【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第七章 昔日 -疾風篇- (六)

 裏切者の鬼の探索の為、東洋一(とよいち)がまず訪れたのは、周太郎私設の鬼情報探索方であった。

 かの者達はその特殊な能力によって、鬼の情報を収集する情報屋である。

 だが、鬼殺隊においてまだ公認されていなかった為、今回のような事情においては相当に重宝する存在だった。

 

「……やはり」

(おさ)』と呼ばれる禿頭(とくとう)の老人は、周太郎の死を告げた時、さほどに驚かなかった。

「惣領様の気が途切れたように思いました故」

 

 理由を話されても、東洋一にはさっぱりわからない。だが、彼らは知っていたということだ。

 

「出来うれば惣領様に今一度お会いしたいものですが、私共が行けば、迷惑ともなりましょう。ここで冥福を祈らせていただきます」

「うん。だが、あまりゆっくりさせてやれねぇんだ」

「………なにか?」

 

 東洋一は蛭田(ひるた)が寄越した紙切れを差し出した。

 

「裏切者が出た。早急に討たねばならん。探してもらいたい」

 

 長は(めし)いた目を東洋一の方に向け手を出した。

 東洋一が長の手に紙切れを置くと、隣にいた妙齢の女に声をかけた。

 

寿限無(じゅげむ)を呼んでおくれ」

「はい」

 

 艷やかな黒髪を肩でパッツリと切った、表情の乏しいその女は、奥の部屋へと入っていくと、でっぷり太った大柄な男を連れてきた。

 

 クシャクシャの茶髪の男は斜視なのか、目が合わない。それだけでなく、ずっと何かブツブツブツブツつぶやいていた。よくよく聞けば、『じゅげむ』をずっと唱えている。途中で「えへっ! えへっ!」と、何が面白いのか笑っていた。

 見たところ賢太郎よりも成人してはいるが、少しばかり知能に遅れがあるようだった。

 

「ご心配でございましょうが…この者には、なかなかの能力もございますれば」

 長は東洋一のわずかな動揺を感じたのか、とりなすように笑った。

「寿限無や、これを見ておくれ」

 

 長が東洋一の渡した紙切れを、寿限無という男に渡す。

 寿限無は紙切れを両手に挟み込む。

 しばらくすると、「うわぁ、うわぁ」と声を上げ始めた。

 長が寿限無の丸く太った腕に手を置いた。

 

「………もはや、命なくなる前にございます。事切れる前に、したためたものでございますな。この御方の記憶を少し遡りましょう………」

 

 白く濁った長の目が徐々に青く澄んでくる。

 東洋一と目を合わせながら、その先には東洋一でないものが見えている。

 

「……鬼……刀を持っております。これは……呼吸の技でございましょう。……コウタ、と…呼ばれました。……鬼に向かって……此の御方の記憶の中にある…少年…よく似たる顔……右眉の上にほくろ………ひどく、右肩の盛り上がった鬼にございます。まるで右肩のみ、岩石のごとき肉。……あぁ……斬った腕を喰ろうておる。ニヤニヤと嗤うて……紅き瞳。日が昇るを知って、逃げました……」

 

 長はフゥーと長く吐息をつくと、寿限無から紙切れを取り上げる。寿限無はまたブツブツとじゅげむをつぶやきながら、奥の部屋へと帰っていった。

 

「……今見えたのが、裏切りの鬼でございますか?」

 

 東洋一には長が何を見たのか、どうしてあの紙切れからそうしたものが見えるのかはわからなかった。

 しかし紙切れには『カブラギ』とだけあるのに『コウタ』の名前が出てきたこと、右眉の上に大きなほくろがあるのは、浩太の身体的特徴だった。

 (にわか)には信じがたい能力ではあったが、周太郎が頼りにしていたのだから、そう眉唾ものではないのだろう。

 

「そうだ。その鬼を探してもらいたい。わかったら、すぐに俺に知らせてほしい。それと、ここ最近の風の呼吸遣いが相次いで殺られている。おそらくこの鬼の仕業だ。その者達の任地はここにある通りだ」

 

 そう言って、東洋一が殺された隊士達の任務地をまとめた書付を渡すと、それは黒髪の女が受け取った。ざっと読んで、つぶやく。

 

