凛は心に鋼鉄の鎧を纏ってその会談に臨んでいた。大砲で打たれてもビクともしないような、重厚な鎧を。
遥に頼み込んで実現したこの会談を、何としても成功させるために。
――だが、手の震えは収まらなかった。心臓の鼓動は早鐘のようだ。大国アステカの大統領との会食時よりも緊張している。
慣れ親しんだ文部省庁舎の一室であるというのに、幻の中にいるような非現実感があった。
何故なら、今目の前にいるのは――
「初めまして、シゲル様。私、駿河凛と申します。蓬莱の事務次官を務めております」
恐らくは救世の英雄となるであろう、櫻崎シゲルその人だからだ。
ごく普通のジーンズとシャツでは、その完璧なスタイルと顔面、あふれ出るオーラとカリスマ性を一ミリたりとも隠せていない。
「おう、俺は櫻崎シゲル。よろしくな!」
「!」
大きな手と握手を交わした瞬間、脳内に走ったスパークで、心の鎧は木っ端微塵になった。
顔が真っ赤になるのが、自分で分かった。
「よっ、よよよ、よろしくお願いいたします!」
手汗は大丈夫だろうか。さりげなくスーツの後ろで拭ってから握手したのだが、上等な仕立てのスーツは吸水性という点では最悪だった。
くすくす笑う遥が鬱陶しかった。
――ちくしょう、余裕を見せやがって!アンタだってシゲル様と初めて会ったときは絶対醜態さらしたに違いないのに!
シゲルにバレないように遥を一瞬だけ睨み付け、凛は咳ばらいを一つ。
「ごほん。おおよその話は遥から聞いております。荒唐無稽で、しかし信憑性のある話でした」
「おっ、ってえことは信じてくれたのかい?」
「はい」
凛は即答する。目の前の男性が異世界からやってきたという話を、凛は一切疑っていなかった。親友である遥から幾つかの証拠と共に滾々と説得されたからというのもあるが――こんな女性の夢と理想をこねて出来上がったようなファンタジーな人物がこの世界のどこかにいたと考える方がよほど非現実的だったからだ。
凛はごくりと唾を飲み込み、シゲルを見据える。
――ぐうっ、超かっこいい!ビデオより十割増しでカッコいい!美の化身よ、この方!
だが見とれてばかりもいられない。凛はぐっと歯を食いしばり、本題を切り出すことにした。
「シゲル様、遥からこの会談の目的は聞いておられますか?」
「ああ。俺に頼みがあるって言ってたな」
「はい」
凛は頷く。
――昏睡病撲滅。眼前の英雄の全面的な協力があれば、その夢物語が現実のものとなるかもしれなかった。
しかし――
「――その上で、シゲル様にお尋ねしたいことがあります」
「何だい」
「貴方様は、この蓬莱に何をお望みになられますか?」
――労働には対価が必要だ。
しかし、この奇跡のような男性に支払える対価など凛には思いつかない。
富、名声。昏睡病の無い世界の住人であるならば、あるいは美女ということもあり得るのだろうか。
だが、例えそれがどんなものであろうと、凛は用意する覚悟があった。自らの命すらも惜しくない。それと引き換えにこの男性の助力を得られるならば、凛は喜んで崖から身を投げるだろう。
凛は文字通り決死の覚悟を表情に滲ませていた。
その凛の様子に、何を感じたのか――
僅かな間をおいて、シゲルは口を開いた。
「――俺にはよ。たった一つだけど、どでかい夢があるんだ。前世でも、こっちでも変わらずにな」
シゲルはそういうと、窓の外へと視線を映した。
その眼差しは庁舎の中庭を超えて、ここではないどこかを見ているようだった。
「……その夢とは?」
凛が問う。
その問いに、シゲルは照れたような笑みを浮かべ、
「――世界中の皆に、俺の音楽を聞いてもらうことさ!」
そう言い放った。
シゲルが視線を戻す。
その目は鏡のように澄み切っていて、どこまでも真摯だった。
「だからよ。手伝っちゃくれねえか?」
――それ以外に、望みは無いから。
そんなシゲルの心の声が聞こえたような気がした。
「……願っても無いことです」
凛は溢れ出そうな涙を堪え、深々と頭を下げた。
この日、蓬莱とシゲルは手を取り合った。
蓬莱は翼となり、シゲルを世界へと羽ばたかせていくことになる。