【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第七章 昔日 -疾風篇- (一)

 風波見(かざはみ)家の門前に来たところで、東洋一(とよいち)は足を止めた。

 千代と、どうも花街の関係者らしい男―――おそらくは文使(ふみつかい)か何かだろう―――が、何やら揉めている。

 

「あぁ~…いやいや。奥様のお手を煩わせるようなことでもございませんので……」

「気にしなくていいわ。いつもの事だから」

「いや、でも…」

「別に破いたりしないわよ。そっちも商売なんでしょうからね」

 

 そう言って、ホラと千代は手を出す。(おんな)からの文を渡せ、ということらしい。

 文使が困った様子で懐からそうっと文を出すと、東洋一は後ろからそれを取り上げた。

 

「東洋一さん!」

 千代が驚いて声を上げると、文使いは東洋一を不安そうに見上げた。

 

「あのぉ…? 旦那…ですかい?」

「いや、違う…けどまぁ、届けておいてやる。とっとと他行きな」

 

 文使いはホッとした表情になると、ヘコヘコと頭を下げて足早に去っていく。

 

「ありがとう、東洋一さん」

 千代はニッコリ笑うと、ヒョイと東洋一の手にあった文を取り上げた。

 

「おい! ただの売り込みだよ。悋気(りんき)を起こすな」

「やーね。そんなのわかってるわよ。珍しいことでもないし」

 

 言いながら、千代は中へと歩き進みながら、手紙を開いて読むとクスクス笑っている。

 

 東洋一は眉をひそめた。

 珍しいことでもない―――?

 そう言えば、さっき『いつもの事』とも言っていた。

 賢太郎は悪所通いでもしてるのか? 頻繁に?

 

「『ひとり寝る夜の明くる間は~』…ですって。フフ、可愛いこと」

 千代はパツリと手紙を指で弾くと、枯葉を燃していた焚き火の中に放り投げた。

 

「おい!」

「なぁに? 破いてはいないでしょ?」

「いや…そりゃそうだが」

「あの人に渡したところで、読みもせずに火鉢に焚べるのよ。一緒じゃない」

 

 フワリと風に飛んだ焼き切れた文の端を、木の枝で枯葉の中に突っ込みながら、千代は事もなさ気に言う。

 

「……多いのか? こういう事」

 東洋一が戸惑いつつ尋ねると、千代はチラと東洋一を見上げて、クスリと笑った。

 

「東洋一さん。いつまでも賢太郎さんのこと、子供と思ってるでしょう? 言っておくけど、あの人は普通に吉原でも深川でも行ってるわ。旅に出れば、どこぞの旅籠で飯盛女でも上げてるでしょうよ」

 

 あまりにあけすけに言う千代に、東洋一はポカンと口を開いたままになる。

 アハハハと千代は大笑いした。

 

「こういう事? 文もよく来るわよ。最初はちゃんと渡してたんだけど、いつも見もしないで燃やしてしまうから。最近は私の方で燃やしているの。お義母(かあ)様に見つかったら、面倒だしね。あの人はいつまでも賢太郎さんを子供扱いですから」

 

 自分の亭主のことであるのだが、千代はどこまでも他人事のようだった。

 これが嫉妬が昂じたものなのか、あるいは諦めきった心境によるものなのか、東洋一には判別できかねた。

 

「お前…それで、いいのか?」

「いいも悪いもないでしょう? お義母様みたいに、毎日赤くなったり青くなったりして、ひねくれた嫉妬(やきもち)焼いて年を取っていけというの? そんなの御免だわ。それに、私はむしろ彼女達には同情してるの」

「同情?」

「商売柄でこうした文を送ってくるならまだいいけど、たまに本気の(ひと)もいるのよね。そういう女は何度も送ってくるわ。今日の女も何度目かしら? 可哀相なこと。相手になんかされやしない。賢太郎さんは誰も好きになったりなんかしないのにね」

 

 ――――僕は、そういう感情は持てない。

 

 以前、千代との結婚前に賢太郎が言っていたのを思い出す。

 

 千代は、やはり頭のいい娘だ。表向き優しい賢太郎の空虚を、しっかりわかっている。わかっていて、何もしないような冷たい娘ではない。

 結婚して二年。

 千代なりに賢太郎の心を汲み取ってみても、結局変わらなかったという事だろうか……?

