櫻崎シゲルは、気が付けば見知らぬ公園のベンチに横たわっていた。
ナップザックを枕にして、ギターケースを抱きかかえながら。
イマイチ状況の把握できないシゲルは、身体を起こすと何気なくポケットに手を突っ込み、そこにお守りがあることを確認し――
覚えのない手触りに、眉を顰める。
御守りとは別に、何かがポケットに突っ込まれている。
「……なんだ?」
取り出してみれば、何の変哲もないメモ用紙であった。走り書きにも拘わらず、素晴らしく上手いと分かる字で、何かが書き連ねてある。
シゲルちゃんへ。
時間が無くて説明不足になっちゃってごめんなさいね。とりあえず、近くにあった貴方のギターと荷物を一緒に送っておきます。身体の方はばっちり健康にしておきました。っていうかまったく別の身体なので、しばらくはちょっと違和感があるかもしれないけれど、じきに慣れると思います。
それと、伝えきれなかった注意点を幾つか書いておきます。
まず、そちらの世界は極めて男女比が偏った世界です。昔は違ったんだけど――今は具体的には男1対女20くらいね。ついでに今は男も女も、シゲルちゃんのいた世界に比べるととっても大人しいの。だから前の世界のノリそのまんまで生きてると、ちょっと面食らうこともあるかも。
犯罪率なんかも滅茶苦茶低いわ。治安、っていう点では間違いなくぶっちぎりで勝ってるから、事件に巻き込まれる心配なんかはしないでいいと思います。
あと言語に関してだけど、その島でならおおむね問題なく日本語が通用すると思います。といってもその島国は蓬莱っていうから、蓬莱語だけどね。
そうそう、大事な注意点。
私がシゲルちゃんをそっちに送った、ってことは口外しないでほしいの。神々にも色んなしがらみがあるものだから、禁則ってやつなのよね。てなわけでシゲルちゃんの素性に関しては何とかうまくごまかしてちょうだい。記憶喪失とかね。その世界は男性には甘々だから、そんな感じのテキトーな理由でも多分大丈夫。……だと思います。
――で、注意点というか、大問題が一つ!
そちらの世界の人間は、皆潜在的にある病気を抱えてるということ!
これが極めて厄介で、悲しいことに男性は20歳を待たずして軒並みこの病に倒れます。発症すると、ほぼ死と同義です。女性の方は少々猶予があるのですが、それでも平均して40歳ほどで限界が来ます。生命維持装置に繋げば死までの時間を延ばすことはできますが、それだけです。
でも、この病に対する特効薬こそ貴方なの。
とにかく貴方の音楽で――
文字はそこで途切れている。おそらくこのメモを書いている最中にも、何かの邪魔にあったのだろう。
メモを読み終えたシゲルは、枕になっていたナップザックを眺める。
「……これ、俺の荷物じゃねえぞ」
病院から直行したシゲルの荷物はギターケースだけだ。どうやら弁天様は、シゲルの最も近くにあったバッグをシゲルのものと勘違いしたらしい。おそらくはベースのタツヤ青年のものであろうそれを、シゲルはしばしの逡巡の後に担ぎ上げた。
落とし物として交番に届けても、持ち主の元に返る確率はゼロだ。それなら有効活用させてもらったほうが良い。
「しかし、結局俺が何すりゃいいんだかイマイチわかんねえんだが……ええと『とにかく貴方の音楽で』って書いてあるんだから――あれだな。うん、前と同じだな」
シゲルはにやりと笑う。
「好きに音楽をやって、皆に聞いてもらえばいいんだろ!」
即座に立ち上がったシゲルの腹は既に決まっている。
シゲルは難しいことを考えない。素寒貧で宿も無いが、健康な身体と楽器さえあればどこでだってご機嫌だ。
何しろ、もう一度音楽ができる。
それだけで、シゲルは踊り出したいような気分だった。
「ま、ちょいと稼がねえと飯も食えねえしな。ってことでまた頼むぜ、相棒」
ギターケースに語り掛けると、シゲルは見知らぬ土地に意気揚々と乗り出していった。
人通りの多そうな場所を探して歩いていたシゲルは、ほどなく『神楽町歩行者天国』の看板を見つけた。
ホコ天。人がいないワケが無い。あるいは弁天様はここを狙って送り込んだのかもしれなかった。シゲルは足取りも軽く歩行者天国へと乗り込み――
「なんだ、こりゃ……」
困惑した。
それはまるで、葬式のような歩行者天国だったから。
目抜き通りなのだろう。道は極めて広く、人通りも多い。手作りと思しきアクセサリーを売っている者もいれば、パントマイムをしている者もいる。楽器の演奏をしている者もちらほらと見受けられた。
日本と違って、路上販売などの制限はないらしい。ちらほらと警備員らしきものの姿は見えるのだが、売り子に注意をする様子はない。
これほどの規模の歩行者天国は、日本ではあまり見なかった。ちょっとした祭りの域に達している。
――にも関わらず、ここには笑顔と喧騒が無かった。
弁天様のメモにあった通り、見渡す限り女性ばかりだ。それも見目麗しい女性が多い。だというのに誰も彼も無表情で、マネキンの街に迷い込んだかのような不気味さがあった。
アクセサリーを売るものは呼び込みの声を上げることもなく、ジャグリングをしている者の動きは淡々としていて、観客をまるで意識していない。楽器を演奏している者たちも同じで、ひたすら音を外さないことを重視しているようだった。
直ぐ近くのフルート奏者の音に耳を傾ける。
聞いたことの無いクラシックな曲だ。しかし、メロディは良い。
一定の抑揚で音が鳴り響いている。難しい運指も問題なくこなせている。