上野(こうづけ)と越後の間か……」

「山続きの場所ですな」

 

 長の目は再び白く濁っていた。白髯をしごきながら唱えるように告げる。

 

「とりわけにおいに(さと)い者、耳に敏い者、気の流れに敏い者、それに伝令役にとびきり足の早い、体力のある者を向かわせましょう…」

「ありがとうございます」

 

 東洋一が頭を下げると、横にいた女がツンと尋ねてくる。

 

「探索するのはいいけど、金の用意はあるんでしょうね?」

「え?」

「まさか、タダ働きさせようって?」

 

 女がジロリと睨んでくる。

 東洋一は手持ちはさほどにない。後で賢太郎にでも頼めば用立ててくれるだろうが……。

 だが、長が手を上げて制した。

 

「やめよ、小鳩(こばと)。篠宮殿が困っておる」

「あ…いや。確かに今は手元に無いが、後で届けさせる」

 

 東洋一が言うと、長はゆっくりと首を振った。

 

「いやいや。無用でございます。本来であれば、賤民と爪弾きされ、彷徨(さまよ)い続けるしかない(しょう)であった我らに、家を与え、仕事まで下さった惣領様に、如何にご恩返しができようものかと……常に思っておりました。今、お役に立てるのであれば本望」

 

 再び頭を下げて東洋一が外に出ると、小鳩という女が後からついて出てきた。

 

「長はああいうけど、惣領様が亡くなったのなら、私達はまた流浪の身になる。金は必要」

 

 腕組みして機嫌悪そうな女に、東洋一は「わかった」と頷いた。

 

「必ず、金は届けさせる。とは言っても長殿は受け取らないだろうから、お前が直接受け取れ。それでいいか?」

「ならいいわ」

 

 小鳩は途端にニコリと笑みを浮かべると、グイと東洋一の襟首を掴んで耳元で囁いた。

 

「ついでにあなたも頂戴」

「は?」

「私、自分より強い男が好きなの。なかなかいないのよねー」

「………それは、どうも」

 

 言いながら、東洋一はゆっくりと小鳩と距離をとる。

 小鳩は手を離すと、フンと鼻をならした。

 

「案外つまらない男ね」

「俺より強い男は知り合いにいるから……そっちを紹介するよ」

「そう? じゃあよろしく。あと、私は伝令に鳩を使うわ。銀の輪を足にしているから。何か分かったら、野分山に飛ばせばいいのね?」

「ああ、頼む。それと紹介ついでにもう一つ頼まれてくれるか…?」

 

 一時間後、小鳩は東洋一の書状を持って、水柱・鱗滝左近次の家の前に立っていた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「……どういうつもりです?」

 

 夕暮れ近く、野分山(のわきやま)へと向かおうとしていた東洋一を呼び止めたのは、鱗滝左近次だった。

 東洋一の頬がクスリと緩む。おそらく怒っているのだろう。

 振り返ると、果たして左近次が腕組みして立っていた。天狗の面を被っているのに、仏頂面に見えてくる。

 

「どういうつもりです?」

 再び同じことを尋ねてくる。

 

「ちょいとばかし旅に出る」

「冗談を聞いている余裕はないんですが」

「冗談じゃねぇよ。だから、頼んだろ?」

「なんですかあれは……」

 

 昼過ぎに左近次の屋敷に現れた奇妙な風体の女は、東洋一の書状を渡してきた。

 中には相変わらずあまり綺麗とはいえない文字の手紙と、数枚の為替手形。

 

「ん? 小鳩か? いい女だろ? 俺、今忙しいからさ~」

「女なら追い返しました」

「おや、まぁ。勿体ない」

「話を逸らさないでください。どういうつもりです? あなたの情婦(オンナ)の面倒を見ろとでも? 手切れ金なら自分で渡しに行きなさい」

「手切れ金ねぇ……まぁ、そうとも言えるかな。このまま―――」

 

 言いかけて東洋一は口を噤んだ。

 だが、腕を掴んできた左近次を見て、しまったと内心で舌打ちする。

 

「本気で…抜ける気ですか?」

 

 強張って平坦になった声は小さい。返事を求めることすら恐れているように。

 東洋一は笑って、ぽんと掴んできた左近次の腕を叩いた。

 

