白夜に灯る 作:のーうぇい
/連星
いつか芽生えた感情は最早遠い。ただ薄れて掠れようとも、そういうことがあったという事実がその本棚にはある。
フィクションそのものに関心が薄い沙弥香の読書傾向から外れた、凄惨なミステリー小説が一冊だけあった。苦い思い出と悔悟が僅かばかり胸を刺す。
沙弥香が高校生になる前の話だ。
友澄女子学園は中高一貫で、二年生だった沙弥香は一つ年上の柚木千枝に告白をされて付き合っていたことがある。
思春期らしく先を見ない、千枝が持った恋愛への憧れの帰結は明るいものではない。
今でも本棚にあるミステリー小説を手に取った理由は、千枝の好みを少しでも知るためであった。
それこそが、今なお沙弥香の胸にある淡い悔悟を意識させる。脳裏に過ぎるのは、あの書店ですれ違った聡明な女性の顔だ。名を七海澪と知るのは、遠見東に入学してすぐのことだった。
誰しも好みがあって、それは沙弥香にとっては顔である。美麗で知性を感じさせる造形が七海澪にはあった。ただひとつ、その目元がもう少し柔らかければと思ったくらいか。
だから曖昧な気持ちと言葉であれど、告白を受け入れた次の日に別の女性に見惚れるなど忘れられよう筈もない。それでも押し込めた末に破局し、進学した先でまさかその妹の燈子と出会うなどとは思ってもおらず、さらには思いを寄せる相手がいると気付いた時はいっそ可笑しかった。
沙弥香は戒めと興味を秤にかけて、結局傾いた先に生徒会へ入り今は燈子の行く先を眺めている。
知れば知る程距離感が露わになり、思いは定まることなく底が抜けてしまったようだった。
家でゆるりと寛ぐ夜。沙弥香が本を読んでいると部屋の外で物音が聞こえた。立ち上がりドアを開ける。
飼い猫二匹がそこにいて愛らしく鳴いた。優雅な身のこなしで、そろって部屋に入ってくる。
「仲が良いわね」
そしてさっきまで沙弥香が座っていた一人掛けのソファーに二匹とも陣取って、我が物顔で落ち着いた。相も変わらず気まぐれな猫たちを見て頬を緩める。
連休と言っても沙弥香は家の用事くらいしか予定にない。
我ながら何もないと思いつつ、沙弥香は猫じゃらしを取りに行くために部屋を出た。
/月暈
五月の大型連休最終日。そろそろバイト代の増額を望みたくなる店番を控えた朝食後のひと時。
滲んで息苦しくなるのはまだ先なのに、侑が考え込むのは友人の恋路に陰りがあったからだ。
別の高校へ行った菜月も交え久々に四人で遊んだが、こよみが朱里を元気付けるために口にしたくだりが重い。
好きだと思われ続けたら、その気になるものだ。
好意には、好意が等しく宿るのか。少なくとも侑はそうではなかった。
思われ続けて変わるというのが友人たちの言葉ならば、そうなれなかった自身は何ものなのだろうか。そんな疑問が浮上して侑はまた悩んでいると、電話から通知を知らせる音が鳴る。
「七海先輩……」
内容は午後から合って話せないだろうかと、燈子からの誘いであった。
急ではあるが予定などない。燈子と生徒会のことでと言えば、店番を抜ける口実には十分だ。話す内容もそう的外れなものでもない。
侑は応じるとの旨を返した。
差し迫る生徒会役員選挙で侑が行えることは手伝いくらいだ。もちろん燈子を応援するための選挙活動そのものには真剣に取り組む。
だが特段気負う、それこそ立会演説会で推薦責任者として壇上に立つような役割は適した者が行うこととなっている。事前に決めていたのは侑も分かっていたし、なるべくしてなる自然な人選だろう。
草稿といいつつ完璧な推薦文を用意していたのには侑も苦笑いが出たが、沙弥香が脇を固めるならば燈子の会長当選は盤石と言えた。
侑の生徒会での活動も、その選挙をもって終わる。あの離れ校舎に行くことはなくなるのだろうと、思うよりも早く訪れる何もない放課後を考えた。
部活は今更感が否めない。友達と遊んで、勉強に励んで、店の手伝いをする日々。
年相応の悩みと言えば聞こえはいい。しかし、これまでは停滞とは無縁の日常にいたのだと気付く。それでもなお、役員になるという選択肢には霞がかかっていた。
いざ答えを迫られてその時ようやく決める。そんなどこまでも優柔不断な性質に、侑は肩を落とす。
何一つ形にならず、その内望んだものすらも忘れてしまいそうな不安を抱えて、侑の午前は店番をして終わった。
