【完結】金木犀匂ふ<鬼殺隊列伝・森野辺薫ノ帖>   作:水奈川葵

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第三章 行違い(三)

 これはきっと夢だろう。

 そう思いながら、薫はその風景を眺めていた。

 

 懐かしい故郷の景色。

 それはいつも色がない。

 

 薄墨の空に、鈍色の雲。セピア色の川。

 丘から見える海は黒く、冷たい潮風すらも煤けている気がする。

 

「おめは何すてるのだが! ちゃっちゃどすろ!」

(※「お前、何している。さっさとしろ」)

 

 甲高い怒鳴り声が降ってくる。

 お道さんだ。

 

「ボヤボヤ歩いでっからこだな時間でねが! さっさど風呂焚ぎすろ。若え衆入るんだがら」

 

 材木問屋・播磨屋(はりまや)で働く男達のために、毎日の風呂焚きは薫の仕事だった。

 男達は風呂から上がって、ようやく夕飯にありつく。

 男達が風呂に入り終わった後は、女中達のため。終わる頃には日はとっぷりと暮れている。

 

 皆が既に食べ終わった後の、人気のない台所の隅で、釜にわずかに残ったご飯をこそげるようにして食べ、冷たくなった味噌汁と、誰かが残した沢庵を食べる。

 風呂に入るのはその後だが、もう湯はかける分しかなく、ぬるくなっている。

 自分のために再び井戸から水を汲んで、薪を焚くことは許されない。

 

 ずっしりと、体が重たかった。

 屋根裏部屋に敷かれた煎餅布団にくるまり寝る。

 

 隣で母が一緒に寝ていた頃には暖かかった布団が、いつまでも冷たくて、足の先が冷えて、ずっと擦り合わせながら寝た。

 

 父がいつ死んだのか、薫は憶えていない。

 気がつけば、この播磨屋で母は住み込み女中として働いて、薫は時折母を手伝いながら、一緒に暮らしていた。

 

 三畳ほどの屋根裏部屋で、薫は母といることが楽しかったが、母はいつも悲しそうだった。

 笑っていても、哀しげで、いつも亡くなった父のことを思い出しては泣いているようだった。

 

「ごめんねぇ」が口癖だった。

 

 やがて母は体調を崩し、働けなくなっていった。

 迷惑をかけると思ったのだろうか。近くの川に身を投げて、逝ってしまった。

 

 七歳で両親を亡くして天涯孤独になった薫を、番頭は「花街にでもやればいいでしょう」と言ったが、播磨屋の奥方のコウは「冗談じゃない」とはねつけた。

 

「七づの娘の面倒も見れずに花街さ売ったなどど噂されれば、この播磨屋の名折れだ。薫の面倒はウチで見る。お道、オメ、すっかり仕込みな」(※お前、しっかり仕込みな)

 

 そういう訳で、以来、女中頭のお道は事ある毎に薫に厳しく当たった。

 それでもまだ七つそこらの子供にできることは少ない。

 

 朝の飯炊きの支度から始まって、掃除がすめば、奥様の三番目の娘の子守。

 乳の時間になると戻り、山のようなおしめを洗うように言われる。

 

 夏はまだいいが、冬ともなれば氷のように冷たい川の水で洗わねばならない。

 あっという間に手が霜焼けになった。

 それでも日に何度も洗濯に行かされた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

「オイオイ、死ぬ気かぁ?」

 

 おしめ洗いの途中で、ツルリと滑って川に落ちてしまった薫を助けたのは、銀二(ぎんじ)という男だった。

 

 河原まで薫を抱っこして運んでくれると、ニッコリと人懐こい笑顔を見せた。

 

 まだ春浅い川の水は冷たく、二人してくしゃみを連発する。

 

「オメェ、泳げるんだろ? この辺の子供はみんな夏には泳いでるだろ」

「………」

 

 薫は母を失ってから、めっきり話すことがなくなっていた。

 ぼんやり座り込んでいると、銀二は目の前で手を振った。

 

「大丈夫かぁ?」

「……ん」

 

 辛うじて返事しながら、薫は川の中から見た空を思い出していた。

 

 死ぬつもりであったわけではない。

 ただ、偶々(たまたま)落ちて、浮き上がっていく時に見えた空をいつまでも見ていたいと思った。

 

 揺れる水面越しに見えた空は、茜色にたゆたっていた。

 綺麗だな、と思うと同時に、自分はこの空を見たことがあると気付いた。

 

「早く着替えねぇと、風邪ひいちまう。オメェ、どこの子だ?」

 

 薫が店の名前を言うと、銀二は送っていってくれた。

 

 いつもは薫がえっちらおっちら運ぶオシメも持ってくれた。

 それだけで薫は十分いい人だと思ったが、事情を聞いて慇懃に挨拶をした手代は、銀二が去ると、薫を睨みつけた。

 

「おめ、ヘンなヤツさ助げられるんでねよ。あいづはな、他所者のならず者だ。妙な恩でも売られだら、※てしょずらすぃろう」(※「面倒だろう」)

 

 小さい薫には大人の事情はよくわからなかった。

 

