幻想郷の一角に佇む巨大な楼閣、紅魔館。
鮮血のように赤く染まったその館では、今日もメイド長の指示が飛び、メイド妖精たちは掃除と皿洗いに励んでいる。
館中の廊下や階段を妖精たちが飛び交う中、ただひとつ床下に続く階段だけが、静謐を保つ。
妖精の羽音すらも届かない暗闇の中の階段を、所々の灯火を頼りに降りていった先。
そこに広がるのは図書室…いや、館の一スペースとしてはあまりに巨大な、''図書館''である。
地下にありながら、天に昇らんばかりに
棚という棚にびっしりと詰め込まれた色とりどりの本が織りなす彩りは、まるで夜に虹が顕れたようである。
地上の喧騒も光も届かない常闇の図書館。ぱらぱらと羊皮紙をめくる音と、ぼうっと照らす常夜灯の光だけが、微かに感知できるだけだ。
光と音の元を辿ると、大机で本を読む一人の少女がいた。
闇に吸い込まれてしまいそうな藤色の長髪、光に当てられたことがないとすら思える、くすみ一つない肌。
灯に照らされた机上には、何冊もの古びた本や巻物。広げた本に書かれている解読不能の崩し字や正体不明の図像もすらすらと読み解き、ときおり万年筆でメモを取る。
まさに、偉大なる英知の塊、生ける図書館。彼女こそが、この大図書館の主にして大魔法使い、パチュリー・ノーレッジである。
パチュリーのメモを取る手が不意に止まった。
万年筆をくるくると器用に回しながら、何か考え込んでいる様子である。
暫く経った後、パチュリーは読みかけの本に付箋を挟んで閉じ、呼びかけるように声を出した。
「小悪魔」
「はいっ!」
けして大きくないパチュリーの声をすぐに聞きつけ、本棚と本棚の間からバタバタと飛び出してくるのは、図書館司書の小悪魔だ。
「参照したい箇所があるから、『黒い
『黒い雌鶏』、幻想郷の外から持ち込まれた魔術書の一つである。
「分かりました!少々お待ちください」
そう言うと、小悪魔は急ぎ司書室の中に入るや、山積みの紙束を持ってきた。
紙束には、びっしりと書籍の名前が書き詰めてある。どうやら蔵書の索引のようだが、あちこち赤ペンで修正が入り、紙も切り貼りしているので、使い勝手は悪そうだ。
「ええと…『黒い雌鶏』、く、く…」
ボロボロの紙に書かれた書籍名の羅列と睨めっこする小悪魔。何しろ、「K」から始まる書物だけでも1万冊はあるのだ。
配列の整理ができていないため、「K」の場所の中から『黒い雌鶏』をしらみつぶしに探すしかない。1枚探して次の1枚、さらに次の1枚…
十数分が経過したころ。
「ありました!Julius棚のC列の23番です!」
達成感に満ち溢れた顔で、小悪魔が声高らかに叫んだ。
「…分かったら取りに行きなさい」
「あっ、はい!」
パチュリーの冷静な指摘で、小悪魔は急ぎJulius棚―写本を所蔵した棚の場合、こういった小洒落た名前を付けることが多い―へと向かった。
羽根をはためかせると埃が舞うというので、架けられた梯子を使い、巨大な本棚を慎重に登っていく。
「これだ、これだ!」
小悪魔は注文の本を見つけるや、手慣れた所作で傷つかないように本を抜き取り、パチュリーの元へと持参した。
「パチュリー様、『黒い雌鶏』お持ちいたしました!」
手渡された本を見て、パチュリーは落胆の表情を見せる。
「…それは『白い
「あれっ!?」
「もういいわ…私が取りに行く」
要領を得ない小悪魔に呆れ果てて、パチュリーは椅子から立ち上がった。
(ッ―)
不意に、立ち眩みで身体がふらつく。
「パチュリー様!」
小悪魔が咄嗟にパチュリーの華奢な身体を受け止めた。
「お体に障りますから、どうかご安静に…」
「…もう大丈夫だから」
何とか自力で身体を立て直し、パチュリーはふわりと飛び上がった。
小悪魔が心配そうに見守る中、パチュリーは所定の棚を見渡した。この棚にあることは間違いないはずなのに、『黒い雌鶏』は見当たらない。
(…またどこか別の棚にあるのかしら)
索引に記載された配置と実際の本の位置が違うことは、この大図書館では日常茶飯である。
蔵書整理や字食い虫の除去のため、列単位・棚単位で本を取り出すことはしばしばだが、何しろ数が多いゆえ、入れ違えてしまうことも多いのだ。
(…もしくは、もうこの図書館の中にはないか)
