札幌駅は、喧騒に包まれていた。
「札幌も昔と比べて平和になったもんだ」
梅地五郎は統一前に幾度となくこの地を訪れていたが、漂う緊張感が忘れられなかった。
駅などは赤色テロを警戒して、どこへ行っても道警の警察官の姿があったし、ビルの屋上には秘匿されてはいたが機関銃座が備え付けられていて、テレビ塔などに上れば迷彩服を着た自衛隊員の姿を見て取れるような都市であった。
彼は一度のみならず職務質問を受けた経験もある。自分にはよくわからないが、やはりどこか道民ではないと思われる仕草や様子を見抜いて声をかけているのだろう。同僚などは北日本のスパイが新幹線に乗り込む瞬間に取り押さえられたところを目撃したことがあると聞いた。
それに比べると、今の札幌はあの緊張感を失っていた。
平和の配当ってやつか。
彼は歓迎せねばならないことだとわかりつつも、どこかに物足りなさを感じていた。
豊原はきっと違うだろう。あの都市はある時代の香港のごとき魔屈になってると聞く。
梅地は不謹慎な期待を胸に秘めて連絡改札を抜けて、昼食用の駅弁を購入し、さらに北へと向かう列車が待つホームへと歩んでいった。
ホームには稚内行きの特急列車がすでに待っていた。
札幌発稚内行き特急「へいわ」は、名前からして統一の象徴のような存在だった。
統一翌年から運行を開始し、走行距離の半分以上を旧北日本地域が占めている。統一が成った祖国を一目見ようとやってくる観光客は、樺太まで空路を使うよりも新千歳におりてまでこの列車に乗ることを好んだ。
JR北日本は需要に答えるため新型の特急型気動車283系を就役させていたが、増発に追いつかず国鉄時代の車両も同列車に充当していた。
それが今、梅地の乗りこもうとしているキハ383系であった。統一前、資本主義日本の意地と存亡かけた北海道の鉄道高速化を担ったガスタービン特急気動車である。
先の大戦により2つに分断された北海道は、1950年に勃発した極東動乱―北海道戦争を経て冷戦下の主要な想定戦場となった。
いつか再び戦争になるだろうと確信を抱いたまま、南北日本は双方ともに北海道の開発に乗り出さねばならなかった。
その影響は道内開発の各所に現れるのだが、重要なインフラにこそ如実に反映がみられた。そのもっともたるものが鉄道だった。
道内の鉄道は戦時において2つの役割を与えられた。
一つは当然物資の輸送。青函トンネルがユーロトンネルと同様に大型で高速のカートレインを走行させることのできるだけの規格で建設されたのは、戦車も含めたあらゆる装甲車を積載して道内に送り込むためのものだった。日本人は北海道戦争の際に最後の砦であった函館を維持するために潜水艦から連絡船を守る苦労をイヤと言うほど経験していたのだ。
そして2つ目にして最大の役目が避難民の輸送だった。旭川・帯広・札幌には1980年代には200万人の市民が住んでいた。もし再び国連軍が渡島半島に押し込められるような事態となり、再度アイアン・フィスト作戦を行うとすれば、最大の懸念材料は<向こう側>の膨大な戦力以上にこの市民の安全であった。
結果として道内防衛計画の策定には大規模な有事疎開計画の解決が求められた。
短期間で大量の人間を輸送するには、テレポーテーションをサイエンスフィクションと猫型ロボット以外に実現できない以上既存の交通インフラを強化する以外にほかはない。
鉄道においては、高速かつ高頻度の運行を追求することにあった。
その実現のために運輸省・建設省・北日本開発庁・国土統一庁・防衛庁・道庁・国鉄の各関係省庁が侃々諤々の協議を重ねた結果、第一に早期の新幹線建設による根本的解決が最優先事項となった。
北海道新幹線は、1970年の新幹線整備法に基づき、東北新幹線とともに早期整備が決定したものの、完成までは道内だけでも10年、青函連絡部は20年近い歳月を必要としたため それまでの繋ぎとして函館本線及び石勝線の高速化が行われた。
