ぐきゅるるぅぅぅ~…
いささか間の抜けた音が、妖怪の山の中で鳴った。いつもに増して居所が悪い腹の虫を抑え込みつつ、一人の少女は呟いた。
「はぁ…おなかすいたなぁ」
少女の名はルーミア、闇を操る程度の妖怪。肩書きは大層なものだが、実際にはまともな食事にもありつけない小妖である。彼女の隣に座り込んだ蟲の妖怪リグルも、同じ悩みを抱えていた。
「余計にお腹空くから、何も言わないで」
「んー…だって最近、ウナギを食べられてないんだもの」
ミスティアの屋台に訪れては、売れ残りの鰻のかけらをご馳走になるのがルーミアの日課だ。ところが、ここ最近はミスティアの行方が分からず、貴重な食糧源を失っていたのだ。
「あー。ミスティアの鰻屋、潰れたんだってさ」
「なんだって!?」
山肌に寝転がっていたルーミアは、思わず体を起こした。
「どっかの大妖の怒りを買ったんだと。災難だよね」
ルーミアの大きな瞳が、ぐらぐらと震えた。リグルにとっては他人事だが、ルーミアにとっては死活問題である。
「…あーもう、おまんまの頼りがまた一つ無くなった!」
再び山肌に体を託したルーミアは、手足を無防備に大地へと放り出し、うつろな目で空を見つめた。空腹のせいで何のやる気も湧いてこない。
「ん…」
紅く焼けた夕日を見上げながら、ルーミアはふと視界に入った虫をつかみ取った。それは一匹のコガネムシであった。
「…これって、食べられるのかなぁ…」
その言葉と同時に、ルーミアの口から一滴の涎が零れた。
「ッ…ダメだよ!一寸の虫にも五分の魂でしょっ!」
「ちぇっ。リグルは虫にはうるさいんだよなぁ」
リグルの言葉を冗談交じりに受け止めると、ルーミアは掌を開いた。コガネムシは何事もなかったかのように、小さな翅を羽ばたかせて、大空へと舞っていった。その様子を、ルーミアとリグルは無心で見つめるだけだった。
「…虫はいいよね…。気楽で、自由で…」
妖怪は古来から、人間を襲って食い、長い年月を生き延びてきた。しかし、近年の幻想郷では妙な社会秩序が形成されており、人間と妖怪は共存傾向にある。つまり、妖怪は人間社会に溶け込んで暮らすか、それとも人間という食糧に頼らず自然の中の飢えに回帰するか、どちらかを選ばなくてはならなくなったのだ。
「薪や鰻を売ったり、寺子屋を開いたり…色々やって日銭を稼いでる妖怪はいるみたいだけど」
「私はムリだよ~…商売できるほど地頭もよくないし、汗水たらして人間様のために働くのも嫌だもの」
そう二人で愚痴をぶつけ合っている間に、また少し陽が傾いた。リグルは思い出したように立ち上がると、寝転がったルーミアに別れを告げる。
「さて、そろそろ私は食べ物探しに出るとするよ。じゃあね」
「食べ物って、どこか当てでもあるの?」
「さぁ…蛍たちの赴くままに飛び回るだけさ」
そう言うと、リグルは蛍たちの光を伴って、空の暗がりに吸い込まれるように消えていった。
ぐぎゅるるるぅ…
独りになると、自ずと空腹感が増してくる。すっかり暗くなった空を見つめて、ルーミアは思わずため息をついた。
「はぁ…いっそのこと、闇に紛れて消えてしまいたいな…」
「あらそう?じゃあ、私が食べてあげようかしら」
気づくと、ルーミアの眼前には、宵闇ではなく、不気味に笑う妖怪の顔が映っていた。人間だったら、間違いなく失禁ものである。
「うわぁ…びっくりしたぁ…」
もはやリアクションする余裕もなく、ルーミアは寝転がったまま覇気のない反応を返した。
「あらあら、面白くない子ねぇ。お腹が空いたの?」
「…子供扱いしないでよ。これでもあんたと同じくらい長生きしてる、妖怪なんだからさ」
ルーミアは腹の減り具合もあって、露骨に機嫌を悪くした。これでも一応、数百年間は自分の知恵で命をつないできた妖怪である。それなりの自尊心はあった。
「御免なさいね。私は紫、あらゆるモノの心のスキマを埋める妖怪よ。」
「スキマ?私は心のスキマじゃなくて、お腹のスキマを埋めてほしいけどねー。」
ルーミアがつまらなさそうにあしらおうとするので、紫は早々に本題へと入った。
「実は、最近開業を考えてる新しい飲食店があって、その味見役を募集しているの。興味はない?」
「…味見?」
食べ物の話題になると、ルーミアは文字通り食いついた。紫は口元に笑みを浮かべると、宵闇をかき回すように手を仰いだ。手の動きに沿って空間がねじれ、曲がりながら裂けていく。闇の力とはまた異なるその妖怪の奇術に、ルーミアは見入るばかりだった。
空間の裂け目を抜けると、歪な空間であった。真っ赤な水で満たされた池に、山火事よりも遥かに激しく、天まで届くほどに燃え盛る炎。その奥の小高い山には、木ではなく針が生えているようだ。幻想郷とは思えない、不可思議な世界。
「…ここは…?」
「ここは地獄。死してなお魂に罪を償わせるための場所…最も、この地獄はもう今は使われていないんだけどね」
「ほぇー…そーなのかー」
紫の話によると、地獄としての立場を失ったこの旧地獄という世界を、どうにかして有効活用することが求められているとのこと。灼熱地獄の熱風を利用した巨大風車による地上の治水事業や、針山地獄からの鉄鋼採掘など、様々なアイディアが出ているらしい。その一つに、地獄料理の開発があるという。