 翌日に子守で川べりを歩いていると、銀二と再び会った。

 聞かれるままに自分の生い立ちや、今の状況をポツリポツリと説明すると、銀二は薫の頭をポンポンと軽く撫でた。

 

「大変だなぁ……」

 

 心底同情して言われると、薫は真っ赤になった。

 

 やめてほしかった。

 そんなふうに言われると、苦しくなる。悲しくなる。寂しくなる。辛くなる。

 

 いろんな感情が溢れると、涙が出てくる。

 母が死んでからそれまで、薫は一度も泣いたことがなかった。

 

 ボロボロと泣く薫を見て、銀二は驚いていた。

 

「子供が声をころして泣くなよォ」

 

 そう言ってまた頭を撫でてくれる。

 

 やっぱり薫には銀二はいい人だと思えた。

 

 それでも手代に言われた手前、店の前で見かけても声をかけることは控えた。

 銀二も自分がどういう評価を受けているのかは十分にわかっていたようだった。

 

 河原で会うと、銀二は木の棒で土に文字を書き、教えてくれた。

 ならず者だと言われていたが、案外と学のある人間のようだった。

 

「お前なぁ…今は辛ぇし、死にたくなることもあるだろうけどなぁ、真面目に、ちゃんとやって、みんなから必要だって思ってもらえるようになりゃ、自然と自分がいていい場所ってのができんだ。そうすりゃ、お前は生きてて良かったって思えるようになる。今の苦しいことも、懐かしい思い出になる」

 

 ある時、そんなことをつらつらと語って、その後ですぐにきまり悪そうに笑った。

 

「まぁ、俺はちゃんとしてなかったから、こんなだけどよ」

 

 銀二がどういう仕事をしているのか、手代の云うように本当にならず者なのかどうかはわからなかったが、薫には優しかった。

 

 それだけで十分だった。

 

 簡単な漢字や、算術を教わるまでになった頃、突然銀二はいなくなった。

 

 町の噂では地元のヤクザ同士の大掛かりな縄張り争いがあり、どうやら銀二もその中にいたようで、殺されてしまったらしい。

 

 あっけない別れだった。

 銀二の墓すら、わからない。

 

 薫は銀二に教えてもらった文字を忘れないように、毎日河原で練習した。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 ある時のこと、薫が文字が読めることに気付いた若い衆が当主にそのことを告げると、薫は奥方達の前に座らされ、尋問された。

 

「なンで、おめなんかが字読める? 光子お嬢様の教科書、勝手さ盗み見でもすたんべ!」

 

 お道が甲高い声で(なじ)った。

 薫はブルブルと頭を振る。

 

「えぇー、やンだぁ。薫の触った教科書なんて使いだぐねぇ」

 

 光子が不満そうに声をあげる。

 

「薫、おめ、光子の教科書、勝手さ見だのがい?」

 

 奥方のコウが尋ねると、薫はさっきよりも大きく頭を振った。

 

「じゃあ、どうやっで文字覚えだんだ?」

「……教えてもらっだ」

「誰にぃ?」

「…………」

 

 銀二からだと言えば、また銀二のことを悪く言われそうで嫌だった。

 黙り込んだ薫に、コウは筆をもたせて書かせた。

 

 算術もできることを知ると、険しかった顔は綻んだ。

 

「なんだい、おめ、ながなが勉強熱心だったんだね。ボンヤリすてっから、子守ぐらいすか目が無えど思ってだが、だったら学校、行ってみっがい?」

 

 コウの思いつきを、お道はもちろん、旦那も反対したが、実質的に店も家も切り盛りしているコウに、婿養子の旦那が強く言えることもなく、翌月から薫は小学校に行かせてもらえるようになった。

 

 無論、早朝と帰宅後の労働はあったが、勉強ができることが嬉しくて、いくらでも我慢できた。

 同じ年の他の子よりも随分と遅れていたので、休み時間も遊ばずに必死で勉強した。

 

 ―――――真面目に、ちゃんとやって、みんなから必要だって思ってもらえるようになりゃ、自然と自分がいていい場所ってのができんだ。

 

 銀二の言葉がくっきりと思い出された。

 

 それからは、今までお道に言われるままやっていたことを、進んでやるようになった。

 裁縫や料理も、自ら教えを乞うてやっていった。

 

 男衆には、暑い夏の日には冷やしたお茶を配り、寒い日には温めた甘酒を配り、破れた着物を繕うこともした。

 

 一年が過ぎた頃には、皆から重宝がられ、あれほど厳しかったお道ですら、すっかり文字の読み書きができるようになった薫に、郷里の家族への手紙の代筆を頼むようになっていた。

 

 コウも薫の物覚えがいいのに気を良くして、算盤(そろばん)や生け花などを教えることもあった。

 

 ここにいてもいい……。

 

 薫はほのかな自信を持つようになっていた。

 

 居場所ができる――――銀二の言っていた通りだった。

 

 だが、それはあっけなく消えた。

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 森野辺子爵の使いだという男は、まずは播磨屋の奥方であるコウと、その旦那に事情を話した。

 