ふと思うのはこよみの言葉だ。同意も納得も胸にはなく、そうであれば良いという希望だけがある。
そして、何かをしてもらったのならば返さなくては収まりが悪い。そういう意味では腑に落ちると、侑は拙い答えを出した。
侑の家とそう離れていない場所に、燈子と待ち合わせをした喫茶店がある。店の名前はEchoといい、学生が入るにはどうしても心理的ハードルを伴う。
こういった場所を指定するところに、侑は自身と燈子の差異を感じた。
少なくとも、中学生の時分には縁がなかった場所だ。侑はそんな益体もないことを考えて、気付けば店を視界に捉えていた。
時間には余裕をもって赴いたが、どうやらそれは燈子の方も同様であったみたいだ。
「こんにちは」
「……こんにちは小糸さん」
「どうたんです、難しい顔して」
「何でもない」
「……まぁいいや、入りましょう」
どうにも歯切れが悪く残念そうにする燈子を侑はおかしく思いながら、逡巡していたことも忘れてドアに手をやった。
「いらっしゃいませ」
ドアベルの音と、少し遅れて女性店員の声が二人を迎える。
時期と時刻的に店内の客席は相応に埋まっていた。どうやら一人で切り盛りしているようだが動きには余裕がある。
燈子とは知り合いなのか、後に店長であると知る児玉都が向けた視線は優しげだった。
席は窓側最奥。次の作業へと移っていく都から侑は視線を外す。
「結構来るんですか?」
「うん。お姉ちゃんと来てから、時々」
燈子とはそれなりに親しい先輩後輩の関係で、生徒会で共に活動している。中学も同じで、侑の実家である書店の常連だ。
だが個人として見れば、休日に燈子と二人きりで会うのは、稀有な関係性であるのかも知れないと思う。
喫茶店での緩やかな昼下がりは何ごともなく過ぎて行った。雰囲気に浸りながら、連休中の出来事を報告し合う、楽しいだけの時間が。
日の傾きを感じ始める頃に侑と燈子は店を出た。
「なんか、おとなって感じがしました」
「そう?」
「私たちくらいのお客さんは見なかったですし」
二人はすぐそばにある河川敷を眺めながら目的もなく歩き、しばらくして近場のベンチに腰を下ろす。
他愛もない会話が途切れ、重なり合う清涼な水の音が染み渡り、日和は沈黙すらも心地良さに変えた。子供たちの遊び声が遠く微かに聞こえる。
連休中は家族で旅行に行ったという燈子。久々に家族みんなで楽しんだと嬉しそうに語ったのはつい先程のことだ。燈子が慕う姉の澪は一人暮らしをしていて、社会人のご多分に漏れず忙しく、中々一緒の時間を作れないのは想像に難くない。
自身の姉との時間も今以上に少なくなっていく。侑がいつか来る時を思えば風がそよいだ。このひと撫ですらも緩慢だったと懐かしむにはまだ早すぎる。
それでも先を見据えるのは、侑は燈子に返すべきものがあるからだった。
あの告白の返事の日とは別に、もっと前から抱えている。かつて言えず、それがどのようなものかを感じさせられて今に至る、一つの小さな蟠り。
特別なことでもなければ、本来は気負うものではない。一言で済むが今更で、取り返しがつく類のものでもなかった。
猶予と言えば関係が続く限りだが、区切りをつけるならば選挙の後が良いと侑は決めた。
図らずも侑の心にひとつ整理がついたのは、今日こうして呼ばれた理由が脳裏にあったからだ。
楽しい気持ちだけで今日が終われば良い。侑はそんなことを儚く願い、しかし燈子はその話題を持ち出した。
「今日、ずっと、いつ聞こうか迷ってたんだけど……」
「はい」
「私が、生徒会長になれたら……小糸さん、このまま役員になってくれないかな」
真摯な眼差しで告げられ、必要とされる言葉と実感の乖離が侑の心に渦巻く。
「正直、気が向きません。わたしが出来たのは結局手伝いだけで……仮入会で一年生じゃ、それが当たり前なのはわかってますけど、自分じゃなくてもって」
侑は視線を切って川を見る。身の振り方を左右する分岐を前にすると、人並み以上に考え込む性分に唇が力んだ。
「そっか……」
だがその悲しさを隠さない声色を聞いてしまえば、侑は燈子に目を合わせて流れるままに口を開いた。
「けど、やります……役員。七海先輩が生徒会長になったら」
