郷に夜が来た。行灯がともる人里から一歩離れれば、ただ暗闇が広がるばかり。その暗闇の中で、ぽつんと佇む粗末な屋台があった。「八目鰻」と書かれたお古の提灯が、物寂しさを際立たせる。
「はぁ…」
この店の主はミスティア・ローレライ、夜雀の妖怪である。彼女はもくもくと煙を吹かす鰻の開きをひっくり返しながら、ため息をついた。時間は午後7時、夕飯時だというのに店に客はいない。店の立地条件があまりよろしくないのが一因かもしれないが、それにしたって、腹を空かした妖怪が一匹は寄り付きそうなものであるのに。
「やっぱり、味が悪いのかな」
そうミスティアが呟いた刹那、何者かがのれんを上げて、ミスティアに声をかけた。
「私が味見してあげても良いわよ」
「!?」
久しぶりのお客が意外な切り出し方をしてきたので、ミスティアは少々たじろいでしまった。しかしすぐに気を持ち直し、いらっしゃいと声をかける。どうも服装を見るに、客は人間ではない。美しい金色の長髪を蓄えていて見立てが美しく、それでいて不思議な雰囲気の女性であった。ミスティアは慣れた手つきで鰻を焼き上げると、脇に置いてある小瓶に手を伸ばした。瓶の中のしょうゆをサッと鰻にかければ、ミスティア流八目鰻のかば焼きの完成である。
「はい、一丁上がり」
「フフフ、早いのね。丁度小腹が空いていたところなのよ。いただきます」
女性はかば焼きをひとくち齧ると、なんだか期待外れというように首を傾げた。
「…やっぱり、おいしくないんですね」
ミスティアは肩を落とした。元々、峠の焼き鳥屋を潰してやろうという不純な動機で始めた鰻屋。そんなことで、美味しいかば焼きを焼けるわけがない…。
「そう卑下しないで。鰻はなかなか上質だし、焼き方だって悪くないと思うわよ。」
「そ、そうですか?」
「問題は醤油じゃないかしら。どうもサッパリしすぎというか、深みが無いのよね」
意外な指摘だった。ミスティアは今まで焼き方に問題があると思って、火加減などいろいろ調整を重ねていた。まさか醤油に原因があるとは!
「しかし…私は醤油と塩以外の調味料を知りません」
「それなら、私が良い調味料を教えてあげる」
女性は振り返ると、何もない空間に手を伸ばした。すると空間が裂け、穴のようにパックリと割れ目ができる。女性はその中に両手を突っ込み、しばしごそごそ亜空間をまさぐったかと思えば、年代物と思われる壺を空間から引っ張り出した。
「これなんか、貴方のかば焼きにぴったりだと思うのだけれど」
「あ、貴方はいったい、何の妖怪なんです?」
困惑して尋ねるミスティアに、女性は長い髪をたなびかせながら答える。
「ああ失礼、名乗りを忘れていたわね。私は八雲紫、スキマ妖怪よ」
「スキマ?」
「そう、スキマ。この幻想郷に住んでいる者たちは、一見すると気楽なようだけれど、実際にはいろんな悩みを抱えている。そのスキマを埋めるのが、私の役目よ」
そう言うと紫は、壺をミスティアに差し出した。壺の側面には「旨垂」という二文字が記されている。
「これは食通の友人から取り寄せたタレなのよ。醤油に砂糖、その他いろいろな調味料を混ぜ合わせた濃いめの味。試してみなさい」
言われるがまま、ミスティアは焼き上がった鰻に、壺から小さな柄杓ですくい上げたタレをかけた。かば焼きを紫に渡すと、味が気になったのかミスティア本人も、もう一枚のかば焼きに齧りつく。
「…!お、おいしい!」
「うん、イメージ通りの至高の味だわ。これこそが鰻のかば焼きよ」
思わずミスティアはかば焼き一枚を平らげてしまった。自分の焼いたかば焼きが、これほど旨いと感じたことはなかった。思わず笑みがこぼれるミスティアの姿を見て、紫はニコリと微笑む。
「それじゃ、そのタレを使って店を繁盛させなさい。頃合いを見計らって、タレ補充に来るから。じゃあね」
「ちょ、ちょっと待ってください!このタレ、無料で頂いていいんですか!?」
「いいに決まっているでしょう。さっきも言ったように、私は貴方のような浮かばれぬ者の心のスキマを埋めたいだけ。それに対価なんて要らないわ」
なんて良い人、いや良い妖怪なんだろう。ミスティアは去ってゆく紫の後ろ姿に頭を下げた。その眼には、涙がにじんでいた。
「よーし!明日からこのタレでおいしいかば焼きを作って、お客さんを笑顔にするぞ!」
紫はふと立ち止まり、呟いた。
「フフフ…その心意気、どこまで続くのかしらねぇ…」