蓬莱におけるテレビ放送は、報道・教育・スポーツ中継の三本柱に加え、近年政府がゴリ推ししている娯楽番組(バラエティ)で構成されている。
万年人手不足のテレビ業界において、放送といえば生放送が基本だ。編集作業をして完璧な映像を作り上げるという作業は、ごく一部の高視聴率な教育番組くらいでしか採用されていない。
故に『唄子の部屋』もまた、生放送ということになるのだが――
「ホントにいいんですか、唄子さん。ゲスト出演なんて聞いてないんですけど……」
テレビカメラマンの翠が小声で尋ねるのに、唄子は躊躇うことなく頷きを返す。
「いいんですよ、翠さん。最終回ですから」
「は、はぁ」
翠はちらりと壁際に視線を送った。
帽子を目深に被った、見たことの無い人物がパイプ椅子に腰かけている。
妙に逞しい体つきをした人だった。職業柄一流のスポーツ選手などにも会うことの多い翠だが、その人物の骨格には奇妙な違和感を覚えた。
――何かが、根本的に違うような。
「翠さん」
「はい?」
唄子の声に思考を中断された翠が視線を戻すと、楽し気な笑みが目に飛び込んできた。
ここ最近まるで見ることの無かった、懐かしい表情だった。二年前、情熱に燃えていたころの唄子は同じような笑みを浮かべていて、翠も随分元気をもらったものだった。
昏睡病が進んでからはすっかり失われた筈の笑顔が、そこにあった。
――いや、よく見ればかつての笑顔ではない。
何か違う。
むしろこの笑顔は、二年前よりずっと――
「録画テープ、あとで焼き増ししてくださいね」
そう言って茶目っ気たっぷりにウインクした唄子に、翠は思わず見とれてしまった。
テレビ欄に記載されている『唄子の部屋【終】』の文字を見て、真美は憮然としていた。
梱包されたままの真新しいビデオテープの束が視界に入り、無色のリップを塗った唇からため息が漏れた。
「なに凹んでるの、真美ちゃん」
呑気に煎餅をかじりながら姉の宮子が言う。
姉に会うのは三か月ぶりだった。宮廷女官というそれなりにやんごとない職に就いた姉だが、社会人になってもまるで変わった様子はない。相変わらずのほほんとしていて、話していると力が抜ける。
「……このテープ、どーすればいいかなって思ってさ」
そう答えて、真美は口をへの字に曲げた。
――ビデオテープというのは安いものではない。おおよそ一本500円という値段は女子高生にとって極めて重い負担だ。
真美はその安いものではないテープを、先日セールで購入したばかりだった。
一ダースほど。
真美が録画している番組は、唄子の部屋だけだというのに。
「せめて一か月くらい前にさー、番組終了のお知らせしとくべきだと思うんだよ」
「まーまー。腐るものじゃないしいいじゃない。また新しい音楽番組始まるかもよ?」
「唄子さん以上の音楽家って、蓬莱じゃちょっと思いつかないよ」
真美は断言する。
真美は唄子の部屋の熱心な視聴者であった。数年前母親に連れられていったコンサートで、その時15歳だった唄子の歌声を聞いた真美は、その声に強く惹きつけられた。
当時既に天才神奈唄子のレコードやカセットテープは発売されていたが、再生機器はどれも高価なものであった。ごく一般的な母子家庭ではまず手が出ない。
しばらく経って『唄子の部屋』のテレビ放送が決定したときも、やはりテレビをもっていない真美はしょげたが――母親が誕生日プレゼントとしてテレビとビデオデッキを購入してくれたので、当時は飛び上がって喜んだ。大国アステカの開発したそれらの機器は、当時かなりの高額だった。
しかし、その喜びは長くは続かなかった。
「確かに唄子さん歌上手だったけどー、何か最近はそうでもなくない?」
「う」
姉の言葉に反論できず、真美はがっくり肩を落とす。
唄子の歌の愛好家を自負する真美から見ても、最近の唄子は振るわなかった。音程を外すようなことはないが、大事な何かが欠けているように聞こえるのだ。
「……二年前まではすっごく良かったんだけどなぁ」
ビデオにとっているからはっきりとわかる。笑みを浮かべながら楽しそうに歌っていたのは最初の頃だけだ。真美がいまだに見返すのもその当時のテープばかりである。
最近の唄子には笑顔が無く、歌にも精彩を欠いている。素人目にも昏睡病の兆候を感じさせる様子だった。
ある意味、元気な唄子をビデオに保存することができたのは運が良かったのかもしれない。今も録画を続けているのは半分が惰性で、もう半分は折角テレビとビデオを買ってくれた母に申し訳がないからだ。