 

「お前は……賢太郎のこと」

 どう思っているのか? と東洋一が聞くよりも早く、千代は即答した。

「賢太郎さんは家族よ。始めから今まで。これからもずっとそう。それだけ」

 

 昔、同じような質問をして、賢太郎もそう答えた。二人とも同じ価値観だというのに、どうしてここまで隔たって見えるのだろう。

 

 昔は仲良く三人で遊んでいたはずの子供達が、いつの間にか大人になり、それぞれが自我を持つようになれば、ある程度の距離感がうまれても当然だ。

 だが、千代と賢太郎の場合は、なまじ許婚者(いいなずけ)であった事で却って隔絶してしまったような気がする。

 この二人は、一番結婚するべきじゃなかったのかもしれない…。

 

 千代は本の好きな、夢見がちな少女だった。

 物語の中に没頭して、中の人物になりきってしまう…情感豊かな娘だった。

 本来、不満を押しこめて辛抱するような子でない。

 

「お前、大丈夫か? 千代」

「あら。心配してくれるの?」

 

 千代は肩をすくめて、おどけたように言った。

 

「大丈夫よ。私は、私なりに生きていくだけよ」

 

 まるで、それは賢太郎という夫が介在しないかのようだ。

 

 千代の明るさは、ツネの嫉妬よりも不気味で恐ろしかった。

 話せば話すほどに、心が冷える。

 嘘を言っているわけではないのだろうが、どこか上滑りしている。

 

 なんと言っていいのかわからず言葉を探す東洋一を見て、千代はクスリと口の端を上げた。

 

「本当に東洋一さんは変わらないのねぇ……」

 

 どこか馬鹿にした口調で言い、ユラリと立ち上がる。

 嫣然とした笑みを浮かべながら、こちらに歩いてくると、フラっと東洋一の胸へと寄りかかった。

 

 添えられた手。

 長い睫毛の間から見上げる瞳。

 

 能面のような冷たさを孕んでいるのに、婀娜(あだ)っぽい女の色香を纏ったその雰囲気に、東洋一はゾクリと背筋に悪寒が走った。

 

「…っ!」

 

 グイ、と千代を押しやって、東洋一は後ずさった。

 鬼を対峙するより始末が悪い。

 

 千代は(なまめ)かしい微笑を浮かべ、つぶやいた。

 

「賢太郎さんが私を好いてないことなんて、初めから知ってたわ」

「……千代…」

「だけど……私だけよ、妻は。賢太郎さんの子供を産むのは私。これだけはあの人も逃れられない…」

 

 その言葉は、まるで呪いのようだった。

 吐き出した途端に、さっきまでの妖艶な女が、一気に辻占の老婆に変貌したようにすら見える。

 

「東洋一さん」

 

 千代は背を向けると、籠に積まれた枯葉を焚き火の上にバサリと被せた。 

 

「ここで油売ってていいの? お義父様がお待ちでしょ?」

 

 振り返った顔は、いつもの明るい若奥様に戻っていた。

 

 

◆◆◆

 

 

 溜息をついて現れた東洋一を、周太郎は不思議そうに見た。

 

「どうした? 疲れてるのか?」

「あぁ……いえ」

 

 まさか、師匠(あなた)の息子の嫁の毒気にあてられたとも言い難い。

 

「どうですか? 進捗は」

「うん……このままだと、あまり威力がなぁ……」

「それだったら、確か炎の呼吸に………」

 

 言いながら、東洋一は蔵の中の書物を探し始める。

 

 母屋だと参考文献を調べるためにいちいち蔵まで取りに来ないといけないので、最近では蔵にある隠し部屋―――今では隠されてもいないが―――で、話し合うことがほとんどとなっている。

 

 そのせいでなのか、奇妙な誤解もうまれているようだった。

 

「お前、後で浩太に会って行ってやってくれ」

「は? どうしました?」

 

 浩太は右腕を失って、足も不如意になってから、今も風波見家で厄介になっている。

 