「しまったなァ…。お前が鼻が利くってのを、忘れてたぜ」 

「東洋一さん…風柱様が亡くなったことは聞きました。もう、いいでしょう? これでもう、誰に遠慮することもない。岩柱だって、反対できないはずです。あなたは堂々と風柱になればいい」

「……それはないさ。賢太郎は柱の要件は満たしている。風柱は賢太郎が継ぐ。風波見(かざはみ)家の惣領が継ぐ。これが皆が一番納得する形だ」

「皆って誰です!? 私は納得しない!」

 

 いつになく声を荒げた左近次に、東洋一は驚いた。

 いつもふてぶてしいほどに沈着冷静で、滅多と大声を出すこともない男だというのに、よほど腹に据えかねたらしい。

 珍しい光景に、東洋一は思わず笑ってしまった。

 

「なにを笑っているんです!」

「いや。珍しいからな。しかし、左近次。皆ってのは、お前以外の大勢なんだよ。生憎と、俺を推挙しているのは少数なんだ。鬼殺隊の中ではな」

「そんなことはありません。あなたが実際に就けば、皆納得します。風波見の御曹司だって、文句を言うはずもないでしょう」

「まぁ……そうだろうな」

 

 東洋一は息巻く左近次をなだめるように頷いた。

 

「俺が柱になって…それで丸く収まるんだったら、いくらでもなったけどなァ。そうもいかない……」

「それで…自ら身を引くということですか。これ以上、私や花柱が何か言う前に…余計な争いにならないように……」

「ハハハハ。何だそれ。格好良いように言ってくれるな」

 

 左近次は天狗面を取ると、じっと東洋一を睨みつけた。

 久しぶりに見る左近次の素顔は、相変わらず端正であった。

 

「約束したんじゃないんですか?」

 

 怒りを沈めた声は、陽炎のようにゆらめき響く。

 

「約束?」

「花柱の父を……裏切者は俺が殺すからお前は手を出すなと……言ったはずです」

 

『裏切者』という言葉に、東洋一はピクリとしたが、左近次は怒りでその微妙な心情に気付かなかった。

 

 言われてみて、そういえば…と東洋一も思い出す。

 勝母が鬼となった父の消息を追って行方不明になり、彷徨していたのを連れ戻して…もう二年になる。

 

 結局、その後もあの鬼が現れたという情報はない。

 ただ、現在療養中の岩柱が重傷を負ったというのを聞いて、東洋一はあるいは…と推測していた。未だに自らを傷つけた鬼に対して何も話さないからだ。

 それがもしあの鬼だと言えば、また勝母が探し回って不在となりかねないからか…?

 

 一気に両方の裏切者を片付けることができれば万々歳なのだろうが、そう上手くいく訳もない。

 どちらかを選択するしかないのなら、東洋一が選ぶのは一つしかない。

 

「あーあ……」

 

 東洋一はしゃがみ込むと、くしゃくしゃと頭を掻いた。

 本当に…自分は…肝心なところで役に立たない。いつもいつも。嘘をつきたい訳じゃないのに、結局は嘘をつくことになる。

 

「そうだなぁ……そうだなぁ……本当になぁ……」

 

 くしゃくしゃ、くしゃくしゃ、頭を掻き毟ってため息をつく。

 左近次は鼻がツンとくるその独特の匂いに、眉を寄せた。思わず問いかける。

 

「泣いてるんですか?」

 

 だが、顔を上げた東洋一の頬は乾いていた。

 瞳の奥には、相変わらず飄々とした風が吹いている。

 

「なぁ、左近次。どうも俺は背負い過ぎたよ。いい格好して、それなりに出来ると思ってたんだ。そんな器でもねぇくせにな。勝母にも…謝らないといけないんだよな、本当は。中途半端に放ったらかしてすまねぇ……って、言っといてくれ」

 

 左近次は唾を呑み込んだ。

 本気で東洋一が自分達から去ろうとしているのがわかったからだ。

 

「…待ってください」

 

 声が掠れた。握りしめた拳に汗が吹き出る。

 

「もう、言いませんから。別に、最初から期待してません。あなたが風波見家を押し退けて風柱になんか、なるわけがないのはわかってましたから。もう言いません」

「………今日はやたら珍しい顔するなァ」

 

 東洋一は焦った様子の左近次を見て、笑った。

 立ち上がると、ぽんと肩を叩く。

 