とはいえ、どうやら今回でビデオデッキはしばらくお役御免となりそうだった。
新聞のテレビ欄は欠かさずチェックしているものの、真美の琴線に触れる番組は唄子の部屋のみだ。こうなれば宮子の言う通り、後釜の番組がまた音楽番組である可能性に賭けるしかないが――音楽番組でこけた蓬莱テレビが二番煎じを試みるかといえば、可能性は低いと思わざるを得ない。
「お姉ちゃん、宮廷女官って蓬莱テレビとコネないの?新番組情報とか入ってない?」
「三か月前に女官になったばっかりのぺーぺーに何を期待してるの、真美ちゃんは。まぁ蓬莱テレビは政府と太いパイプを持ってるから、女官長様くらいになれば何か知ってるかもしれないけれど。……むしろそーゆーのは府議会議員の母さんの方が詳しいんじゃないかなー」
「そっかぁ」
真美は壁掛け時計に視線を移す。
時刻は七時半を回っている。釣られるように時計に目を向けた宮子が、小さくため息を吐いた。
「――母さん、遅いね。せっかく帰ってきたんだから、顔見てから局に戻りたいんだけどなー」
「平日に帰ってくるのが悪い。それもぬいぐるみを取りに帰ってきたなんていうしょーもない理由で」
「しょうもなくない!こがねまるが居ない二か月間、私の寝つきは平均十分も遅かったんだから!」
むん、と狐のぬいぐるみを突き出す宮子に、真美は半眼を向ける。
「子供じゃないんだから……っていうか、母さん今日は定期健康診断の結果を受け取りに行くって言ってたから、いつもより遅れる筈だよ」
「んへぇー。だめじゃーん」
よもやま話をしていると、唄子の部屋の放送時間は目前に迫っていた。
「おっと、いけないいけない」
真美はビデオデッキに手を伸ばす。経済的な理由からいつもの通り三倍録画ボタンを押そうとした真美は、少々考え込んだ後、その隣の標準録画ボタンを押した。
真美が標準録画をしていたのは、唄子に元気があった初期の放送時だけだったのだが――
「最終回だし、いいよね」
真美はそう呟き、残り11本の空きテープを眺める。いつになれば使い切れるのか、今の真美には想像もできなかった。
――唄子の部屋が、始まる。
最初はおなじみのピアノのメロディと共に、唄子のバストアップ。
いつもの始まり方だ。
だが、真美はいきなり違和感を覚える。
「――あれ?なんか唄子さん、いつもより綺麗じゃない?」
「え?……言われてみれば、確かに」
「だよね?」
姉妹は首を捻って、しげしげと画面の中の唄子を眺める。
元々顔立ちの整った女性だが、今日はやたらと魅力的に見える。最終回だからメイク頑張ったのかな、なんてことを真美が考えていると、唄子はおもむろに語りだした。
その声には、不思議な『張り』があった。
「みなさん、こんばんは。今回が最終回となる『唄子の部屋』ですが――今日は特別なゲストをお呼びしています」
「毎週東西の音楽を扱ってきた当番組ですが、今回皆さんにお届けするのは、ゲストが創り出した全く新しい音楽です。『色んな意味で』、面食らう方もいるかもしれません」
「ですが、どうしてもわたしは皆さんに聞いていただきたかったのです。わたしは――今日のゲストの音楽を聴いて、なぜ音楽に『楽しい』という文字が入っているのか、本当の意味で理解できた気がするから」
これまでにないオープニングトークだった。大げさなことを言うなぁ、と思いつつ、真美は少々興味を引かれる。『全く新しい音楽』。一音楽好きとしては聞き逃せないセリフだった。
しかし、一度クラシックのアレンジをしているという女性が番組に登場した折、披露したその『アレンジ』とやらが本家の劣化だったことを真美は良く覚えていた。
とはいえ、その時の唄子の顔には『これっていい音楽かしら?』と正直に書いてあったし、今のような大絶賛は一言も口にしなかった。
「へー。たのしみだね、真美ちゃん」
宮子が言うのに、真美は小さく頷く。
「うん。唄子さんがこんだけ褒めるなら、ちょっとくらいは期待できるかも?」
買い置きの煎餅に手を伸ばしながら、真美は少しだけわくわくしていた。
「前置きはこのくらいにして、登場していただきましょう。――ミュージシャン、櫻崎シゲルさんです!」
シゲル。女性の名前としては少々珍しい。どんな字を書くのかな、と考えながら、真美は煎餅を一口齧りとり、
「いやー、どうもどうも!」
顎が咀嚼を忘れた。
画面の中に、信じられない美青年がいた。
