白夜に灯る 作:のーうぇい
/海市(1)
煩わしかった夏の暑さも薄れ始めて秋を感じる頃。季節に即した諸々を紹介するテレビ番組を背景に、姉妹がリビングソファーで寛いでいる。
妹の燈子が姉に寄りかかって本を読み進める、七海家の穏やかな休日の風景。
姉の澪が通っている遠見東高校の文化祭まで、日はもう数える程しかない。
澪は生徒会長を務め、さらには生徒会劇で主役を担う立場でも、燈子の前では少しの気負いや不安も見せずいつも通り過ごしていた。
もちろん表に出さないだけだ。愛らしい妹の前で、良いところを見せていたい姉ごころに他ならない。
文化祭が終わればすぐに中間試験が始まり、以降も行事や課題が押し寄せてくる。来年からは益々忙しくなるだろうし、姉妹の時間は減って行く。高校生活の先を見据えれば尚更のことだ。
だからこそ、澪はこの心地良いひと時を大切にしていた。
切りの良いところまで読んだのか、燈子は伸びをしながら澪の膝へと崩れ込んで来る。
「どうしたの?」
澪は何でもないと分かっていながら問う。そしてただ構って欲しくて甘える、膝枕に収まった燈子の柔らかな髪を撫で梳いた。
そこへ昼食の準備に取り掛かろうとしていた母から声がかかる。
「ねぇ、ちょっとおつかいに行ってくれないかしら?」
空になった醤油のペットボトル容器を振って見せながら頼む母に、燈子は体を起こしソファーの背もたれに顎を乗せて不満を零した。お使い先は近場にあるが、どうしても動く気にはなれないものだ。
澪は微笑みながら一緒に行こうと誘うも、燈子は眉を顰めたままである。姉のことは大好きだが、それはそれだ。
ならばと、澪はジャンケンをしてどうするか決めようと提案した。負けた方がおつかいに行くのだと。
勝負は澪の負け。
もっとも勝敗など最初から見えていた。燈子がジャンケンでどの手を出すかは、澪には当たりがついている。仮に澪が勝ったとして、燈子を一人で行かせるつもりもなかった。
特に準備の必要もない。澪は少しだけ残念に思いつつ立ち上がり、母から財布を受け取って玄関へと向かう。
「それじゃ、行ってきます」
「気をつけてね」
「行ってらっしゃーい」
「はーい」
気遣う母と、ソファーに寝転がってしたり顔で手を振る燈子に見送られ、澪はお使いに出かけた。
程なくして、また姉妹の時間が訪れる。
「ただいま」
「おかえり。お姉ちゃん」
/潮汐
小糸侑は、今日も何事もなく部活を終えて下校していた。
空と町を茜色に染める夕日を見て、侑は唐突に自分のことを人や状況に流されやすいと心の中で評した。
体を動かすことは苦手ではない。だが中学生になって入部したソフトボール部は、早まったと思うに十分な厳しさであった。
それでもやると決めたのは侑自身だし、誘ってくれた友人を気落ちさせたくはない。だから弱音や泣き言を吐きながらも、部活を続けていくつもりだ。
苦難と言えば大げさだが、楽ではないことに挑み継続するのは容易でないと思う。そして浅くため息を吐いて、ほんの数時間前に行われた生徒会役員選挙の立会演説会を思い返した。
生徒会長に立候補して、淀みなく立派にステージ上で演説をこなした七海燈子という名の二年生。綺麗で格好良く、成績優秀で人柄も良い。一つでも持てば上等な要素を全て備えた、多くの生徒の憧れの的だ。
侑にとって知らない顔ではないが、微妙な距離感を持つ一つ上の生徒である。侑の実家が営んでいる個人書店へたまに訪れる、顔を合わせれば会釈をする関係だ。
しかし、緊張などおくびにも出さず演説を終えた燈子が候補者席に戻るその一瞬。普段の素行や評判から乖離したものを侑は見ていた。
力を込めて緊張に耐えていたのか、よく見なければ分からない程度ではあれど、その手には震えと力んだ跡があったのだ。いったいどれだけの者がそれに気付いたのか。
知る由もないことを気にして、侑は少し視線を落とした。
次の十字路を行けばもう家だ。心はさざめきだし、重さを増した足取りで帰宅した。
翌日。気持ちは晴れないまま侑は登校し、朝練を終えて園村菜月たちソフト部の皆と教室へ向かう。
校内の掲示板には生徒会役員選挙の結果が貼り出され、そこに燈子の名があったことに侑は安堵を覚えていた。投票していたし、知った顔が落ち込むのは少しばかり堪える。七海燈子という人間のほんの一握りも知らないが、努力の欠片を見てしまったがために。
侑は別に強く憧れている訳でも、仲良くなりたいのでもない。ただ、苦心して積み重ねたのであろう行いが報われて良かったとは思っている。