「最近、あいつどうかしとるんだ…。儂がここで玖ノ型についての研究をしているのも、内緒でコソコソやってると思ってるらしくてな。なんで秘密にするんだとか、なんとか」

「はぁ? 別に隠してるわけでもないでしょう?」

「当たり前だ。かと言って、わざわざ大っぴらにすることでもないからなぁ…」

 

 周太郎はフゥと溜息をついて、開け放した扉の向こう…庭の木々の先にある離れへと目をやった。

 

「どうも……無理しがちでな。焦りからだろうが。利き腕を失くして、どうにか左手でやろうと稽古しているんだが、うまく出来んでな」

「そりゃあ、無理でしょう。まだ半年も経ってない」

「そう言っとるんだが、話を聞かんのだ。この数日、まるで何かに憑かれたようになって……賢太郎とも口を聞かんらしい」

 

 東洋一は眉をひそめた。

 

 今更ながらに、浩太がかつて千代を好きであったことに思い至る。

 もう、とっくの昔にあきらめがついたろう…と思っていたが、焼けぼっくいに火がつくのはよくある話だ。まして、今は離れにいるとはいえ、浩太の世話のほとんどは千代がやっているはずだ。

 

 もしかすると―――あまり良くない状況ではないのか、これは。

 

 だが、周太郎はそこのところの事情には無頓着だった。

 

「何をいきなりああまで焦り始めたのか知らんが、この型についても、やたらと聞いてきてな。まるで、これさえできれば風の呼吸を極められるとでも勘違いしとるようなんだ。まだ、あやつ捌だってまともに出来とらんだろう? 最近は他流派の技に傾倒しおって……」

「それは…すいません。俺も、参考にするのはいいと思って勧めたので」

「それは構わんが、本来の技の鍛錬もまともに出来てない奴が、つまみ食いばかりしても、大成は出来ん。玖ノ型を修得したいなら、壱から捌までをしっかり使いこなす技倆を持たねば……」

 

 途中で周太郎は小言を言っている自分に気付いたのだろう。

 苦笑いすると、コホンと咳払いした。

 

「ま、とにかく後で会って…焦らず、地道に鍛錬せよと……儂からでなく、お前の言葉で伝えてやってくれ。どうも、儂の言葉は届かんようだ」

 

 少し淋しげに周太郎が言うのが気になったが、東洋一は頷いた。

 

「…わかりました。ついでに、康寿郎に炎の奥義についても聞いておきます」

「あぁ。頼む」

 

 

 その後に動作の試技をいくつかやっていたが、産屋敷邸からの使いが来て、周太郎は出て行った。

 

 

◆◆◆

 

 

 東洋一は離れに行ったが、浩太の姿を見えないので、そのまま邸内にある道場へと向かう。

 果たして浩太が汗だくになりながら、型の稽古をやっていた。

 当然ながら、まだ慣れていない左手と、全治していない右足を抱えては、まともに出来るはずもない。

 

 東洋一はわざと大きな溜息をついた。

 浩太は東洋一に気付くと、一瞬、泣きそうな顔になった。だが、すぐに唇を噛んで仏頂面になる。

 

「……うまくいってないようだな」

「師匠に言われて来たんですか?」

「うん。お前が余裕なくして、ジタバタしてるらしいからな。見物に来た」

「見世物じゃないです」

 

 浩太は明らかに怒っていたが、東洋一は知らぬ振りをすると、持っていた木刀を取り上げた。

 握っていた部分に血が滲んで赤く染まっている。

 

「これじゃ、長く出来ないぞ。骨だってやられる」

「放っておいてくださいよ」

「ずっと一人でやってるのか? 賢太郎には相手してもらわないのか?」

「…………いりません」

「そうか」

 

 東洋一は血に染まった木刀を浩太に返すと、自分も壁にかかった木刀を取りに行く。

 

「来いよ」

 浩太の前に立つ。

 左手に木刀を持ち、右手は懐中。

 

「何のマネです? それ」

 ギリ、と歯噛みして浩太は東洋一を睨みつけた。「馬鹿にしてるんですか?」

 

 東洋一は涼しい顔でニヤリと笑った。

「馬鹿にされて悔しいなら、ぶちかまして―――――」

 

 最後まで言わぬうちに、浩太が木刀を振り上げる。

 東洋一は素早く躱すと、すぐさま左手の木刀を薙ぎ払った。

 

