一時間後――
医療機器、分析機材の揃った別室内は、狂騒の最中にあった。
「すっ、凄まじいとしか言いようがありませんっ!軽度レベル3の全員が医学的寛解……!なんなら体力的に問題の無い患者は、即座に帰宅許可を出せますよ!」
「重度の患者に関しても、劇的な改善が見られます!あとはビデオ治療を続ければ、恐らく社会復帰が可能に!」
「奇跡だ――!」
集まった医療関係者や研究者たちは、次々と上がってくるデータに狂喜乱舞している。
凛は両手を組んで天を仰いだ。
――神は人々を見捨ててはいなかったのだ。この末期的な世界に、櫻崎シゲルという名の救世主を遣わしてくださったのだ。
いや、あるいはシゲル様こそが。
そう、シゲル様なら、この世界全ての――
「ああ、シゲル様……!」
凛は熱っぽく呟くと、この瞬間、とある覚悟を決めた。
厚顔無恥な――どんな鉄面皮でも耐えられないような願い事を、かの英雄に頼み込む覚悟だ。
勢いよく部屋のドアが開いたのは、まさに凛が覚悟を完了したときだった。
「よう!上手くいったんじゃねえか?!」
そんなセリフと共に登場したのは、まさに櫻崎シゲルであった。
その姿を目にした凛の行動は素早かった。
凛はしゅばばっとシゲルの元へと駆け寄ると、
「シゲル様!はい、上手くいきました!これ以上もないほど、上手くいきました!ありがとうございます、蓬莱に、奇跡を、ありがとうございます!!――そして、」
そう言って、シゲルに返答の隙も与えず土下座したのだ。
「おわっ?!突然どうし――」
「ふ、伏してお願いいたします!」
――とてもシゲルの顔を見ながらは言えない願いを、凛は口にしようとしていた。
「どうか、どうか世界中のレベル3患者の元で、貴方様のライブを行ってくださいませんか!とんでもない大仕事になるでしょうが――どんな報酬でも、きっと用意して見せます!ですから、どうか――!」
面食らうシゲルに、凛は思いのたけをぶつける。
室内がざわめいた。
理由は、凛の土下座に驚いたからではない。
凛のセリフがどれだけ無茶なのかを理解していたからだ。
地面に頭をこすりつけながら、凛自身も自らがどれだけ厚かましいお願いをしているか自覚していた。
レベル3の患者が世界にどれほどいるか。レベル3から4への進行速度は劇的に速くなるため、全体からすれば少数ではある。
だがそれを踏まえたうえでも、その数は恐らく五百万人をくだらない。
大きなコンサートホールのようなものに集めることができれば負担は軽くなるだろうが、その為に必要なコストは想像もできないほどだろう。一人の患者を運ぶだけでも医療スタッフの付き添いが必要で、片手間には行えないのだ。
となれば、シゲル本人が医療施設に足を運ぶしかない。
世界中のレベル3受け入れ施設を、一つ一つ。
――労働生産性は人口密度に比例する。高密度な人口集積は昏睡病に侵された世界における常識であり、どの国家においても患者を含む国民は一つの地域に集まっている。だがその前提があったとしても、想像を絶する重労働となるだろう。その作業だけに集中しても、人生をまるごと費やす大仕事になるかもしれない。
つまるところ――『貴方の人生全てを、見ず知らずの患者の為に捧げてくれ』――凛は、そう言ったのだ。
「――」
無言のままのシゲルに、土下座状態の凛は身体の震えを抑えられない。
だが――
シゲルは凛の前に膝を突くと、その肩を優しくたたいた。
凛が顔を上げる。
目の前に、神様のように笑うシゲルの顔があった。
「ワールドツアーさせてくれるのかよ。こっちが金払いたいくらいだぜ!」
凛の両目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
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レベル3患者の面倒を見るのは容易ではない。
何せ食事も口の中まで運んでやる必要があるのだ。無論、重度になれば点滴に頼ることになる。軽度であれば着替え、入浴、排泄は一人で行える場合もあるが、病状の悪化に伴ってそれもできなくなっていく。
故に、専門の施設が存在する。特別介護療養型医療施設――通称特療とよばれるその施設は、この世界における社会保険料の半分を食いつぶしているだけあって、レベル3以上の昏睡病患者を手厚く介護してくれる。
親がレベル3以上になった蓬莱人は、ほとんどがこの特療を頼る。その為に保険料を支払っているのだし、労働しながらレベル3以上の介護をするのは物理的に相当難しいからだ。