パチュリーは本棚の書籍を流し目で確認しながら、小悪魔のミスとは別の可能性を考えていた。
ふと、パチュリーは本から視線を逸らした。長い髪をさらりと掻き分け、耳を澄ます。
何やら、遠くの方で物音がする。それはちょうど、本を乱雑に引き抜いては床に投げる音。
「…あなたはここに居なさい」
パチュリーは小悪魔にそう告げると、浮遊しながらその場を離れ、棚が立ち並ぶ図書館の奥へと向かった。
闇の中に沈む本棚の海の中を少し探すと、音の正体はすぐに分かった。
といっても、彼女は音を聞いた時点でおおよその見当はついていたようだが。
「…またあなた?」
宙に浮くパチュリーが見下ろす先に居たのは、人の形をした泥棒猫。白黒の装束に身を包んだ魔法使い、霧雨魔理沙である。
「…や、やあやあパチュリー。久しぶりだな、元気か?」
いきなり背後に現れたパチュリーに少々たじろぎつつも、魔理沙は世間話を振った。
「あなたは元気そうね。私はあなたのせいで、本もろくに読めないわよ」
パチュリーはそう返しつつ、魔力を込めた右手を振りかざす。
「そうか、そうか……じゃ、読書の邪魔にならないように失敬するぜ!」
その瞬間、魔理沙は棚に立てかけてあった箒に素早く跨り、ありったけの本を詰め込んだ大きな袋を担ぎながらロケットの如く猛スピードで飛び去った。
電撃魔法が図書館の石畳に焦げ目をつけたのは、ほんの数コンマ後のことであった。
「…相変わらず逃げ足だけは早いのね」
パチュリーはため息をついた。本で埋め尽くされているはずの棚は、穴空きだらけ。棚から抜き取られた大量の書物と、箒の風圧で飛ばされた写本が、そのまま床に放り出されていた。
「ぱ、パチュリー様…お怪我は」
「あんなのに怪我させられるほど、私も耄碌してはいないわよ」
そう言うと、パチュリーは低空へと位置を移し、散らかった本を拾い上げ始めた。小悪魔も慌ててそれに続く。
手に取った本を元の場所に戻さずに床に放り散らし、あるいはまったく別の棚に押し込んでしまう魔理沙の悪癖は、図書館の本の配列を滅茶苦茶にする原因にもなっている。
「『黒い雌鶏』も、あいつが持って行っちゃったんですかね?」
パチュリーが懸念していたもう一つの可能性は、これである。
もっとも、魔理沙が盗んでいくのは大抵ド派手な攻撃魔法の教書ばかりなので、地味な黒魔術の運用法について記した『黒い雌鶏』を持って行くとは考えにくいのだが。
「…ケホッ、ケホッ」
どこの棚から持ち出されたのかもわからない何冊かの本を抱えながら、パチュリーは小さく咳き込んだ。
「パチュリー様、無理はダメですよ!私が仕舞っておきますから、お戻りください」
「ありがとう…ケホッ、それじゃ、後…お願いするわ」
喘息持ちのパチュリーには、こういった作業は辛いものがある。結局、蔵書の整理事務は小悪魔に一任せざるを得ない。
薬を飲み、図書館の隣のベッドに暫く伏していると、幸いにも体調は快復した。
先ほどの現場に戻ったパチュリーは、拾い集めた百数十冊という本の山の中で寝息を立てている小悪魔の姿を見つけた。
そばには、本の配置図が記された紙が何枚も落ちている。拾った本が元々どこにあったのかを必死に調べている間に、疲れが溜まって眠りに落ちたらしい。
図書室を造った時には5000冊ほどだったパチュリーの蔵書は、今や数十万冊というほどに増え続けている。いっぽう、字食い虫やカビの被害を受けたり、魔理沙に盗まれたりして、消えてしまう本も多い。
一見すると、この場は静謐に包まれた''動かない''大図書館のように思えるが、実際には莫大な数の本が往来し増減している''動く''大図書館なのである。そんな代物の管理を、今まで通り司書の小悪魔ただ一人が行っていくというのは、余りに無謀ではないか。
(この図書館…もう誰の手にも負えないわね)
小悪魔の寝顔を見つめながら、パチュリーは一抹の不安を抱いた。結局、『黒い雌鶏』は見つからなかった。
パチュリーが机に戻ってくると、灯の光が届かない図書館の隅に、妖しげな人影が見えた。
「…そこにいるのは誰?」
その問いかけに影は応える。美しい金髪を携えた自らの姿をさらけ出しながら…
「私は、八雲紫。貴方がこの図書館の主様かしら?」
「…まぁ、そんな所だけど。ここに何の用?」
パチュリーは警戒を怠らず、距離を取ったまま紫に問いかける。