燈子は虚を突かれたように目を丸くした後、侑の返事を反芻して切なそうに言う。
「……無理、言わせちゃったよね」
置き去りになってしまうような焦燥を感ぜずにはいらない程、侑の周囲の人たちは変わっていく。中でも燈子は変化の象徴だった。
役員になろうとすることで道が開けるわけではない。今回も状況に流された受け身の結果だ。
少し、と侑は呟き視線を下げ、だけど、と続ける。
「一年間なら、やれないこともないかなって」
誰でも、努力を重ねていて尊敬できる人に頼まれたなら、応えたくなるのは普通のことだ。
そう唐突に浮かび上がった思いを侑は意味もなく誤魔化すように、合理的でいて生徒会での現状に沿う判断を持ち出して押し込める。
「それに、今更役員にならないって、言える感じじゃ、ないですし」
事実、燈子が会長になれば侑はこのままなし崩し的に役員になるだろうという空気が生徒会にある。
侑自身も、切欠は悩みを抱えていたがための逃避で、そしてたとえ流されたのだとしても、半端に投げ出すのは憚られた。
「それでも……ありがとう、小糸さん」
澄んだ燈子の声が響き、侑は身じろぎをする。そもそも望んでいないのならば、どれだけ強く求められても受け入れようのないことには気付かずに。
「頑張るから。絶対、当選出来るように」
会長になれないという不安など吹き飛ばす燈子の決意に、西日が応えたように雲間から射し、侑にはその姿がよく映えて見えた。
連休が明け、選挙活動の手伝いの日々も終わり、結果が張り出される日。
賑わう掲示板の前で、燈子と沙弥香に控えるような位置取りに侑はいる。
燈子の声には喜びがあった。それを聞いて侑は演説を思い返す。手に力みや震えはなく、自信に満ち足りていた燈子の姿を。
今こうして燈子の努力は報われたが、その道のりは容易なものではないというのは分かり切ったことだ。
そんな単純なことを知りながら、一瞬視線を交わしてすれ違った中学生の記憶を胸に、侑は何も特別なことのない言葉を飾らずに伝える。
「おめでとうございます。七海先輩」
眉の力は抜けていて頬を少し緩ませ、口元には薄い笑みを湛え、その瞳だけは変わらず。
そうしてそれを受け取って侑へ向き直った燈子は、満面の笑みでありがとうと頷いた。
ほんの少し胸につかえて取れなかった後悔を、侑は意味もなく勝手に引きずっていただけだ。蟠りは、消えていた。
/丘陵
苦手と言っても合わないが故のものであって、こなして行けば一応頭に入りはする。
試験勉強期間、学校の図書室。
侑と同じように勉強に励む生徒たちの判然としない囁き声や紙擦れと、殆ど聞こえない乾いた筆音がある。
環境音は微細で、集中出来ていれば気にならない程度だ。
生徒会も試験前は部活動と同様に休みとなる。
燈子が生徒会長となって少し。それは侑が正式に役員となった日数ともいえた。
時間を共にする機会は仮入会の時と左程変わりはないが、燈子が近くにいることを半ば自然に感じ始めていることに気付き、侑は問題を解いたところで手が止まる。そして右隣で淀みなく勉強に励む燈子をちらりと見やった。
放課後ここ数日は、侑はずっと燈子と一緒にいる。共に家で勉強するよりも、こういった場の方が捗るという何のことはない理由によるものだ。
そんな侑に、問題に詰まったと見た燈子は少し身を寄せ囁く。
「わからないところある?」
流れて艶めく黒髪のサイドを上げる所作は芳香を伴って、燈子は侑の勉強の進み具合を覗いた。
距離を詰められながらも侑は燈子を見る。問を読み解く真面目な表情が近い。人肌程度の温もりさえ伝わるのではと意識する。視線をずらすと、指にかかった髪の流れと露わになった白く細い首筋が目に入った。
「合ってるね。どうかした?」
耳元で再び響いた燈子の声に侑は気を取り直しつつ、僅かに身を逸らす。ともすれば吐息すら感じる距離感は、小声で話さなければならないこの場では自然だが近すぎた。
「ちょっとボーっとしてたというか、やっぱり数学は苦手だなーと思って」
向き不向きがあるからと、侑の言葉に同意する燈子。何気なく返されたそれは、単純な意味合いの向こうへと至る。
侑は視線を次の問へと戻した。
勉強の効率を考えるなら、燈子が学年の違う侑と共にする理由はない。すでに幾度か勉強を見てもらっており、今になって侑は済まない気持ちを抱いた。
