今日もまた、陽が沈もうとしていた。夕焼けの中に浮かぶ妖怪の山の影の中に、闇の妖怪ルーミアは佇む。
(…お腹空いたなぁ)
ルーミアは毎度のようにお腹をさすった。かつてはこの空腹感と共に、どうしようもない不安感が襲ってきていた。次にまともな食事にありつけるのはいつだろうか。明日だったら?明後日だったら?一週間後だったら?
…しかし、今のルーミアにそんな心配は無用だった。今日のご飯も、明日のご飯も、一週間後のご飯までもが、ルーミアには約束されているからだ。紫が木のうろの中に開けておいてくれた秘密の通り道をくぐれば、ルーミアにとって最高の晩餐会場…旧地獄へと行けるのだから。
(ちょっと寝てから、また食べに行こうっと)
鴉の蒸し焼き、西行妖の根っこの天ぷら、蛙のステーキ。毎日旧地獄へと通う中で、様々な地獄料理を平らげてきた。どの料理も実に美味であり、ルーミアの食生活は飢餓と隣り合わせから一転、幻想郷の住民の中でも特に満ち足りたものになっていた。
「やあ、ルーミア!」
満足感に浸っていると、聞きなじみのある声が、ルーミアの背後から飛んできた。振り返ると、そこには何かが大量に詰まった風呂敷を背負うリグルの姿があった。
「どうしたの、それ?」
「あっちの山間の農家さんとこで収穫を手伝ったら、こんなにおすそ分けしてもらったんだよ。何でも豊穣の神様のご利益だとか、なんとか」
そう言いながら、リグルは風呂敷をほどいた。ぼてぼてと、紫色のさつまいもが地面に転がる。ルーミアはその一つを取り上げ、まじまじと眺めた。
「それって特産品でさ、すっごく甘くて美味しいんだよ。味見してごらん」
「じゃ、ひとくち失敬…」
ルーミアは自分の拳ほどの取れたてのさつまいもに、妖怪らしく生のままかじりついた。
「!」
ルーミアの頬の中に、やさしい甘さが広がる。もちろん味付けもなにもされていないわけだが、かえってそれが芋本来の甘い風味を際立てていた。ガッツリと濃い目で奇怪かつグロテスクな地獄料理とは全くベクトルの異なる美味しさに、ルーミアは思わず口元を緩ませた。
「ねっ、美味しいでしょ?私も腹いっぱいまで食べたからさ、残ったのはルーミアにあげるよ」
「ほんと!?ありがとう!」
たちまち、最初のさつまいもがルーミアの胃袋の中に消えた。続いて手を伸ばした二個目も、腹を空かしたルーミアの前では1分と持たない。三個目、四個目…と食べているうちに、ふとルーミアは気づいた。
(あ…今日の地獄料理、どうしよう)
ルーミアはあまり賢くないが、それでも数百年は生きてきた妖怪である。いつだったか、本屋で立ち読みした本には、芋類の消化の悪さを説くものがあった。長い一生の中でただ一回だけ芋泥棒を成功させた時、暗い山中で頬張ったさつまいも。あの芋の腹持ちの良さに、餓死寸前で救われたことも思い出された。
まだまださつまいもは残っている。このままリグルの言う通りに全部平らげたら、満腹になってしまうかもしれない。そんなお腹に、今日の地獄料理を詰め込むだけのスキマはあるだろうか?
「あー…えっと…もう、いいかなー…」
ルーミアが口走ったその言葉を聞くと、リグルは狐につままれたような顔をした後、ぷっと噴き出した。
「あははっ!ガラでもないこと言わないでよ!ルーミアがご飯を遠慮するなんて、紅葉の中でセミが鳴くくらいありっこない!」
遠回しに食いしん坊だと揶揄され、ルーミアは頬を膨らせて怒り顔をした。リグルは軽く謝りつつも、ルーミアの態度の不自然さに突っかかってくる。
「いやいや、絶対におかしいって。…もしかして、なんか食べ物のあてでも見つけたの?」
「いや!それは…」
ここで地獄料理のことを話せば、自分も食べたいと言い出すに決まっている。そうなると、せっかくの地獄料理を毎日二等分しなくてはならない。食いしん坊なルーミアは、真実を伝えようとは思わなかった。
ぐぎゅるううぅぅぅ…
「ほら、お腹の虫も鳴いてるよ」
ルーミアは思わず頬を紅潮させ、お腹をおさえた。見かねたリグルが、ルーミアの口元にさつまいもを差し出す。ルーミアは口の中に残るさつまいもの柔らかな風味を、つばと一緒にごくりと飲んだ。
(…ちょっとだけ。あとちょっとだけなら、大丈夫)
そんな思いが頭をよぎったころには、ルーミアはさつまいもを口に放り込んでいた。ルーミアの足元からさつまいもが一つ残らず消えるまでに、そう時間はかからなかった。
燐はその日も、いつも通り八重歯を覗かせ微笑みながら、ルーミアを迎えた。ルーミアはぎこちない笑みを返しながら、新調されたおどろおどろしい漆塗りの食卓机についた。
「遅かったじゃない。今日の献立は、妖怪好みの人肉をどっさり入れた肉じゃがだからね」
何という
「わ、わぁー…美味しそうだなぁ…」