その切り札として製造されたのが、キハ383系の前身となるガスタービン動車―ジェット機のエンジンを転用したキハ381系であった。
1960年、電車特急で高速化を果たした国鉄は非電化区間の改善にも着手し、ディーゼル特急キハ81系を開発したが、性能的には電車にまだ及ばない状況であった。
そこで彼らはガスタービンエンジンに注目していた。
日本では敗戦にともなう航空技術研究の禁止にあたって旧軍のガスタービン技術の継承を国鉄の鉄道技術研究所が引き受けていた。
北海道戦争の勃発とともに研究の解禁が行われたのちも、国鉄と石川島および北崎の2大エンジンメーカーの交流は続けられていた。
ガスタービンはディーゼルやガソリンエンジンのそれと比べて構造自体はひどく単純なものである。大きな筒の中で空気を吸い込んで圧縮し、燃焼させて吐き出す。もとから回転運動であるからクランクで上下動から変換する必要がない。その分軽量にできるし、パワーもある。
また使用する燃料の質もレシプロのそれほど問われることはない。
大抵の乗り物がスクリューや車輪を回転させて進んでいることを考えれば、パワフルかつ軽量のガスタービンはまさにある種の夢のような動力源であった。
国鉄に限らず英国などジェットエンジンを早い段階で実用化した国では鉄道への利用が真剣に研究されていた。
ただし欠点もある。何より燃費が悪い。ディーゼルは燃費が回転数に比例するー気動車であれば低速のときは少ない燃料で済み、高速になればその逆であるのに対し、ガスタービンは動いてる間は回転数に関わらず常に一定の燃料を喰らわせてやらねばならない。これをある程度解決するためにただ発電器として利用し、車輪自体はモーターで動かす電気式ガスタービン動車ー艦船のターボ・エレクトロニック方式や統合電気推進と同様であるーなども考案されたが、国鉄はエンジン排気をタービンを介して取り出すジェットヘリやターボプロップ機と似たような方式で実現しようとしていた。
国鉄の研究に積極性を見せたのが、北崎重工であった。
彼らは通産省とべったりの石川島を出し抜いて、国産ジェットエンジンの輸出に成功していたが、その結果として官庁には弱小と呼ぶしかない防衛庁以外に味方を持たなかった。
そこで北崎は社長の満州人脈を利用して、鉄道省あがりで国鉄に影響力を持っていた佐藤栄作をパイプに国鉄のガスタービン動車計画に参入を試みた。
合衆国のライセンスを受けて高性能でハイパワーのエンジンを目指す石川島に比べて、北崎がつくるエンジンはパワーに関しては見るべきところは無かったが、同出力の海外メーカーのものより小型かつ安価という特徴があった。それこそが国鉄が求めているエンジンだった。
ジェット機や大型船舶ならともかく鉄道、それも在来線の高速化は1960年代前半の当時は110キロを出せれば良く、前述のようにディーゼルに比べて軽量・小型・高出力を満たしていればよかったのだ。
国鉄は1964年、世間がオリンピックと有人衛星「ひかり」計画に沸く中で、北崎とともにガスタービン気動車の開発を発表した。
翌年、試験車両であるキハ391系が、自衛隊に納入するHSS-2用のターボシャフトエンジンとして開発された北崎NJ303Bを搭載して落成した。
3両編成で中央の寸詰まりになっている車両を動力車としてエンジンを搭載したキハ391系は東海道線での速度試験を行い、時速177キロと当時狭軌世界最高記録を塗り替え、関係者の度肝を抜いた。また世界的にもガスタービン動車の試験が行われ、1967年には合衆国とカナダで電気式ガスタービン動車の「ターボトレイン」が運行を開始し、速度試験では275キロを記録するなど、先行きは明るく輝いていた。
1968年、新幹線も建設費圧縮のために今後は非電化のほうが良いのではという言葉も聞こえる中、国鉄はついにガスタービン動車の実用化を決定し、キハ381系の製造にゴーサインが下された。(続)
まぁ北崎がいれば技術的問題はなんとかなるでしょう。たぶん。