安アパートの一室で、『昏睡病の兆候アリ』と書かれた診断書を、一ノ瀬和美はさしたる動揺も無く眺めていた。
来るべき時がきたな、という感じだった。二十二歳というのはやや早いが、別段驚くほどのことでもない。男性は十歳にもなれば軒並み発症しているのだから、御の字といったところだろう。
昏睡病。現代人の死因ぶっちぎりのNO1。二百年前の悲惨極まる世界大戦の最中、突如湧いて出た死神。
その正体は、生きる力そのものを奪う原因不明の気鬱の病だ。世界大戦を終焉に導いたこの死神は、今人類そのものを滅ぼそうとしている。
罹患率において比肩するものは無く、防ぐ手立ても判明していない。1対20という異様な数値に陥っている男女出生比率も、この病が原因だとされている。
医者たちは小難しい理屈でなんとかこの病を解明しようとしているようだが、無駄な努力という気がする。
どう考えても、昏睡病は理論や常識を超越したところにある。細菌でもウィルスでもない。女性も男性も、遺伝子に変異は起きていない。
こんな病が存在するはずがない。
比喩ではなく、本当に死神の手が人類に伸びているのではないだろうか。
――とはいえ、人類の全員があっという間に昏睡病に倒れるわけではなく、その発症タイミングにはかなりの個人差が存在する。
確固たるエビデンスがあるわけではないが、何か熱中できることがある人間は発症が遅いらしい。ゆえに政府は『国民総趣味人化』なるけったいな政策を打ち出してまで一人が最低一つの趣味を持つことを推進しているが、成果が上がっているようには見えない。
強制されている時点で趣味ではないし、趣味人が昏睡病発症が遅いというのも、趣味に没頭するような気力が残っているだけなのではないだろうか。
趣味があるから昏睡病にならないのではなく、昏睡病から遠いから趣味に打ち込めるのだ。
――最後に笑ったの、いつだったっけな。
少しだけ考えてみたが、思い出せなかった。
――なら、怒ったのはいつ?悲しんだのは?
思い出せない。
高校を卒業してから一年が経つ。その一年で、心が動いた記憶が無かった。
在学中にあったかといえばそれも怪しいが。
それが別段珍しいというわけでもない。右を見ても左を見ても、今の世界はそんな社会人ばかりだ。
時計のアラームが、13時を告げた。
直ぐに停止させ、部屋の片隅に立てかけてあるヴァイオリンケースを手に取る。
日課の時間だ。
今日は『芸術の日』。蓬莱における数少ない祝日の一つだ。
日曜日と祝日は、13時から歩行者天国でヴァイオリンの演奏をする――学生時代から変わらない習慣だった。
別に楽器の演奏が好きなわけではない。国民総趣味人化が実施されてから、楽器の購入にあたって補助金が降りるようになったのだ。今音楽を『趣味』にしている人間の大半がこの程度の理由だろう。
――昏睡病が普通に進行すれば、このルーチンワークも数年で終わりかな。
そんなことを考えるが、別段思うところはない。心は凪いだまま、さざ波一つ立ちはしない。
いつものように右足から靴を履き。
いつものようにアパートのドアを開け。
いつものように歩行者天国へ向かって。
――いつもの定位置に、見たことの無い人がいた。
特徴的な人だった。
まず、背が高い。
180センチ弱はあるだろうか。成人女性の平均身長が160センチほどであることを考えれば相当な高さだ。バスケットボールなんかを趣味にすれば優秀な選手になりそうだ。
次に、肩幅が広い。
水泳を趣味にしている人の中には肩回りの筋肉が発達している人もいるが、それとはまた違った筋肉のつきかたをしているように見えた。
――そして、胸が小さい。
小さい、というのには少々語弊があるだろうか。胸囲はきっとかなりの数値だと思われるが、凹凸にかけているのだ。あまり見たことの無い体つきだった。がっちりしていて、逞しいと言える。
最後に、顔立ちが凛々しい。
極めて整った、信じられないくらいの美形だけど、美女というのとはちょっと違う。じっと見ていると、不思議な気持ちになってくる。
ぼーっと見とれていると、その人が口を開いた。
「なぁ、お嬢さん。ここ、演奏しても大丈夫?」
――失礼な話だが、目を見開いてしまった。
『声が低い』。ハスキーボイスとか、そういうレベルの声ではない。ハッキリと低い。
まるで、現代では失われて久しい『成人男性』のように――
「……参ったな。場所代とか必要だったりするのかい?生憎一文無しなんだが」
その人は困ったように眉尻を下げた。
わたしは慌てて口を開く。
「い、いえ!誰にでも無料で開放されてます!」
自分のものとは思えないくらい大きな声がでて驚く。
「お、そうなの?そりゃよかった」
その人はそういうと、見たことの無い楽器をケースから取り出した。
弦楽器だ。ヴァイオリンに似ている。
ひどく優しい目でその楽器を眺め、心底嬉しそうな笑みを浮かべてから、その人は楽器を抱きかかえた。
精妙な指捌きが、魔法のように音を紡いでいく。
今まで聞いたことのある音楽とはまるっきり別のメロディだ。
激しく、賑やかで、聞いていると何だか――
とっても、『楽しい』。
今まで一度も感じたことがないくらい、胸が高鳴っていく。
ぎゅっと胸を押さえた私は、笑みを浮かべたその人が、大きく口を開くのを見た。