四月。春光が天地にあまねき、各地で桜が花開いた。桜の下に茣蓙を敷いてたむろする人妖の笑い声が、幻想郷にこだまする。しかしその喧騒が幽々子の耳に届くことはなかった。彼女は一人、西行妖の傍らにいたからである。西行妖の咲く地に時間という概念はないと言うが、心なしか西行妖は、前より多くの花弁を麗しく咲かせていた。五分咲きといったところであろうか。
(私が来る度に、貴方は一段と美しくなるわね…)
幽々子はこのところ毎日、西行妖の下に通っていた。まるで恋に落ちたかのように…。そんな幽々子の気持ちに、西行妖は花びらの何枚かを風に散らして応える。見上げると、西行妖はますます満開に近い、八分咲きとなっていた。
(す、凄い…これが…本当の貴方なの…?)
一斉に蕾がはち切れ、儚げな花に変容する。花々が枝の末端までを覆い隠すほどの、満開の桜。薄桃色の宝玉とも思しきその姿に、幽々子は心を鷲掴みにされた。
「……ッ」
感極まった幽々子は、桜の幹に抱きついた。儚げではありつつも、地に根を張ってどっしりと構えた幹が、幽々子の華奢な身体の抱擁を受け止める。
「…お願い……貴方の…貴方の全てを見せて…」
西行妖の輝きが一段と増し、ますます麗しく咲き誇る。幽々子はその姿に、ただただ見惚れるしかなかった。
「あ…あぁぁ…桜…さくら…さくら、ぁぁぁ…」
「幽々子。」
背後から唐突に投げかけられたぶっきらぼうな声に、幽々子は思わず振り返る。そこには、紫の姿があった。
「『酒は飲んでも呑まれるな』…貴方が忌み嫌う、酔っ払いどもの戯言よ。でもどうかしら。今の貴方は…桜に呑まれている」
まるで自分とは別の世界にいるように、淡々と文言を並べる紫の姿を、幽々子はまだ桃色に染まったままの視界を通して見た。
「その虚ろな目…すっかり西行妖の虜になってしまったようね。言ったはずよ、魅入り過ぎてはいけないと」
語気を荒くされても微動だにしない幽々子を見て、紫は言葉を継ぎ足した。
「…貴方の名は、西行寺幽々子。その桜の名は、西行妖。これが偶然の一致だと思う?」
紫は続ける。
「貴方のお父様は立派な歌聖でいらっしゃったわ。でもある日、ふらっと歌詠みの放浪に出てから、貴方の前には姿を現していない」
「…どうして、その事を…」
突拍子もなく持ち出された父の話題に、幽々子は初めて口を開いた。
「貴方は、お父様が妖怪に食われたと聞かされたそうね。でも…本当はそうじゃない。お父様は、ちょうど貴方と同じ末路を辿ったのよ」
「………え?」
「何処からかこの地に迷い込んだお父様は、西行妖と出会い、心を奪われた。そのまま死ぬまでこの地に居続けたの」
あまりにも突然な話に、幽々子は耳を疑い、紫の方に向き直った。この美しい西行妖が、父を死に追いやった…俄かには信じがたい話であるから、無理もない。
「風流心から近づいてきた人妖をその美貌で捕らえ、命を吸い尽くす妖樹…。貴方のお父様の死を皮切りに『西行妖』と名付けられたのは、最近の話だけれど」
「…違う…出鱈目よ…っ!この桜は、小さな私を受け止めてくれた…だから…」
頑なに紫の囁きを否定する幽々子。そんな幽々子に、紫は言う。
「それなら今一度、桜を見てみなさい」
その言葉を聞き、幽々子はゆっくりと桜を見上げた。
「……なっ…!?」
確かにそこには、満開の桜があった。しかし、幽々子の眼に映った桜の姿は、今までのような慈悲に溢れた天女のような姿ではなく、吐き気を催すほどの悍ましい妖力を発する、冷酷で残虐な邪樹のそれであった。
「嘘…でしょ……」
裏切られた。経験したことのない感情が、幽々子の心をきつく締め上げ、蝕んでいく。ただ呆然と立ち尽くす幽々子が気付くと、後頭部に紫の人指し指が押し当てられていた。戦慄にも近い恐怖に跳ね上がった幽々子が、震えたまま動けないでいると、紫は表情一つ変えずに語り掛けた。
「貴方はお父様と同じように、死ぬしかないわ。安心して頂戴…楽に逝かせてあげる」
「「「「ネクロ・ファンタジアァァァ!!!」」」」
―幻想郷に、何千回目かの花見シーズンが到来した。商店が酒樽の手配に忙殺されているのと時を同じくして、軒先で曇り空をただぼんやりと見つめる、幽々子の姿があった。
「最近の調子はどう?」
振り向くと、どこから入って来たのか、紫が立っていた。感情の起伏に乏しく、あまり話の合う者がいない幽々子にとって、紫は気の置けない唯一の友人である。
「お陰さまで順調よ。…紫には感謝してもし尽くせないわ。記憶喪失の私をこんなに広々とした屋敷に住まわせてくれたばかりか、庭師まで付けてくれるなんて」
紫は幽々子の恩人でもある。記憶を失い、自分が何者なのかすらも覚えていなかった幽々子に、衣食住を提供してくれたのだ。
「山中で行倒れていた貴方を見つけた時は吃驚したものよ。自分の名前だけは忘れなかったのが幸いね。記憶が戻るまで、ここでゆっくり暮らすと良いわ」
幽々子は、一体なぜ紫が自分の面倒を見てくれるのか分からなかったものの、あまり詮索しても無粋だと思い、現状に甘んじることにした。
「ところで…私が頼んでおいた桜の世話、やってくれているかしら」
「えぇ、勿論。それが私の唯一の仕事だもの…毎日しっかり手入れをしているわよ」
幽々子が住む屋敷―白玉楼と言うらしいが―の庭園には、一本の桜が立っている。枯れ木のような桜は、春になっても花をつけることはない。紫は幽々子に、この桜の番をさせているのだ。
「しかし…どうしてこんな桜を丁重に守らせる必要があるのか、私には分かりかねるわ」
幽々子が当然の疑問を紫に投げかけると、紫は帰路につく足を止めて、こう返した。
「風流というものは、理屈を必要としないものよ」
成程、と幽々子は納得した。紫とはお互いに歌を詠み合う仲である。紫の心中を察し、幽々子はやはり詮索を避けた。
「また碁でも打ちましょう。それじゃ幽々子、元気でね」
「こちらこそ。何時でも歓迎するわ、さようなら…」
幽々子は、あの桜が封印された西行妖であることにも、自身の亡骸が人柱として桜の下に埋まっていることにも、気づくことはないだろう。彼女は人身御供となり、西行妖と共に死んだのだ。亡霊となった彼女は、西行妖の根付く冥界に居を構え、かつて自分が愛した妖樹の躯とともに、永遠の時を過ごしている。
「…たまには幽々子も、花見酒に誘ってみようかしら」
紫はそう呟くと、冥土の暗闇に紛れて消えていった。