ご飯の時間を遅らせる作戦も空しく、ルーミアのお腹はさつまいもでいっぱいだった。それでもルーミアは食べないわけにはいかない。席に着いた以上、ルーミアは風船のように膨らんだ胃袋に巨大なジャガイモと肉片を放り込むしかなかった。
(うぷっ…だ、ダメ…もう限界ぃぃ…っ)
完食まで顔ほどある肉塊一つを残したところで、ルーミアの食べる手はついに止まってしまった。だが、ルーミアは紫の忠告を覚えていた。
地獄料理は''絶対に''完食しなければならない。残してはいけない。…その言葉が、ルーミアの脳裏を駆け巡る。
ふと顔を上げると、燐の姿が無い。巨岩のように大きな血濡れのせいろやら、沸き立つ血で満たされた大鍋やらが散乱する厨房の中からは、死体を運ぶための台車が消えている。恐らく灼熱地獄に死体という薪をくべるという本業に戻っているのだろう。
(…仕方ない、よね)
ルーミアは燐がいないのをもう一度確認すると、肉塊を持ったまま食卓から飛び立った。
(ここなら…)
ルーミアの眼下には、湖のように広い血の池地獄が広がっていた。そしてルーミアは、手に持った肉の塊を口に放り込む代わりに、血の池へと投げ込んだ。血の池はあっという間に、底なし沼の如く肉塊を吸い込んでしまった。
(ほんのちょっとだし…バレなければいいや)
ルーミアが急いで食卓へ飛び戻ると、ちょうど燐も厨房に戻ってきていた。
「あん?どこ行ってたの」
「えーっと…腹ごなしに空中散歩をちょっとね!」
そうルーミアが応えると、燐は納得したように頷いた。
「ふぃーっ…助かったぁ…」
蒸し暑い旧地獄から涼しげな夜の森へ帰ってきたルーミアは、安堵したようにため息をついた。
「何の話かしら?」
「!?」
ルーミアの背後には、いつの間にか紫が立っていた。その姿は、闇の妖怪たるルーミアよりも、夜の深い闇の中に溶け込んでいるように感じられた。
「貴方、ちゃんと料理は残さずに食べたんでしょうね」
「…う、うん!ちゃんと食べたよ!」
ルーミアはまたもや嘘で取り繕ったが、それを見透かしていたように、紫はルーミアの口元に残っていた油をしなやかな指でぬぐって、こう言い放った。
「嘘をついたら、閻魔様に舌を抜かれる…そんな風説が本当なのか、試してみる?」
紫の人差し指は、そのままルーミアの顔を指すようにぴんと伸びた。
「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」
「うわぁぁぁぁぁあ~っ!!??」
「今日は絶対に食べ物はいらない!いらないからね!!」
そう叫んで飛び立つルーミアを、リグルはぽかんと口を開けて見つめていた。リグルが虫たちと共に山を降りていくのを見ると、ルーミアは後ろめたい面持ちで、旧地獄へと通じる道へと入っていった。
「やあやあ、丁度いい所に。今日はとびっきりの料理を作ろうと思ってるのさ」
燐がいつものごとく気の良さそうに話しかけてきたのを見ると、ルーミアはほっと胸をなでおろした。
「大鍋のふちの土台に登ってご覧」
ルーミアは言われた通りに土台へと飛び乗った。沸き立つ湯気でよく見えないが、眼前でグラグラと煮立っている血の鍋の中には、何の具材も浮かんでいないように見える。
「んー…?何も入ってないけど…」
その刹那。身をかがめ、目を細めて沸騰する血の海を見つめていたルーミアの小さな体を、燐が突き飛ばした。
「えっ…?」
昨日の肉塊のように、転落したルーミアは血だまりへと飲み込まれた。ルーミアは、自分の身に何が起きたのか気づくのと同時に、悲痛な叫び声を上げた。
「……ッ…あ゛ッ…あづいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
真っ赤に染まった熱湯が、ルーミアの身体を焼き焦がした。ルーミアはたまらず身をよじり、必死の思いで空へと飛び立とうともがいた。しかし不思議なことに、沸騰した血が身体にからみつき、ルーミアを離さない。まるで地獄の釜の底の亡者が、ルーミアを獄炎の中に引きずり込もうとしているように…。
「あは…飢えよりももっと苦しい、地獄の苦しみを味わう気分はどう?」
涙を流して苦痛に顔をゆがめるルーミアを、燐は乾いた笑いとともに見下ろしていた。
「大丈夫、大丈夫。地獄は罪を罰するための場所で、殺しのための場所じゃないから…死にはしないよ」
そんな慰めにもならない言葉で突き放され、ルーミアは血の池の中に沈んでいく。少しずつ遠くなる意識の中で、燐の最後の言葉が聞こえた。
「…あんたって、どんな味なんだろうねぇ?」
ルーミアの記憶は、そこで途切れた。
「どんなに貴方が自分の不徳を隠しても、お天道様は常に見ているわ。そしてそれに相応の罰が巡ってくるのも、世の道理なのよ。…夜ならお天道様は見ていない、ですって?こういう言葉を知らないのかしら。…『深淵もまた、こちらを覗く』」