白夜に灯る   作:のーうぇい

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/海市(3)

 

 

 姉の澪が修学旅行で不在となった家は、燈子にとってたまらない寂寥感をもたらした。

 泣いて喚いたりはしないが、姉に頼りきりが当たり前の内気な子供である。拠り所から離れ気が沈んだ燈子は陰鬱な心持ちで登校し、学校から帰るや否や自室のベッドの枕に顔を埋めた。

 行うべき宿題や予習復習はもちろん、普段のように読書をする気分にすらなれない。

 

 今朝もどうにか見送って、しかし帰宅を告げる声を今日は聞けないのだと思うと部屋に響き刻まれる秒針の音も恨めしく感じる。

 枕に熱が篭り、息苦しさに仰向けになった。いつの間にか日の入りを迎え始め、窓辺から射す色を見て、燈子は不安を掻き立てられる。

 

「……今日で終わる。本当に?」

 

 そうではないと思い至る。姉はいつでも、そしていつまでも一緒にいられる訳ではないと言う、当たり前のことに。

 もとより漠然とだが燈子は感じていて、見て見ぬふりをしていただけだ。文化祭の生徒会劇の終わりに、姉が友人たちと仲良く成功の喜びを分かち合う姿を遠目から見た時。何気なく聞き流していたが、父や母としていた進路の話も同様だ。

 考えれば考える程、日常のそこかしこに姉が遠くへ行く情景が隠れている。

 

 聡明でいて、友達が多く皆に好かれ、どんな時も優しい憧れの存在は決して燈子を蔑ろにはせず、それでも自身の目標のために突き進んで行く。

 その背に寄りかかったままでいられる道理はない。判然としない思いが輪郭を帯びる。 

 

 人より怖がりで内向的な燈子は、やはりその未来に不安を強く覚えた。

 であれば、どうすれば良いかは分かっている。答えはすぐ傍でずっと見ていたのだ。燈子にとってのかくあるべき姿と答えは実像を伴っていて、今もきっと優しく微笑んでいる。

 

 体を起こし勉強机の方を見ると、夕暉に染まろうとも鮮明に浮かぶ家族写真があった。屈託なく笑う燈子と対比して、なんて穏やかな顔なのだろう。

 自分もそう笑うことが出来れば、孤独に苛まれることもなくなるのか。燈子は羨望を抱く。

 

 そして、修学旅行から疲れながらも充足した笑顔で帰宅した澪に燈子は抱きついた。

 

「寂しかったね。写真たくさん撮って来たしお土産もあるけど……」

 

 いつもみたいに一緒にいようかと続けた澪の言葉に、燈子は胸が軋んだ。この優しさや時間は限りあるものだと痛切に感じて、頷くことしか出来なかった。

 人が変わるには何か切欠が必要だ。燈子にとっては、姉のいない日のことであった。胸裏は誰にも知られることなく、他人はそれを成長と呼ぶのだろう。

 

 

 

 澪という憧れに至る過程は険しく、幾度も挫けそうになりながらも燈子は歩んでいった。時は流れて、ひとつひとつ成果を積み上げて実り始めた頃。

 それは、そもそも辿れよう筈もない道だと気づいたのは、すでに引き返せない所に来てからだった。

 

 自身の夢のため邁進しながらも変わらず理想的で優しい姉の澪に、燈子はとても一言では語れない思いを秘めて問うた。

 可能な限り何気なく、取り留めのないことのように。

 

「お姉ちゃんはすごいね。どうしたらそんなに頑張れるの?」

 

 父に似て静かな目に誇らしさを湛えて言った澪のそれは、楔となって打ち込まれる。

 

「それはね、燈子がいるからだよ」

 

 言葉通りに受け取ることも、また受け止めることも燈子は出来なかった。

 

「そう、なんだ」

 

 燈子は平静を装おうとしたがすぐに見抜かれる。そして言葉なく寄り添われ慰められて、姉という存在がいかなるものなのかを諦観とともに刻まれた。

 完璧な姉にも原動力があって、それの一つが自分自身だったという単純なことだ。

 

 やり場のない思いを打ち明けられる相手は燈子にいない。

 積み重ね、寄せられるようになった期待や希望をもし損なってしまったなら。あり得ないことなのに、澪のその優しさすら向けられなくなる気がして燈子は身の震えすら覚える。

 何よりも、成績も振るわず孤独で臆病だった頃へ戻ることにこそ恐怖した。

 