落選した方の生徒も、並々ならぬ努力と精神的重圧のもと選挙に挑んだのだと知っていても、気持ちが燈子に傾く程には。
教室に入り席に着いた侑は、気だるさを感じて机に突っ伏した。
「やっぱソフトきつい? それとも調子悪いんなら保健室行く?」
「ううん、そういうのじゃないよ。大丈夫だから」
「……まぁ、つらかったら言いなよ」
「ありがと」
心配する菜月に侑は悪いと思いつつも、朝のホームルームが始まるまでは呆けていたかった。
教室は賑わい始め、侑はそれらの中から仲の良い友人の声を聞き取り視線をそちらに向ける。
少し離れている席から叶こよみと日向朱里が、気遣わしげに手を上げるだけの挨拶をした。どうにか身体を起こして手を振りを返す。
侑の視界は二人を映しながら、何も見えていないかのように力がなかった。
耳に入る話題はやはり選挙の当選者についてだ。
美辞麗句をもって燈子を評するクラスメイトに、侑もそういう風に見えるし思うと同意する。しかしどうしてか納得は出来なかった。
胸のつかえを言葉にするなら――――。
纏まりかけた思考は予鈴の響きで散り散りとなり、侑の心はやはり憂鬱なままだった。
午前の授業は結局おざなりで、昼食後の短い昼休みになっても霧中の答えは顔を出そうとしない。
「何かボーっとしてるけど、悩み事?」
「好きな人でも出来た?」
見かねたこよみが侑へ問い、朱里は冗談めかして、菜月は今朝の様子から汲み取ったのか静かだった。
「そんなんじゃない、けど」
朱里の冗談を流し、はぐらかすのは悪いと感じて侑は口を開く。そもそも問題になる話題ではないのだから。
「いや、さ。当選した七海先輩って、実のところどんな人なのか知らないなって、思って」
「うーん、普通に綺麗で優しくて頭良い人なんじゃないの?」
秘されたものなど分かりよう筈もなく、朱里も評判通りの人物像を述べるに留まる。
「あはは……うん、まぁ、そうだよね。でも」
――――そうではなかったような気がする。
浮かび上がった心ない言葉に、語末は音にならず侑は口を噤む。同時に、まるで全てを知ったかのような思考の結びつきと、思いもよらず解けた疑問に酷い罪悪感を憶えた。
「完璧だからこそ分からない。そういうのもあるんだ」
侑は怪しく呟くこよみを見ながら、これ以上は良くないと話を終わらせる。
「なんか、ごめん。本当に、何でもないことなんだよ」
その後の授業はいつも通りに集中出来て、部活にもしっかりと打ち込めた。そして侑は今日も何事もなく部活を終えて、友人たちと別れ家路を行く。
だが角を曲がって家まで一直線となる見慣れた視界の先に、夕映えに影を伸ばす誰かがいた。艶やかに靡いた長髪がその姿をより際立たせる。
確信など持てないのに侑は足取りが重くなり、それが何者であるかを悟った。
私服姿の燈子がいる。生徒会での説明が行われた筈だが、存外早く下校していたようだ。
初めて見た時はお姉ちゃん子を絵に描いた様だったのにと、侑は紐解け始めた記憶を辿る。
選挙演説の情景で物思いに耽ったのは、薄れてしまったかつての姿を想起したからだ。然程昔の記憶ではないが、目まぐるしくも充実した日々に埋もれてしまった一瞬。
店に姉妹で訪れて、姉の服の袖を摘んで眉尻を下げた少女の顔が鮮明に浮かぶ。
それが侑の知る燈子の始まりだった。
侑は半ば茫洋とした目で先行きを見る。果たして、燈子はそこに辿り着く。
だからいつも通りの帰宅を侑は思い描いた。表情は良くも悪くもなく、帰宅を告げる声も客に失礼とならないよう努め、そして燈子も居るのだから会釈のひとつでもして、そのまま店の奥の暖簾をくぐれば終わる。
先までの感情は全て忘れて、普段通りにしていれば良い。
内気だった少女は恐らく今も心根はそのままに、けれども何かのために真剣に取り組んでいるのだと気付いても、結局は侑に関係のないことだ。
そもそも的外れな思い込みかも知れず、特に仲が良いわけでもない者から賞賛を受けても、戸惑うだけだろうと結論付けた。
そして侑の帰宅は淀みなく自然に行われる。
すぐ横で店番の祖母から返る声に答え、目当ての本を手に視線を向けてきた燈子へ会釈をし、すれ違い店の奥へと消えて行った。
表情と所作におかしな箇所はない。だが取り繕えないものがある。どれだけ眉を平坦にして頬を緩ませず、口を真一文字に結ぼうとも、雄弁に語る器官があった。
足早に自室へ向かった侑は知らない。そこになごる感情を、燈子は正しく読み取り受け取ったということに。