侑は燈子に気に入られた切欠も理由も分からない。そしてただ与えられ積もるばかりの優しさに、どうすればいいかもまた、分からなかった。
集中力を欠きながらも、侑はその取り留めない思いの整理を押しやって次の問題を解き始める。この日の侑の試験勉強は碌に頭に入らず、下校時間を迎えた。
数学に加えて芽生えた悩みにまで考えを巡らせたせいで、侑には疲れがある。
「苦手な科目の勉強って疲れるよね」
「本当ですよもう」
この勉強漬けの日々も試験を切り抜けるまでだと侑は息を吐いた。火照るには及ばず、しかし熱を感じる身体を冷ますように深く。
隣り合って歩く燈子の声には少しの疲労感もない。それどころか、この試験勉強期間中は何故か機嫌が良いくらいだ。
ふと湧いた疑問を侑は気力乏しく尋ねた。
「七海先輩って、勉強好きなんですか?」
「好きでも嫌いでもないけど。どうして?」
「ここのところ、なんかちょっと楽しそうじゃないですか」
燈子は定期試験で上位を取り続けていることを侑は知っている。普通ならば重圧や、そうでなくても気負いの一つはあって不思議ではない。
もっとも、勉強することそのものに楽しさを感じる性質ならば話は変わってくるのだが。
「そうかな、いつも通りだと思うけど」
ただ、侑の見立て通り燈子の調子が良かったとして、それが悪いことなどない。
「そう、ですか」
一緒に勉強をすることが負担になっていないのならばそれで良い。侑は深く考えないようにした。
試験日が近づくにつれて図書室の利用者は増え、下校する生徒の流れの密度も比例している。二人はそれに乗って廊下を行き、正面玄関で靴を履き替え正門を望んだ。
「お疲れさま。また明日ね」
「はい、また明日」
そして少し一緒に歩いて別れて行く。先輩と後輩という関係は、連なる日々に滲んでいた。
迫る試験日にいよいよ図書室は生徒で一杯になり、侑と燈子は入り口を遠目に揃って眉根を寄せていた。混むだろうことは予想していたがこれ程までとは思っておらず、今日はどうするかと互いを見合う。
「大人しく帰りましょうか。これはちょっと……」
「そうだね」
ここ数日の試験勉強だけでなく生徒会で活動していることから、久々に何もせず帰ることに侑は違和感を覚えた。また燈子と一緒にいる放課後が定着していたのを実感する。
「それじゃ、今日はこれで」
正門を抜けて分かれ道。少し視線を交わして手を振り歩を進めようとする侑を燈子が呼び止めた。
「ねぇ小糸さん」
「はい?」
「小糸さんが良ければだけど、勉強、私の家でしない?」
微笑んで誘う燈子に、幾ばくかの不安があるのを侑は見逃さなかった。見逃せなかった。通学鞄の持ち手を握る指に力みがある。
いつも通りの綺麗な表情で、それだけに相違はより深く目についた。
「……迷惑じゃないですか?」
「そんなことないよ。家は学校と近いから、帰りもそんなに遠回りにならないし。どう?」
侑は、優しさだけで誘われたのならばまだ穏やかでいられた。分かりやすく、優秀な先輩と普通な後輩の構図であれば珍しくもない。仲が良いのひと言で片が付く。
だが家に誘って一緒に勉強をする誘いで、なぜそうも意気込んでいるのか分からない。
程よく差した陽。すぐ目の前でのこと。繕っていると分かる程度の関係性。見間違いとは思えなかった。
今も、持ち手を握る燈子の手には力がある。
「七海先輩がそう言うなら、お世話になります」
「うん。じゃあ行こっか」
そして侑が了承すると燈子の握られた手は緩んで、それに気づかない理由もなかった。
侑は馴染みのない道を、隣にいることに慣れた燈子と行く。近いと言った通り、少し歩けばもう燈子の家に着いた。
いつか生徒会室へ初めて連れていかれた時のように、侑は僅かばかり気後れする。
「ただいまー」
「お邪魔します」
促されるまま招かれて、自然と背筋が伸びて侑の姿勢が正された。帰宅を告げる声を聴いた燈子の母が出迎える。目元は優しく、燈子によく似ていた。
「おかえりなさい。今日は早いのね」
「うん。図書室混んでて落ち着かないから、家で勉強することにした」
「そうなの。お友達?」
顔を朗らかに向けて侑を見やる燈子の母。
「こんにちは。一年の小糸といいます」
