「うぎゃー!」
向寒のみぎり、純白の衣に身を包んだ妖精が湖畔に墜落した。それを追うように、水色髪に青服を纏った妖精がホバー飛行しながら彼女の下に寄る。
「どうだ!私のサイキョーさを思い知ったか!」
得意げに叫ぶ彼女の名前はチルノ。この霧の湖の住民であるが、家を何者かに破壊されたため現在は野宿生活を続けている。彼女は独自の調査の結果、家破壊の主犯格が「サニーミルク」なる妖精であることを突き止めた。そして、湖の近くをうろついていた件の白服の妖精をサニーミルクだと決め込み、勝負を挑んだのだ。
「さぁサニーミルク!家を壊したことを謝れ!」
「私はリリーホワイトだよっ!さっきから何を言ってるのか全然わかんないよ!」
少し話してみると、どうも人違いらしい。リリーホワイトがふらふらと飛び去って行くと、チルノは柄にもなく押し黙った。つい昨日も、何とかラルバとかいう妖精を誤射して撃墜するミスを犯したばかりである。チルノは自身が幻想郷で最強だと信じて疑わないたちだが、どうも最近判断力が例になく鈍っている気がしてならなかった。
「
チルノが振り返ると、金髪ロングヘアをたなびかせ、肩には小さなバッグをかけた、妙な雰囲気の女性が立っていた。雨も降っていないのに傘を差していて気味が悪い。丁度むしゃくしゃしていたチルノは、恐らく妖怪と思われるその女性に牙を剥いた。
「氷符『アイシクル・フォール!』」
チルノの両手から連射される氷のつぶては空中で方向転換し、憐れな女性の周囲2mほどを飛び交い、彼女を包囲する。さしずめ、氷の棺桶と云ったところだ。後はつぶてに紛れ込んだ光弾が、身動きを封じられた相手を狩ってくれるという代物である。
ところが刹那、女性の姿が消えた。チルノは目を疑ったが、確かにあの女性は宙を割り、生成された間隙の中に消えたのだ。するとチルノの目の前の空間に亀裂が生じた。そこからにゅるりと這い出てきたのは、あの女性だった。
「この弾幕、肝心の真正面がガラ空きじゃないの」
チルノは息を呑んだのも無理はない。我ながら最高傑作と位置付けていた弾幕が、いとも容易く攻略されてしまったのだから。しかしチルノの最強を自負する
「ひょっ、凍符『パーフェクトフリー…』」
チルノが新たな技を出そうとするや、女性は物怖じもせずに右手をスッとチルノの眼前に差し出す。彼女のしなやかな人差し指は、チルノの顔を指して…。
「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」
「のわぁぁぁぁーっ!?」
幻覚だろうか、それとも新手の弾幕だろうか?女性の指先から発された強烈な光とも音とも取れない「何か」がチルノの防衛本能を感化させ、思わず後ろへ飛び下がらせた。その瞬間、鈍痛がチルノの腰に走る。背後にあった古ぼけた井戸の縁に、したたかに腰を打ち付けてしまったのだ。
「あぐっ!…こ、腰がぁぁ…っ」
形容しがたい痛みで、チルノは地面に倒れ伏した。女性は、初霜の降りた地面に転がったまま動けないチルノに歩み寄ると、肩にかけたバッグからおもむろに一枚の布らしきモノを取り出した。
「私を攻撃しないなら、この湿布を使わせてあげるわよ」
チルノは、こくこくと頷くしか他になかった。
十分ほど経ったであろうか、早くもチルノの腰の痛みは引いていた。どうも相当に効く湿布であったらしいが、チルノは湿布を不思議に思う前に、自身を打ち負かしたこの女性のことが気になった。
「…アンタ、一体誰なのさ…」
憔悴しきった声でチルノが聞くと、その女性は待ってましたと言わんばかりに名乗り始めた。
「私は八雲紫。幻想郷の悩める住民たちの心のスキマを埋める役を任されてるわ」
「心のスキマ…?あいにくだったね、アタイはサイキョーだからスキマなんてないよ」
「最強とは言うけれど、貴方は一体今までどれだけの勝負をこなしてきたの?」
チルノは記憶を辿った。先ほどのリリーホワイトと、昨日の何とかラルバの件以外はどうも思い出せないが、とにかく妖精ばかりを相手にしてきたことは覚えている。その事を紫に伝えると、紫は失笑した。
「それじゃ、井の中の蛙じゃない」
いのなかのかわず。この八文字は、チルノの脳裏に何の印象も残さずに左耳から右耳へとすり抜けていった。間の抜けた顔をするチルノに、紫は微笑みかける。
「さっきのヘボ弾幕も然り…貴方、どうにも頭が弱いようね」
「頭が弱い…つまりバカってこと!?そんなわけない、だって私はサイキョー…」
そこまで言って、チルノは言葉に詰まってしまった。頭の回転の悪さは、最近になってますます判断力の鈍りとして自覚できるようになっている。いくら体が最強でも、頭がダメでは意味がないのだ。
「貴方にピッタリな物が有るのよ」
そう言うと紫は、先ほど湿布を出したバッグの口から、ひと包みの丸薬を取り出した。
「騙されたと思って飲んでみなさい。」
チルノはあまり物事を考えない主義である。もちろん差し出された丸薬も、特に何も考えずに口に放り込んだ。風邪を引いた際に永琳から処方された薬は苦くて飲めたものではなかったが、この丸薬は薬とは思えないほど爽やかな風味であった。チルノは暫く口の中で丸薬をコロコロ転がした後、ごくんと飲んだ。
「…ん…?なんかスッキリした気分…」
頭の中が丸ごと清らかな水で洗われたような感覚。チルノはこれまで経験したことがない爽快感を得て、くすんだ視界も心なしか明るくなった気がした。
「それじゃ問題よ。4367+2985は?」
「7352…かな」
一桁の四則演算もまともに出来ないチルノにしてはあり得ないスピードで、正答が導き出される。
「これは飲用者の頭を活性化させて、最大出力で事物を識別あるいは判断することを可能にする丸薬なのよ」
「なるほど、頭がやけに爽やかなのはそのせいか」
いつの間にか、多少小難しい言葉でも相手の意図を理解できるまでになっているようだ。
「貴方は最強の体に加えて、頭脳も賢人並になったわ。これで正真正銘、最強だと言えるんじゃないかしら」
「アタイったら完全無欠ね!ようし、この力でサニーミルクに復讐してやる!」
はしゃいで礼もせずにその場を飛び去ろうとするチルノを、紫は呼び止めた。
「あぁ、一つだけ忠告しておくわ。慣れてないんだから、あんまり頭を使いすぎないようにね」
「分かった分かったー!」
聞いているのか聞いていないのか分からない返事をした後、チルノは自信に満ちた顔で湖上の霧の中へと姿を消した。
先刻チルノの腰を砕いた古井戸の底には、一匹の蛙がいた。その蛙の鳴くのを見て、紫は呟く。
「井の中の蛙大海を知らず…自らの力を見誤らなければいいけどねぇ…フフフ…」