とはいえ、それで侑の日常が変化することはなかった。実家が本屋という少しばかり変わっていて、しかし侑にとっては当たり前の日々が過ぎて行く。
だが確かに想いが紡がれていた。それは一つではなく、そして幾重にも。
穏やかな日々を物語として例えるなら、それは幕間の連続なのだろう。
ならば中学三年生となり数か月が経った侑の日常は、少し前までは当て嵌まらないと言えた。
間違いなく激動の毎日で、だというのに今はもう胸の内は静まり返って虚しささえ感じている。相応に意識している高校受験の見通しもどこか希薄だった。
店を切り盛りする祖母と母が所用で外している夕方に、侑は店番をしながら数日前を振り返る。
熱気を感じるまでもなく、予選敗退で終わったソフトボール部の全国中学校女子大会。
どれだけ真剣に打ち込み一丸となろうとも、それは他の学校も同じだ。悔しさを焼き付けるような勝利校側の声と、部員たちの漏らした滲んだ声が今も残っている。全力を出した。悪くない試合だった。みんな頑張った。浮かぶ言葉は遣る瀬無い。
止めどなく溢れる涙を拭う菜月の震える肩に、侑はそっと手を置いて寄り添うことが精一杯だった。
これまでの努力や先輩らに託された思い、力になった声援までも、まるで全てが散り散りとなってしまったかのようだ。
感傷的になるのはさすがに仕方のないことだろう。侑が区切りをつけるように深く息を吐いた、その時だった。
来店を告げる自動ドアの開く音に侑は意識を引き戻され、平静を繕い挨拶をする。
「いらっしゃいませ」
侑が視線を向ける。来店したのは燈子であった。高校一年生となり、その容姿はより鮮やかなものとなっている。
今日は風が強い。黒く流麗な深みを持つ髪を靡かせ、侑へ向けられる相貌は大人びていた。乱れた髪を軽く整える燈子の仕草は様になる。
「こんにちは」
優し気な笑みを浮かべながら返される声は、いつかの幼気な姿を忘れさせる落ち着き様だ。
「ども、こんにちは」
高校でも大層モテるのだろうと、目当ての本が置いてあるだろう所へと行く燈子の背を見ながら侑は思う。
中学生の頃の人気は知っている。燈子を想う誰かの失恋の話が、学年の違う侑のところにまで流れて来たのは一度や二度ではない。果てには同性から告白されていたと、冗談染みたものまである。
「お願いします」
侑は切り替えて、レジへ来た燈子に対応をする。
「ありがとうございました」
会計も慣れたもので、後は帰るのに合わせて挨拶をするだけ。その筈だった。
「あの、小糸さん……」
「はい」
さっきとは違う燈子の雰囲気を見て、侑は訝しみながらも顔には出さず返す。新刊の予約や定期購読の申し込みにしては重い。
「えっと、その、ソフトボール……」
意を決したように燈子は切り出したが、途切れてしまう。
否応なしに蘇る敗退の記憶。それでも侑は顔色を変えず、言葉に詰まる燈子に向けて口を開いた。
「負けちゃいました。みんな頑張ったんですけどね、本当に」
微妙な間を侑が断ち切ると、済まなそうにする燈子に過去と今が重なる。
「……うん。お疲れ様、小糸さん」
家族や友人に労わられるのとは違う、覚えもなく判然としない感情を無視して、侑は自然な笑みを薄く浮かべた。いつか言葉にしなかったことは、一体どういうものなのかを心に留めて。
同時に、やはりそれは向けられる相手によると考え直す。
「ちょっと聞いたから、それで……かえって気をつかわせちゃった」
「そんなこと、ないですよ」
中学の時以上に努力を重ねていて、今でも変わっていないだろう燈子の控えめな内面を、自分だけが知っているなどと侑は思っていない。
「そっか」
だがそんな人物から気を配られたのなら、何かしら感じることがあるのも至極普通のことだ。侑はなぜ優しさが向けられたのかも分からないまま、燈子との距離を意識した。
誰もが、表には出さずとも悩みを抱えている。
何が燈子の内向的な性分を奮い立たせているのか。そうして形作った像を崩してまで、ともすれば当人よりも思いつめた顔をしたのか。
それからは、深く踏み込んだものでも弾んだわけでもない言葉を交わし、燈子は幾分か表情が解れた様子で帰って行った。
あくまで普通で、しかしこれまでにはないひと時。
繊細な部分と知って触れた理由が分かる日は来るのだろうかと、侑は風鳴りに引かれて視線を外に向けて眺めた。
疎らな雲が落とす明暗の流れは思う以上に早く、傾いた陽が陰っては照らしていく。茜色に染まれども、ただいつもと変わらない通りだけがあった。