「これが料理用の大鍋ね」
ルーミアが見上げるほど大きい鍋。何かが中で煮立っているのか、聳え立つ鍋の中からは湯気のようなものが噴出しているのが見える。
「針山地獄の鉄を使って製作された鍋や釜を、灼熱地獄の炎を使って豪快に熱する。フレーバーには血の池地獄の血液を少々…なかなか乙なものでしょう」
「そ、そー…なのかなぁー?」
食欲が減退するような話を聞かされたルーミアは、どことなく陰気くさい旧地獄の空気に冷や汗をかいた。こういう霊のたまり場のような所は、妖怪にとって居心地が悪いものである。ルーミアの顔が曇ったその時、猫耳を付けた赤髪の女性が、鍋の裏から顔を出した。
「おっ?誰かと思えばスキマ妖怪じゃないの。例の味見役はその子?」
聞くところによると、彼女は火焔猫燐という名の火車―死体を持ち去る怪異―だそうだ。この大鍋をグラグラと煮立たせている火の元の灼熱地獄に、燃料として死体を供給する役割を担っているらしい。そして、どうやら地獄料理の調理担当でもあるようだ。
「地上の妖怪にも、貴方の地獄料理をぜひ堪能してもらおうと思ってね」
「ほーん…どうも食い意地張ってるようには思えないけどなぁ。ちっこいし!」
燐はルーミアを見るなり、怪訝そうな目ででその小さな体を見つめた。ルーミアは負けじと、燐をにらみ返して叫んだ。
「なりは小さいけど、れっきとした妖怪だよ!」
「あはは、ごめんごめん!あたい、地上妖怪のいじり方がよく分からないからさぁ」
燐の適当な返しにルーミアが鼻息を荒くするのを、紫がたしなめる。
「まぁ、こういう純朴な妖怪にこそ、純粋な味覚が期待できるんじゃないかしら」
「確かにねぇ。少なくとも、紫みたいな何考えてるかよく分からないのよりは信用できるかな」
燐は紫に軽く悪態をつくと、鍋のふちに備え付けられた土台の上にひょいと飛び乗った。ルーミアと紫も、後に続いて土台へと登ってみる。
鍋の中身を覗き込んだルーミアは、目を丸くした。幅十メートルはある底なし沼のような大鍋いっぱいに、血の池地獄の真っ赤な鮮血が貯められ、ぐつぐつと煮え立っている。その赤い色の中に、照りのある茶色の肉片が見えた。よく見ると血の海には肉汁と思わしき油も浮かんでいる。
「…!おいしそう…!」
人間ならばとうてい食べる気にはなれないような代物だが、この地獄料理の豪快さとボリュームはルーミアのような妖怪の野生本能を強く揺るがすものだった。燐は、針山地獄から採取したと思しき長い針を血の海に刺し込み、肉片の一つを取り上げた。
「今日は大ナマズの煮物を試してみたんだ。早速、試食を頼むよ」
ルーミアは自分の顔ほどもあるナマズ肉の塊を燐から手渡され、目を輝かせた。
「…いただきまーす!」
涎を垂らした口を大きく開けて、肉片にかぶりついた。張りのあるナマズ肉は、煮えたぎる血の湯で柔らかく、ほどよい脂身に茹で上がっていた。ルーミアの口の中に、肉のうまみと浸み込んだ血の味が広がる。
「…おいしい!!」
長らく口にしてこなかった、血の味。肉の味。鰻のかけらとしょぼい木の実や葉っぱの味に慣れてきたルーミアには、信じられないほど美味に感じられた。
「美味しいかい?あたいの料理の腕も捨てたもんじゃないね」
「なかなか妖怪受けは良さそうじゃない。この分なら、地上への地獄料理屋出店も近いわね」
「一応、あんたと
「えぇ、勿論…」
燐と紫は、料理にがっつくルーミアを微笑ましく見ながら、将来の展望を語り合った。
気が付くと、ルーミアは鍋の中にあったナマズ肉全てを平らげてしまっていた。
「ふぃ~…久々に腹いっぱい食べられたよ~。ごちそうさま!」
膨らんだお腹をさすりながら、ルーミアは満足げな笑顔を浮かべた。
「そう言ってくれると料理のし甲斐があるなぁ。これから毎日、試食に来てよ」
燐の言葉に、ルーミアは目を輝かせた。こんなに美味しい料理を、これから毎日食べられる。もう腹ぺこで困ることなどないのだ。
「一つ約束して頂戴。食べ残しは厳禁よ。出されたものは、ちゃんと食べきること。」
紫の忠告は、ルーミアにとって当たり前のことに聞こえた。今まで食べられるものなら何でも、木の実は殻まで、魚は骨まで食べてきたのだから、残すことなど考えたこともなかったからだ。
「ここは一応、腐っても地獄だからね。食べ物を残すようなやつには、バチが当たるよ」
燐はそう付け加えると、ルーミアのおでこをピンッとはじいた。
「まっ、あんたは何だか信用できるような気がするから、大丈夫だと思うけどさ!」
そう言って笑う燐に、ルーミアも少し打ち解けたような表情で笑いかけるのだった。
慣れ親しんだ妖怪の山に戻ると、ルーミアは紫にお礼を言って去っていった。その満足げで幸福そうな後姿を見て、紫は最初にルーミアに見せたような、どことなく不気味な笑みを浮かべた。
「食べ物のありがたみは、食べ物がないときにこそ分かるもの。あの子はそういう言葉を知っているのかしら?……フフッ」