「『幻想郷縁起』の初刊。巡り巡ってこの図書館に納本されたと聞いて、飛んできたのだけれど」
パチュリーの趣味により、この図書館の蔵書の大半は魔術書である。確かに、妖怪への知見を記した『幻想郷縁起』のような他分野の書籍も所蔵していないことはないが、パチュリーが読むことは稀なため、埃をかぶった図書館の最深部に埋もれてしまっている。
「…そんなの読まないから、持ってっても別に構わないわ。でも、この本の数を見なさい」
パチュリーは、暗い図書館の中に浮かび上がる、山のような蔵書を指して言った。
「この中から『幻想郷縁起』を見つけ出すなんて、それこそ砂漠から一粒の砂鉄を探し当てるようなものよ」
すると、紫はにやりと微笑んで言葉を返す。
「砂漠から一粒の砂鉄を見つける?随分と簡単な問題ね。強力な磁石を使って、砂鉄を引き寄せてしまえばいい話」
比喩表現を正論で返されたパチュリーは、言葉の揚げ足を取られたように感じて眉をひそめた。
「あら、不愉快にさせてしまったなら謝るけれど。ただ、私は今、''磁石''を持っているわ」
そう言うと、紫は独特の装飾が施された小箱を取り出した。紫が手をかざすと、小箱のスキマから七色の光が溢れ、魔法陣のようなものを描き出す。
(…手入力型の詠唱陣?何かの魔道具かしら)
パチュリーが見守る中、紫は人差し指で何かをなぞる様に魔法陣を操作する。ほどなくして、小箱から何か小さな紙が吐き出された。
紫が紙を広げると、そこには何かの地図が描かれていた。巨大な真四角の中に、幾つもの長方形が並んでいる。この配置図はどこかで―
「成程。『幻想郷縁起』初刊、確かにこの図書館にあったわ」
紫は、地図の中の赤く示された一点を指差しながら、パチュリーに笑いかけた。
「…まさか」
「そのまさかよ。この赤い点の場所に案内してくれるかしら?」
パチュリーは目を丸くした。図書館の奥の奥、蜘蛛の巣が張っているのを掻き分けて進んだその先の棚に、『幻想郷縁起』初刊があったのである。
「大分汚れてはいるけれど…現存する写本は珍しいわ。有難く拝読させてもらうわね」
本に被った埃を吹きながら満足げな顔をする紫に、パチュリーは思わず尋ねた。
「…さっきの魔道具、ひょっとして本の場所を示して…」
「ええ。その昔、読んだことのない本は無いと云われた酔狂な本好きがいてね。世界中のあらゆる本の断片を情報化して、この魔道具にしまい込んだの」
つまるところ、紫の使った魔道具は一種の検索端末のようなものだ。魔法陣を介して探している本の情報を入力すると、その本が今世界のどこにあるか、詳細な位置がたちどころに分かってしまうらしい。
「この魔道具が作られた後の刊行物まで自動で収録されるのよ。つくづく魔法っていうのは便利なものね」
(信じられない…こんな魔道具が有るなんて)
見た所、パチュリーほどの大魔法使いであれば難なく操作できるレベルの簡易な魔道具である。それでいて、''動く''大図書館が抱えている問題をたちどころに解決することすら可能な、まさに魔法のような道具だ。
「それじゃ、そろそろ失礼するわね」
「…待って」
立ち去ろうとする紫を、パチュリーは呼び止める。
「その魔道具を私に売ってくれない?代金は紅魔館付けで構わない、幾らでも払うわ」
「あら、貰ってくれるなら大歓迎よ。私は無精者で本なんて滅多に読まないから、猫に小判なのよね」
そう言うと、紫は魔道具を軽くパチュリーに手渡した。
「代金は要らないわ。貴方の心のスキマを埋められたなら、それで良い」
「そ、そう…それなら、遠慮なく頂いておくわ」
しかし、紫は諫言するように付け加えた。
「言っておくけれど、くれぐれも事は図書館の中だけに留めておきなさい。私はあくまでも、貴方の今あるスキマを埋めたいだけなの」
元々、この大図書館だけでも精一杯なのだから、そんなことは百も承知である。
忠告を聞き入れたパチュリーは、紫が不可思議な空間のスキマを通って図書館を去るのを見送った。
(…素晴らしい物を手に入れたわ)
パチュリーは手に取った魔道具をまじまじと見つめながら、口元に僅かな笑みを零した。
「『動かない大図書館』、洒落た二つ名じゃない。彼女の想いも、同じように動かなければ良いのだけれどね…フフフ」