志望校にも無事合格し、卒業までの束の間の空白期間。
日々打ち込んでいたソフトボール部は引退して久しく、勉強は言わずもがな。友達と遊ぶにしてもこの時期は限度があるし、読書やゲームといったものも消化済みだ。
侑は休日に生じた可処分時間を持て余していた。何もしないでいれば店の手伝いに充てられる。
春先はまだ肌寒いが幸い今日は快晴だった。気分転換をするには丁度良い。
染み付いた規則正しい生活リズムと部活動で培われた体力を消費すべく、侑は鈍り気味の体を動かそうと決めた。
もっとも、それが終われば結局店の手伝いをすることになるのだが。
店が開くまであと一時間と少し。
半ば定まった一日の予定から目を背けつつトレーニングウェアに着替え、居間でゆったりとくつろいでいる祖母に声をかける。
「ちょっと走ってくる」
「はいはい、気を付けてね」
外に出れば陽気が心地良く、侑は体を軽く解して息を吐き、緩やかに走り出した。
住宅街を抜けて、馴染んだ河川敷のジョギングルートに入る。少しの間見なかった景色の彩りは移ろう季節を感じさせ、過ぎ行くそれらを新鮮に感じた。気にも留めない町の風景が新しい。
風を切るには足りない速度だが、爽やかな空気は吹き抜けるように体と心を閉塞感から解放していく。
体の動きは落ちていない。ピッチを上げ、漏れ出る呼気とウェアの衣擦れが増した。
進学先の遠見東高校はここからでは見えないが、これからは今までとは違う通学路になるのだと、当たり前のことを侑は少し不安に思う。
仲の良いこよみと朱里は同じ高校だが、菜月だけ違うのもそう感じる理由なのかもしれない。共有した時間の長短で人との仲は量れないが、いつも近くにいた友達。
気を紛らわせるための運動だというのに、どうにも上手く行かないものだと折り返す。
遠見東にソフトボール部はない。あったとしても侑は続ける意志が薄く、そうなるとまた部活動について悩むことと、そしてそもそも部活に所属するか否かを考える必要があることに気付く。
一瞬侑の脳裏を過ぎる、生徒会という選択肢。中学で生徒会長を務めた燈子は高校でもその道を行くようで、本人からそれとなく話は聞いている。文化祭で演劇を催すのが伝統で大変だとも。
生徒会での活動はともかく、侑は自身が舞台に立つことを想像出来ない。
志望していた手前、遠見東には説明会や文化祭と何度か訪れている。冷やかしではないが、当然燈子が出演すると知っていた侑は生徒会劇を観ていた。演技への力の入れように、純粋に驚いたものだ。
その文化祭の時から侑は燈子と連絡を取り合うようになった。進学を考えていると伝えたら、力になれるかもと好意に甘える形で。
今も遠見東の合格内定通知をもらったその日に伝えた程には交流がある。
何れにせよ、入学すればまた考えも広がるだろうと侑は無心になって走った。
結局はその時々を、悩み抜いて行くしかないのだから。先行きは不透明だが、新しい日常へ移り変わって行くのだと案じることなく。
「ただいまー」
「ちょっと侑、手伝ってー」
家に帰って早々に母から声がかかる。
「えぇ、怜ちゃんはー?」
「まだ寝てるわ。本当にあの子はもう」
侑は開店前の準備を母とこなして、それも終わると店のシャッターを上げに外へ出た。
程よい疲れを感じながら暖かな日差しに空を仰ぎ見て、その眩しさに目を細める。雲はなく風もない。澄み渡り、青く凪いでいた。
/海市(2)
ある日のことだ。澪が本を買いに行くと言い、燈子はそれに付いて行った。
澪の目的地は遠見駅の近場にある本屋だという。馴染みのない場所で、燈子はその存在を初めて知った。
書店と言っても個人経営のもので静かで落ち着いている。店番をしているのが朗らかな雰囲気の老婦人というのもあるのだろう。
澪と一緒に本を見て回る。不安を駆り立てる場所でもないのに片時も離れることなく。
不意に店の奥にかかる暖簾の向こうから声が聞こえた。燈子が視線をやると、そこには小柄な少女がいる。暖簾をよけて店内をのぞき込みすぐに引っ込んだ。
視線はほとんど交わらず一瞬のことだった。それでも燈子が感情を捉えられたのは、普段から人の顔色を窺って怯える内気な性格だからか。
階段を上がって行く小さな足音を聞きながら、燈子は忘れられない優しさをその少女の瞳に見た気がした。
後になって、仲の良い姉妹を見て理由もなく微笑んだだけと気付いても、幼いながらに意識した情景はいつまでも胸の奥深くに残ることとなる。