「……え?」
真美は目をこすった。ついでに耳を疑った。
しかし、画面の中の映像は変わらない。
そこにいるのは男性である。それもおそらく成人男性だ。
そんなものは病院の生命維持装置の隣か、昔話か、神話にしか存在しない筈だ。
真美の口から堅焼き煎餅が落ちる。三枚目に突入していた宮子の口からもばらばらと落ちる。
開いた口が塞がらない、を体現した姉妹は無意識のままにテレビににじり寄っていた。
「テレビの前のみんな、初めましてだな。俺は櫻崎シゲル。――逢いたかったぜっ」
元気いっぱいにサムズアップする男性の、どこまでも美しい低音が、真美の思考を蒸発させた。
脳が目の前の現実をうまく認識できていない。
「――待って。ちょっと待って」
我知らずそんな言葉を漏らしていた真美だが、男性――シゲルは当然のように待ってはくれなかった。
落ち着く時間を欲しがる真美と、口を開けたまま完全に機能を停止している宮子を無視し、シゲルは楽器を構える。
「さぁて、時間は有限だ。自己紹介なんざ名前だけで充分だろ!ってことで、さっそく一曲行ってみようか!」
シゲルが笑う。
見るものすべてを引きつける笑みを浮かべながら、大きな声を上げる。
「――最初の曲名は『ロケット』だ!楽しんでいこうぜっ」
奇跡の一時間が始まった。
「――っと、もうこんな時間かよ。名残惜しいけどここまでだな」
たっぷり十曲をやり終えたシゲルが、ひょいと肩を竦める。
「シゲル様、本日は本当にありがとうございました。――最終回にして、私はようやく自分の役目を果たせたような気がします」
深々と頭を下げる唄子に、シゲルがぱたぱたと手を振る。
「わはは、大げさなこというなよ唄子さん、こちらこそ礼を言わせてくれ。最後のデュエット、痺れたぜ。また一緒に歌ってくれよな!」
「喜んで!」
「ありがとよ!――おっと、ラスト十秒。じゃーな、みんな!またどっかで逢おうぜっ」
「そうですね。また、どこかで!」
太陽のようなシゲルの笑顔と、それを受けて咲き誇る華のような唄子の笑顔が、真美の頭に強烈に焼き付いた。
番組が終わり、天気予報が始まる。
そこでようやく二人は再起動した。
「れっ、冷静になって真美ちゃん!これは夢だよ!」
ぐるぐる目の宮子が真美の肩を掴む。
「そっ、そうかも!?」
答える真美もぐるぐる目だった。
あり得ない存在を目の当たりにした二人は完璧に混乱していた。
しかし、全身には正体不明のエネルギーが漲っており、じっとしていたら弾けてしまいそうだった。
「そもそも健康な成人男性がこの世にいる確率は0%!その男性が神のごとき完璧な美男子である確率は0.1%!そして最高を突き抜けた歌唱力と演奏技術を持っている確率は0.2%!理論的に三つの数値を合算させてもたったの0.3%しかない!この数値が、私たちが見ているのが夢か幻覚であることを示しているよ!」
謎の衝動に突き動かされるように、宮子が熱弁をふるう。
「なっ、なるほどっ。なんて的確で冷静な計算式なんだ……!宮廷女官は伊達じゃないんだね!」
赤べこのように首を縦に振りまくりながら真美が追随する。
「もちろん!きっと私たちの食べたあの煎餅に、幻覚剤の類いが――」
ぐるぐる目のまま宮子は立ち上がり、テーブル上の罪なき煎餅へと向けて一歩を踏み出す。
しかしテーブルは思いのほか近く、躁状態の宮子の一歩は思いのほか大きかった。
がっ、と鈍い音を立てて、重厚なテーブルの角が宮子の脛にめり込む。
「あっああああーッ!せっ、煎餅めがァーッ!!」
「……少なくとも夢ではなさそうっ」
圧倒的なリアリティのアホがのたうつのを見て、僅かに冷静さを取り戻した真美は、録画停止ボタンを押すとテープの巻き戻しを始めた。
夢か幻覚か、それとも現実なのか。もう一度見ればはっきりすることだ。
昭子は家の前までたどり着き、しかし玄関を開けるのを躊躇った。
手にした封筒に視線を落とす。中には先ほど病院で受け取った診断書が入っていた。
診断書に書かれているのは、『昏睡病レベル2』の文字だ。
35歳。レベル1でここまで持ちこたえた人は極めて珍しいと医者は褒めてくれた。
レベル2患者はいくつかの仕事の資格を失う。昭子の府議会議員という職もその一つで、引継ぎを終えたら今後はレベル2でも出来る仕事に従事することになるだろう。――それもレベル3になるまでのわずかな期間だろうが。