「俺はな、ぼんくらでどうしようもない奴だけど、俺なりに拠って立つ場所ってのがあるんだよ。で、そこはお前らと違うんだよな。それはお前、わかってたろ?」

「………」

 

 左近次は唇を噛み締めた。

 わかっていた。

 いつも東洋一の中心には風波見家があり、風波見周太郎がいる。

 彼が亡くなった今、東洋一は鬼殺隊にいる意味を失くしたのだ。

 

「ま、腐れ縁てのもあるからな。お前も俺も運が良ければ、また会うこともあるさ。そんな…この世の終わりみたいな顔しなさんな」

 

 言いながら、草鞋(わらじ)の紐を締め直す東洋一を見て、左近次はため息をついた。

 この人がこう言うのであれば、いずれ会えるのだろう。いつになるかはわからないが。

 持っていた天狗の面を再びつける。

 

「………居酒屋で奢ってやるって言って、結局払わされたやつ、まだ返してもらってませんから」

「え? そうだっけ?」

「そうですよ。ちゃんと返してもらいます。棒引きする気はありませんから」

 

 冷たく言い捨てると、左近次は踵を返してスタスタと去っていった。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 野分山に向かう前に思い立って、岩柱・阿萬(あまん)刀膳(とうぜん)の屋敷を訪れたのは、やはり左近次に言われたことが多少なりと気になったからだ。

 

 宵闇の中、案内もなく訪れた人影を見て、刀膳は病床から面倒そうに深い息を吐いた。

 

「……大禍時(おおまがどき)に現れるなど……化け物の類か、お前は」

「そういうものでもないですが、玄関から行っても、優秀な継子さんは取り合ってくれないと思ったので」

「いつまで縁側で話す気だ? とっとと中に入れ」

「いや。すぐに出ますから」

 

 東洋一は縁側に腰掛けたまま、チラリと後ろを振り返った。

 阿萬刀膳の巨体が横たわっている。布団から出された手は、肘から下がなくなっていた。顔も、ほとんど包帯が巻かれて表情は見えない。

 

「なんの用だ?」

「そうですね。先にどちらを言うかな……」

「……風柱様のことなら聞いている。御身体(おからだ)を悪くされていたのに、長年、柱としてお務め頂いて、同じ柱として不甲斐ないことだった。今となっては、ご子息に譲るまでの数年だけでも、貴様に柱をさせておいてもよかった……」

 

 東洋一はフッと笑った。

 おそらくはこれが鬼殺隊の大勢の意見だろう。

 阿萬刀膳の考え方は、ある意味平均だ。これが『皆』というものだ。

 

「師匠のことをご存知なら、先にこちらを言いましょうか。俺は今から隊を抜けます」

「………グッ!」

 

 驚きのあまり、体を起こそうとして刀膳は呻いた。

 包帯の間から、ギロリと東洋一を睨みつける。

 

「どういうつもりだ…? あの風柱様亡き後、たとえご子息が柱を継いだとしても隊の動揺は免れぬ。貴様、継子筆頭として補佐して守り立てるのが役目であろうが」

「……痛いとこ突いてきますね。さすが、岩柱」

「くだらぬ戯言(ざれごと)を言いに来る暇があるなら、とっとと帰れ」

「もう一つあります。あの鬼に会いましたか?」

「………あの鬼?」

「あなたにそこまでの重傷を負わせた鬼は、裏切者の五百旗頭(いおきべ)卓磨(たくま)ですか?」

「…………」

 

 刀膳は黙り込んだ。

 しばらく待ってから、東洋一はため息まじりに笑う。

 

「この場合、沈黙は肯定と同じですよ。これだけ間があいては、今更否定されても信用できない」

「……否定する気はない。事実だからな」

「やはりそうですか」

「隊を抜ける貴様がこの事について拘泥(こうでい)する必要はなかろう」

 

 それはつまり余計なことを言いふらすな、ということだろう。

 下手に勝母の耳にでも入って、また出奔されては、風柱も亡くなった今、さらなる動揺を呼びかねない。

 