 そして通っている中学校の生徒会長となった日。

 一時の安堵は得たが、教師から生徒会の説明を聞いて帰宅しても心が休まらない。

 あまりの閉塞感に、夕刻であるにも関わらず母に一言告げて家を出た。理由もなく飛び出して心配はさせられない。

 

 理由付けのために向かった先の書店には後輩がいる。

 小柄でお下げが愛らしく優しい心根であるのを燈子は知っていて、そして今日も部活動に励んでいるだろうことを思い出す。時間帯的に合うかどうかは微妙なところだ。

 

 少しばかり遠い道のりを歩き書店に着く。店に入り、店主の老婦人の声を聞いて波立った心はいくらか静まった。気を入れ直すように手に取った本はやはり参考書だ。

 一度変わろうと決めてもう戻れないのなら、結局は続けて行くしか道はないとレジに向かう。

 

 だから、その中で変わらずにあるものを見て、燈子の心に響かない筈もなかった。

 

 

/水脈

 

 

 想像もしていなかった事態は侑の視点では予兆なく訪れて、すでに数日が経とうとしている。

 高校入学を目前にして気も漫ろなのは、親しかった男子から告白され、返事を待たせているからだ。

 

 ベッドに寝そべり、蛍光灯の明りを遮るように腕で視界を塞ぐ。

 思い返してみても心は弾まず乾いたままだ。間違いなく好感を持っている相手から想いを伝えられて、それに感じ入る自身がいなかったことに焦りすらある。

 

 大きな変化がもたらされる、機転となり得る瞬間があるはずだったあの日。「好きだ。付き合ってくれ」と彼は言った。

 翻って侑は伝えられた想いを実感出来ず、彼に告白した理由を問うた。彼の返答に発露を求めて確かめるように。

 別に目が眩んだり気絶するだとか、そこまで大げさではないにせよ確たる変化が欲しかった。

 

 しかし水面に落とされた雫は未だに波紋を生まず、それどころか落ちたのかも判然としない。普通、親しい異性から告白されたのなら感情が高ぶるものではないのか。

 甘く綴られたラブソングや、繊細に描写され煌めきに溢れる少女漫画。侑はそれらを辿って自身の心に尋ねてみても、答えが宿ることはなかった。

 今もまだ憧れている。萌芽を待つように、次の瞬間には開花するかもしれないと期待して。

 

 視界を覆っていた手をよけて浅く息を吐く。ふと顔を横に向けると、視線の先の電話に通知がある。

 手に取って見れば、それは燈子からのものだ。入学を前にした侑へ、短いながらも優しい先輩然とした言葉に表情が解ける。

 返すのに少しだけ手間取った。指の運びは鈍く、在り来たりに返すことすら上手くいかない。

 

『やっぱり緊張っていうか、そわそわする感じがします』

『不安になるよね』

 

 だからという訳ではないが、次に表示された文字列は侑の動きを止めるに十分なものだった。

 

『困ったことがあったら何でも言って。これでも生徒会役員だからね』

 

 打ち明けられよう筈もない。そもそもこれは、これから入学する後輩に向けたものだ。

 文字に起こそうにも思考がまとまらない侑のそれは、ぞんざいなものとなる。

 

『その時はお願いします』

 

 遠くない内に必ず返事をする時が来る。それでも今は、この何気ない燈子とのやり取りに穏やかさを感じていた。

 

『高校で会えるの楽しみしてるから』

 

 行き詰まりの中、次を指し示す燈子の言葉に安堵するのは逃避でしかない。

 

『生徒会にも入ってくれたら嬉しいな』

 

 誰にも答えを求められない悩みだが、きっと何かが変わるはずと、今はまだ祈れていた。

 

『それは考えさせてください』

『あはは、手強いなぁ』

 

 

 

 入学して学校の雰囲気を掴む頃。

 余程自己研鑽に喜びを覚える類のものでもなければ嫌うだろう新入テストを切り抜けた侑は、通知を知らせる電話を見た。燈子からだ。

 

『新入テストおつかれさま』

 

 そして労いの言葉の後、間髪入れずに並ぶそれで眉根に力が入る。

 

『無理強いはしないけど、生徒会どうかな? 部活も決めてないって言ってたから』

 

 ホームルームが終わり、あとはもう帰るだけの放課後だが、そういう訳にも行かないようだった。

 

「……諦めてなかったかぁ」

「なに? どしたの」

 

 中学から仲の良い朱里とこよみが、難しい顔をした侑を見て聞いた。

 

