「春ですよー!」
春を告げる妖精の声が、晴れ渡った空に響く。春寒が大分ゆるみ、ほがらかな陽気が眠気を誘う今日この頃。幻想郷の各地に自生する桜のつぼみも、今まさに開花を迎えようとしている。
「今度の宴会では飲みまくるぞ!」
「やめといた方がいいよ、下戸なんだから」
あとひと月もすれば花見の季節である。人妖問わず桜の下に集まり、酒を飲み交わす楽しいイベントだ。
「桜、早く満開にならないかなー」
その言葉を遺し、妖精たちは何処かへと飛び去った。しんと静まり返った桜の木の下に座りつくす者が一人。彼女の名は西行寺幽々子と言った。
(満開…ねぇ)
桜と同じように美しく桃色に輝く髪を揺らしながら、幽々子は物憂げに桜の木を見つめた。早くに親を亡くしてからというもの、あれだけ意欲のあった歌詠みもすっかり滞ってしまっている。山を見ても、鳥を見ても、風水を見ても、何のアイディアも浮かんでこない。今の幽々子の関心はただ、桜にのみ向けられていた。
「もうお花見?気が早いのね」
そう幽々子に声をかけたのは、こちらもまた麗しい金色の長髪をたくわえた女性であった。
「貴方は…」
「私は八雲紫。悩める幻想郷の住民の心のスキマを埋める『スキマ妖怪』なの」
心のスキマ。その表現が当てはまるかはさておき、幽々子には心当たる思いがないではなかった。
「私は、桜が好きなの」
撫でるような春風が吹き、桜の枝が揺れる。すると開きかけた花弁同士がこすれ合い、絶妙なハーモニーを奏でた。
「風流で良いじゃない。じきに桜が満開になれば、心も晴れるでしょうね」
紫の言葉に、幽々子はやや俯いて応える。
「―世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」
この世に桜がなかったならば、春を過ごす人の心はどれほど
「成程。つまり桜を見るのを他人に邪魔されるのが嫌なのね」
「ええ…桜が満開になれば、連日連夜飲めや歌えの大騒ぎ。あんな状況で桜を楽しめるわけが無いわ」
幻想郷の花見はまさに花より団子で、桜など誰一人としてまともに見ないばかりか、昼間から夜更けまで延々と飲んだくれる始末。それが桜が散るまで続くのである。深夜になっても、咲き誇る桜の下には歌踊りながら一升瓶を仰ぐ妖怪たちに、いびきをかく泥酔者が転がっている。幽々子は、そんな光景を幾度となく見てきた。
「だから、私が桜を楽しめるのは開花前後の一瞬だけ…。」
「まったく同意するわ。近頃の若造ときたら、風物詩の情緒を無碍にすること甚だしい」
幽々子は自身に寄り添う考えが示されたことに、ある種の嬉しさを感じた。ただ桜が美しく咲き誇るのを見ることだけが楽しみな自分を理解してくれる者など、能天気な刹那主義が支配する幻想郷には存在しないと思っていたからだ。心を許しても良いと感じる相手を見つけたのは、親に先立たれてから天涯孤独な幽々子にとって、何にも代えがたい歓びであった。
「誰にも邪魔されずに桜を見られるスポットがあるのだけれど、良ければ見てみない?」
紫はそう言うと、虚空に手を伸ばし、空間を引き裂いた。
「…こ、これは…」
空間の断裂の中を通るという奇妙な体験をした幽々子は、眼前に聳え立つ大木を、呆然と視た。
「
成程、確かにその大樹の枝の末には、咲いたばかりと見える桜の花がぽつぽつと、そして芽吹きの時を待つ蕾が無数に有る。夜であるのか、辺りの風景は暗くてよく見えないものの、桜だけがぼうっと宝石のように浮かび上がっていた。
「…綺麗―」
幽々子の口から、思わず零れたその言葉。春風が吹き、桜の花がざわめく。まるで幽々子の言葉に応えるかのように…。
「ここは幻想郷の最果てのさらに最果て。酒飲みの妖精どころか、仙人すらも近づかない無頼の地よ。誰も花見の邪魔なんてしないわ…時間さえも」
紫の言の真意を読み解くならば、この地は西行妖の妖力が作用しているのか、時間という概念を逸脱した空間のようである。幻想郷の朝夕四季とは全く関係なしに、この桜は咲き続けているらしい。
「幻想郷に、こんなにも美しい桜景色があったなんて…」
「この桜がある地へは、貴方しか通れない直通のスキマトンネルで行き来できるわ。好きな時にいらっしゃい…西行妖はきっと、何時でも貴方を迎えてくれるはずよ」
瑠璃色の空の下、ほんのりと輝く桃色の桜。目を奪われる幽々子を気遣うように、紫はそっと宵闇の中に姿を消していった。ただ一言、言葉を遺して。
「…魅入り過ぎないように、ね…」