「ハハハ。そうですね。隊を抜けた俺が、今更、花柱に話すことは何もないです。ただ一つ、頼みがありまして」

「頼み?」

「死ぬ前に、継子達に遺言しておいて下さい。五百旗頭卓磨を、裏切者を必ず討ち果たすべし、と。本当はあなたが地を這ってでも殺すべき相手なんですがね。十年以上、放ったらかしたツケですよ、これは。相手が鬼となってまで、鍛錬を積むとは思ってなかったんでしょう?」

 

 口元には笑みを浮かべながらも、東洋一の目は笑ってなかった。むしろ冷たい双眸(そうぼう)が、満身創痍の刀膳を見下ろしていた。

 

 包帯の間から東洋一を見ていた刀膳は、不意に笑う。

 痛みに顔を顰めて、だがしばらくの間、低い声で笑い続けた。

 

「あぁ…そうだ。強くなっていた。人間であった頃とは比較にならぬほどに、強くなっていた……」

 

 ゆっくりと、刀膳は体を横にする。

 痛みが全身にはしるのだろう。時折、うぅと呻きながら、それでも起き上がろうとする。

 東洋一は手を貸さずに、黙って縁側から見ていた。

 

 布団を蹴って、刀膳はのろのろと這ってくる。

 見れば、左足首から下はなくなっていた。寝間着には背から血が染み出している。頭を巻いていた包帯が緩くなって、頬の縫い傷が見えた。

 笑ったせいだろうか。縫い目から血がフツフツと玉のように連なっていた。

 

「篠宮……残念だな。お前らが殺っておけば、あの娘に親殺しなどという辛苦が降りかかることもなかったろうに」

 

 偽善に満ちたその言葉に、東洋一は顰め面になった。

 

「…よく言うな。アンタが殺れよ。そもそもテメェの仕事だろうが」

「フ……人間であった時すら、吾があの男に勝ったことなどない。始めから目に見えていた。吾が…あやつに…勝てるわけがない……」

「それで…逃げてたわけか?」

 

 軽蔑も露に言う東洋一を見て、刀膳は卑屈な笑みを浮かべる。

 

「貴様らに何がわかる? 有り余るほどの才能を持って生まれてきておいて、まだ強くなりたいなどと……どこまで努力しても、いつまでもその背中を見続けなければならない者の……普通でしかない人間の苦しみなど、貴様らに…わかる…ものか。それでも……吾は……柱として…それでも、努力は……した」

 

 ポタリ、と縁側の磨き上げられた床に落ちたのは、刀膳の冷や汗か涙か。

 顔を俯けたまま、刀膳の肩が震えていた。

 

 東洋一は立ち上がると、疲れたようにため息をついた。

 これ以上、相手するだけ無駄だ。

 

 そのまま立ち去りかけた東洋一に、刀膳が呼びかけた。

 

「篠宮! あの鬼に勝てるのは、娘だけだぞ」

「………は?」

「鬼となっても、親子の情はどこかに残っておるかもしれん。娘相手であれば、あの男も手加減するかもしれんな……」

 

 嗄れた声でまくしたてると、刀膳はゴホゴホとむせた後、また笑い出した。

 東洋一はゆっくりと刀膳に歩み寄った。

 

「おい…」

 

 声をかけると、刀膳が包帯の間からいつもの三白眼で睨み上げる。

 思い切り殴りつけると、縫った傷が裂けて、頬の間から歯が見えた。

 

「……やっぱりアンタ、クズだな」

 

 そんな事を言っても、目の前の男にとっては何の痛痒も感じないとわかっていても、東洋一は言わずにおれなかった。

 

 さっさとその屋敷から出ていくと、月に照らされた道を歩いていく。

 ふと、刀膳を殴った拳を開いて、手を見つめた。

 あの男を殴っても、周太郎があの男に頭を下げることはもうない。

 

 ――――よかった…。

 

 奇妙な安堵と、寂しさが吹き抜ける。

 

 父が亡くなった時、ひとりになってしまった恐怖と不安に、震えていた東洋一の手を掴んでくれたのは周太郎だった。

 今、その差し伸べられた手を失い、再び、何も見えない闇夜に放り出された。

 だが、もう東洋一は子供ではない。

 

 今はただ歩く。

 夜の中を歩いていく。

 もう今は、自分はひとりでないと東洋一は知っている。……

 

 

 

<つづく>

 

 

 







次回は2021.08.11.水曜日更新予定です。


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