「……生徒会に誘われてて、やんわり断ってたけど逃げられそうにない」

「七海先輩?」

「うん」

「何か気に入られてるよね」

「うーん……」

 

 そんな侑たちの会話を耳ざとく聞き取った担任の教師が声をかけて来た。

 

「小糸、生徒会に興味あるのか」

「興味っていうか、その……」

 

 侑がまずいと思った時には遅く、担任はにこやかに生徒会を勧める。

 

「うちは行事に力を入れてるからなぁ。生徒会も活発でやりがいがあるぞ」

「いえ、あの」

「来月には生徒会選挙もあるし、それの準備を手伝ってくれるだけでも助かるんだが」

 

 集まり難いと知ってはいたが、自主性を重んじる素振りくらい見せて欲しいところだった。

 そして詰みだと言わんばかりに、開いている戸の先の廊下には、教室を覗き侑を見つけて手を振る燈子の姿があった。

 いたずらに成功したような燈子の笑顔に侑は憎らしさを感じるものの、そんな表情すら綺麗なのには敵わないとため息を吐く。

 にわかにざわつく一年生たちを気にも留めずに侑へ手招きをしている。侑の退路は完膚なきまでに閉ざされたのだった。

 朱里とこよみに同情の目を向けられ、侑は席から立ち上がって鞄を手に、燈子の下へと重い足取りで向かう。

 

「こんにちは、小糸さん」

「こんにちは。七海先輩」

 

 侑の声色が硬質なものになるもの仕方のないことだ。見た目と雰囲気を兼ね備えた燈子はどうしても目立つ。

 さすがに衆人環視の中で勧誘までは踏み込んでこない。場所を変えるよう視線で促す燈子に、侑は不承不承ながらついて行く。並んで歩きつつ不満を零す。

 

「一年の教室まで来るのはやり過ぎじゃないです?」

 

 侑は体を少し傾け燈子を気持ち見上げて言った。上目遣いになる所作と、細められて不信を湛えた眼差しにさしもの燈子も怯む。

 

「う、うぅ……そこまで嫌がらなくても」

 

 眉尻を下げた燈子の表情に後ろめたさを感じた侑は、もっともな疑問を投げることで切り替える。

 

「大体、どうしてわたしなんですか? 他に向てる人はいるでしょうに」

「それはそうかも知れないけど、小糸さんしっかりしてるしいいと思うんだよね」

 

 何をもってそのような評価になるのか。迷いなく返されるも納得出来ず、侑は小さく唸って考える。心当たりと言えば、店の手伝いをしていることぐらいだ。確かに高一ですでにバイト経験がある生徒は少ない。

 それを加味するならば、妥当と言えなくもない勧誘なのかと納得しかけたところで我に返る。

 

「普通に中学で生徒会やってた子を誘うのが良いと思いますよ」

 

 皆が皆続投するわけではないが、実例は誰よりも近くにいる。

 

「そこを突かれると弱いなぁ」

 

 慣れた者か、やりたい者がやればいい。理にかなった無情な物言いは乾いている。

 しかしその言葉とは裏腹に、侑は燈子について行くことをやめずに生徒会室へと歩を進めていた。

 流されやすいと評している性分のままに身を委ねようとしている。だがそれだけが、強く断らない理由ではない。

 

 木漏れ日が注ぐ小道を行けば生徒会室だ。相応に忙しい日々がこの先にある。

 

「でもまぁ、いいですよ」

「え……」

 

 ひとりきりの時間というのは、考えを巡らせ過ぎてやり切れなくなるものだ。

 

「役員になるかは置いといて、選挙の手伝いまでなら」

 

 もうすぐひと月が経つが、侑の求める特別の在り処は道筋すらも付かない。

 

「……うん。ありがとう、小糸さん」

 

 侑は不安を仕舞い込んで、優しく微笑む燈子から目を逸らした。あまりにも眩しいそれは直視出来ない程の温かさを伴っている。

 

「小糸さん?」

 

 燈子の心配するような声色に、侑は何でもないと返して小道を進む。

 爽やかな風が梢を揺らす。微動だにしない自分の心もそうなれば良いのにと、侑は思わずに居られなかった。

 

 山林を背にする学校の生徒会室はもとは書道室で、独特な雰囲気を醸し出している。入口の右隣にある、よく手入れされたヤマツツジが可愛らしい。

 燈子がおもむろに戸を引いた。室内から漏れ出る空気は装い通りのものだ。

 