何も憚る必要はない。厚労省は積極的な施設の利用を勧めている。共倒れになることこそ避けなくてはならないからだ。
――そうは言っても、割り切れないのが人間だった。
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16歳会社員・柏原律子視点
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レベル3になってしまった母を特療に頼んでから三か月が経つ。
歌が好きな、優しい母だった。他人に任せたくなんてなかった。
子どものころ怖い夢を見て泣いていても、母に抱きしめられて子守唄を聞けば、あっという間に穏やかな気持ちになれた。
最初は何とか頑張って面倒を見ていたが、どんどんやつれていく私を心配した職場の先輩が民政課に連絡。すぐにやってきた職員さんの真摯な説得に、わたしは首を縦に振った。
辛かった。でも、当時はその辛さすらどこか他人事だった。
今思えば私も昏睡病にかかっていたのだと思う。職員さんの判断は、きっと正しかった。
シゲル様の音楽がなければ、今頃レベル2には到達していたかもしれない。
――櫻崎シゲル様。
現代を生きる英雄である。ビデオに収められたその歌声は、なんとレベル2までの昏睡病患者を治してしまうというのだから、英雄視されるのも無理もない。
わたしもシゲル様に救われた蓬莱人の一人として、感謝の念は絶えない。隙あらば聞くシゲル様の音楽と、たまに手に入る白米だけが、私の人生の楽しみだ。
昨日幸運にもお米をニキロも買えたので、今日もまた白いご飯が味わえる。炊きたての馥郁たる香りと噛みしめたときの米の甘味を想像すると、期待と共にじんわりと唾液が滲んだ。
今日も仕事を終えて帰宅中。陽はもう沈みかけで、わたしのお腹はぺこぺこだ。
昏睡病から解放されたことによって正常化された味覚は、私に生の喜びを与えてくれる。完全食には殺意を覚えるようになったけど。
――生きることを楽しめるなんて、一か月前ならとても信じられなかった。シゲル様は本当に、蓬莱の救い主だ。
ああ――でも。
財布から取り出した鍵をドアノブに差し込みながら、どうしても考えてしまう。
もう少しだけ早くシゲル様の音楽を聴くことができたら。まだレベル2だった母さんに聞かせることができたら。
きっと今頃、私のアパートには電気がついていて。
こうやって玄関のドアを開けると、夕飯の匂いがしてきて。
歌を口ずさみながら炊事をしている母さんが、振り返って優しく声をかけてくれたはずなんだ。
「りっちゃん、お帰りなさい」
――そう。こんな風に。
……こんな風に?
靴を脱いでいた私は、つむじにかけられた声に反射的に顔を上げた。
お味噌汁の、いい香りがする。
「――それとも『ただいま』って言った方がいいかしら?」
そこに立っていたのは、生まれてからずっと一緒だった人だ。先週見舞いに行ったばかりで、見間違うはずもない。
おかあさん。
「おかあさん……?」
「はい、おかあさんですよ」
十六年も一緒に暮らした母の顔を忘れるわけがない。
でもその顔に浮かんでいる飛び切りの笑顔は、生まれて初めて見るほど嬉しそう。
「ふふふ、驚いた?特療ですっごい治療を受けてね、もうあっという間に退院の許可が降りちゃったの。レベル3完治ですって!」
ぴーす!とブイサインを突き出してくる母さんの姿が、ぼやけてよく見えない。
まるで夢を見ているみたい。
いや、ほんとうに幻なのかもしれない。私はふらふらと母さんに近寄って、その存在を確かめるように背中に手を回した。
暖かい。
命の温度だ。
おかあさんは、間違いなくここにいる。
「おかあさん」
もう一度呼びかける。
「なぁに?」
優しい声が返ってくる。
「おがあざんっ」
嗚咽を漏らして、わたしは母さんの胸に縋りついた。
あとはもう言葉にならなかった。
お母さんはむぃーんと泣く私の頭をそっと撫でてくれる。
「あらあらこの子ったら。泣き虫さんに戻っちゃったのかしら」
困ったように言う母さんだが、わたしの涙は枯れる気配が無い。
「もう。また子守唄が必要かしらね」
そう呟くと、母さんは歌い出す。
私は引っ付き虫のように母さんの胸にくっつきながら、子供の頃のように嬉しかった。母さんの歌は何でも大好きだったから。
安らぎと共に、条件反射のように眠気が襲ってくるのが分かる。
ああ、何を歌ってくれるんだろう。
大好きだった『夜霧』かな――
「――『ツノも無けりゃハサミも無いが!メタルに光ってマッハで飛ぶぜ!』」
マッハカナブンじゃん!
目ぇ覚めるよ!