 つまり、薫の死んだ父というのは、森野辺家の次男であったが、旅芸人の娘だった矢幡(やばた)キヨ―――薫の母と出会い、駆け落ちしたのだということ。

 現在は父の兄、つまり薫の伯父が後を継いだが、奥方との間に子がなく、ついては薫を引き取りたいという申し出だった。

 

 その話を聞かされた薫よりも、奥方や娘達、お道の方が、浮足立っていた。

 皆がよかったよかったと口々に何度も云ったが、薫には意味がわからなかった。

 

 驚きも、戸惑いもなかった。

 ただ、足元が崩れていく虚無感だけがあった。

 

 年をまたぐ前にと、師走も押し迫った時期に森野辺子爵自ら薫を迎えに来た。

 初めて間近に見る洋装の立派な紳士に薫は不安しかなかった。

 

「元気でね」

「向こうでも気張るんだよ」

 

 コウもお道も、薫の前途が洋々たることを信じて疑ってないようだった。

 自分達が薫に対して何をしているのか、ということを考えもしなかったに違いない。

 

 薫にとっては、()()()()()も同然だった。

 ()()()()()と宣告されたのだ。

 一生懸命、自分のつくった場所は価値のないものだったのか……。

 

 子爵に連れられて初めて汽車に乗ったが、心浮き立つことはなかった。

 車窓から見える雪の降る川をずっと見つめていた。

 

 銀二のことも、播磨屋での日々も、母のことも、川を見るとすべてが薄らぼやけて、色のない過去のものになっていった。

 

 

 森野辺の家に引き取られてから、だんだんと自分の置かれた状況を理解できるようになると、再び薫は銀二の言葉を思い出した。

 播磨屋では用がなくなった自分だったが、この家で必要とされるように、また、頑張ろう……。

 

 子爵夫妻はあまりにひどい薫の訛りに辟易し、言葉遣いから、所作・教養について、徹底して矯正するよう、礼法や国語の教師を屋敷に呼び寄せた。

 

 彼女らは容赦なかった。

 姿勢を正すために朝起きてから寝るまで、長い板を背中にあてがわれることも、言い方に少しでも訛りがあれば鞭で尻を打たれることもあった。

 

 特に言葉遣いを改めさせるために、礼法の教師は使用人に対しても、丁寧に、きちんとした標準語で話すことを薫に強要した。

 

 所作については古来からあるものの他にも、海外からの文化に即したマナーをも身につけなければならなかった。

 

 明治の開国以降、時に上流階級でのお茶会や、夜会などにも出席せねばならない。

 その時にはドレスというのを着て、その上でおしとやかに、典雅に見えるように振る舞わねばならない。

 これまで着物しか着たことのない薫には、かなり難しかったが、できないとは言えなかった。

 

 お茶、お花、お琴。他にもピアノ、和歌。

 

 子爵夫妻はゆくゆく薫を女学校に入校させるつもりではあったが、最低限の素養を身に着けなければ行かせることはできなかった。

 そのまま入っても、好奇の目に晒され、薫自身が傷つくことになる。

 

 森野辺家にやってきて三ヶ月近くは、ずっと家で過ごした。

 半年が過ぎる頃になると、礼法の教師は「もう大丈夫でしょう」と太鼓判を押した。

 

 垢抜けない田舎者丸出しのおどおどした少女は、すっかり訛りもなくなって、令嬢たるに相応しい気品を感じるまでになっていた。

 

 子爵夫人の寧子(やすこ)は実家から、自分の世話係兼教育係でもあったヒサを呼び寄せ、薫の今後の指南役にとついてもらった。

 

 訛りを直すために使用人にも丁寧な言葉で話すのは、もはや癖になってしまい、ヒサに指摘されても直らなかった。

 しかしそのせいで、普通の、いわゆるお嬢様と使用人という関係以上に、薫に対して親しく接してくれるようになったのは嬉しいことだった。

 

 新しい父母は薫がどんどんと令嬢らしく変わっていく姿を見て、喜んでくれた。

 

 また、居場所ができた。

 いていいのだと、思える場所。

 

 それは森野辺の家だけでなく、志津を通して不死川家にもできた。

 

 他愛ない子供同士の遊びやおしゃべり。

 ちょっとした悪戯をして近所の老人に一緒になって叱られるのも、なんだか妙におかしくて嬉しかった。

 

 あの時間は特別だった。

 おそらくこれまで生きてきた中で、一番楽しい時間だった。

 

 けれど、あの日、唐突にそこは無くなってしまった。

 

 誰もいなくなった家。

 もう、誰も薫を迎えてくれない…。

 

 喪失感に心をえぐりとられたまま、日常を過ごすのは初めてではなかった。

 けれど、慣れるものでもない。

 

 自分がひどく傷ついているのだと気付いた時には遅かった。

 

 見合いの席で昏倒し、目が覚めると、自分が失敗してしまったことを痛感した。

 

 すぐに父に詫びたが、きっと呆れられ、失望されたのだろう。

 しばらく東京から離れた田舎で暮らすように告げられた。

 

 また、だった。

 また、自分は失った。

 

 また―――要らない人間になってしまった…。

 

 

 

<つづく>

 

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