自殺行為です、と、その医者は言った。
――貴方の身体は、もう立ち上がるのすらままならない。今生きていることですら奇跡的なのです。ステージの上でギターをかき鳴らし、歌を歌い続ける――それにどれだけエネルギーを必要とするのか、貴方に分からない筈もないでしょう。
あのホールに響き渡る声量を、今の貴方に出せようはずもない。蚊の鳴くような声で歌が歌えれば、それで満足ですか。櫻崎シゲルは、そんな半端な音楽を許せるミュージシャンですか。
いや、そもそも会場までたどり着くことすら難しいでしょう。
断言します。生命維持装置から離れてコンサートに向かえば、一曲も歌い終えることもなく貴方は死ぬ。
医者として、みすみす死にに行く患者を止めないわけにはいかない――
「ははは」
黙って話を聞いていた患者は、枯れ木のような体をゆすって、楽し気に笑った。
「死にに行く?おかしなことを言うなぁ、センセイ」
「俺は『ライブ』に、行くんだぜ――」
18でデビューしてから、20年。思えば遠くに来た。
ひたすら音楽を愛し、情熱に浮かされたまま走り続けた結果、ミュージシャン櫻崎シゲルの名前は今誇張抜きに世界中に響き渡っている。
そう、とても有名なのだ。
世界的ミュージシャンとして。
――あるいは、末期の難病患者として。
音楽は俺にちょっとうんざりするほどの富と名声を与えてくれた。別にそんなものを目当てに音楽をやっていたわけじゃない。金や人気がなかろうと、音楽さえあれば俺の人生に不満はなかった。
――だが、病は俺からその音楽を奪った。
病院のベッドに縛り付けられて、治療だけが続く日々。
一番大事な物から奪っていくんだから、病ってのはタチが悪い。金なんか幾らでもやるから、死ぬまで音楽だけは奪わないでほしかった。
そうだ。
もう一度だけでもライブをやれるなら、俺は他の全てを諦めてもいい。
――命すらも。
どうやら治る見込みがないと分かってから、俺は延々とそう訴え続けた。
そして俺のしつこい説得に、遂に周囲の人間が折れる時がきた。
一曲限り。それが事務所と主治医との約束だった。
たった一曲のライブの為に一流のコンサートホールを押さえてくれた事務所には感謝しかない。その一曲すら歌いきれるか怪しいポンコツの為に、随分と骨を折ってくれた。
チケットの値段は、いつもの値段だ。音楽活動を休止する前の値段である。
くたばりぞこないのライブに大層な値段をつけるものだと笑ったら、社長に『櫻崎シゲルのライブチケットを、二束三文で売れるか』と笑い返された。ほとんど詐欺だ。もっともチケットにはきちんと『公演時間五分』の文字がプリントされているので、これを買うのは余程のバカだ。
そんなわけで売れ行きは大いに心配だったが、当日でソールドアウトしたらしい。
世の中バカばっかりだ。ありがてえ。
ともあれ、ラストライブへの道筋は立った。
だが実際問題、俺には練習をする体力どころか、リハーサルをする体力すら無かった。
一曲を歌いきれるかどころか当日まで息があるかも大いに怪しい。
だが、諦めたくない。
音楽への執念だけを支えにして、俺はどうにかライブ当日を迎えることが出来た。
「ふぅ……」
ため息を吐いて椅子に凭れ掛かる。
ライブはまだ始まっていないというのに、恐ろしい疲労感だった。
正味の話、半死半生の有様だ。全身が痛みを訴えている。
「センセイ、痛み止めもうちょい足せねえ?」
傍らには主治医のセンセイ。これもライブを行うための条件の一つだった。
センセイは血圧計の弾き出した数値に目を眇め、ゆるゆると首を横に振った。
「これ以上投与すると意識を保てません」
「じゃあ、しょうがねえな」
「――シゲルさん。今からでも中止するわけにはいきませんか」
センセイが、これ以上ないってくらい眉間に皺をよせ、何度目になるか分からない提案をしてきた。
「耳タコだぜ、センセイ」
俺は肩を竦めて答える。この期に及んで退くつもりはなかった。
自分の体のことは自分がよく分かっている。
ここで退けば、次は無い。冷たい確信があった。
「……シゲル、無理すんなよ」
低い声が傍らから響く。
俺はそちらに視線を向けた。
あらゆる音楽ジャンルに手を出している俺は、決まったバンドを組んでいない。故に公演の度にバックバンドの面子は変わる。
とはいえ、今日やるのはロック。俺がガキの頃から親しんできた音楽で、公演回数も一番多い。
だから、そこにいたバックバンドも、馴染の面子だった。
「次の機会を待ってもいいじゃねえか」
ドラムの武一が、低い声でそう続けた。
「そうっすよ、シゲルさん。おれ、シゲルさんとのライブなら、いつだってどこからだって駆けつけますから。何も、今日にこだわらなくても」
ベースのタツヤ青年が、泣きそうな顔で訴えてくる。
「声、でてないわよ。ファンに無様な姿を見せてもいいの?」
キーボードの麗が、厳しい口調で、しかし優しく諭そうとしている。
ありがたい。得難い仲間だ。
だが、俺は、
「――俺を誰だと思ってんだ。心配すんな、絶好調だぜ」
そんな誰が聞いても分かる強がりで、三人を一蹴した。