「連れて来たよー」

 

 柔らかな長髪のサイドを三つ編みにしてハーフアップで整えた美貌の女子生徒を侑は知っていた。

 陽の光が程よく射した生徒会室で、書類から目を離して侑たちに向き直る姿は淡く輝いているように見える。

 佐伯沙弥香。入学してひと月にも満たない侑だが、学校では燈子と一緒にいることが多いのを知っている。文化祭での生徒会劇でも当然見かけていた。

 

「し、失礼します」

「こんにちは。小糸さんね、七海さんから聞いているわ」

 

 そして簡素に自己紹介をして、侑を開いてる席に座るよう促す。少し気遅れ気味に、侑は淡泊な挨拶を返しパイプ椅子に座る。

 切りの良いところまで処理をするため、沙弥香は断りを入れてから作業を再開した。

 

「お茶淹れるね。小糸さんは紅茶とコーヒーどっちがいい?」

「あっ、手伝います」

「いいよ座ってて」

「……それじゃ、紅茶でお願いします」

「うん」

 

 燈子はそう言って、慣れた素振りで準備を始めた。役員二人の静かな作業音だけが部屋に響く。

 お茶を淹れるまでの僅かな間を繋ぐように、燈子が今日の活動について話す。もっともこの時期は言わば空白期だった。

 

「会長たちは今日は来ないんだ。それに、せっかく来てもらったけど特に活動はないんだよね」

「あ、いえ。やっぱり基本的には書類仕事を?」

「そうだね。まぁ慣れればそこまで大変なものはないよ」

「それ出来る人のセリフじゃないですか」

 

 燈子のその言葉を真に受けても良いのか侑に判断はつかないが、書類に向かう沙弥香の所作に淀みはなかった。

 

「えぇ~? でも小糸さんなら大丈夫だよ。はいどうぞ」

 

 侑の皮肉めいた返しをものともせず燈子は紅茶を出した。

 

「……ありがとうございます」

 

 燈子から向けられる根拠のない信頼を飲み込んで、侑は礼を返す他ない。

 

「はい佐伯さん」

 

 沙弥香にはコーヒーを出す燈子。常備しているという茶菓子も添えて、燈子は沙弥香の隣に座った。

 

「ありがとう。でもそうね、例年通りにこなして行けばいいのだから、思うほどではないはずよ」

「そうそう、そんな感じだから」

 

 どちらも優秀が故の完結具合に、侑は二人の関係を見た。

 そんな若干の居心地の悪さから紅茶を飲む侑を見て、燈子は安心させるように生徒会の活動について話し始める。内容は一般的なものから逸脱することのない、各行事に対しての企画や準備、そして運営が主だったものだ。

 

「それでね、忙しくない時でも用事がなければ毎日来て欲しいの」

「はい、大丈夫です」

「少ないといっても書類は出るし、報告とかもあるしね」

 

 そうして侑が燈子から話をあらかた聞いたところで、沙弥香が作業を終えた。

 私的空間とまではならないが、校内にひっそりと佇む生徒会室。侑は紅茶を飲んでようやく人心地が付いたようだった。

 

「取り合えず今日は……」

 

 書類とファイルを片付け、ブラックのままのコーヒーを優雅に嗜む沙弥香を燈子は一瞥して言う。

 

「ゆっくりしてって」

 

 それからの侑の数日間は、慣れない環境に身を置き適応するべく努めることで、確かに忙しないものとなっていた。

 彩り薄かった放課後は、また明日と告げる燈子の別れの挨拶に答えて終わる。

 ただ、ふとした拍子に過ぎる思いから逃れることは出来ず、ついにその日を迎えた。

 

 朝。電話を視界に収めるだけで、昨夜のやり取りが否応なしに思い浮かぶ。微睡みは瞬時に打ち消され、自室に零れる朝日の温もりも鈍く感じる。

 侑の心は穏やかな日常の中にあって、導を失って風のない海原に浮かぶ小さな帆船のように儚かった。

 

 

 

 相談の出来る相手には恵まれている。けれどもそうしないのは、告白してきた相手への返答がすでに定まっているからではない。

 その結論へ至る過程の、もっと根本的な感受性の源泉に閊えがあるようだった。あの日の状景は、侑の中で何度蘇ろうと未だに心を打ちはしない。

 自身はまるで何ごとにも感じない冷え切った心根なのかもしれないという相談など、親しい者にこそ憚られた。

 