 利き腕でないから…と浩太はどこかで油断していた。

 だが、その速さは予想を裏切った。すんでで避けたものの、目の前を通り過ぎたその風圧で、頬に赤く筋がはしる。

 一瞬、呆然とした浩太に、東洋一は怒鳴りつけた。

 

「オラ! なにボウッとしてやがる?!」

 

 今度は上から振りかぶってくる。

 浩太はあわてて木刀で受けようとしたものの、片手しかないので支えがきかない。受け止めきれない重さの斬撃に、木刀を落とした。

 ジンジンと腕が痺れている。

 額が切れて、血が滴った。

 

「取れよ。早く」

 

 東洋一は左手に持った木刀を突き出す。

 右手は未だ懐中にある。

 

「くそっ!」

 

 浩太は木刀を拾い上げると、先程の東洋一のように上段から振り下ろした。

 同じように、東洋一は左腕一本でその木刀を受け止めた。

 浩太は渾身の力をこめたが、東洋一の木刀はピクとも動かない。

「………終わりか? それで」

 

 言うなり、東洋一は浩太の木刀を擦り上げるようにして払った。

 その力に押されて、浩太はヨロヨロと足をもつれさせ、尻もちをついた。

 

「………なんで」

 

 呆然としたように浩太はつぶやいた。

 東洋一は一度も右腕を使っていない。

 浩太と同じ、利き腕でない左腕だけで相手したのだ。

 

 やはり……柱とも目される人は、始めから才能の差があるのか。

 浩太が絶望に近い気分で見上げると、東洋一はフッとほじった耳くそを飛ばしていた。

 

「なんでって…そりゃ、練習してたからな」

 意外なことを言う東洋一に、浩太は「え?」と聞き返す。

 

「この商売してりゃ、怪我はつきもんだ。足をやられたら、なかなか難しいが、腕は一本だけになっても、もう一本の方で持てりゃどうにかなる。隻腕の柱もおられたぐらいだからな」

「…左腕だけになっても、刀を持てるように……前から、稽古してたって事?」

 

 浩太は信じられなかった。

 あれだけ忙しく働き、休みになれば女のところか、賭博か、酒をくらって寝ているだけだと思っていた兄弟子が、いつの間にそんな修行をしていたのだろうか。

 

「意外か? 俺だってやる時ゃ、やってんの」

「いつから?」

「さぁ? 思いついたのは弟子の時分だったからな。暇みて適当にやってたんじゃねぇ?」

「そんな前から…? 聞いたことないよ、そんなの」

「言ってねぇもん。だいたい、遊び半分だしな。それでもコツコツやらねぇと……一朝一夕にはいかねぇよ。お前も、今始めたなら、最低でも二年はかかると思え。最初から型なんてやっても、腕がおいついてねぇんだよ。素振りからやれ、素振り」

「そんなの……遅いよ。俺は…もっと、もっと早く」

 

 浩太は震える声で言いながら、袴をクシャリと握りしめる。

 俯く浩太の顔を窺うように見て、東洋一は首を傾げた。

 

「お前、何焦ってんだ?」

「…………」

「強くなるのに、近道もへったくれもねぇぞ。師匠に新しい型のことでも何か言ってるらしいけど……」

 

 浩太は急に顔を上げると、東洋一に掴みかかった。

 

「東洋一さん! なんでアンタが柱にならないか、わかったよ。師匠が、許さないんだろ? あの型も……自分と賢太郎だけで……風波見家で独り占めしようとしてるんだ!」

「ハァ? なにを馬鹿なこと…」

「知ってるんだよ、俺は! ここ何年もあんたが師匠の代わりに任務請け負ってることも、他の柱達があんたを柱に推挙してることも。それなのに……あんたが何も言わないのをいいことに…利用されてるんだ! 賢太郎が柱を継げば、あんたの役目も終わりだ。飼い殺しにされてて…いいのかよ!」

 

「浩太……」

 東洋一は無表情に浩太の襟首を掴み、締め上げる。

 

「お前…誰に、何を、言ってる?」

「東洋一さ……」

「心配かけさせておいて、どの口がほざきやがる? ――――あァ?!」

 

 浩太は青い顔で東洋一を睨みつけた。

 唇を震わせながらも、言い放つ。

 