このことを娘に告げるのは、少々気後れした。自分がレベル2になったという報告を聞けば、心優しい真美はきっと悲しむ。
だがこの世界で生きている以上、これは避けられないことなのだ。
考えてみれば、肩の荷が降りたという気もする。
長女は女官という立派な職に就き、次女も高校生だ。何も心配することはない。
そう自分に言い聞かせ、玄関を開ける。
少しだけ懐かしい靴が目に入る。
宮子が帰っているらしい。口元にあるかなしかの笑みが浮かぶのが分かった。
愛娘の顔を見れるのが嬉しい、と思うことができるのも、レベル3になるまで。一日一日を大事に生きなくてはならない。
切ない気持ちを押し隠し、昭子が努めて明るく『ただいま』の声を上げる――
よりも早く。
床板を踏み抜かんばかりの勢いで、二人の娘が玄関まで走ってきた。
「「おかえり!!!」」
凄いテンションだった。
「た、ただいま……?」
気圧されながら声を返した昭子は、咳ばらいを一つ。
娘たちはなにやら興奮しているようだが、大事な話をしなくてはならない。
「丁度良かったわ。母さん、二人に大事な話が――」
「そんな話は!」
「見るもの見てからよ!!」
宮子と真美は阿吽の呼吸で昭子の腕を引っ掴むと、恐るべき力で引っ張り出した。昭子はつんのめるように前進する。
「ちょ、ちょっと二人とも?」
困惑の声は無視され、あれよあれよという間に居間まで連行された昭子は、
「はいそこに座って!」
強引に座布団に座らされ、
「ビデオスタート!」
奇跡の体験をすることになった。
翌朝。
ビデオは10回再生され、一家は眠れぬ夜を過ごした。
しかし玄関に立つ三人の目に宿るのは、眠気ではなく燃え盛る熱情であった。
靴を履き終えた宮子と昭子は、見送る真美を振り返る。
「あと二十回は見たかったけど、仕方ない。愛する姉は仕事に出かけるよ、真美ちゃん」
「名残惜しいけど行ってくるわ。――真美、ビデオを増やせるっていうのは本当なのね?」
「たぶん。友達の理子ちゃんがいってたんだけど、だびんぐ?とかいうのをすると同じ映像を空のテープに書き込めるんだって」
「機械のことはさっぱりだから、貴女に託すわ。くれぐれも注意してね。あのビデオの中に入っているのは、人類の宝よ」
「うん」
真美は重々しく頷く。その眼光は戦地に赴く兵士のものであった。
「真美ちゃん、任せたよ。転んじゃだめだからね」
「お姉ちゃんじゃないんだから大丈夫。お姉ちゃんこそ徹夜なんだから職場でミスんないでよね」
「徹夜じゃなくてもミスはするから大丈夫だよ」
「全然大丈夫じゃない」
「この子はまったく……」
とぼけた答えを返す宮子に、二人はあきれながらも声を上げて笑ってしまう。釣られるように宮子も笑った。
声を上げて笑い合うのは一家にとって随分と久しぶりだった。現代蓬莱の一般家庭においては、どれほど楽しみ、喜んだとて、穏やかにほほ笑み合うのが関の山だ。
しかし、今の一家は違った。
他愛もない会話が、無性に楽しい。玄関は『昏睡病』の『こ』の字も見当たらない明るい雰囲気に満たされていた。
「それじゃあ、行ってらっしゃい!」
玄関を開けた宮子と昭子の背中に、満面の笑みで真美はそう声をかけた。
思わず元気が出てしまうような、明るい声で――
「私は通学時間まで余裕があるから、もう一回見てから行くよ!」
そんなオマケのセリフを添えて。
「ぐっ、学生が憎い……!」
未練を振り切るように宮子は足早に去っていく。昭子も苦笑いしながら後に続こうとする。
その時、ひらひらと手を振る真美の目がげた箱の上の書類を捉えた。
昨夜昭子が持って帰ってきた封筒だった。
「お母さん、その書類は?」
「え?……ああ」
言われて初めて気づいたのか、昭子は足を止めるとちらりとその封筒に目をやる。
診断書が入った例の封筒だ。
昭子は半日前にその封筒を手に『大事な話がある』と切り出したことなどおくびにも出さず、一切の関心を失った声色で言い放った。
「ゴミよ。捨てといて」
はーい、という愛娘の声を背中に受けて、昭子は玄関を出る。
朝日が眩しい。一睡もしていないのに、気分は最高に爽快だった。
全身にやる気が漲っている。しょぼくれていた夕べの自分はもういない。
「んーっ!」
昭子は全身に日差しを受けるように伸びを一つすると、
「――さて。まずは検査をやり直してもらいましょうか」
弾むような足取りで、病院へと続く道を歩き出した。
昨日知ったばかりの、お気に入りの曲を口ずさみながら。