夜九時。なんとかギリギリでスーパーの閉店時間に潜り込むことが出来た。
手に下げたレジ袋から覗くのは、ポピュラーな固形栄養食――通称『完全食』が一ダース。
文科事務次官になってから、朝と晩はこれで済ませてしまうことがほとんどだ。我ながらさもしい食生活だが、不満は感じなくなって久しかった。
昏睡病を遠ざけるには美味しい食事から!と厚労省は喧伝しているが、役人の自分がこんな食生活なのだから皮肉なものである。
――流石に疲れたわね。
肩を落とし、とぼとぼと街灯の下を歩く。官舎まではあと僅かの距離だが、妙に長く感じた。
昏睡病対策の新プロジェクトの進捗が最終段階に差し掛かり、文科省はデスマーチ状態にあった。そのトップたる文部次官の自分の仕事量たるや、この三日間職場に缶詰めで家に帰ることすらできない有様だった。
疲労が自然と背中を丸める。
――昏睡病なんて、ほんとにどうにかなるのかしら。
疲れているのは身体だけではなかった。
昏睡病撲滅の音頭を取る立場の一人でありながら、最近頭に過るのはそんな弱音ばかりだ。
人類は二世紀余りもこの難病に立ち向かっているが、一向に成果は上がっていない。今日も進行中の計画を総点検したが、昏睡病に効果があるものは見受けられなかった。
二年前、蓬莱テレビによる『唄子の部屋』が放送された折には、わずかに新規の昏睡病患者が減った。
政府は勢い込んだが、その効果はごく一時的なものだった。今となっては『偶然だったのでは?』と考える者も少なくない。視聴率の低迷から打ち切られたのも、そんな意見が支配的となったからだろう。
最終回くらい見ようと思ったのだが、激務でそれもかなわなかった。
音楽は好きだったが、最近は聞く暇もないのだ。
――わたし、いつまで昏睡病と戦わなきゃならないんだろう。
不意に、人生がひどく虚しいものに思えた。
危険な兆候だった。
考えを振り払うように、慌てて首を横に振る。
――だめだめ!負けてらんないんだから!
凛は自らの頬をぴしゃりと叩くと、むんと胸を張る。空元気も元気だ。弱気は昏睡病の深刻化を招く。
今出来ることは、目の前のプランに全力を尽くすことだけだ。
『アイドルスター』。政府肝入りの蓬莱テレビ新番組。大規模なオーディションを行って、メインキャストは選りすぐりの人材を用意できた。大きな予算をかけた一大プロジェクトと言っていい。テレビ業界のみならず、様々な業界を巻き込んだ大仕掛けになる予定だ。
同僚たちのみならず、テレビ業界にも随分無理を聞いてもらった。皆が皆、少しでも番組をよくするために死力を尽くしてくれた。関係各所に必死の根回しもして、アイドルスターは来週いよいよ華々しいスタートを切る予定だ。
――だけど、もし。
それでも、何の意味も無かったら――
嫌な想像が心に入り込もうとしてくる。
聞き覚えのある声がしたのは、その時だった。
「ハァイ、凛。浮かない顔ね」
白シャツにタイトなスカートを着こなした女性が、街灯の下に立っていた。
「……遥?」
友人の名を口にしながら、しかし凛は眉をひそめる。
目の前の女性の雰囲気が、自分の知っているそれとは違ったからだ。
「遥、よね?」
「そうよ。誰か他の人に見える?」
打ち合わせで先月会ったばかりじゃない、と小首を傾げる遥に、凛こそ首を傾げる。
どこからどうみても白柳遥だ。
しかし、違和感があった。
こんな時間に突然訪ねてくるというのも、これまでの遥には存在しなかった行動パターンだ。
「……何かトラブルでもあった?悪い報告はお腹一杯なんだけど」
「トラブル、っていうか……ねえ凛、一昨日の唄子の部屋の最終回って、見てない?」
「気にはなったけど、そんなヒマあるわけないでしょ。アイドルスターの諸々と男性保護法の改正が合わさって大わらわよ、こっちは。今日の新聞だってこれから流し読みするところよ」
「道理で」
肩を竦める遙に、凛はジト目を向ける。
「アンタねぇ、アポくらいとりなさいな。私自宅に泊まらないことの方が多いの知ってるでしょう」
「わたしもここ三日間はアポ取る時間も無いくらいだったのよ。でも、相変わらず文部次官様も激務みたいね」
そう言って微笑を浮かべる女の様子は、やはりおかしかった。
遥という女性は、こんな魅力的な笑みを浮かべる女性だっただろうか。
「……アンタ、危ないクスリにでも手を出したんじゃないでしょうね」
眉間の皺を深くして、凛は問う。
「なんでよ」
「なんか、いやに元気じゃないの。目の光が違うわ」
キラキラっていうかギラギラしてるわよ、と続けた凛の言葉を聞くと、遥はころころと笑った。
「うふふ、そう?ギラギラ?」
「ええ。何かあったの?」
「そうねぇ。私の目に光があるとしたら、それは――」
遥はそこで言葉を切ると、凛をまっすぐに見据えて続けた。
「輝くものを見たからよ」
きらめく瞳が、凛を引きつけた。
「――ちょっといいお酒持ってきたの。久しぶりに付き合わない?」
遥は手に下げた紙袋を持ち上げる。高級そうなボトルが見えた。
我知らず遥の顔に見入っていた凛は、そこで気を取り直した。
「え?あ、宅飲み?私の家何もないの知ってるでしょ」
大して飲みもしない酒のつまみを常備しておくほどマメな性格なら、固形栄養食なぞ買い込まない。冷蔵庫に入っているのは飲料水程度のものだった。
「ビデオデッキはあったわよね?」
「ビデオデッキ?あるけど、テープは国会とかのだけよ」
「大丈夫、そっちは自前で持ってきたから」
「テープを?なーに、酒のつまみになるほど面白い番組でも出来たわけ?」
「それは見てのお楽しみ」
遥は意味深に口角を釣り上げた。
「ふぅん。貴重な睡眠時間削るんだから、ちょっとは期待させてもらうわよ」
少しひねたことを言いながらも、凛はどこかほっとしていた。
遙に会う直前、良くない思考に陥っていたように思う。だけど今は気が紛れていた。
友人とは得難いものだ。
――うん、そうね。テープに期待をするわけじゃないけど、最近は遥と飲むことも無かったし。友達との付き合いが仕事だけなんていうのはつまらないわ。
そんなことを考えながら、ちらりと隣を歩く遥の顔を見る。
やはりその表情は明るく輝いていた。
何があったのかはわからない。しかし、見ているだけで元気をもらえるような顔だ。
例えるなら、昏睡病から最も遠い存在である女児が、とっておきのプレゼントをもらった時のような。
――なんだかよく分からないけど、きっと楽しいお酒になるわね。
凛は久しぶりに微笑を浮かべ、官舎の門を潜った。
そして、三時間後――
「んはああああああ!シゲル様ァァァァアッ!!」
「何度聞いても最ッ高……!」
凛はエビぞりで悶え、遥はうっとりと目を閉じていた。
「遥ァ!『ロケット』もう一回行きましょ!」
「いやいや『マッハカナブン』でしょ!」
「『マッハカナブン』は『ロケット』でテンション上げてからでしょ!」
「もうマックスでしょテンションは!」
「いいから『ロケット』!わたしのテレビとビデオよ!」
「わたしの持ってきたビデオテープよ!」
ふたりはぎゃーぎゃー言い合いながら巻き戻しボタンの所有権を主張し合う。
言うまでもなく、貴重な睡眠時間とやらは丸めてポイされた。