「風波見周太郎に、柱としての力はもうない……ッ!」

 

 東洋一は殴ろうと拳を握りしめたが、急に浩太の襟首を離すと、憐れむように、倒れた弟弟子を見下ろした。

 

「…お前、ここを出ろ」

 静かに命令する。

 

「お前にはここは良くない。飛鳥馬(あすま)に言っておいてやるから…あいつの所に移れ。通いの婆さんがいるらしいから…世話はしてもらえる。道場も近いから、稽古もできるだろ」

「………嫌だ」

 

 ムゥと眉を寄せ、駄々をこねる浩太に、東洋一は怒鳴りつけた。

 

「移れってんだよ、この馬鹿!! お前はここにいたらおかしくなるんだよ! 賢太郎からも、千代からも離れろ!」

 

 ハッとした顔で、浩太は東洋一を見上げた。

 その顔はどこか怯えているようだった。

 

 ギリ、と東洋一は歯軋りする。

 やはり、この三人を一緒にさせておく訳にはいかない。

 怪我を負って弱りきった浩太が、このままここに留まれば、心まで病んでしまいかねない。

 

 ただでさえ、利き腕を失うことは鬼狩りにとっては相当の痛手なのだ。

 そのまま自信を喪失して、出奔し、自殺する人間すらいる。

 かつて隻腕でありながら水柱となった者もいるが、それは強靭な精神力でもって相当な修練を重ねたからだ。

 

「東洋一さん…」

 浩太はボロボロと泣き始めた。

「東洋一さん、俺…強くなりたいんだ。強くなりたい……強く……」

 

 項垂れて泣き出す浩太が、哀れでしかない。

 おそらく利き腕を失って、思った以上に動かせないことで、ひどく焦っているのだろう。すっかり情緒不安定になっている。

 

 東洋一は少し声を和らげた。

 

「いいな。飛鳥馬のところに移れよ。明日までに用意しておけ。これ以上、師匠に迷惑をかけるな……」

 

 言い置いて道場を出ると、賢太郎が立っていた。

 どうやら聞いていたらしい。

 

「東洋一さん、浩太は……どうしたんですか?」

 

 その問いかけに答えず、東洋一は賢太郎にも指示する。

 

「明日、隠に頼んで迎えを寄越すからな…用意だけしておいてやってくれ。着替えと薬さえ持たせりゃ十分だろ」

「浩太は、ウチで面倒見ます。まだ、自分で厠に行くのだって、不自由しているんです」

「賢太郎」

 東洋一は賢太郎を見ずに問いかける。「お前、浩太が千代のこと好きだったって知ってるのか?」

「え?」

 

 賢太郎は驚いて、そのまま硬直する。

 どうやら、気付いてなかったらしい。

 それはそうだろう。最初から賢太郎には、興味がないのだ。

 そういう……感情は。

 

「怪我して自分の身体(からだ)が思ったように動かなくて、あいつは憔悴してるんだ。これ以上、悩みを増やさないでやってくれ。それとお前、岡場所に通うのも程々にしろよ。千代が……」

 

 言いかけて、東洋一は言葉を呑み込む。

 千代は別にツネのような嫉妬心に(さいな)まれているわけではない。

 諦めた末に自棄になっている…というのでもない。決しておかしくなっているわけではないのだろうが、あれを放っておいていいのだろうか……?

 

「……千代が? どうかしましたか?」

 

 賢太郎は子供の頃そのままに、無邪気に尋ねてくる。

 子供の頃、一番大人びていたのに、結局いつまでも足踏みしているのは賢太郎なのかもしれない。

 

「いや、いい」

 東洋一は首を振ると、そのまま風波見家を出た。

 

 父を喪って、周太郎の手を握りしめ、この門をくぐった日の事を、昨日のことのように思い出せるのに……いつの間にか時間は過ぎている。

 あの時、子供だった者は大人になり、一緒に汗を流した兄弟子、弟弟子の多くは殉職してこの世にない。

 

「………しんどいなァ…」

 

 父が昔言っていた口癖をつぶやく。

 

 長い溜息が木枯らしの中に混じって消えていった。

 

 

 

<つづく>

 

 






次回は2021.07.24.土曜日の更新予定です。


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