 放課後になり、用事がなければ顔を出す生徒会にも気が向かない。電話を見ると、そこには生徒会室の鍵を借りて来ると燈子からの連絡があった。また、今日は他の役員は来ないとも。

 燈子と二人きりの活動となる。

 

 茫洋と生徒会室へ赴こうとする中、忙しなく人が流れる風景に男女が仲良く隣り合って下校していくものを捉える。途端に侑の感覚は冴え、歩調が早くなった。

 

 足早に向かった生徒会室は当然開いていない。

 燈子が来るまでの幾ばくかの時間。侑は玄関庇の支柱に寄りかかって、ヤマツツジを背に力なく視線を落とした。

 放課後の喧噪が枝葉のざわめきに紛れて遠い。日の長さを感じるようになった空は晴れ渡り、庇の下ではなお明るく感じる。

 そして期せずして鋭敏となっていた侑の耳は、乾いた地面に擦れる微かな足音を拾う。日陰の中から視線を向けると、木漏れ日を受けながら歩む燈子がいた。生徒会室の鍵を見せながら微笑んで、なぜそうも嬉しそうなのか分からずに侑は向き直る。

 傍から見ればまるで待ち合わせをしたかのような、しかし燈子が侑の表情を見たことで、暖かな色彩は褪せて張り詰めた。

 

「……小糸さん?」

 

 それでも侑は、表面上はいつものようにしようとした。そんな付け焼刃の表情は不出来で、返って疑念を深めてしまう。

 二人の距離は、燈子が何も言わずに侑へ駆け寄りなくなった。

 

「七海、先輩……?」

 

 侑がたじろぎ一歩引けば、欠片も躊躇なく燈子は踏み込んだ。

 

「そんな顔されちゃ、ちょっと見過ごせないよ」

 

 悲しみの中に憤りが混じっていたのは、冷静さを欠いた侑でも感じ取れた。

 

「…………」

 

 何も言えない侑から燈子は視線を外して、心配する声色を隠しもせずに生徒会室の鍵を刺しながら言う。

 

「……力になれないかな?」

 

 そして鍵を捻って、錠の開く音が鳴る。

 こんな時まで流されてもいいのか。侑のそんな自問自答が許され、あまつさえ結論を出す猶予はなかった。

 戸が引かれ、招かれるままに侑は生徒会室に入る。

 数日の間に定着した席に向かう侑を、燈子は安心させるように静かに戸を閉めた。

 

「少しで、いいんです。待って貰えますか」

「うん。紅茶、淹れるね」

 

 侑は気を遣う燈子から目を外して、電話を机の上に置き椅子に座る。

 打ち明けるにしても言葉を選ぶ時間だけは欲しかった。

 

 侑の中で、燈子は親しい者の範疇だ。それにどういう訳か気に入られていて、自惚れではない。

 いつ来てもおかしくない返事を待つ彼の電話と、燈子へ自身の心を問うた後のこと。焦燥と憂慮が綯い交ぜになる中、燈子は侑の隣の席に着いた。

 

 侑は淹れられた紅茶に目もくれない。膝の上で重ねた手が僅かに力み、そしてどうにか話し始めた。

 

「中学の卒業式で、告白されたんです。ひと月も待たせて、今日、返事をしなきゃいけない」

 

 侑の隣で、燈子は波紋すら生じない紅茶の表面を見ながら聞く。

 

「…………付き合うかどうか、悩んでるの?」

「……断ろうと、思ってます。よく話す仲だったし、一緒に遊んだりもして……今も彼のことは好きです」

 

 侑は浅く息を吐き一度区切る。息遣いは音もなく、耳鳴りがするほどの静謐に滲んだ。

 

「わたしのことが特別だから、特別な関係になりたいって、言われたけど……」

 

 そしてただでさえ張り詰めた空気は一層重みを増した。侑は燈子を見やり感情乏しく結ぶ。

 

「その特別って気持ちが、わからないんです」

 

 侑の目に映る燈子は、眉尻を下げて慈しむような顔で言葉に詰まっていた。

 

「こんなこと言われても困りますよね」

 

 諦観を含んだ笑みを侑は浮かべて、熱を持たない両手を見る。固くなった指を一度広げてすぐ膝にやり、何ごともなかったかのように生徒会の活動へ切り替えようとした。

 

「話してくれて、ありがとう」

 

 燈子の穏やかな声に動きが止まる。

 

「自分の気持ちにずっと向き合って、頑張ってたんだね」

 

