彼の意識は、白い空間を漂っていた。
――なんだ、此処。
上下の感覚も定かではない。しかしぐるりと辺りを見渡せば、星のような輝きが、道しるべのように彼方に続いているのが見えた。
何とはなしに、その方向に進んでみる。
一つ目の輝きに辿り着くと、その輝きは一層強くなり、あたりに懐かしい光景を浮かび上がらせた。
頬を紅潮させた小学一年生の姿が見える。幼い手でしっかりと掻き抱いているのは、父から貰ったお古のギターだ。
見覚えのある顔をした子供だった。
――何だって、ギター覚えようとしたんだっけな――
彼は考えた。きっかけは些細な事だった気がする。テレビで見たロックバンドがカッコよく見えたとか、当時流行っていた漫画の主人公がギターを弾いていたとか、確かその程度のものだ。
だけど彼はギターにのめり込み、音楽に心を惹かれていった。他の何も目に入らないくらい音楽を愛した。
それは、何故か。
同年代の友達がハマっている漫画、アニメ、ゲーム――そんなのが一切目に入らないほど、楽しかったからだ。
それだけのことだ。
次の輝きにたどり着く。
浮かび上がった光景は、中学校の文化祭だ。体育館で行われた、初めてのライブ。
拙い演奏だった。今の彼からしてみれば、まさに児戯だ。当時はベースを弾けるメンバーがいなかったので彼が担当している。ギターに比べれば一段も二弾も落ちる演奏だが、本人は実に満足げだ。
何しろ――文句の付けようもないほど、楽しかったから。
次の輝きにたどり着く。
高校二年生の夏だ。
路上で弾き語りをしている。最寄りの駅の、割と寂れたアーケード街に一店だけあった楽器店の店主と意気投合し、客引きがてらスペースを貸してもらったのだ。
演奏するのはギターが一番多かったが、興味の湧いた楽器は手あたり次第に触らせてもらった。
楽しかった。
定期的に行われる路上ライブはどんどんと観客を増やしていき、最終的に警察官に注意される規模になったところでお開きとなった。その後も彼はまったく懲りず、あちこちで弾き語りをしたりライブハウスを借りたりしているうちにスカウトの目に留まることになる。
次の輝きにたどり着く。
初めてのレコーディング。
次の輝きにたどり着く。
プロとしての初ライブ。
次の輝きにたどり着く――
どれもこれも音楽に関する記憶ばかりで、どれもこれも輝いていた。
だから――
「――そうだ。俺は櫻崎シゲルだ」
最期のライブにたどり着いたとき、彼はすっかり自分を取り戻していた。
シャツの上に着古した革ジャンをひっかけ、くたびれたジーンズを履いて、そして使い込まれたギターケースを担いでいる。
いつもの櫻崎シゲルが、白い空間にしっかりと立っていた。
『――流石ね、シゲルちゃん。こんなに早く『自分』を取り戻した魂は初めてよ』
どこからともなく声が聞こえた。
美しい音色だった。今まで聞いたことがないほど――いや。
ごく最近、一度だけ聞いたような――
「……アンタ、誰だい?」
シゲルが問う。
『あら、つれない返事。貴方もよーく知ってるはずよ?』
「知ってる?こんな天使みたいな声の持ち主を、俺が忘れるはずが――」
ジーンズのポケットが、きらりと光った。
「……?」
首を傾げたシゲルは、ポケットに手を突っ込む。
触りなれた感触があった。
弁天様の、御守り。
「……なるほど。天使じゃなくて、女神様か。道理でいい声してら」
『うふふ。天下の櫻崎シゲルのお褒めに預かり光栄でございますわ』
ころころと笑うその声が、耳に心地いい。
考えてみれば、突如体調が戻ったのはこの声が聞こえてからだった。
「もしかして最期のライブ、手を貸してくれた?」
『余計なお世話かも、と思ったんだけれどね』
「とんでもない。感謝感激雨あられ。何かお礼をさせてもらいたいくらいだぜ」
『あら、ホント?』
「もちろん。俺にできることなら」
『嬉しい!実は貴方の魂をここに呼び寄せたのって、頼みごとがあったからなの』
「ありゃ、そうだったの?えっと、俺はくたばっちまったみたいなんで、豪華なお供え物をするとかはちょいと無理だと思うんだが……」
『いらないわよ、そんなもの。……いやちょっとは欲しいけど。ちょっとだけよ』
「はぁ」
『頼み事っていうのはね、貴方に救世主になってもらいたいの!』
「きゅ、救世主?……えーと、キリストさんの真似をしろってことか?迷える子羊を救う、ってのは、俺にはちょいと向いてないような……信心深くもないし」
『キリストみたいに復活してもらうのは間違ってないわ。貴方の生まれた世界とは別の世界になるんだけれど』
「別の、世界?」
『ええ。力ある神は、世界を跨いで遍在しているものなの。わたしもいくつかの世界に存在しているんだけれど――そのうちの一つが、今とても逼迫した状況にあるの。そこを貴方に救ってもらいたい、ってわけ!』
「はぁ……いや、そりゃおれもできるかぎり頑張りたいとは思うけど、身体もボロボロだし、世界を救うなんて大層な真似ができるかどうかは……」
『身体に関しては問題ないわ。っていうかもう貴方って死んじゃってるし、向こうの世界用に身体は拵えてあるから安心して。私好みで百年動くスーパーボディだから。それに、世界を救うってことに関しても貴方なら大丈夫!っていうか貴方以上の適役は――あっ!ヤバ!』
突如、弁天様の声が上ずった。
「どうした?」
『――見つかっちゃった!ごめん、巻きでいくから!』
「見つかったって、何に――」
『分からず屋に、よ!んもー、普段無気力なくせにこんな時だけ――あっダメだほんと時間無い!ケツカッチンってやつね!』
弁天様の焦燥と共に、周囲に光が溢れていく。白を塗りつぶすほどの光に、シゲルの身体がかき消されていく。
――『移動』が始まっているのが、シゲルは感覚的に理解できた。
しかし、大事なことが聞けていない。シゲルは声を張り上げる。
「べ、弁天様や!結局のところ俺は何をしたらいいんだ?!」
答えは即座に返ってきた。
『簡単な事よ!そもそも貴方が出来ることなんて一つしかないじゃない!』
アンコールよ!櫻崎シゲル!
貴方の音楽を、もう一度――
沈んだ世界に、響かせて!
その言葉を最後に、シゲルは眩い光に飲み込まれた。