「あら小糸さん、こんにちは。燈子が言ってた後輩さんね」
どういった紹介がされているのか侑は気になったものの、挨拶も程ほどに燈子の部屋へ向かう。
小物は少なく整然とした部屋だった。
「お茶淹れてくるから先に準備してて」
「あ、お構いなく」
「なにそれ」
くすりと笑ってお茶を淹れに行く燈子。その間にローテーブルに手早く勉強の準備をして、少し居心地悪そうに部屋を見渡した。目に付くのは本棚で、そこには侑が会計をしたものがいくつかある。参考書が多い。勉強机にも同じようにそれらがあった。
自然と視線が移るのは写真立てだ。そこには家族写真が収められていて、幼い頃の燈子がこれ以上ない笑みで姉の腕に抱きついて映っている。侑はしばし見入って、時の流れを忘れた。
「おまたせー……小糸さん?」
「え、あっはい」
燈子が戻って来たことにも気づかない程、思いが巡っていたようだった。
「写真、見たよね」
侑が見ていた方向から、何を見ていたのか燈子が思い至る。
「はい」
「――――っ!」
燈子は聞くや否や恥ずかしがり、どうにか紅茶とお菓子を載せたお盆を置き、勉強机の写真立てを素早く伏せ、その後両手で顔を覆った。
そして恨めしく侑を見やる。
「えーそんな恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか。小学生の七海先輩かわいいですよ」
あまりに面白くて、侑は悪いと思いながらもからかわずにはいられなかった。
「も、もう!」
「あはは」
「……小糸さんはいじわるだなぁ」
頬の色付きが取れないながらもどうにか落ち着いた燈子とそれを笑う侑は、それから紅茶を少し嗜んで勉強を始めた。
静かだが気が緩み過ぎることのない空間は勉強をするには悪くない。そして、分からないところがあればすぐ様それに答えられる燈子がいると、まるで家庭教師が付いたかのようだった。
しかし燈子は家庭教師ではないし、侑も必要以上に頼ることはしたくはない。返せないものばかりが増えていて、一段落したところで侑は手を止めて口に出してしまった。
「負担になってないですか」
「……なにが?」
侑の声の硬さから、燈子の表情も誠実だった。
「普段からお世話になってますけど、毎日勉強まで見てもらって……」
深い意味合いなどない、先輩らしい振る舞いからなるただの親切心にしては親身に過ぎる気がしている。
「どうしてこんなに良くしてくれるんですか」
燈子の陰った顔色を見て侑は後悔するが、口を突いて出た言葉はもう取り消すことは出来ない。
「生徒会の勧誘も結構強引にしちゃって、役員になってくれたのだって私が無理を言ったからだろうし」
困り顔で答える燈子。自嘲が見え隠れしテーブルの上に組まれた手に軽く力が入ったようだった。
「それにあの時も、小糸さんに気の利いたこと何も言えなかったから……少しでも何かしてあげたくて、それだけのことだよ」
思い悩むのは自分だけではない。誰もが悩みを抱えていると侑も分かっていて、燈子も例外ではないと知っていた筈と思い返し後悔は深くなる。
「負担をかけてたのは私の方、だったね。本当に私は……」
「確かに優柔不断で流されやすい性格だけど、それでも役員になるのはわたしが決めたことです」
伝え合えば何てことはない負い目を、二人とも互い違いに抱えていただけだ。
「大体、返事の時話を聞いてもらって困らせたのはわたしの方です」
いつか見た幼い不安げな顔よりも、今は伏せられたあの写真のような満面の笑みの方が良いと侑は思う。
「だから七海先輩が申し訳なく思う必要なんてないんです」
「……小糸さんは優しいなぁ」
まっすぐな瞳で燈子に伝えられ侑は照れるように顔を背けた。
「照れてる」
「……照れてないです」
気付けばもういい時間だ。少しだけ微妙な空気のまま侑は帰り支度をして、玄関まで見送られる。
「今日もありがとうございました。また明日」
「うん、また明日」
思いが通じ合うには遠く短くない時が必要だが、その緩やかに近づいて行く二人の日常はただただ穏やかに重なって行く。
ゆっくりと確かめ合うように、幕間のような日々の中、少しずつ。
後書き
話に広がりがなく短く稚拙な文章ではありますが、貴重な時間を割いて拙作を覗いてくれた方々に感謝します。