 それは侑が求めていた回答ではなかったが、過不足のない肯定だった。

 理解されたのか、受け入れられたのか。見透かせないまでも、心の機微に鈍くては成せない気遣いに、ほんの少しだが侑は安堵した。

 

「……優しいですね、七海先輩」

「ううん、せっかく頼ってくれたのに、ごめんね…………駄目だな、私」

 

 だが問題はなにも解決せず、むしろ他者へと不用意に広げただけで、侑は燈子を見ることが出来なかった。いつからか、その美麗な表情が曇ることに罪悪感を覚えるようになったからだ。

 少し遠い日の一瞬が、今ではもう何故か焼き付いて離れない。

 

「そんなことないです。でも……」

 

 だから燈子の優しさに心地良さを感じようとも、寄りかかることはしない。

 そしてそのようなひと時の空想は、机の上に置かれた侑の電話が震えたことで失われる。静寂を打ち砕いて耳を打つ振動音に、思い定めて電話を手に取った。

 

「外すね」

 

 去来する不安を押し込んで、生徒会室から出ていく燈子を有り難く思いながら、画面へ指を動かした。

 

「もしもし――――」

 

 侑の息は詰まって、電話を握る冷え切った手に力が入る。求めて止まない特別という気持ちは輪郭すらも捉えられない。それでもこのひと月で出した告白の返事は、残酷なまでに誠実で嘘偽りのないものだ。

 最後に電話から漏れ出た少年の声は、それでも「ありがとう」と、特別な人に向けられるものだった。

 

 もしもその気持ちを得られていたのなら、彼と待ち合わせをして、学校が終わってから一緒に遊ぶ未来はあったのか。

 今となっては詮無きことが、再び訪れた静寂に溶けて消えた。

 

 

 

 優秀であるということに疑いようがないのは、侑は中学の時から知っている。よくある欠点らしいものもなく、傍から見れば完璧だろう。

 書類が少なかったとはいえ、支障をきたすと思われた今日の生徒会活動が恙無く終わったのは、燈子が要領良く捌いたからだ。

 勉強だけでなく、そういったものまでこなせるのを侑は尊敬している。

 

「どうしたの?」

 

 傾いた日で景色は橙色を帯びていて、燈子の黒髪が反照を生んだ。

 正門を抜けて帰り道に付こうとする二人。隣を歩く燈子を侑はいつの間にか見ていた。

 

「どうもしないですよ?」

 

 放課後の一件を感じさせない親し気な声に、侑も気負い少なく返す。今、自身はどんな顔をしているのか意識もせずに。

 卒業式の日から引きずっていたことに一応の区切りがついた今日。明日からまた、普通の日常が始まる。

 ただ一抹の罪悪感が侑の胸に残ったが、また答えを求めて考え抜くしかない。

 

 侑と燈子の帰り道は少し歩いてすぐに分かれる。隣り合い夕日に影を伸ばす二人は離れて行き、しかし一方の細い腕がそれを妨げた。

 

「……先輩?」

「…………」

 

 侑の左肩に下げられた通学カバンに置かれるようにある腕の袖。燈子の手に引かれて、侑は動けず佇んだ。

 燈子を見やれば、これまでに見たことのない程、思い詰めた表情をしていた。

 

「明日も…………明日も、生徒会に来てくれるよね?」

 

 どうしてそんな顔をするのか、とは聞けない。行動の意味を問うのも同様だ。

 侑は答えようのない相談をした。生真面目な燈子であれば、責任を感じて必要以上に思い悩むかもしれない。

 

「はい、ちゃんと行きますよ」

 

 侑は当然のように振る舞った。視線が交わって数瞬、燈子は不安を湛えたままだが、侑の袖から手を離した。

 

「ごめん。頼りない先輩で、嫌われちゃったかなって思ったら、その……」

「そんなことあるわけないです」

 

 これまでは気に留めたこともなかったが、下校の際、別れの言葉はいつも燈子からであったと侑は思い至る。

 

「今日は、ありがとうございました。また明日」

 

 幾度か積み重ねたやり取りで、切り出す方が逆なだけだ。ただそれだけなのに、侑の置き去りだった心が追いつき狭まった視野が開けたようだった。

 

「うん」

 

 未だ柳眉は悲し気だが、安心したように返した燈子へ緩く手を振って、侑は帰路へと歩を向けた。

 今度こそ侑と燈子は離れていく。明日また変わらず会えるのだから。

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