「採用です、駿河さん」
櫻崎シゲル様のもたらす音楽を国家として強力にバックアップ――という見出しを見ただけで、蓬莱国首相阿藤寛子は即答した。座布団のように分厚い資料はろくに目も通さない。
「首相。判断が早すぎでは」
凛が苦笑いと共に言うものの、鉄の女の異名をとる女傑は一顧だにしない。
「遅いくらいでしょう。本来であれば唄子の部屋最終回と同時に決定しているべきでした」
ビデオの存在を知ったのが昨日だったのが悔やまれます、と寛子がこぼす。
「とにかく、男性のテレビ出演と肖像権絡みの法律に特例を設けなくてはなりません。――少なくとも、レベル1後期程度の昏睡病であれば、あのビデオは一度で完治させてしまうのだから」
その身をもって体感したのだろう。ウェリントン型の透明なガラスは、寛子の目に宿った光を全く隠せていなかった。
「スピード勝負です。今この瞬間にも昏睡病の進行は進んでいる。患者がレベル3になる前に、何としても再放送はしなくてはなりません」
寛子の言葉に、凛は力強く頷く。その瞳に決意を乗せて。
「私を含め、首も懲役も覚悟で再放送に踏み切ろうとしている者は多いです。何人かの犠牲を覚悟すれば、再放送自体は即座に可能ですが」
「それをするとこの計画は最初の一歩目からケチがつくことになるわ。無法を押し通せば瑕疵が残るもの。あのお方の足跡には一片の曇りすら必要ありません」
凛の提案を、寛子は断固として拒否した。
そもそも政府が大っぴらに法を無視するわけにはいかない。それは悪しき前例となって、後々の蓬莱を蝕むことになるからだ。
しかし、今が緊急事態であるのも事実。悩ましい問題に、寛子は眉間に皺を寄せる。
「……とはいえ昏睡病の対策は一分一秒を争っているのも正直なところ。せめて複製したビデオを各地の医療機関に送り届けたいところですが――」
寛子は口を噤む。残念ながらそれは明確な法律違反である。肖像権の侵害に当たってしまうのだった。
二世紀前までは蓬莱において肖像権を定めた法律は存在しなかったが、男性保護法が生まれてからは話が違う。肖像権の侵害は立派な違法行為になった。
とはいえ本来本人の許可があれば抵触しない筈の法だ。しかし、男性保護法が絡むと話が違ってくる。何せ男性は物心ついたころには昏睡病に侵されてしまう。ある程度年齢を重ねると、自らの意思を示すことすらできなくなってしまうのだ。
故に、当人の意思に関わらず男性はガチガチに保護される。――その肖像権に関しても。
しかし今は、男性を守るはずの法がシゲルの動きを阻んでしまっていた。
「――皮肉なものね」
「仕方ありません。進んでテレビに出ようとする男性の存在は、我々の想像の埒外でした」
「そうね。特例を設ける必要がありますが、臨時国会を開かねばなりません。……ですが、『軽々に男性を利用するべきではない』と内侍省あたりが声を上げそうですね」
寛子はため息を吐く。帝に侍るという性質上高いモラルが求められる内侍省のみならず、男性の権利を声高に訴える議員は数多い。スムーズに特例が認められるかは疑問だった。
しかし、寛子のその見解に、凛は即座に口をはさんだ。
「いえ。もしかすると、内侍省は障害にならないかもしれません」
「――?それは、何故?」
「……出本不明のビデオが、今頃宮廷に届いているはずですから」
寛子はぴたりと動きを止めた。その言葉の意味するところを瞬時に、正確に理解したからだ。
――国家として公にビデオを配布することができなくとも、『謎の第三者』の仕業であれば。
届けられたビデオをチェックするのは、送り先の勝手だ。
そして、シゲルの姿を見て、その歌を聞いた者がどんな感想を持つか、寛子にはありありと想像できた。
「……なるほど」
両手の指を組んだ寛子が眼鏡を光らせる。
「医療機関や、障害になりそうな議員にも届いたりして、ね?」
「根拠のない勘で申し訳ありませんが、誰かがすでに手配している予感がします」
「その誰かさんにお礼を言ってあげたいわ」
寛子のセリフに、凛は答えず曖昧な笑みを浮かべた。
いうまでもなく、凛が渡っているのは危ない橋だった。事が露見したときに、いの一番に責任を取らされるのは凛だろう。
――だが、この若き俊英をここで失うわけにはいかない。その損失は蓬莱にとって決して無視できない痛手となる。
「国民の為に英断を下した蓬莱テレビや『誰かさん』に割を食わせるわけにはいかないわね」
くいっと眼鏡の位置を正すと、寛子は胸を張るようにして椅子に凭れ掛かる。
「特例は通すし、遡及適用も認めさせるわ」
断固として言い切った寛子の顔は、不敵にほほ笑んでいた。
凛は鉄の女の笑みというものを初めて見た。
その細面には、一国の首相に相応しい凄味が漲っていた。
自国のトップの風格に満足を覚えながら、凛は問う。
「首相の見立てでは、特例が通るまでどれくらいの時間が必要になりますか?」
「最速で月末になるかしら」
――素晴らしい速度だ。恐らくは希望的観測ではなく、阿藤首相はその政治的剛腕で最速を実現するだろう。
しかし、足りない。
「驚くべき速度ですが、人類には頓服薬が必要です」
「それはわかるけれど――テレビ放送ができない現状、どうやって頓服薬を用意するというの?」
「資料の14ページをご覧ください」
寛子は資料に視線を落とすと、小首を傾げた。
「……ラジオ番組?」
凛は頷く。
櫻崎シゲル様をメインパーソナリティに据えたラジオ番組計画――資料にはそう記載されている。
「検証の結果、ラジオ番組であれば肖像権の問題を潜り抜けることが可能です」
二世紀の間著作権に関しては手付かずだったのが幸いした形だった。ラジオであれば放送の手続きは容易である。
凛の言葉に、寛子はなるほどと呟く。
「確かにテレビの普及率は三割程度。現段階で全ての家庭にシゲル様の音楽を届けようと思えば、ほぼ100%の普及率を誇るラジオを利用するのは理に適っているわね」
「はい。そもそも電化製品の製造ラインというものは即座に出来上がるものでもありません。これから工場がフル回転するとしても、全ての国民にテレビが行き渡るにはしばしの時間が必要になるでしょう」
「道理だわ」
寛子は頷く。
しかし、懸念もあった。
「――でも、シゲル様のご尊顔抜きでも効果はあるの?」
そのことである。
寛子がビデオを見たとき、まずビジュアルで度肝を抜かれた。あれほど美しい男性というのは、もはや一種の暴力であるとすら感じた。あのインパクトが昏睡病の回復に一役買ったというのは想像に難くない。
だが、凛は力強く頷いて見せた。
「あります。ビデオほどの効果は見られませんでしたが、音声だけでもレベル1患者の回復を確認しています」
検証済みらしい。流石に仕事が早い。
寛子は湧き上がる喜びの念を禁じえなかった。今のレベル1は将来のレベル4だ。それを回復させることの意味は、果てしなく大きい。
「政府は助力を惜しみません。早急にラジオ番組を開始して頂戴」
「承知しました」
「それと――」
寛子は一つ咳ばらいをすると、さり気ない風を装って言った。
「次にシゲル様と会合をすることがあれば、私にも声をかけるように」
――死んでも出るから。
寛子の声なき声を、凛は確かに聞いた気がした。