長い付き合いだから、こうなった俺がテコでも動かないことを、こいつらは良く知っている。
全員が揃って諦めのため息を吐くのを確認すると、俺はポケットに入れてあったお守りを引っ張り出した。
ずっと昔、水天宮で買った弁天様のお守りだ。友人の付き合いで購入しただけのお守りである。どうせ買うなら女の神様のお守りがいいや、という浅はかな理由で選んだものだった。
後に弁天様が音楽の女神でもあることを知ってからは、ゲン担ぎに持ち歩いている。
よれよれになったお守りを見ると、思わず笑みが浮かんだ。
この期に及んでも、『健康長寿のお守りにしておけばよかったかな』などとは思わない。
音楽を選んでよかった。悔いのない一生だった。
そう思える。
だが――
御守りを握りしめ、俺は祈った。心の底から神に祈るというのは生まれて初めてかもしれない。
無論、願うのは一つだけ。
――願わくば、ただこの一曲をやり切る力を。
『――少しだけ、サービスしてあげるわね』
女性の声が聞こえた、ような気がした。
「……?」
麗の声ではない。
辺りを見回すが、いるのは男性のスタッフばかりだ。
――幻聴まで聞こえるようになったか。いよいよヤベエかな。
俺は内心冷や汗をかくが、表にはださない。這ってでもこの一曲だけはやりとげるつもりだった。
スタッフの一人が、時計を確認して口を開く。
「時間です。シゲルさん、」
――行けますか?
その言葉は飲み込んだようだが、表情を見れば櫻崎シゲルを心配しているのは明らかだった。
俺は笑みを浮かべる。
「おうさ」
行けるに決まっている。
ライブが待っているのだから。
ステージに上がったは良いものの、正直に言えば死ぬ寸前だった。
脚は鉛よりも重く、一歩踏み出すごとに眩暈がした。全身の苦痛はピークに達していて、息をするのも精一杯で、一秒ごとに神経がノコギリで挽かれているようだ。
どうにかギターを構えようとして、愕然とした。
指先が細かく震える。弦に狙いが定まらない。
あれほど愛し、あんなに練習した、ギターが弾けない。
半身のように一緒にいたのに。
どんな肉体的な苦痛よりも、その事実が死ぬほど悲しかった。
――ちくしょう。
絶望が全身を浸す。足から力が抜けていく。
段取り通りなら、もうじきスポットライトが俺を照らすはずだ。そこから演奏がスタートする。
だがこの分では、スポットライトが照らすのはぶっ倒れる俺の姿だ。
唇を噛む。生ぬるい血が滲んだ。
――結局、最後の一曲すら弾けねえのかよ。
意地と一緒に膝が折れたのは、スポットライトが俺を照らす、まさにその瞬間で――
奇跡が起きたのも、その瞬間だった。
「――?」
降り注ぐ光と共に、ポケットの中に妙な温度を感じた。
陽だまりのような穏やかな暖かさだった。それが、どんどん体中に染みわたってくる。
同時に――全身の痛み、関節の強張り、目の霞み――あらゆる心身の失調全てが、熱に溶かされるように消え去った。
萎えた足に、力がみなぎる。
――魔法のように。
震えが止まった。
ギターが弾ける。
理由はさっぱりわからないが、そんなことはどうでもいい。
俺の最期の一曲に選んだのは、デビュー曲の『Everybody』だ。一番売れた曲ではないが、一番思い入れのある曲だった。
スラップ奏法。指先が神がかった滑らかさで動く。難易度の極めつけに高いイントロだが、何の問題もない。
俺の作った曲だ。俺が弾けないワケがない。
正体不明のエネルギーが、後から後から湧き上がってくる。心から、全身の隅々まで行き渡ったそれが、ギターの音に力を与える。
超絶技巧を目の当たりにした観客たちの歓声が響き渡る。ドームを揺るがす大音声。
負けじと歌声を上げる。
素晴らしい声が出た。マイクなんか要らないんじゃないかというほどの、どこまでも伸びる声。
全盛期の声だ。
間違いない。今の櫻崎シゲルは絶好調だ。
夢見心地のライブが始まった。
約束の一曲は、熱狂的に、瞬く間に過ぎ去った。
万雷の拍手もやがて収まる。
一呼吸置いてから、俺はマイクに口を近づける。
演奏中の熱狂が嘘だったかのように観客は静まり返っていた。
言いたい言葉が次々と浮かんできた。
来てくれてありがとう。
聞いてくれてありがとう。
こんなぼったくりのチケットを買ってくれてありがとう。
浮かぶのは、そんな感謝の言葉ばかりだ。
だけど口に出たのは一言だけ。
俺は、ずっと――
「――逢いたかったぜぇぇぇぇえッ!」
――大歓声が返ってきた。
俺は口上を続ける。
「医者は言った。『一曲限りです』と!そのことを伝えたら、社長はなんて言ったと思う!?」
「『たった五分で大儲けだぜ。ボロい商売だ』だとよ!」
観客の笑い声が聞こえる。
「だがよぉ、社長の思う通りにゃさせてやらねえ!そうだろお前ら!?」
『そうだー!』
力強いレスポンスに、嬉しくなる。
ファンの感情が、直に叩きつけられる。これだからライブはやめられない。
そうだ、だから――
「だから――二曲目だ!行くぜ、『ロケット』!」
――たった一曲じゃ、物足りない!