しかし、シゲルは悲し気に顔をしかめた。
――本来、未知の音楽に触れることはシゲルにとって大きな喜びである。知る人ぞ知る民族音楽を求めて秘境のような場所を旅したことは一度や二度ではない。
だが、この曲はまるでつまらなかった。
非常に整った、美しいメロディラインをしているにもかかわらず、である。
理由は明らかであった。
まったく不思議なことだが――この奏者は、これほどの技量を持ちながら、音楽のことが少しも好きではないのだ。
音色からそれが伝わってきて、シゲルは悲しくなる。奏者がこれでは、いかなる音楽も虚しいだけだ。
同時に、理解した。
――なるほど、理由はわからんが確かにこれは世界の危機だ。
演奏者が音楽を楽しめないなんて、これ以上の悲劇はない。
女神は言った。『アンコール』だと。
櫻崎シゲルの音楽を、もう一度世界に響かせよと。
ならば、やることは一つだった。
いや、仮に女神の言葉が無かったとしても、シゲルのやることは変わらない。
この静けさではアンプもスピーカーも必要ない。大き目のエレアコなので、音量は十分だろう。
ヴァイオリンケースを持っていた近くの女性に尋ねてみれば、演奏に許可は要らないらしい。
お膳立ては整っていた。
ギターケースを開ければ、相棒の姿が現れる。
万感の思いがあった。
だが、様々な感情が頭を過ったのは一瞬のことで、心の奥からあふれてくるのはただただ『喜び』であった。
――ああ。音楽が、またやれる。
シゲルの感動とは裏腹に、周囲の奏者は相変わらずつまらなそうに演奏を続けている。
まったくとんでもないことだった。音楽のイロハのイを教えてやらなくてはならない。
シゲルはにやりと笑うと、
「――音楽ってのは、」
愛しのギターを、高らかに歌わせた。
「笑顔でやるもんさ!」
弦を弾き、旋律に歌を乗せる。鍛えた技と抑えきれない情熱が、櫻崎シゲルの音楽を創り出していく。
――なんて、なんて楽しいんだ!
シゲルは殆ど陶酔していた。
億を優に超える財産も、世界的なミュージシャンとしての名声も、全て前の世界に置いてきてしまった。
だが、まったく惜しくない。
素寒貧だろうがホームレスだろうが、健康な身体と音楽さえあれば、櫻崎シゲルはご機嫌なのだ。
通りを行き交う人々は悉く足を止め、夢遊病者のようにシゲルの元へと集まってくる。
誰も彼も目を見開き、ついでにぽかんと口を開けている。
歌っている曲名は『いつの日か』。
最期のライブで弾きそこねた曲だ。音楽とファンへの感謝を籠めて作った曲だったのだが、アンコールで演ろうとしたのが仇となった形だった。
この際、こちらの世界で仇を取らせてもらうことにする。
世界も超えよと言わんばかりに、歌に力を込める。
我ながら全く素晴らしい声が出て、ますます笑みが深くなった。
一曲分の時間は瞬く間に過ぎ、ギターが最後の音を鳴らし終える。
シゲルは満足げに頷いた。おおむね納得のいく演奏だった。肉体は少々変わっていたが、声はそのままだしテクニックも据え置きだったらしい。とはいえ指の長さなどが少々変わっているので、そのあたりは徐々に慣れていく必要があるだろう。
しかし、妙に静かだった。
辺りを見渡してみれば、シゲルを中心に異様な分厚さの人垣が形成されているものの、観客はしわぶき一つ立てていない。
――考えてみれば、通りで演奏されている曲はクラシックじみたものばかりで、シゲルのポップスはひどく浮いていた気がする。もしかすると、これはこちらの世界では全く新しい音楽なのかもしれない。
――やべーな。もしかして今の曲すげー場違いだったか?ジャズとかの方が良かった?
と、シゲルは一瞬考え込んだが、
――ま、今はポップスの気分だし!やりたい曲やるか!
あっさり思考を放棄して、次の曲に取り掛かろうとする。この男は、いつだって好きな音楽をやるだけなのだ。
拍手の音が聞こえたのは、その時であった。
ヴァイオリンケースを持っていた女性が、目をキラキラと輝かせ、ぱちぱちと懸命に手を叩いている。
――頬を紅潮させ、笑みを浮かべて。
その拍手を皮切りに、観客たちは一斉に手をたたき出した。
万雷の拍手が目抜き通りに響き渡る。
少々面食らったシゲルだったが、すぐににやりと笑って観客たちに手を振ってみせる。
「わはは、センキューセンキュー!」
「あ、あの!おひねりは、この楽器ケースに入れればいいんでしょうか?」
一人の女性が振り絞るように声をあげる。
「おお、そうそう。気持ちだけでも入れてくれると嬉しいぜ」
「わかりました!」
女性はそういうと、財布をケースの上でひっくり返す。
硬貨と紙幣が小山をつくった。
シゲルは目を丸くする。
「……へ?」
思わず女性の顔を見つめるが、女性は頬を赤らめて首を傾げた。
――え?これ大した金額じゃないの?財布丸ごといったように見えたけど。
観客たちは驚くべき行儀の良さでもって列を作ると、次々とシゲルのケースに有り金を突っ込んでいく。
「――ま、待った待った!」
呆気にとられていたシゲルだったが、流石に五人目あたりで正気に戻り、慌ててギターケースを閉める。
「お嬢さんがた、こりゃおひねりってレベルじゃねーぞ!おーい財布ひっくり返してった奴ら戻ってこい!用法容量を守って正しい金額を入れろ!」
「すみません、今はこれ以上は持ち合わせが無くて……」
「逆ぅー!こんなもんはな、ジュース一本分ももらえりゃ十分なんだよ!」
渋る観客を納得させるのには、かなりの時間を要した。