バックバンドを振り返る。
困惑している。元々一曲の約束だったからだ。
だが、空白は僅かな時間だけだった。
武一のドラムがビートを刻みだす。
心臓が動けば、手足も動く。一糸乱れぬ見事な演奏が始まる。
俺はにやりと笑って、イントロにギターを乗せた。
ライブは、これからだ。
「楽しんでいこうぜぇ!」
たっぷり一時間のライブを終えて、シゲルは舞台袖に引っ込んでいた。
「シゲル!最高だったぜ!」
「余命僅かとか絶対嘘でしょシゲルさん!完全復活じゃないですか!」
「本番までは三味線弾いてたってわけ?ギタリストのくせに」
バックバンドの面々が喜色満面でシゲルを取り囲む。誰も彼も紅潮した顔で、稀代のミュージシャンの復活を心から喜んでいた。
シゲルは不敵に笑って見せる。
「喜ぶには、まだ早いぜ。あの声が聞こえねえのか」
観客席から鳴り響くアンコールの声は、一向に止む気配がない。櫻崎シゲルの最高のパフォーマンスを目の当たりにして、ファンたちは熱狂状態にあった。
「……だけど、身体は大丈夫なのかよ。一時間前までは息も絶え絶えだったじゃねえか」
ドラマーの言葉に、シゲルは腕組みしてふんぞり返ってみせた。
「俺は本番に強いんだよ。な、センセイ。櫻崎シゲル、見ての通り全盛期だぜ」
「――」
舞台袖から食い入るようにシゲルの様子を観察していたその主治医は、今はぼろぼろ泣いていた。
「……なぁーに泣いてんだよ、センセイ」
「涙も出る。奇跡を目の当たりにしているのだから」
主治医は眼鏡をはずして涙を拭うと、何かを諦めた目になった。
「貴方の歌は、私を主治医からただのファンに戻してしまった。もう私には、貴方を止めることは出来ない」
「元から俺は誰にも止められねえぜ。ずーっとそうやって生きてきたからな!――よぉし!」
シゲルは拳を掌に打ち付けた。乾いた威勢のいい音が鳴る。
「五分休憩したらアンコールだ!気合いれてけよ、お前ら!」
「おう!」
「了解よ」
「任せといて下さい!」
頼もしい三人の答えに、シゲルは安心して椅子に凭れ掛かる。
――凭れ掛かった瞬間、
(――あ)
(――終わりか)
奇跡が売り切れたのが、分かった。
「しかし、今日のシゲルはすげえよ。歌もギターもキレッキレだぜ」
「間違いなく最高のパフォーマンスね」
「ええ、ほんとに。――シゲルさん、今日がラストライブなんて勿体ないですよっ。身体きっちり治して、またやりましょう。俺、シゲルさんのライブ、もっともっと見てみたいです!」
熱っぽく語るタツヤ青年の瞳は、憧憬にきらきらと輝いている。
「ああ――そう、だな」
楽しそうに笑みを浮かべたシゲルは、眠るように目を閉じる。
「次は、どんなライブに、しよう、か、な――」
次のステージに思いを馳せて――夢見るように、穏やかに。
「――おい?」
「シゲル……?」
「シゲルさん?」
「――!退きたまえ!!」
櫻崎シゲル。享年38歳。
日本を代表する偉大なミュージシャン。彼が死に瀕しながらも決行した最後のライブは、後世まで語り継がれる伝説となった。
ライブ後の控室で椅子に凭れ掛かって絶命した彼は、その時既に死後硬直を起こしていたらしい。
――死して尚彼を動かしたものは、いったい何だったのか。
観客の声援?音楽への情熱?あるいは神の奇跡?
最早知るすべは無い。唯一それを語れる者は、もうこの世にはいないからだ。
だが――
人々は、生涯を音楽に捧げたこの陽気な天才を。
その数多の名曲と共に、いつまでも愛し続けた。